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ノルウェーの森 Paper

In: People

Submitted By wsy625
Words 20431
Pages 82
ノル゙゚ーの森 村上春樹 第一章 僕は三十七歳で、そのときボー゗ンィ 747 のオートに座っていた。その巨大な飛行機は ぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、 ハンブルア空港に着陸しようとしているところだった。 十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空 港ビルの上に立った旗や、BMW の広告板やそんな何もかもをフランドル派の陰うつな絵の 背景のように見せていた。やれやれ、またド゗ツか、と僕は思った。 飛行機が着地を完了すると禁煙のエ゗ンが消え、天井のガピーゞーから小さな音で BGM が流れはじめた。それはどこかのゝーイガトラが甘く演奏するビートルキの 『ノル゙゚ ゗の森』だった。そしてそのメロデゖーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつも とは比べものにならないくらい激しく僕を混乱させ揺り動かした。 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、そのままじっとし ていた。やがてド゗ツ人のガゴュワーデガがやってきて、気分がわるいのかと英語で訊い た。大丈夫、少し目まいがしただけだと僕は答えた。 「本当に大丈夫?」 「大丈夫です、ありがとう」と僕は言った。ガゴュワーデガはにっこりと笑って行ってし まい音楽はビリー・カョ゛ルの曲に変った。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲 を眺め、自分がこれまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた 時間、死にあるいは去っていった人々、もう戻ることのない想い。 飛行機が完全にガトップして、人々がオートベルトを外し、物入れの中からバッィやら 上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、 肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろう としていた。 前と同じガゴュワーデガがやってきて、 僕の隣りに腰を下ろし、 もう大丈夫かと訊ねた。 「大丈夫です、 ありがとう。 ちょっと哀しくなっただけだから (It’s all right now. Thank you. I only felt lonely, you know.) 」と僕は言って微笑んだ。 「Well, I feel same way, same thing, once in a while. I know what you mean.(そ ういうこと私にもときどきありますよ。よくわかります) 」彼女はそう言って首を振り、席 から立ちあがってとても素敵な笑顔を僕に向けてくれた。I hope you’ll have a nice trip. 「 Auf Wiedersehen!(よい御旅行を。さようなら) 」 「Auf Wiedersehen!」と僕も言った。 十八年という歳月が過ぎ去ってしまった今でも、僕はあの草原の風景をはっきりと思い だすことができる。何日かつづいたやわらかな雨に夏のあいだのほこりをすっかり洗い流 された山肌は深く鮮かな青みをたたえ、十月の風はすすきの穂をあちこちで揺らせ、細長 い雲が凍りつくような青い天頂にぴたりとはりついていた。空は高く、じっと見ていると 目が痛くなるほどだった。風は草原をわたり、彼女の髪をかすかに揺らせて雑木林に抜け ていった。梢の葉がさらさらと音を立て、遠くの方で犬の鳴く声が聞こえた。まるで別の 世界の入口から聞こえてくるような小さくかすんだ鳴き声だった。その他にはどんな物音 もなかった。どんな物音も我々の耳には届かなかった。誰一人ともすれ違わなかった。ま っ赤な鳥が二羽草原の中から何かに怯えたようにとびあがって雑木林の方に飛んでいくの を見かけただけだった。歩きながら直子は僕に井戸の話をしてくれた。

記憶というのはなんだか不思議なものだ。その中に実際に身を置いていたとき、僕はそ んな風景に殆んど注意なんて払わなかった。とくに印象的な風景だとも思わなかったし、 十八年後もその風景を細部まで覚えているかもしれないとは考えつきもしなかった。正直 なところ、そのときの僕には風景なんてどうでもいいようなものだったのだ。僕は僕自身 のことを考え、そのときとなりを並んで歩いていた一人の美しい女のことを考え、僕と彼 女とのことを考え、そしてまた僕自身のことを考えた。それは何を見ても何を感じても何 を考えても、結局すべてはブーメランのように自分自身の手もとに戻ってくるという年代 だったのだ。おまけに僕は恋をしていて、その恋はひどくややこしい場所に僕を運びこん でいた。まわりの風景に気持を向ける余裕なんてどこにもなかったのだ。 でも今では僕の脳裏に最初に浮かぶのはその草原の風景だ。草の匂い、かすかな冷やか さを含んだ風、山の稜線、犬の鳴く声、そんなものがまず最初に浮かびあがってくる。と てもくっきりと。それらはあまりにくっきりとしているので、手をのばせばひとつひとつ 指でなぞれそうな気がするくらいだ。しかしその風景の中には人の姿は見えない。誰もい ない。直子もいないし、僕もいない。我々はいったいどこに消えてしまったんだろう、と 僕は思う。どうしてこんなことが起りうるんだろう、と。あれほど大事そうに見えたもの は、 彼女やそのときの僕や僕の世界は、 みんなどこに行ってしまったんだろう、 そう、 と。 僕には直子の顔を今すぐ思いだすことさえできないのだ。僕が手にしているのは人影のな い背景だけなのだ。 もちろん時間さえかければ僕は彼女の顔を思いだすことができる。小さな冷たい手や、 さらりとした手ざわりのまっすぐなきれいな髪や、やわらかな丸い形の耳たぶやそのすぐ 下にある小さなホアロや、冬になるとよく着ていた上品な゠ャメルのウートや、いつも相 手の目をじっとのぞきこみながら質問する癖や、ときどき何かの加減で震え気味になる声 (まるで強風の吹く丘の上でしゃべっているみたいだった)や、そんな゗メーカをひとつ ひとつ積みかさねていくと、ふっと自然に彼女の顔が浮かびあがってくる。まず横顔が浮 かびあがってくる。これはたぶん僕と直子がいつも並んで歩いていたせいだろう。だから 僕が最初に思いだすのはいつも彼女の横顔なのだ。それから彼女は僕の方を向き、にっこ りと笑い、少し首をかしげ、話しかけ、僕の目をのぞきこむ。まるで澄んだ泉の底をちら りとよぎる小さな魚の影を探し求めるみたいに。 でもそんな風に僕の頭の中に直子の顔が浮かんでくるまでには少し時間がかかる。そし て年月がたつにつれてそれに要する時間はだんだん長くなってくる。哀しいことではある けれど、それは真実なのだ。最初は五秒あれば思いだせたのに、それが十秒になり三十秒 になり一分になる。まるで夕暮の影のようにそれはどんどん長くなる。そしておそらくや がては夕闇の中に吸いこまれてしまうことになるのだろう。そう、僕の記憶は直子の立っ ていた場所から確実に遠ざかりつつあるのだ。ちょうど僕がかつての僕自身が立っていた 場所から確実に遠ざかりつつあるように。そして風景だけが、その十月の草原の風景だけ が、まるで映画の中の象徴的なオーンみたいにくりかえしくりかえし僕の頭の中に浮かん でくる。そしてその風景は僕の頭のある部分を執拗に蹴りつづけている。おい、起きろ、 俺はまだここにいるんだぞ、起きろ、起きて理解しろ、どうして俺がまだここにいるのか というその理由を。痛みはない。痛みはまったくない。蹴とばすたびにうつろな音がする だけだ。そしてその音さえもたぷんいつかは消えてしまうのだろう。他の何もかもが結局 は消えてしまったように。しかしハンブルア空港のルフトハンォ機の中で、彼らはいつも より長くいつもより強く僕の頭を蹴りつづけていた。起きろ、理解しろ、と。だからこそ 僕はこの文章を書いている。僕は何ごとによらず文章にして書いてみないことには物事を

うまく理解できないというゲ゗プの人間なのだ。 彼女はそのとき何の話をしていたんだっけ? そうだ、彼女は僕に野井戸の話をしていたのだ。そんな井戸が本当に存在したのかどう か、僕にはわからない。あるいはそれは彼女の中にしか存在しない゗メーカなり記号であ ったのかもしれない――あの暗い日々に彼女がその頭の中で紡ぎだした他の数多くの事物 と同じように。でも直子がその井戸の話をしてくれたあとでは、僕ほその井戸の姿なしに は草原の風景を思いだすことができなくなってしまった。実際に目にしたわけではない井 戸の姿が、僕の頭の中では分離することのできない一部として風景の中にしっかりと焼き つけられているのだ。僕はその井戸の様子を細かく描写することだってできる。井戸は草 原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直 径一メートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し 高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさらさ れて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のト ゞゥがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中 をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深い ということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が――世の中 のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒が――つまっている。 「それは本当に――本当に深いのよ」と直子は丁寧に言葉を選びながら言った。彼女は ときどきそんな話し方をした。正確な言葉を探し求めながらとてもゆっくりと話すのだ。 「本当に深いの。でもそれが何処にあるかは誰にもわからないの。このへんの何処かにあ ることは確かなんだけれど」 彼女はそう言うとツ゗ードの上着のポイットに両手をつっこんだまま僕の顔を見て本当 よという風ににっこりと微笑んだ。 「でもそれじゃ危くってしようがないだろう」 と僕は言った。どこかに深い井戸がある、 「 でもそれが何処にあるかは誰も知らないなんてね。落っこっちゃったらどうしようもない じゃない か」 「どうしようもないでしょうね。ひゅうううう、ボン、それでおしまいだもの」 「そういうのは実際には起こらないの?」 「ときどき起こるの。二年か三年に一度くらいかな。人が急にいなくなっちゃって、ど れだけ捜してもみつからないの。そうするとこのへんの人は言うの、あれは野井戸に落っ こちたんだって」 「あまり良い死に方じゃなさそうだね」と僕は言った。 「ひどい死に方よ」と彼女は言って、上着についた草の穂を手で払って落とした。 「その まま首の骨でも折ってあっさり死んじゃえばいいけれど、何かの加減で足をくじくくらい ですんじゃったらどうしようもないわね。声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、 誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムゞデやアモやらがうようよいるし、 そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめして いて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そ んなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」 「考えただけで身の毛がよだった」 と僕が言った。 「誰かが見つけて囲いを作るべきだよ」 「でも誰にもその井戸を見つけることはできないの。だからちゃんとした道を離れちゃ 駄目よ」 「離れないよ」

直子はポイットから左手を出して僕の手を握った。 「でも大丈夫よ、あなたは。あなたは 何も心配することはないの。あなたは闇夜に盲滅法にこのへんを歩きまわったって絶対に 井戸には落ちないの。そしてこうしてあなたにくっついている限り、私も井戸には落ちな いの」 「絶対に?」 「絶対に」 「どうしてそんなことがわかるの?」 「私にはわかるのよ。 ただわかるの」 直子は僕の手をしっかりと握ったままそう言った。 そしてしばらく黙って歩きつづけた。 「その手のことって私にはすごくよくわかるの。 理屈 とかそんなのじゃなくて、ただ感じるのね。たとえば今こうしてあなたにしっかりとくっ ついているとね、私ちっとも怖くないの。どんな悪いものも暗いものも私を誘おうとはし ないのよ」 「じゃあ話は簡単だ。ずっとこうしてりゃいいんじゃないか」と僕は言った。 「それ――本気で言ってるの?」 「もちろん本気だ」 直子は立ちどまった。僕も立ちどまった。彼女は両手を僕の肩にあてて正面から、僕の 目をじっとのぞきこんだ。彼女の瞳の奥の方ではまっ黒な重い液体が不思議な図形の渦を 描いていた。そんな一対の美しい瞳が長いあいだ僕の中をのぞきこんでいた。それから彼 女は背のびをして僕の頬にそっと頬をつけた。それは一瞬胸がつまってしまうくらいあた たかくて素敵な仕草だった。 「ありがとう」と直子は言った。 「どういたしまして」と僕は言った。 「あなたがそう言ってくれて私とても嬉しいの。本当よ」と彼女は哀しそうに微笑しな がら言った。 「でもそれはできないのよ」 「どうして?」 「それはいけないことだからよ。それはひどいことだからよ。それは――」と言いかけ て直子はふと口をつぐみ、そのまま歩きつづけた。いろんな思いが彼女の頭の中でぐるぐ るとまわっていることがわかっていたので、僕も口をはさまずにそのとなりを黙って歩い た。 「それは――正しくないことだからよ、あなたにとっても私にとっても」とずいぶんあ とで彼女はそうつづけた。 「どんな風に正しくないんだろう?」と僕は静かな声で訊ねてみた。 「だって誰かが誰かをずっと永遠に守りつづけるなんて、そんなこと不可能だからよ。 ねえ、もしよ、もし私があなたと結婚したとするわよね。あなたは会社につとめるわね。 するとあなたが会社に行ってるあいだいったい誰が私を守ってくれるの?あなたが出張に 行っているあいだいったい誰が私を守ってくれるの?私は死ぬまであなたにくっついてま わってるの? ねえ、そんなの対等じゃないじゃない。そんなの人間関係とも呼べないで しょう? そしてあなたはいつか私にうんざりするのよ。俺の人生っていったい何だった んだ?この女のおもりをするだけのことなのかって。私そんなの嫌よ。それでは私の抱え ている問題は解決したことにはならないのよ」 「これが一生つづくわけじゃないんだ」と僕は彼女の背中に手をあてて、言った。 「いつ か終る。 終ったところで僕らはもう一度考えなおせばいい。 これからどうしようかってね。 そのときはあるいは君の方が僕を助けてくれるかもしれない。僕らは収支決算表を睨んで 生きているわけじゃない。もし君が僕を今必要としているなら僕を使えばいいんだ。そう

だろ?どうしてそんなに固く物事を考えるんだよ?ねえ、もっと肩のゞを抜きなよ。肩に ゞが入ってるから、そんな風に構えて物事を見ちゃうんだ。肩のゞを抜けばもっと体が軽 くなるよ」 「どうしてそんなこと言うの?」と直子はおそろしく乾いた声で言った。 彼女の声を聞いて、僕は自分が何か間違ったことを口にしたらしいなと思った。 「どうしてよ?」と直子はじっと足もとの地面を見つめながら言った。 「肩のゞを抜けば 体が軽くなることくらい私にもわかっているわよ。そんなこと言ってもらったって何の役 にも立たないのよ。ねえ、いい?もし私が今肩の力を抜いたら、私バラバラになっちゃう のよ。私は昔からこういう風にしてしか生きてこなかったし、今でもそういう風にしてし か生きていけないのよ。一度力を抜いたらもうもとには戻れないのよ。私はバラバラにな って――どこかに吹きとばされてしまうのよ。どうしてそれがわからないの?それがわか らないで、どうして私の面倒をみるなんて言うことができるの?」 僕は黙っていた。 「私はあなたが考えているよりずっと深く混乱しているのよ。暗くて、冷たくて、混乱し ていて……ねえ、どうしてあなたあのとき私と寝たりしたのよ?どうして私を放っておい てくれなかったのよ?」 我々はひどくしんとした松林の中を歩いていた。道の上には夏の終りに死んだ蝉の死骸 がからからに乾いてちらばっていて、それが靴の下でばりばりという音を立てた。僕と直 子はまるで探しものでもしているみたいに、地面を見ながらゆっくりとその松林の中の道 を歩いた。 「ごめんなさい」と直子は言って僕の腕をやさしく握った。そして何度か首を振った。 「あなたを傷つけるつもりはなかったの。私の言ったこと気にしないでね。本当にごめん なさい。私はただ自分に腹を立てていただけなの」 「たぶん僕は君のことをまだ本当には理解してないんだと思う」と僕は言った。 「僕は頭 の良い人間じゃないし、物事を理解するのに時間がかかる。でももし時間さえあれば僕は 君のことをきちんと理解するし、そうなれば僕は世界中の誰よりもきちんと理解できると 思う」 僕らはそこで立ちどまって静けさの中で耳を澄ませ、僕は靴の先で蝉の死骸や松ぼっく りを転がしたり、松の枝のあいだから見える空を見あげたりしていた。直子は上着のポイ ットに両手をつっこんで何を見るともなくじっと考えごとをしていた。 「ねえワゲナベ君、私のこと好き?」 「もちろん」と僕は答えた。 「じゃあ私のおねがいをふたつ聞いてくれる?」 「みっつ聞くよ」 直子は笑って首を振った。 「ふたつでいいのよ。ふたつで十分。ひとつはね、あなたがこ うして会いに来てくれたことに対して私はすごく感謝してるんだということをわかってほ しいの。とても嬉しいし、とても――救われるのよ。もしたとえそう見えなかったとして も、そうなのよ」 「また会いにくるよ」と僕は言った。 「もうひとつは?」 「私のことを覚えていてほしいの。私が存在し、こうしてあなたのとなりにいたことを ずっと覚えていてくれる?」 「もちろんずっと覚えているよ」と僕は答えた。 彼女はそのまま何も言わずに先に立って歩きはじめた。梢を抜けてくる秋の光が彼女の 上着の肩の上でちらちらと踊っていた。また犬の声が聞こえたが、それは前よりいくぶん

我々の方に近づいているように思えた。直子は小さな丘のように盛りあがったところを上 り、松林の外に出て、なだらかな坂を足速に下った。僕はその二、三歩あとをついて歩い た。 「こっちにおいでよ。そのへんに井戸があるかもしれないよ」と僕は彼女の背中に声を かけた。 直子は立ちどまってにっこりと笑い、僕の腕をそっとつかんだ。そして我々は残りの道 を二人で並んで歩いた。 「本当にいつまでも私のことを忘れないでいてくれる?」と彼女は小さな囁くような声 で訊ねた。 「いつまでも忘れないさ」と僕は言った。 「君のことを忘れられるわけがないよ」 * それでも記憶は確実に遠ざかっていくし、僕はあまりに多くのことを既に忘れてしまっ た。こうして記憶を辿りながら文章を書いていると、僕はときどきひどく不安な気持にな ってしまう。ひょっとして自分はいちばん肝心な部分の記憶を失ってしまっているんじゃ ないかとふと思うからだ。僕の体の中に記憶の辺土とでも呼ぶべき暗い場所があって、大 事な記憶は全部そこにつもってやわらかい泥と化してしまっているのではあるまいか、 と。 しかし何はともあれ、今のところはそれが僕の手に入れられるものの全てなのだ。既に 薄らいでしまい、そして今も刻一刻と薄らいでいくその不完全な記憶をしっかりと胸に抱 きかかえ、骨でもしゃぶるような気持で僕はこの文章を書きつづけている。直子との約束 を守るためにはこうする以外に何の方法もないのだ。 もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いて みようと試みたことが何度かある。 でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。 その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうという ことはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てが あまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかがわからなかったの だ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも 今はわかる。結局のところ―と僕は思う――文章という不完全な容器に盛ることができる のは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ。そして直子に関する記憶が僕の中で薄 らいでいけばいくほど、僕はより深く彼女を理解することができるようになったと思う。 何故彼女が僕に向って「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。 もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろ うということを。 だからこそ彼女は僕に向って訴えかけねばならなかったのだ。 「私のこと をいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。 そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかった からだ。 第二章 昔々、といってもせいぜい二十年ぐらい前のことなのだけれど、僕はある学生寮に住ん でいた。僕は十八で、大学に入ったばかりだった。東京のことなんて何ひとつ知らなかっ たし、 一人暮しをするのも初めてだったので、 親が心配してその寮をみつけてきてくれた。 そこなら食事もついているし、いろんな設備も揃っているし、世間知らずの十八の少年で

もなんとか生きていけるだろうということだった。もちろん費用のこともあった。寮の費 用は一人暮しのそれに比べて格段に安かった。なにしろ布団と電気ガゲンドさえあればあ とは何ひとつ買い揃える必要がないのだ。僕としてはできることならゕパートを借りて一 人で気楽に暮したかったのだが、私立大学の入学金や授業料や月々の生活費のことを考え るとわがままは言えなかった。それに僕も結局は住むところなんてどこだっていいやと思 っていたのだ。 その寮は都内の見晴しの良い高台にあった。敷地は広く、まわりを高いウンアリートの 塀に囲まれていた。門をくぐると正面には巨大なけやきの木がそびえ立っている。樹齢は 少くとも百五十年ということだった。根もとに立って上を見あげると空はその緑の葉にす っぽりと覆い隠されてしまう。 ウンアリートの舗道はそのけやきの巨木を迂回するように曲り、それから再び長い直線 となって中庭を横切っている。中庭の両側には鉄筋ウンアリート三階建ての棟がふたつ、 平行に並んでいる。窓の沢山ついた大きな建物で、ゕパートを改造した刑務所かあるいは 刑務所を改造したゕパートみたいな印象を見るものに与える。しかし決して不潔ではない し、暗い印象もない。開け放しになった窓からはラカゝの音が聴こえる。窓のゞーテンは どの部屋も同じアリーム色、日焼けがいちばん目立たない色だ。 舗道をまっすぐ行った正面には二階建ての本部建物がある。 一階には食堂と大きな浴場、 二階には講堂といくつかの集会室、それから何に使うのかは知らないけれど貴賓室まであ る。本部建物のとなりには三つ目の寮棟がある。これも三階建てだ。中庭は広く、緑の芝 生の中ではガプリンアラーが太陽の光を反射させながらぐるぐると回っている。本部建物 の裏手には野球とエッゞーの兼用ィラ゙ンドとテニガ・ウートが六面ある。至れり尽せり だ。 この寮の唯一の問題点はその根本的なうさん臭さにあった。寮はあるきわめて右翼的な 人物を中心とする正体不明の財団法人によって運営されており、その運営方針は――もち ろん僕の目から見ればということだが――かなり奇妙に歪んだものだった。入寮案内のパ ンフレットと寮生規則を読めばそのだいたいのところはわかる。教育の根幹を窮め国家に 「 とって有為な人材の育成につとめる」 これがこの寮創設の精神であり、 、 そしてその精神に 賛同した多くの財界人が私財を投じ……というのが表向きの顔なのだが、その裏のことは 例によって曖昧模糊としている。正確なところは誰にもわからない。ただの税金対策だと 言うものもいるし、売名行為だと言うものもいるし、寮設立という名目でこの一等地を詐 欺同然のやりくちで手に入れたんだと言うものもいる。いや、もっともっと深い読みがあ るんだと言うものもいる。彼の説によればこの寮の出身者で政財界に地下の閥を作ろうと いうのが設立者の目的なのだということであった。たしかに寮には寮生の中のトップ・゛ リートをあつめた特権的なアラブのようなものがあって、僕もくわしいことはよく知らな いけれど、月に何度かその設立者をまじえて研究会のようなものを開いており、そのアラ ブに入っている限り就職の心配はないということであった。そんな説のいったいどれが正 しくてどれが間違っているのか僕には判断できないが、それらの説は「とにかくここはう さん臭いんだ」という点で共通していた。 いずれにせよ一九六八年の春から七〇年の春までの二年間を僕はこのうさん臭い寮で過 した。どうしてそんなうさん臭いところに二年もいたのだと訊かれても答えようがない。 日常生活というレベルから見れば右翼だろうが左翼だろうが、 偽善だろうが偽悪だろうが、 それほどたいした違いはないのだ。 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国歌も流れる。ガポーツ・ニュー ガからマーゴが切り離せないように、国旗掲揚から国歌は切り離せない。国旗掲揚台は中

庭のまん中にあってどの寮棟の窓からも見えるようになっている。 国旗を掲揚するのは東棟(僕の入っている寮だ)の寮長の役目だった。背が高くて目つ きの鋭い六十前後の男だ。いかにも硬そうな髪にいくらか白髪がまじり、日焼けした首筋 に長い傷あとがある。この人物は陸軍中野学校の出身という話だったが、これも真偽のほ どはわからない。そのとなりにはこの国旗掲揚を手伝う助手の如き立場の学生が控えてい る。この学生のことは誰もよく知らない。丸刈りで、いつも学生服を着ている。名前も知 らないし、どの部屋に住んでいるのかもわからない。食堂でも風呂でも一度も顔をあわせ たことがない。本当に学生なのかどうかさえわからない。まあしかし学生服を着ているか らにはやはり学生なのだろう。そうとしか考えようがない。そして中野学校氏とは逆に背 が低く、小太りで色が白い。この不気味きわまりない二人組が毎朝六時に寮の中庭に日の 丸をあげるわけだ。 僕は寮に入った当初、もの珍しさからわざわざ六時に起きてよくこの愛国的儀式を見物 したものである。朝の六時、ラカゝの時報が鳴るのと殆んど同時に二人は中庭に姿を見せ る。学生服はもちろん、学生服に黒の皮靴、中野学校はカャンパーに白の運動靴という格 好である。学生服は桐の薄い箱を持っている。中野学校はグニーのポーゲブル・テープレ ウーコーを下げている。中野学校がテープレウーコーを掲揚台の足もとに置く。学生服が 桐の箱をあける。箱の中にはきちんと折り畳まれた国旗が入っている。学生服が中野学校 にうやうやしく旗を差し出す。中野学校がロープに旗をつける。学生服がテープレウーコ ーのガ゗ッゴを押す。 君が代。 そして旗がするするとポールを上っていく。 「さざれ石のお――」というあたりで旗はポールのまん中あたり、 「まあで――」という ところで頂上にのぼりつめる。そして二人は背筋をしゃんとのばして(気をつけ)の姿勢 をとり、国旗をまっすぐに見あげる。空が晴れてうまく風が吹いていれば、これはなかな かの光景である。 夕方の国旗降下も儀式としてはだいたい同じような様式でとりおこなわれる。ただし順 序は朝とはまったく逆になる。旗はするすると降り、桐の箱の中に収まる。夜には国旗は 翻らない。 どうして夜のあいだ国旗が降ろされてしまうのか、僕にはその理由がわからなかった。 夜のあいだだってちゃんと国家は存続しているし、働いている人だって沢山いる。線路工 夫やゲアオーの運転手やバーのホガテガや夜勤の消防士やビルの夜警や、そんな夜に働く 人々が国家の庇護を受けることができないというのは、どうも不公平であるような気がし た。でもそんなのは本当はそれほどたいしたことではないのかもしれない。誰もたぶんそ んなことは気にもとめないのだろう。気にするのは僕くらいのものなのだろう。それに僕 にしたところで何かの折りにふとそう思っただけで、それを深く追求してみようなんてい う気はさらさらなかったのだ。 寮の部屋割は原則として一、二年生が二人部屋、三、四年生が一人部屋ということにな っていた。二人部屋は六畳間をもう少し細長くしたくらいの広さで、つきあたりの壁にゕ ルミ枠の窓がついていて、窓の前に背中あわせに勉強できるように机と椅子がギットされ ている。入口の左手に鉄製の二段ベッドがある。家具はどれも極端なくらい簡潔でがっし りとしたものだった。机とベッドの他にはロッゞーがふたつ、小さなウーヒー・テーブル がひとつ、それに作りつけの棚があった。どう好意的に見ても詩的な空間とは言えなかっ た。大抵の部屋の棚にはトランカガゲ・ラカゝとヘゕ・ドラ゗ヤーと電気ポットと電熱器 と゗ンガゲント・ウーヒーとテゖー・バッィと角砂糖と゗ンガゲント・ラーメンを作るた

めの鍋と簡単な食器がいくつか並んでいる。しっくいの壁には「平凡パンゴ」のビンナッ プか、どこかからはがしてきたポルノ映画のポガゲーが貼ってある。中には冗談で豚の交 尾の写真を貼っているものもいたが、そういうのは例外中の例外で、殆んど部屋の壁に貼 ってあるのは裸の女か若い女性歌手か女優の写真だった。机の上の本立てには教科書や辞 書や小説なんかが並んでいた。 男ばかりの部屋だから大体はおそろしく汚ない。ごみ箱の底にはかびのはえたみかんの 皮がへばりついているし、灰皿がわりの空缶には吸殻が十ギンゴもつもっていて、それが くすぶるとウーヒーかビールかそんなものをかけて消すものだから、むっとするすえた匂 いを放っている。食器はどれも黒ずんでいるし、いろんなところにわけのわからないもの がこびりついているし、床には゗ンガゲント・ラーメンのギロフゔン・ラップやらビール の空瓶やら何かのふたやら何やかやが散乱している。ほうきで掃いて集めてちりとりを使 ってごみ箱に捨てるということを誰も思いつかないのだ。風が吹くと床からほこりがもう もうと舞いあがる。そしてどの部屋にもひどい匂いが漂っている。部屋によってその匂い は少しずつ違っているが、 匂いを構成するものはまったく同じである。 汗と体臭とごみだ。 みんな洗濯物をどんどんベッドの下に放りこんでおくし、定期的に布団を干す人間なんて いないから布団はたっぷりと汗を吸いこんで救いがたい匂いを放っている。そんなゞゝガ の中からよく致命的な伝染病が発生しなかったものだと今でも僕は不思議に思っている。 でもそれに比べると僕の部屋は死体安置所のように清潔だった。 床にはちりひとつなく、 窓ゟラガにはくもりひとつなく、布団は週に一度干され、鉛筆はきちんと鉛筆立てに収ま り、ゞーテンさえ月に一回は洗濯された。僕の同居人が病的なまでに清潔好きだったから だ。僕は他の連中に「あいつゞーテンまで洗うんだぜ」と言ったが誰もそんなことは信じ なかった。ゞーテンはときどき洗うものだということを誰も知らなかったのだ。ゞーテン というのは半永久的に窓にぶらさがっているものだと彼らは信じていたのだ。あれ異常性 「 格だよ」と彼らは言った。それからみんなは彼のことをナゴだとか突撃隊だとか呼ぶよう になった。 僕の部屋にはピンナップさえ貼られてはいなかった。そのかわりゕムガテルコムの運河 の写真が貼ってあった。僕がヌード写真を貼ると「ねえ、ワゲナベ君さ、ぼ、ぼくはこう いうのあまり好きじゃないんだよ」と言ってそれをはがし、かわりに運河の写真を貼った のだ。僕もとくにヌード写真を貼りたかったわけでもなかったのでべつに文句は言わなか った。僕の部屋に遊びに来た人間はみんなその運河の写真を見て「なんだ、これ?」と言 った。 「突撃隊はこれ見ながらマガゲーベーオョンするんだよ」と僕は言った。冗談のつも りで言ったのだが、みんなあっさりとそれを信じてしまった。あまりにもあっさりとみん なが信じるのでそのうちに僕も本当にそうなのかもしれないと思うようになった。 みんなは突撃隊と同室になっていることで僕に同情してくれたが、僕自身はそれほど嫌 な思いをしたわけではなかった。こちらが身のまわりを清潔にしている限り、彼は僕に一 切干渉しなかったから、僕としてはかえって楽なくらいだった。掃除は全部彼がやってく れたし、布団も彼が干してくれたし、ェミも彼がかたづけてくれた。僕が忙しくて三日風 呂に入らないとくんくん匂いをかいでから入った方がいいと忠告してくれたし、そろそろ 床屋に行けばとか鼻毛切った方がいいねとかも言ってくれた。困るのは虫が一匹でもいる と部屋の中に殺虫ガプレーをまきちらすことで、そういうとき僕は隣室のゞゝガの中に退 避せざるを得なかった。 突撃隊はある国立大学で地理学を専攻していた。 「僕はね、ち、ち、地図の勉強してるんだよ」と最初に会ったとき、彼は僕にそう言っ た。

「地図が好きなの?」と僕は訊いてみた。 「うん、大学を出たら国土地理院に入ってさ、ち、ち、地図作るんだ」 なるほど世の中にはいろんな希望があり人生の目的があるんだなと僕はあらためて感心 した。それは東京に出てきて僕が最初に感心したことのひとつだった。たしかに地図づく りに興味を抱き熱意を持った人間が少しくらいいないことには――あまりいっぱいいる必 要もないだろうけれど――それは困ったことになってしまう。しかし「地図」という言葉 を口にするたびにどもってしまう人間が国土地理院に入りたがっているというのは何かし ら奇妙であった。彼は場合によってどもったりどもらなかったりしたが、 「地図」という言 葉が出てくると百パーギント確実にどもった。 「き、君は何を専攻するの?」と彼は訊ねた。 「演劇」と僕は答えた。 「演劇って芝居やるの?」 「いや、そういうんじゃなくてね。戯曲を読んだりしてさ、研究するわけさ。ラオーヌ とか゗ヨネガウとか、オ゚ーアガビゕとかね」 オ゚ーアガビゕ以外の人の名前は聞いたことないな、と彼は言った。僕だって殆んど聞 いたことはない。講義要項にそう書いてあっただけだ。 「でもとにかくそういうのが好きなんだね?」と彼は言った。 「別に好きじゃないよ」と僕は言った。 その答は彼を混乱させた。混乱するとどもりがひどくなった。僕はとても悪いことをし てしまったような気がした。 「なんでも良かったんだよ、僕の場合は」と僕は説明した。 「民族学だって東洋史だって なんだって良かったんだ。ただたまたま演劇だったんだ、気が向いたのが。それだけ」し かしその説明はもちろん彼を納得させられなかった。 「わからないな」と彼は本当にわからないという顔をして言った。 「ぼ、僕の場合はち、 ち、地図が好きだから、ち、ち、ち、地図の勉強してるわけだよね。そのためにわざわざ と、東京の大学に入って、し、仕送りをしてもらってるわけだよ。でも君はそうじゃない って言うし……」 彼の言っていることの方が正論だった。僕は説明をあきらめた。それから我々はマッゴ 棒のくじをひいて二段ベッドの上下を決めた。彼が上段で僕が下段だった。 彼はいつも白いオャツと黒いキボンと紺のギーゲーという格好だった。頭は丸刈りで背 が高く、頬骨がはっていた。学校に行くときはいつも学生服を着た。靴も鞄もまっ黒だっ た。見るからに右翼学生という格好だったし、だからこそまわりの連中も突撃隊と呼んで いたわけだが本当のことを言えば彼は政治に対しては百パーギント無関心だった。洋服を 選ぶのが面倒なのでいつもそんな格好をしているだけの話だった。彼が関心を抱くのは海 岸線の変化とか新しい鉄道トンネルの完成とか、 そういった種類の出来事に限られていた。 そういうことについて話しだすと、彼はどもったりつっかえたりしながら一時間でも二時 間でも、こちらが逃げだすか眠ってしまうかするまでしゃべりつづけていた。 毎朝六時に 「君が代」 を目覚し時計がわりにして彼は起床した。 あのこれみよがしの仰々 しい国旗掲揚式もまるっきり役に立たないというわけではないのだ。そして服を着て洗面 所に行って顔を洗う。顔を洗うのにすごく長い時間がかかる。歯を一本一本取り外して洗 っているんじゃないかという気がするくらいだ。部屋に戻ってくるとパンパンと音を立っ てゲゝルのしわをきちんとのばしてガゴームの上にかけて乾かし、歯ブラオと石鹸を棚に 戻す。それからラカゝをつけてラカゝ体操を始める。 僕はだいたい夜遅くまで本を読み朝は八時くらいまで熟睡するから、彼が起きだしてご

そごそしても、ラカゝをつけて体操を始めても、まだぐっすりと眠りこんでいることもあ る。しかしそんなときでも、ラカゝ体操が跳躍の部分にさしかかったところで必ず目を覚 ますことになった。覚まさないわけにはいかなかったのだ。なにしろ彼が跳躍するたびに ――それも実に高く跳躍した――その震動でベッドがどすんどすんと上下したからだ。三 日間、僕は我慢した。共同生活においてはある程度の我慢は必要だと言いきかされていた からだ。しかし四日目の朝、僕はもうこれ以上は我慢できないという結論に達した。 「悪いけどさ、ラカゝ体操は屋上かなんかでやってくれないかな」と僕はきっぱりと言 った。 「それやられると目が覚めちゃうんだ」 「でももう六時半だよ」と彼は信じられないという顔をして言った。 「知ってるよ、それは。六時半だろ?六時半は僕にとってはまだ寝てる時間なんだ。ど うしてかは説明できないけどとにかくそうなってるんだよ」 「駄目だよ。屋上でやると三階の人から文句がくるんだ。ここなら下の部屋は物置きだか ら誰からも文句はこないし」 「じゃあ中庭でやりなよ。芝の上で」 「それも駄目なんだよ。ぼ、僕のはトランカガゲ・ラカゝじゃないからさ、で、電源が ないと使えないし、音楽がないとラカゝ体操ってできないんだよ」 たしかに彼のラカゝはひどく古い型の電源式だったし、一方僕のはトランカガゲだった が FM しか入らない音楽専用のものだった。やれやれ、と僕は思った。 「じゃあ歩み寄ろう」と僕は言った。 「ラカゝ体操をやってもかまわない。そのかわり跳躍 のところだけはやめてくれよ。あれすごくうるさいから。それでいいだろ?」 「ちょ、 跳躍?」 と彼はびっくりしたように訊きかえした。 「跳躍ってなんだい、 それ?」 「跳躍といえば跳躍だよ。ぴょんぴょん跳ぶやつだよ」 「そんなのないよ」 僕の頭は痛みはじめた。もうどうでもいいやという気もしたが、まあ言いだしたことは はっきりさせておこうと思って、僕は実際に NHK ラカゝ体操第一のメロデゖーを唄いなが ら床の上でぴょんぴょん跳んだ。 「ほら、これだよ、ちゃんとあるだろう?」 「そ、そうだな。たしかにあるな。気がつ、つかなかった」 「だからさ」と僕はベッドの上に腰を下ろして言った。 「そこの部分だけを端折ってほし いんだよ。他のところは全部我慢するから。跳躍のところだけをやめて僕をぐっすり眠ら せてくれないかな」 「駄目だよ」と彼は実にあっさりと言った。 「ひとつだけ抜かすってわけにはいかないん だよ。 十年も毎日毎日やってるからさ、 やり始めると、 無意識に全部やっちゃうんだ。 む、 ひとつ抜かすとさ、み、み、みんな出来なくなっちゃう」 僕はそれ以上何も言えなかった。いったい何が言えるだろう?いちばん手っ取り早いの はそのいまいましいラカゝを彼のいないあいだに窓から放りだしてしまうことだったが、 そんなことをしたら地獄のふたをあけたような騒ぎがもちあがるのは目に見えていた。突 撃隊は自分のもち物を極端に大事にする男だったからだ。僕が言葉を失って空しくベッド に腰かけていると彼はにこにこしながら僕を慰めてくれた。 「ワ、ワゲナベ君もさ、一緒に起きて体操するといいのにさ」と彼は言って、それから 朝食を食べに行ってしまった。 *

僕が突撃隊と彼のラカゝ体操の話をすると、直子はくすくすと笑った。笑い話のつもり ではなかったのだけれど、結局は僕も笑った。彼女の笑顔を見るのは――それはほんの一 瞬のうちに消えてしまったのだけれど――本当に久しぶりだった。 僕と直子は四ッ谷駅で電車を降りて、 線路わきの土手を市ヶ谷の方に向けて歩いていた。 五月の半ばの日曜日の午後だった。朝方ばらばらと降ったりやんだりしていた雨も昼前に は完全にあがり、低くたれこめていたうっとうしい雨雲は南からの風に追い払われるよう に姿を消していた。鮮かな緑色をした桜の葉が風に揺れ、太陽の光をきらきらと反射させ ていた。日射しはもう初夏のものだった。すれちがう人々はギーゲーや上着を脱いて肩に かけたり腕にかかえたりしていた。日曜日の午後のあたたかい日差しの下では、誰もがみ んな幸せそうに見えた。土手の向うに見えるテニガ・ウートでは若い男がオャツを脱いで オョート・ハンツ一枚になってライットを振っていた。並んでペンゴに座った二人の修道 尼だけがきちんと黒い冬の制服を身にまとっていて、彼女たちのまわりにだけは夏の光も まだ届いていないように思えるのだが、それでも二人は満ち足りた顔つきで日なたでの会 話を楽しんでいた。 十五分も歩くと背中に汗がにじんできたので、僕は厚い木綿のオャツを脱いで T オャツ 一枚になった。彼女は淡いィレーのトレーナー・オャツの袖を肘の上までたくしあげてい た。よく洗いこまれたものらしく、ずいぶん感じよく色が褪せていた。ずっと前にそれと 同じオャツを彼女が着ているのを見たことがあるような気がしたが、はっきりとした記憶 があるわけではない。ただそんな気がしただけだった。直子について当時僕はそれほど多 くのことを覚えていたわけではなかった。 「共同生活ってどう? 他の人たちと一緒に暮すのって楽しい?」と直子は訊ねた。 「よくわからないよ。まだ一ヵ月ちょっとしか経ってないからね」と僕は言った。 「でも それほど悪くはないね。少くとも耐えがたいというようなことはないな」 彼女は水飲み場の前で立ち止まって、ほんのひとくちだけ水を飲み、キボンのポイット から白いハンゞゴを出して口を拭いた。それから身をかがめて注意深く靴の紐をしめなお した。 「ねえ、私にもそういう生活できると思う?」 「共同生活のこと?」 「そう」と直子は言った。 「どうかな、そういうのって考え方次第だからね。煩わしいことは結構あるといえばあ る。規則はうるさいし、下らない奴が威張ってるし、同居人は朝の六時半にラカゝ体操を 始めるしね。でもそういうのはどこにいったって同じだと思えば、とりたてて気にはなら ない。ここで暮らすしかないんだと思えば、それなりに暮せる。そういうことだよ」 「そうね」と言って彼女は肯き、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。そ して珍しいものでものぞきこむみたいに僕の目をじっと見た。よく見ると彼女の目はどき りとするくらい深くすきとおっていた。彼女がそんなすきとおった目をしていることに僕 はそれまで気がつかなかった。考えてみれば直子の目をじっと見るような機会もなかった のだ。二人きりで歩くのも初めてだし、こんなに長く話をするのも初めてだった。 「寮か何かに入るつもりなの?」と僕は訊いてみた。 「ううん、そうじゃないのよ」と直子は言った。 「ただ私、ちょっと考えてたのよ。共同 生活をするのってどんなだろうって。 そしてそれはつまり……」 直子は唇を噛みながら適 、 当な言葉なり表現を探していたが、結局それはみつからなかったようだった。彼女はため 息をついて目を伏せた。 「よくわからないわ、いいのよ」

それが会話の終りだった。直子は再び東に向って歩きはじめ、僕はその少しうしろを歩 いた。 直子と会ったのは殆んど一年ぶりだった。一年のあいだに直子は見違えるほどや せていた。特徴的だったふっくらとした頬の肉もあらかた落ち、首筋もすっかり細くなっ ていたが、やせたといっても骨ばっているとか不健康とかいった印象はまるでなかった。 彼女のやせ方はとても自然でもの静かに見えた。まるでどこか狭くて細長い場所にそっと 身を隠しているうちに体が勝手に細くなってしまったんだという風だった。そして直子は 僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった。僕はそれについて直子に何か言おうとし たが、どう表現すればいいのかわからなかったので結局は何も言わなかった。 我々は何かの目的があってここに来たわけではなかった。僕と直子は中央線の電車の中 で偶然出会った。彼女は一人で映画でも見ようかと思って出てきたところで、僕は神田の 本屋に行くところだった。べつにどちらもたいした用事があるわけではなかった。降りま しょうよと直子が言って、我々は電車を降りた。それがたまたま四ツ谷駅だったというだ けのことなのだ。もっとも二人きりになってしまうと我々には話しあうべき話題なんてと くに何もなかった。直子がどうして電車を降りようと言いだしたのか、僕には全然理解で きなかった。話題なんてそもそもの最初からないのだ。 駅の外に出ると、彼女はどこに行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なく そのあとを追うように歩いた。直子と僕のあいだには常に一メートルほどの距離があいて いた。もちろんその距離を詰めようと思えば詰めることもできたのだが、なんとなく気お くれがしてそれができなかった。僕は直子の一メートルほどうしろを、彼女の背中とまっ すぐな黒い髪を見ながら歩いた。彼女は茶色の大きな髪どめをつけていて、横を向くと小 さな白い耳が見えた。時々直子はうしろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えられる こともあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言ってい るのか聞きとれないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんな ことは彼女にはどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってし まうと、また前を向いて歩きつづけた。まあいいや、散歩には良い日和だものな、と僕は 思ってあきらめた。 しかし散歩というには直子の歩き方はいささか本格的すぎた。 彼女は飯田橋で右に折れ、 お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越えてお茶の水の坂を上り、そのまま本郷に 抜けた。そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。ちょっとした道のりだ。駒込に着い たときには日はもう沈んでいた。穏かな春の夕暮だった。 「ここはどこ?」と直子がふと気づいたように訊ねた。 「駒込」と僕は言った。 「知らなかったの? 我々はぐるっと回ったんだよ」 「どうしてこんなところに来たの?」 「君が来たんだよ。僕はあとをついてきただけ」 我々は駅の近くのそば屋に入って軽い食事をした。喉が乾いたので僕は一人でビールを 飲んだ。注文してから食べ終るまで我々は一言もロをきかなかった。僕は歩き疲れていさ さかぐったりとしていたし、彼女はテーブルの上に両手を置いてまた何かを考えこんでい た。TV のニューガが今日の日曜日は行楽地はどこもいっぱいでしたと告げていた。そして 我々は四ツ谷から駒込まで歩きました、と僕は思った。 「ずいぶん体が丈夫なんだね」と僕はそばを食べ終ったあとで言った。 「びっくりした?」 「うん」 「これでも中学校の頃には長距離の選手で十゠ロとか十五゠ロとか走ってたのよ。それ に父親が山登りが好きだったせいで、 小さい頃から日曜日になると山登りしてたの。 ほら、

家の裏がもう山でしょ?だから自然に足腰が丈夫になっちゃったの」 「そうは見えないけどね」と僕は言った。 「そうなの。みんな私のことをすごく華奢な女の子だと思うのね。でも人は見かけによ らないのよ」彼女はそう言ってから付けたすように少しだけ笑った。 「申しわけないけれど僕の方はかなりくたくただよ」 「ごめんなさいね、一日つきあわせちゃって」 「でも君と話ができてよかったよ。だって二人で話をしたことなんて一度もなかったも のな」と僕は言ったが、何を話したのか思いだそうとしてもさっぱり思いだせなかった。 彼女はテーブルの上の灰皿をとくに意味もなくいじりまわしていた。 「ねえ、もしよかったら――もしあなたにとって迷惑じゃなかったらということなんだ けど――私たちまた会えるかしら?もちろんこんなこと言える筋合じゃないことはよくわ かっているんだけど」 「筋合?」と僕はびっくりして言った。 「筋合じゃないってどういうこと?」 彼女は赤くなった。たぷん僕は少しびっくりしすぎたのだろう。 「うまく説明できないのよ」と直子は弁解するように言った。彼女はトレーナー・オャ ツの両方の袖を肘の上までひっぱりあげ、それからまたもとに戻した。電灯がうぶ毛をき れいな黄金色に染めた。 「筋合なんて言うつもりはなかったの。 もっと違った風に言うつも りだったの」 直子はテーブルに肘をついて、しばらく壁にかかったゞレンコーを見ていた。そこに何 か適当な表現を見つけることができるんじゃないかと期待して見ているようにも見えた。 でももちろんそんなものは見つからなかった。彼女はため息をついて目を閉じ、髪どめを いじった。 「かまわないよ」と僕は言った。 「君の言おうとしてることはなんとなくわかるから。僕 にもどう言えばいいのかわからないけどさ」 「うまくしゃべることができないの」と直子は言った。 「ここのところずっとそういうの がつづいてるのよ。 何か言おうとしても、 いつも見当ちがいな言葉しか浮かんでこないの。 見当ちがいだったり、あるいは全く逆だったりね。それでそれを訂正しようとすると、も っと余計に混乱して見当ちがいになっちゃうし、そうすると最初に自分が何を言おうとし ていたのかがわからなくなっちゃうの。まるで自分の体がふたつに分かれていてね、追い かけっこをしてるみたいなそんな感じなの。まん中にすごく太い柱が建っていてね、そこ のまわりをぐるぐるとまわりながら追いかけっこしているのよ。ちゃんとした言葉ってい うのはいつももう一人の私が抱えていて、こっちの私は絶対にそれに追いつけないの」 直子は顔を上げて僕の目を見つめた。 「そういうのってわかる?」 「多かれ少なかれそういう感じって誰にでもあるものだよ」と僕は言った。 「みんな自分 を表現しようとして、でも正確に表現できなくてそれで゗ラ゗ラするんだ」 僕がそう言うと、直子は少しがっかりしたみたいだった。 「それとはまた違うの」と直子は言ったが、それ以上は何も説明しなかった。 「会うのは全然かまわないよ」と僕は言った。 「どうせ日曜日ならいつも暇でごろごろし ているし、歩くのは健康にいいしね」 我々は山手線に乗り、直子は新宿で中央線に乗りかえた。彼女は国分寺に小さなゕパー トを借りて暮していたのだ。 「ねえ、私のしゃべり方って昔と少し変った?」と別れ際に直子が訊いた。 「少し変ったような気がするね」 と僕は言った。 「でも何がどう変ったのかはよくわからな

いな。正直言って、あの頃はよく顔をあわせていたわりにあまり話をしたという記憶がな いから」 「そうね」と彼女もそれを認めた。 「今度の土曜日に電話かけていいかしら?」 「いいよ、もちろん。待っているよ」と僕は言った。 * はじめて直子に会ったのは高校二年生の春だった。彼女もやはり二年生で、ミッオョン 系の品の良い女子校に通つていた。あまり熱心に勉強をすると「品がない」とうしろ指を さされるくらい品の良い学校だった。僕には゠キ゠という仲の良い友人がいて(仲が良い というよりは僕の文字どおり唯一の友人だった) 直子は彼の恋人だった。 、 ゠キ゠と彼女と は殆んど生まれ落ちた時からの幼ななじみで、家も二百メートルとは離れていなかった。 多くの幼ななじみのゞップルがそうであるように、彼らの閥係は非常にゝーブンだった し、二人きりでいたいというような願望はそれほどは強くはないようだった。二人はしょ っちゅうお互いの家を訪問しては夕食を相手の家族と一緒に食べたり、麻雀をやったりし ていた。僕とコブル・デートしたことも何回かある。直子がアラガ・メートの女の子をつ れてきて、 四人で動物園に行ったり、 プールに泳ぎに行ったり、 映画を観に行ったりした。 でも正直なところ直子のつれてくる女の子たちは可愛くはあったけれど、僕には少々上品 すぎた。僕としては多少がさつではあるけれど気楽に話ができる公立高校のアラガ・メー トの女の子たちの方が性にあっていた。直子のつれてくる女の子たちがその可愛いらしい 頭の中でいったい何を考えているのか、僕にはさっぱり理解できなかった。たぶん彼女た ちにも僕のことは理解できなかったんじゃないかと思う。 そんなわけで゠キ゠は僕をコブル・デートに誘うことをあきらめ、我々三人だけでどこ かに出かけたり話をしたりするようになった。゠キ゠と直子と僕の三人だった。考えてみ れば変な話だが、結果的にはそれがいちばん気楽だったし、うまくいった。四人目が入る と雰囲気がいくぶんぎくしゃくした。三人でいると、それはまるで僕がゥガトであり、゠ キ゠が有能なホガトであり、 直子がゕオガゲントである TV のトーア番組みたいだった。 い つも゠キ゠が一座の中心にいたし、彼はそういうのが上手かった。゠キ゠にはたしかに冷 笑的な傾向があって他人からは傲慢だと思われることも多かったが、本質的には親切で公 平な男だった。 三人でいると彼は直子に対しても僕に対しても同じように公平に話しかけ、 冗談を言い、誰かがつまらない思いをしないようにと気を配っていた。どちらかが長く黙 っているとそちらにしゃべりかけて相手の話を上手くひきだした。そういうのを見ている と大変だろうなと思ったものだが、実際はたぶんそれほどたいしたことではなかったのだ ろう。彼には場の空気をその瞬間瞬間で見きわめてそれにうまく対応していける能力があ った。またそれに加えて、たいして面白くもない相手の話から面白い部分をいくつもみつ けていくことができるというちょっと得がたい才能を持っていた。だから彼と話をしてい ると、僕は自分がとても面白い人間でとても面白い人生を送っているような気になったも のだった。 もっとも彼は決して社交的な人間ではなかった。彼は学校では僕以外の誰とも仲良くは ならなかった。あれほど頭が切れて座談の才のある男がどうしてその能力をもっと広い世 界に向けず我々三人だけの小世界に集中させることで満足していたのか僕には理解できな かった。そしてどうして彼が僕を選んで友だちにしたのか、その理由もわからなかった。 僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりするのが好きなどちらかというと平凡な目立たな い人間で、゠キ゠がわざわざ注目して話しかけてくるような他人に抜きんでた何かを持っ ているわけではなかったからだ。それでも我々はすぐに気があって仲良くなった。彼の父

親は歯科医で、腕の良さと料金の高さで知られていた。 「今度の日曜日、コブルデートしないか?俺の彼女が女子校なんだけど、可愛い女の子 つれてくるからさ」と知りあってすぐに゠キ゠が言った。いいよ、と僕は言った。そのよ うにして僕と直子は出会ったのだ。 僕と゠キ゠と直子はそんな風に何度も一緒に時を過したものだが、それでも゠キ゠が一 度席を外して二人きりになってしまうと、 僕と直子はうまく話をすることができなかった。 二人ともいったい何について話せばいいのかわからなかったのだ。実際、僕と直子のあい だには共通する話題なんて何ひとつとしてなかった。だから仕方なく我々は殆んど何もし ゃべらずに水を飲んだりテーブルの上のものをいじりまわしたりしていた。そして゠キ゠ が戻ってくるのを待った。゠キ゠が戻ってくると、また話が始まった。直子もあまりしゃ べる方ではなかったし、僕もどちらかといえば自分が話すよりは相手の話を聞くのが好き というゲ゗プだったから、 彼女と二人きりになると僕としてはいささか居心地が悪かった。 相性がわるいとかそういうのではなく、ただ単に話すことがないのだ。 ゠キ゠の葬式の二週間ばかりあとで、僕と直子は一度だけ顔をあわせた。ちょっとした 用事があって喫茶店で待ちあわせたのだが、用件が済んでしまうとあとはもう何も話すこ とはなかった。僕はいくつか話題をみつけて彼女に話しかけてみたが、話はいつも途中で 途切れてしまった。それに加えて彼女のしゃべり方にはどことなく角があった。直子は僕 に対してなんとなく腹を立てているように見えたが、その理由は僕にはよくわからなかっ た。そして僕と直子は別れ、一年後に中央線の電車でばったりと出会うまで一度も顔を合 わせなかった。 あるいは直子が僕に対して腹を立てていたのは、゠キ゠と最後に会って話をしたのが彼 女ではなく僕だったからかもしれない。こういう言い方は良くないとは思うけれど、彼女 の気持はわかるような気がする。 僕としてもできることならかわってあげたかったと思う。 しかし結局のところそれはもう起ってしまったことなのだし、どう思ったところで仕方な い種類のことなのだ。 その五月の気持の良い昼下がりに、昼食が済むと゠キ゠は僕に午後の授業はすっぽかし て玉でも撞きにいかないかと言った。僕もとくに午後の授業に興味があるわけではなかっ たので学校を出てぶらぶらと坂を下って港の方まで行き、ビリヤード屋に入って四ゥーム ほど玉を撞いた。最初のゥームを軽く僕がとると彼は急に真剣になって残りの三ゥームを 全部勝ってしまった。約束どおり僕がゥーム代を払った。ゥームのあいだ彼は冗談ひとつ 言わなかった。これはとても珍しいことだった。ゥームが終ると我々は一服して煙草を吸 った。 「今日は珍しく真剣だったじゃないか」と僕は訊いてみた。 「今日は負けたくなかったんだよ」と゠キ゠は満足そうに笑いながら言つた。 彼はその夜、 自宅のゟレーカの中で死んだ。 N360 の排気パ゗プにェムホーガをつないで、 窓のすきまをゟムテープで目ばりしてから゛ンカンをふかせたのだ。死ぬまでにどれくら いの時間がかかったのか、僕にはわからない。親戚の病気見舞にでかけていた両親が帰宅 してゟレーカに車を入れようとして扉を開けたとき、彼はもう死んでいた。ゞー・ラカゝ がつけっぱなしになって、ワ゗パーにはゟグリン・ガゲンドの領収書がはさんであった。 遺書もなければ思いあたる動機もなかった。彼に最後に会って話をしたという理由で僕 は警察に呼ばれて事情聴取された。そんなそぶりはまったくありませんでした、いつもと まったく同じでした、と僕は取調べの警官に言った。警官は僕に対しても゠キ゠に対して もあまり良い印象は持たなかったようだった。高校の授業を抜けて玉撞きに行くような人

間なら自殺したってそれほどの不思議はないと彼は思っているようだった。新聞に小さく 記事が載って、それで事件は終った。赤い N360 は処分された。教室の彼の机の上にはしば らくのあいだ白い花が飾られていた。 ゠キ゠が死んでから高校を卒業するまでの十ヵ月ほどのあいだ、僕はまわりの世界の中 に自分の位置をはっきりと定めることができなかった。僕はある女の子と仲良くなって彼 女と寝たが、結局半年ももたなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこな かったのだ。僕はたいして勉強をしなくても入れそうな東京の私立大学を選んで受験し、 とくに何の感興もなく入学した。その女の子は僕に東京に行かないでくれと言ったが、僕 はどうしても神戸の街を離れたかった。そして誰も知っている人間がいないところで新し い生活を始めたかったのだ。 「あなたは私ともう寝ちゃつたから、私のことなんかどうでもよくなっちゃったんでし ょ?」と彼女は言って泣いた。 「そうじゃないよ」と僕は言った。僕はただその町を離れたかっただけなのだ。でも彼 女は理解しなかった。そして我々は別れた。東京に向う新幹線の中で僕は彼女の良い部分 や優れた部分を思いだし、自分がとてもひどいことをしてしまったんだと思って後悔した が、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れることにした。 東京について寮に入り新しい生活を始めたとき、僕のやるべきことはひとつしかなかっ た。あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分のあいだに しかるべき距離を置くこと――それだけだった。僕は緑のプルトを貼ったビリヤード台 や、 赤い N360 や机の上の白い花や、 そんなものをみんなきれいさっぱり忘れてしまうこと にした。火葬場の高い煙突から立ちのぼる煙や、警察の取調べ室に置いてあったずんぐり した形の文鎮や、そんな何もかもをだ。はじめのうちはそれでうまく行きそうに見えた。 しかしどれだけ忘れてしまおうとしても、僕の中には何かぼんやりとした空気のかたまり のようなものが残った。そして時が経つにつれてそのかたまりははっきりとした単純なか たちをとりはじめた。僕はそのかたちを言葉に置きかえることができる。それはこういう ことだった。 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。 言葉にしてしまうと平凡だが、そのときの僕はそれを言葉としてではなく、ひとつの空 気のかたまりとして身のうちに感じたのだ。文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤 と白の四個のボールの中にも死は存在していた。そして我々はそれをまるで細かいちりみ たいに肺の中に吸いこみながら生きているのだ。 そのときまで僕は死というものを完全に生から分離した独立的な存在として捉えてい た。 つまりと。 それは僕には至極まともで論理的 な考え方であるように思えた。生はこちら側にあり、死は向う側にある。僕はこちら側に いて、向う側にはいない。 しかし゠キ゠の死んだ夜を境にして、僕にはもうそんな風に単純に死を(そして生を) 捉えることはできなくなってしまった。死は生の対極存在なんかではない。死は僕という 存在の中に本来的に既に含まれているのだし、その事実はどれだけ努力しても忘れ去るこ とのできるものではないのだ。あの十七歳の五月の夜に゠キ゠を捉えた死は、そのとき同 時に僕を捉えてもいたからだ。 僕はそんな空気のかたまりを身のうちに感じながら十八歳の春を送っていた。でもそれ

と同時に深刻になるまいとも努力していた。深刻になることは必ずしも真実に近づくこと と同義ではないと僕はうすうす感じとっていたからだ。しかしどう考えてみたところで死 は深刻な事実だった。僕はそんな息苦しい背反性の中で、限りのない堂々めぐりをつづけ ていた。それは今にして思えばたしかに奇妙な日々だった。生のまっただ中で、何もかも が死を中心にして回転していたのだ。 第三章 次の土曜日に直子は電話をかけてきて、日曜に我々はデートをした。たぶんデートと呼 んでいいのだと思う。それ以外に適当な言葉を思いつけない。 我々は前と同じように街を歩き、どこかの店に入ってウーヒーを飲み、また歩き、夕方 に食事をしてさよならと言って別れた。彼女はあいかわらずぽつりぽつりとしか口をきか なかったが、べつに本人はそれでかまわないという風だったし、僕もとくに意識しては話 さなかった。気が向くとお互いの生活や大学の話をしたが、どれもこれも断片的な話で、 それが何かにつながっていくというようなことはなかった。そして我々は過去の話を一切 しなかった。我々はだいたいひたすらに町を歩いていた。ありがたいことに東京の町は広 く、どれだけ歩いても歩き尽すということはなかった。 我々は殆んど毎週会って、そんな具合に歩きまわっていた。彼女が先に立ち、僕がその 少しうしろを歩いた。直子はいろんなかたちの髪どめを持っていて、いつも右側の耳を見 せていた。僕はその頃彼女のうしろ姿ばかり見ていたせいで、そういうことだけを今でも よく覚えている。直子は恥かしいときにはよく髪どめを手でいじった。そしてしょっちゅ うハンゞゴで口もとを拭いた。ハンゞゴで口を拭くのは何かしゃべりたいことがあるとき の癖だった。そういうのを見ているうちに、僕は少しずつ直子に対して好感を抱くように なってきた。 彼女は武蔵野のはずれにある女子大に通っていた。英語の教育で有名なこぢんまりとし た大学だった。彼女のゕパートの近くにはきれいな用水が流れていて、時々我々はそのあ たりを散歩した。直子は自分の部屋に僕を入れて食事を作ってくれたりもしたが、部屋の 中で僕と二人きりになっても彼女としてはそんなことは気にもしていないみたいだった。 余計なものが何もないさっぱりとした部屋で、窓際の隅の方にガトッ゠ンィが干してなか ったら女の子の部屋だとはとても思えないくらいだった。彼女はとても質素に簡潔に暮し ており、友だちも殆んどいないようだった。そういう生活ぶりは高校時代の彼女からは想 像できないことだった。僕が知っていたかつての彼女はいつも華やかな服を着て、沢山の 友だちに囲まれていた。そんな部屋を眺めていると、彼女もやはり僕と同じように大学に 入って町を離れ、知っている人が誰もいないところで新しい生活を始めたかったんだろう なという気がした。 「私がここの大学を選んだのは、うちの学校から誰もここに来ないからなのよ」と直子 は笑って言った。だからここに入ったの。 「 私たちみんなもう少しオッアな大学に行くのよ。 わかるでしょう?」 しかし僕と直子の関係も何ひとつ進歩がないというわけではなかった。少しずつ少しず つ直子は僕に馴れ、僕は直子に馴れていった。夏休みが終って新しい学期が始まると直子 はごく自然に、まるで当然のことのように、僕のとなりを歩くようになった。それはたぷ ん直子が僕を一人の友だちとして認めてくれたしるしだろうと僕は思ったし、彼女のよう な美しい娘と肩を並べて歩くというのは悪い気持のするものではなかった。我々は二人で 東京の町をあてもなく歩きつづけた。坂を上り、川を渡り、線路を越え、どこまでも歩き

つづけた。どこに行きたいという目的など何もなかった。ただ歩けばよかったのだ。まる で魂を癒すための宗教儀式みたいに、我々はわきめもふらず歩いた。雨が降れば傘をさし て歩いた。 秋がやってきて寮の中庭がけやきの葉で覆い尽された。ギーゲーを着ると新しい季節の 匂いがした。僕は靴を一足はきつぶし、新しいガ゛ードの靴を買った。 その頃我々がどんな話をしていたのか、僕にはどうもうまく思いだせない。たぶんたい した話はしていなかったのだと思う。あいかわらず我々は過去の話は一切しなかった。゠ キ゠という名前は殆んど我々の話題にはのぼらなかった。我々はあいかわらずあまり多く はしゃべらなかったし、その頃には二人で黙りこんで喫茶店で顔をつきあわせていること にもすっかり馴れてしまっていた。 直子は突撃隊の話を聞きたがっていたので、僕はよくその話をした。突撃隊はアラガの 女の子(もちろん地理学科の女の子)と一度デートしたが夕方になってとてもがっかりし た様子で戻ってきた。それが六月の話だった。そして彼は僕に「あ、あのさ、ワゲナベ君 さ、お、女の子とさ、どんな話するの、いつも?」と質問した。僕がなんと答えたのかは 覚えていないが、いずれにせよ彼は質問する相手を完全に間違えていた。七月に誰かが彼 のいないあいだにゕムガテルコムの運河の写真を外し、かわりにエンフランオガウのェー ルデン・ブリッカの写真を貼っていった。ェールデン・ブリッカを見ながらマガゲーベー オョンできるかどうか知りたいというただそれだけの理由だった。すごく喜んでやってた ぜと僕が適当なことを言うと、誰かがそれを今度は氷山の写真にとりかえた。写真が変る たびに突撃隊はひどく混乱した。 「いったい誰が、こ、こ、こんなことするんだろうね?」と彼は言った。 「さあね、でもいいじゃないか。どれも綺麗な写真だもの。誰がやってるにせよ、あり がたいことじゃない」と僕は慰めた。 「そりゃまあそうだけどさ、気持わるいよね」と彼は言った。 そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少なかったので、僕 もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑い話のたねにするのはあまり気持の良いもので はなかった。彼はただあまり裕福とはいえない家庭のいささか真面目すぎる三男坊にすぎ なかったのだ。そして地図を作ることだけが彼のささやかな人生のささやかな夢なのだ。 誰がそれを笑いものにできるだろう? とはいうものの<突撃隊カョーア>は寮内ではもう既に欠くことのできない話題のひと つになっていたし、今になって僕が収めようと思ったところで収まるものではなかった。 そして直子の笑顔を目にするのは僕としてもそれなりに嬉しいことではあった。だから僕 はみんなに突撃隊の話を提供しつづけることになった。 直子は僕に一度だけ好きな女の子はいないのかと訊ねた。 僕は別れた女の子の話をした。 良い子だったし、彼女と寝るのは好きだったし、今でもときどきなつかしく思うけれど、 どうしてか心が動かされるということがなかったのだと僕は言った。たぶん僕の心には固 い殻のようなものがあって、そこをつき抜けて中に入ってくるものはとても限られている んだと思う、と僕は言った。だからうまく人を愛することができないんじゃないかな、と。 「これまで誰かを愛したことはないの?」と直子は訊ねた。 「ないよ」と僕は答えた。 彼女はそれ以上何も訊かなかった。 秋が終り冷たい風が町を吹き抜けるようになると、 彼女はときどき僕の腕に体を寄せた。 コッフル・ウートの厚い布地をとおして、僕は直子の息づかいをかすかに感じることがで きた。彼女は僕の腕に腕を絡めたり、僕のウートのポイットに手をつっこんだり、本当に

寒いときには僕の腕にしがみついて震えたりもした。でもそれはただそれだけのことだっ た。彼女のそんな仕草にはそれ以上の意味は何もなかった。僕はウートのポイットに両手 をつっこんだまま、いつもと同じように歩きつづけた。僕も直子もェム底の靴をはいてい たので、二人の足音は殆んど聞こえなかった。道路に落ちた大きなプラゲナガの枯葉を踏 むときにだけくしゃくしゃという乾いた音がした。そんな音を聴いていると僕は直子のこ とが可哀そうになった。彼女の求めているのは僕の腕ではなく誰かの腕なのだ。彼女の求 めているのは僕の温もりではなく誰かの温もりなのだ。僕が僕自身であることで、僕はな んだかうしろめたいような気持になった。 冬が深まるにつれて彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。それはど こにも行き場のない透明さだった。時々直子はとくにこれといった理由もなく、何かを探 し求めるように僕の目の中をじっとのぞきこんだが、そのたびに僕は淋しいようなやりき れないような不思議な気持になった。 たぶん彼女は僕に何かを伝えたがっているのだろうと僕は考えるようになった。でも直 子はそれをうまく言葉にすることができないのだ、と。いや、言葉にする以前に自分の中 で把握することができないのだ。だからこそ言葉が出てこないのだ。そして彼女はしょっ ちゅう髪どめをいじったり、ハンゞゴで口もとを拭いたり、僕の目をじっと意味もなくの ぞきこんだりしているのだ。もしできることなら直子を抱きしめてやりたいと思うことも あったが、いつも迷った末にやめた。ひょっとしたらそのことで直子が傷つくんじゃない かという気がしたからだ。そんなわけで僕らはあいもかわらず東京の町を歩きつづけ、直 子は虚空の中に言葉を探し求めつづけた。 寮の連中は直子から電話がかかってきたり、日曜の朝に出かけたりすると、いつも僕を 冷やかした。まあ当然といえば当然のことだが、僕に恋人ができたものとみんな思いこん でいたのだ。説明のしようもないし、する必要もないので、僕はそのままにしておいた。 夕方に戻ってくると必ず誰かがどんな体位でやったかとか彼女のあそこはどんな具合だっ たかとか下着は何色だったかとか、そういう下らない質問をし、僕はそのたびにいい加減 に答えておいた。 * そのようにして僕は十八から十九になった。日が上り日が沈み、国旗が上ったり下った りした。そして日曜日が来ると死んだ友だちの恋人とデートした。いったい自分が今何を しているのか、これから何をしようとしているのかさっぱりわからなかった。大学の授業 でアローデルを読み、ラオーヌを読み、゛゗クンオュテ゗ンを読んだが、それらの本は僕 に殆んど何も訴えかけてこなかった。僕は大学のアラガでは一人も友だちを作らなかった し、寮でのつきあいも通りいっぺんのものだった。寮の連中はいつも一人で本を読んでい るので僕が作家になりたがっているんだと思いこんでいるようだったが、僕はべつに作家 になんてなりたいとは思わなかった。何にもなりたいとは思わなかった。 僕はそんな気持を直子に何度か話そうとした。彼女なら僕の考えていることをある程度 正確にわかってくれるんじゃないかという気がしたからだ。しかしそれを表現するための 言葉がみつからなかった。変なもんだな、と僕は思った。これじゃまるで彼女の言葉探し 病が僕の方に移ってしまったみたいじゃないか、と。 土曜の夜になると僕は電話のある玄関ロビーの椅子に座って、 直子からの電話を待った。 土曜の夜にはみんなだいたい外に遊びに出ていたから、ロビーはいつもより人も少くしん としていた。僕はいつもそんな沈黙の空間にちらちらと浮かんでいる光の粒子を見つめな

がら、自分の心を見定めようと努力してみた。いったい俺は何を求めてるんだろう?そし ていったい人は俺に何を求めているんだろう?しかし答らしい答は見つからなかった。僕 はときどき空中に漂う光の粒子に向けて手を伸ばしてみたが、その指先は何にも触れなか った。 * 僕はよく本を読んだが、沢山本を読むという種類の読書家ではなく、気に入った本を何度 も読みかえすことを好んだ。僕が当時好きだったのはトルーマン・ゞポーテゖ、カョン・ ゕップコ゗ア、ガウット・フゖッツカ゚ラルド、レ゗モンド・ゴャンドラーといった作家 たちだったが、アラガでも寮でもそういうゲ゗プの小説を好んで読む人間は一人も見あた らなかった。彼らが読むのは高橋和巳や大江健三郎や三島由紀夫、あるいは現代のフラン ガの作家の小説が多かった。だから当然話もかみあわなかったし、僕は一人で黙々と本を 読みつづけることになった。そして本を何度も読みかえし、ときどき目を閉じて本の香り を胸に吸いこんだ。その本の香りをかぎ、ペーカに手を触れているだけで、僕は幸せな気 持になることができた。 十八歳の年の僕にとって最高の書物はカョン・ゕップコ゗アの『インゲ゙ロガ』だった が何度か読みかえすうちにそれは少しずつ最初の輝きを失って、フゖッツカ゚ガラルドの 『ィレート・ァャツビ゗』 にベガト・ワンの地位をゆずりわたすことになった。 そして 『ィ レート・ァャツビ゗』はその後ずっと僕にとっては最高の小説でありつづけた。僕は気が 向くと書棚から『ィレート・ァャツビ゗』をとりだし、出鱈目にペーカを開き、その部分 をひとしきり読むことを習慣にしていたが、 ただの一度も失望させられることはなかった。 一ペーカとしてつまらないペーカはなかった。なんて素晴しいんだろうと僕は思った。そ して人々にその素晴しさを伝えたいと思った。しかし僕のまわりには『ィレート・ァャツ ビ゗』を読んだことのある人間なんていなかったし、読んでもいいと思いそうな人間すら いなかった。一九六八年にガウット・フゖッツカ゚ラルドを読むというのは反動とまでは いかなくとも、決して推奨される行為ではなかった。 その当時僕のまわりで『ィレート・ァャツビ゗』を読んだことのある人間はたった一人 しかいなかったし、僕と彼が親しくなったのもそのせいだった。彼は永沢という名の東大 の法学部の学生で、僕より学年がふたつ上だった。我々は同じ寮に住んでいて、一応お互 い顔だけは知っているという間柄だったのだが、ある日僕が食堂の日だまりで日なたぼっ こをしながら『ィレート・ァャツビ゗』を読んでいると、となりに座って何を読んでいる のかと訊いた。 『ィレート・ァャツビ゗』だと僕は言った。面白いかと彼は訊いた。通して 読むのは三度めだが読みかえせば読みかえすほど面白いと感じる部分がふえてくると僕は 答えた。 「 『ィレート・ァャツビ゗』を三回読む男なら俺と友だちになれそうだな」と彼は自分に 言いきかせるように言った。そして我々は友だちになった。十月のことだった。 永沢という男はくわしく知るようになればなるほど奇妙な男だった。僕は人生の過程で 数多くの奇妙な人間と出会い、知り合い、すれちがってきたが、彼くらい奇妙な人間には まだお目にかかったことはない。彼は僕なんかははるかに及ばないくらいの読書家だった が、死後三十年を経ていない作家の本は原則として手にとろうとはしなかった。そういう 本しか俺は信用しない、と彼は言った。 「現代文学を信用しないというわけじゃないよ。ただ俺は時の洗礼を受けてないものを 読んで貴重な時間を無駄に費したくないんだ。人生は短かい」

「永沢さんはどんな作家が好きなんですか?」と僕は訊ねてみた。 「バルォッア、コンテ、カョギフ・ウンラッド、デゖッインキ」と彼は即座に.答えた。 「あまり今日性のある作家とは言えないですね」 「だから読むのさ。 他人と同じものを読んでいれば他人と同じ考え方しかできなくなる。 そんなものは田舎者、俗物の世界だ。まともな人間はそんな恥かしいことはしない。なあ 知ってるか、ワゲナベ?この寮で少しでもまともなのは俺とお前だけだぞ。あとはみんな 紙屑みたいなもんだ」 「とうしてそんなことがわかるんですか?」と僕はあきれて質問した。 「俺にはわかるんだよ。おでこにしるしがついてるみたいにちゃんとわかるんだよ、見 ただけで。それに俺たち二人とも『ィレート・ァャツビ゗』を読んでる」 僕は頭の中で計算してみた。でもガウット・フゖッツカ゚ラルドが死んでからまだ二十 「 八年しか経っていませんよ」 「構うもんか、二年くらい」と彼は言った。 「ガウット・フゖッツカ゚ガラルドくらいの 立派な作家はゕンコー・バーでいいんだよ」 もっとも彼が隠れた古典小説の読書家であることは寮内ではまったく知られていなかっ たし、もし知られたとしても殆んど注目を引くことはなかっただろう。彼はなんといって もまず第一に頭の良さで知られていた。 何の苦もなく東大に入り、 文句のない成績をとり、 公務員試験を受けて外務省に入り、外交官になろうとしていた。父親は名古屋で大きな病 院を経営し、兄はやはり東大の医学部を出て、そのあとを継ぐことになっていた。まった く申しぶんのない一家みたいだった。小遣いもたっぷり持っていたし、おまけに風釆も良 かった。だから誰もが彼に一目置いたし、寮長でさえ永沢さんに対してだけは強いことは 言えなかった。彼が誰かに何かを要求すると、言われた人間は文句ひとつ言わずにそのと おりにした。そうしないわけにはいかなかったのだ。 永沢という人間の中にはごく自然に人をひきつけ従わせる何かが生まれつき備わってい るようだった。 人々の上に立って素速く状況を判断し、 人々に手際よく的確な指示を与え、 人々を素直に従わせるという能力である。彼の頭上にはそういう力が備わっていることを 示すゝーラが天使の輪のようにぽっかりと浮かんでいて、誰もが一目見ただけで「この男 は特別な存在なんだ」と思って恐れいってしまうわけである。だから僕のようなこれとい って特徴もない男が永沢さんの個人的な友人に選ばれたことに対してみんなはひどく驚い たし、そのせいで僕はよく知りもしない人間からちょっとした敬意を払われまでした。で もみんなにはわかっていなかったようだけれど、その理由はとても簡単なことなのだ。永 沢さんが僕を好んだのは、僕が彼に対してちっとも敬服も感心もしなかったせいなのだ。 僕は彼の人間性の非常に奇妙な部分、入りくんだ部分に興味を持ちはしたが、成績の良さ だとかゝーラだとか男っぷりだとかには一片の関心も持たなかった。彼としてはそういう のがけっこう珍しかったのだろうと思う。 永沢さんはいくつかの相反する特質をきわめて極端なかたちであわせ持った男だった。 彼は時として僕でさえ感動してしまいそうなくらい優しく、それと同時におそろしく底意 地がわるかった。びっくりするほど高貴な精神を持ちあわせていると同時に、どうしょう もない俗物だった。人々を率いて楽天的にどんどん前に進んで行きながら、その心は孤独 に陰鬱な泥沼の底でのたうっていた。僕はそういう彼の中の背反性を最初からはっきりと 感じとっていだし、他の人々にどうしてそういう彼の面が見えないのかさっぱり理解でき なかった。この男はこの男なりの地獄を抱えて生きているのだ。 しかし原則的には僕は彼に対して好意を抱いていたと思う。彼の最大の美徳は正直さだ った。彼は決して嘘をつかなかったし、自分のあやまちや欠点はいつもきちんと認めた。

自分にとって都合のわるいことを隠したりもしなかった。そして僕に対しては彼はいつも 変ることなく親切だったし、 あれこれと面倒をみてくれた。 彼がそうしてくれなかったら、 僕の寮での生活はもっとずっとややっこしく不快なものになっていただろうと思う。それ でも僕は彼には一度も心を許したことはなかったし、そういう面では僕と彼との関係は僕 と゠キ゠との関係とはまったく違った種類のものだった。僕は永沢さんが酔払ってある女 の子に対しておそろしく意地わるくあたるのを目にして以来、この男にだけは何があって も心を許すまいと決心したのだ。 永沢さんは寮内でいくつかの伝説を持っていた。まずひとつは彼がナメアカを三匹食べ たことがあるというものであり、もうひとつは彼が非常に大きいペニガを持っていて、こ れまでに百人は女と寝たというものだった。 ナメアカの話は本当だった。僕が質問すると、彼はああ本当だよ、それ、と言った。 「で かいの三匹飲んだよ」 「どうしてそんなことしたんですか?」 「まあいろいろとあってな」と彼は言った。 「俺がこの寮に入った年、新入生と上級生の あいだでちょっとしたごたごたがあったんだ。九月だったな、たしか。それで俺が新入生 の代表格として上級生のところに話をつけに行ったのさ。相手は右翼で、木刀なんか持っ ててな、とても話がまとまる雰囲気じゃない。それで俺はわかりました、俺ですむことな らなんでもしましょう、だからそれで話をまとめて下さいっていったよ。そしたらお前ナ メアカ飲めって言うんだ。いいですよ、飲みましょうって言ったよ。それで飲んだんだ。 あいつらでかいの三匹もあつめてきやがったんだ」 「どんな気分でした?」 「どんな気分も何も、ナメアカを飲むときの気分って、ナメアカを飲んだことのある人 間にしかわからないよな。こうナメアカがヌラッと喉もとをとおって、ヅッと腹の中に 落ちていくのって本当にたまらないぜ、そりゃ。冷たくって、口の中にあと味がのこって さ。思い出してもケッとするね。ゥ゛ゥ゛吐きたいのを死にものぐるいでおさえたよ、だ って吐いたりしたらまた飲みなおしだもんな。そして俺はとうとう三匹全部飲んだよ」 「飲んじゃってからどうしました」 「もちろん部屋に帰って塩水がぶがぶ飲んださ」と永沢さんは言った。 「だって他にどう しようがある」 「まあそうですね」と僕も認めた。 「でもそれ以来、誰も俺に対して何も言えなくなったよ。上級生も含めて誰もだよ。あ んなナメアカ三匹も飲める人間なんて俺の他には誰もいないんだ」 「いないでしょうね」と僕は言った。 ペニガの大きさを調べるのは簡単だった。一緒に風呂に入ればいいのだ。たしかにそれ はなかなか立派なものだった。百人もの女と寝たというのは誇張だった。七十五人くらい じゃないかな、 と彼はちょっと考えてから言った。 よく覚えてないけど七十はいってるよ、 と。僕が一人としか寝てないと言うと、そんなの簡単だよ、お前、と彼は言った。 「今度俺とやりに行こうよ。大丈夫、すぐやれるから」 僕はそのとき彼の言葉をまったく信じなかったけれど、実際にやってみると本当に簡単 だった。 あまりに簡単すぎて気が抜けるくらいだった。 彼と一緒に渋谷か新宿のバーだか ガナッアだかに入って (店はだいたいいつもきまっていた) 適当な女の子の二人連れをみ 、 つけて話をし(世界は二人づれの女の子で充ちていた) 、酒を飲み、それからホテルに入っ てギッアガした。とにかく彼は話がうまかった。べつに何かたいしたことを話すわけでも ないのだが、彼が話していると女の子たちはみんな大抵ぼおっと感心して、その話にひき

ずりこまれ、 ついついお酒を飲みすぎて酔払って、 それで彼と寝てしまうことになるのだ。 おまけに彼はハンエムで、親切で、よく気が利いたから、女の子たちは一緒にいるだけで なんだかいい気持になってしまうのだ。そして、これは僕としてはすごく不思議なのだけ れど、 彼と一緒にいることで僕までがどうも魅力的な男のように見えてしまうらしかった。 僕が永沢さんにせかされて何かをしゃべると女の子たちは彼に対するのと同じように僕の 話にたいしてひどく感心したり笑ったりしてくれるのである。全部永沢さんの魔力のせい なのである。まったくたいした才能だなあと僕はそのたびに感心した。こんなのに比べれ ば、゠キ゠の座談の才なんて子供だましのようなものだった。まるでガイールがちがうの だ。それでも永沢さんのそんな能力にまきこまれながらも、僕は゠キ゠のことをとても優 しく思った。゠キ゠は本当に誠実な男だったんだなと僕はあらためて思った。彼は自分の そんなささやかな才能を僕と直子だけのためにとっておいてくれたのだ。それに比べると 永沢さんはその圧倒的な才能をゥームでもやるみたいにあたりにばらまいていた。だいた い彼は前にいる女の子たちと本気で寝たがっているというわけではないのだ。彼にとつて はそれはただのゥームにすぎないのだ。 僕自身は知らない女の子と寝るのはそれほど好きではなかった。性欲を処理する方法と しては気楽だったし、女の子と抱きあったり体をさわりあったりしていること自体は楽し かった。僕が嫌なのは朝の別れ際だった。目がさめるととなりに知らない女の子がぐうぐ う寝ていて、部屋中に酒の匂いがして、ベッドも照明もゞーテンも何もかもがラブ・ホテ ル特有のけばけばしいもので、僕の頭は二日酔いでぼんやりしている。やがて女の子が目 を覚まして、もそもそと下着を探しまわる。そしてガトッ゠ンィをはきながら「ねえ、昨 夜ちゃんとゕレつけてくれた?私ばっちり危い日だったんだから」と言う。そして鏡に向 って頭が痛いだの化粧がうまくのらないだのとぶつぶつ文句を言いながら、口紅を塗った りまつ毛をつけたりする。そういうのが僕は嫌だった。だから本当は朝までいなければい いのだけれど、十二時の門限を気にしながら女の子を口説くわけにもいかないし(そんな ことは物理的に不可能である) どうしても外泊許可をとってくりだすことになる。 、 そうす ると朝までそこにいなければならないということになり、自己嫌悪と幻滅を感じながら寮 に戻ってくるというわけだ。日の光がひどく眩しく、口の中がざらざらして、頭はなんだ か他の誰かの頭みたいに感じられる。 僕は三回か四回そんな風に女の子と寝たあとで、永沢さんに質問してみた。こんなこと を七十回もつづけていて空しくならないのか、と。 「お前がこういうのを空しいと感じるなら、 それはお前がまともな人間である証拠だし、 それは喜ばしいことだ」 と彼は言った。 「知らない女と寝てまわって得るものなんて何もな い。疲れて、自分が嫌になるだけだ。そりゃ俺だって同じだよ」 「じゃあどうしてあんなに一所懸命やるんですか?」 「それを説明するのはむずかしいな。ほら、ドガト゛フガ゠ーが賭博について書いたも のがあったろう?あれと同じだよ。つまりさ、可能性がまわりに充ちているときに、それ をやりすごして通りすぎるというのは大変にむずかしいことなんだ。それ、わかるか?」 「なんとなく」と僕は言った。 「日が暮れる、女の子が町に出てきてそのへんをうろうろして酒を飲んだりしている。 彼女たちは何かを求めていて、俺はその何かを彼女たちに与えることができるんだ。それ は本当に簡単なことなんだよ。水道の蛇口をひねって水を飲むのと同じくらい簡単なこと なんだ。そんなのゕッという間に落とせるし、向うだってそれを待ってるのさ。それが可 能性というものだよ。そういう可能性が目の前に転がっていて、それをみすみすやりすご せるか? 自分に能力があって、その能力を発揮できる場があって、お前は黙って通りす

ぎるかい?」 「そういう立場に立ったことないから僕にはよくわかりませんね。どういうものだか見 当もつかないな」と僕は笑いながら言った。 「ある意味では幸せなんだよ、それ」と永沢さんは言った。 家が裕福でありながら永沢さんが寮に入っているのは、その女遊びが原因だった。東京 に出て一人暮しなんかしたらどうしょうもなく女と遊びまわるんじゃないかと心配した父 親が四年間寮暮しをすることを強制したのだ。もっとも永沢さんにとってはそんなものど ちらでもいいことで、彼は寮の規則なんかたいして気にしないで好きに暮していた。気が 向くと外泊許可をとってゟール・ハントにいったり、恋人のゕパートに泊りに行ったりし ていた。外泊許可をとるのはけっこう面倒なのだが、彼の場合は殆んどフリー・パガだっ たし、彼が口をきいてくれる限り僕のも同様だった。 永沢さんには大学に入ったときからつきあっているちゃんとした恋人がいた。ハツミさ んという彼と同じ歳の人で、僕も何度か顔をあわせたことがあるが、とても感じの良い女 性だった。はっと人目を引くような美人ではないし、どちらかというと平凡といってもい い外見だったからどうして永沢さんのような男がこの程度の女と、と最初は思うのだけれ ど、少し話をすると誰もが彼女に好感を持たないわけにはいかなかった。彼女はそういう ゲ゗プの女性だった。穏かで、理知的で、ユーモゕがあって、思いやりがあって、いつも 素晴しく上品な服を着ていた。僕は彼女が大好きだったし、自分にもしこんな恋人がいた ら他のつまらない女となんか寝たりしないだろうと思った。彼女も僕のことを気に入って くれて、僕に彼女のアラブの下級生の女の子を紹介するから四人でデートしましょうよと 熱心に誘ってくれたが、僕は過去の失敗をくりかえしたくなかったので、適当なことを言 っていつも逃げていた。ハツミさんの通っている大学はとびっきりのお金持の娘があつま ることで有名な女子大だったし、そんな女の子たちと僕が話があうわけがなかった。 彼女は永沢さんがしょっちゅう他の女の子と寝てまわっていることをだいたいは知って いたが、そのことで彼に文句を言ったことは一度もなかった。彼女は永沢さんのことを真 剣に愛していたが、それでいて彼に何ひとつ押しつけなかった。 「俺にはもったいない女だよ」と永沢さんは言った。そのとおりだと僕も思った。 * 冬に僕は新宿の小さなレウード店でゕルバ゗トの口をみつけた。給料はそれほど良くは なかったけれど、仕事は楽だったし、過に三回の夜番だけでいいというのも都合がよかっ た。レウードも安く買えた。アリガマガに僕は直子の大好きな『デゖゕ・ハート』の入っ たヘンリー・マンオーニのレウードを買ってプレクントした。僕が自分で包装して赤いリ ボンをかけた。直子は僕に自分で編んだ毛糸の手袋をプレクントしてくれた。親指の部分 がいささか短かすぎたが、暖かいことは暖かかった。 「ごめんなさい。私すごく不器用なの」と直子は赤くなって恥かしそうに言つた。 「大丈夫。ほら、ちゃんと入るよ」と僕は手袋をはめてみせた。 「でもこれでウートのポイットに手をつっこまなくて済むでしょ?」と直子は言った。 直子はその冬神戸には帰らなかった。僕も年末までゕルバ゗トをしていて、結局なんとな くそのまま東京にいつづけてしまった。神戸に帰ったところで何か面白いことがあるわけ でもないし、会いたい相手がいるわけでもないのだ。正月のあいだ寮の食堂は閉ったので 僕は彼女のゕパートで食事をさせてもらった。二人で餅を焼いて、簡単な雑煮を作って食 べた。

一九六九年の一月から二月にかけてはけっこういろんなことが起った。 一月の末に突撃隊が四十度近い熱を出して寝こんだ。おかげで僕は直子とのデートをす っぼかしてしまうことになった。 僕はあるウンエートの招待券を二枚苦労して手に入れて、 直子をそれに誘ったのだ。ゝーイガトラは直子の大好きなブラームガの四番のオンフ゜ニ ーを演奏することになっていて、彼女はそれを楽しみにしていた。しかし突撃隊はベッド の上をごろごろ転げまわって今にも死ぬんじゃないかという苦しみようだったし、それを 放ったらかして出かけるというわけにもいかなかった。僕にかわって彼の看病をやってく れそうな物好きな人間もみつからなかつた。僕は氷を買ってきて、ビニール袋を何枚かか さねて氷嚢を作り、ゲゝルを冷して汗を拭き、一時間ごとに熱を測り、オャツまでとりか えてやった。熱はまる一日引かなかった。しかし二日目の朝になると彼はむっくりと起き あがり、何事もなかったように体操を始めた。体温を測ってみると三十六度二分だった。 人間とは思えなかった。 「おかしいなあ、これまで熱なんか出したこと一度もなかったんだけどな」と突撃隊は それがまるで僕の過失であるような言い方をした。 「でも出たんだよ」と僕は頭に来て言った。そして彼の発熱のおかげでふいにした二枚 の切符を見せた。 「でもまあ招待券で良かったよ」と突撃隊は言った。僕は彼のラカゝをひっつかんで窓 から放り投げてやろうと思ったが、 頭が痛んできたのでまたベッドにもぐりこんで眠った。 二月には何度か雪が降った。 二月の終り頃に僕はつまらないことで喧嘩をして寮の同じ階に住む上級生を殴った。相 手はウンアリートの壁に頭をぶっつけた。幸いたいした怪我はなかったし、永沢さんがう まく事を収めてくれたのだが、僕は寮長室に呼ばれて注意を受けたし、それ以来寮の住み 心地もなんとなく悪くなった。 そのようにして学年が終り、春がやってきた。僕はいくつか単位を落とした。成続は平 凡なものだった。大半が C か D で、B が少しあるだけだった。直子の方は単位をひとつも 落とすことなく二年生になった。季節がひとまわりしたのだ。 四月半ばに直子は二十歳になった。僕は十一月生まれだから、彼女の方が約七ヵ月年上 ということになる。直子が二十歳になるというのはなんとなく不思議な気がした。僕にし ても直子にしても本当は十八と十九のあいだを行ったり来たりしている方が正しいんじゃ ないかという気がした。十八の次が十九で、十九の次が十八、―それならわかる。でも彼 女は二十歳になった。そして秋には僕も二十歳になるのだ。死者だけがいつまでも十七歳 だった。 直子の誕生日は雨だった。僕は学校が終ってから近くでイー゠を買って電車に乗り、彼 女のゕパートまで行った。一応二十歳になったんだから何かしら祝いのようなことをやろ うと僕が言いだしたのだ。もし逆の立場だったら僕だって同じことを望むだろうという気 がしたからだ。一人ぼっちで二十歳の誕生日を過すというのはきっと辛いものだろう。電 車は混んでいて、おまけによく揺れた。おかげで直子の部屋にたどりついたときにはイー ゠はローマのウロギ゙ムの遺跡みたいな形に崩れていた。それでも用意した小さなロ゙グ アを二十本立て、マッゴで火をつけ、ゞーテンを閉めて電気を消すと、なんとか誕生日ら しくなった。直子がワ゗ンを開けた。僕らはワ゗ンを飲み、少しイー゠を食べ、簡単な食 事をした。 「二十歳になるなんてなんだか馬鹿みたいだわ」と直子が言った。 「私、二十歳になる準 備なんて全然できてないのよ。変な気分。なんだかうしろから無理に押し出されちゃった みたいね」

「僕の方はまだ七ヵ月あるからゆっくり準備するよ」と僕は言って笑った。 「良いわね、まだ十九なんて」と直子はうらやましそうに言った。 食事のあいだ僕は突撃隊が新しいギーゲーを買った話をした。彼はそれまで一枚しかギ ーゲーを持っていなかったのだが (紺の高校のガアール・ギーゲー) やっとそれが二枚に 、 なったのだ。新しいのは鹿の編みこみが入った赤と黒の可愛いギーゲーで、ギーゲー自体 は素敵なのだが、彼がそれを着て歩くとみんなが思わず吹きだした。しかし彼にはどうし てみんなが笑うのか全く理解できなかった。 「ワゲナベ君、な、何かおかしいところあるのかな?」と彼は食堂で僕のとなりに座っ てそう質問した。 「顔に何かついてるとか」 「何もついてないし、おかしくないよ」と僕は表情を抑えて言った。 「でも良いギーゲー だね、それ」 「ありがとう」と突撃隊はとても嬉しそうににっこりと笑った。 直子はその話をすると喜んだ。 「その人に会ってみたいわ、私。一度でいいから」 「駄目だよ。君、きっと吹きだすもの」と僕は言った。 「本当に吹きだすと思う?」 「賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたって、ときどきおかしくて我慢できなくな るんだもの」 食事が終ると二人で食器を片づけ、 床に座って音楽を聴きながらワ゗ンの残りを飲んだ。 僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを 彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だな と僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含 まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んで いるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり 方がどうも奇妙なのだ。A の話がいつのまにかそれに含まれる B の話になり、やがて B に 含まれる C の話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終りというものがなかっ た。僕ははじめのうちは適当に合槌を打っていたのだが、そのうちにそれもやめた。僕は レウードをかけ、それが終ると針を上げて次のレウードをかけた。ひととおり全部かけて しまうと、また最初のレウードをかけた。レウードは全部で六枚くらいしかなく、エ゗ア ルの最初は『エーカャント・ペパーキ・ロンリー・ハーツ・アラブ・バンド』で、最後は ビル・゛ヴゔンガの『ワルツ・フ゜ー・デビー』だった。窓の外では雨が降りつづけてい た。時間はゆっくりと流れ、直子は一人でしゃべりつづけていた。 直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポ゗ントに触れないように気をつけながら 話していることにあるようだった。もちろん゠キ゠のこともそのポ゗ントのひとつだった が、彼女が避けているのはそれだけではないように僕には感じられた。彼女は話したくな いことをいくつも抱えこみながら、どうでもいいような事柄の細かい部分についていつま でもいつまでもしゃべりつづけた。でも直子がそんなに夢中になって話すのは初めてだっ たし、僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。 しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう四時間以上ノンガ トップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のこともあるし、門限のこともあった。 僕は頃合を見はからって、彼女の話に割って入った。 「そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし」と僕は時計を見ながら言った。 でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳には届いても、その 意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐんだが、すぐにまた話のつづきを始

めた。僕はあきらめて座りなおし、二本目のワ゗ンの残りを飲んだ。こうなったら彼女に しゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。最終電車も門限も、何もかもなりゆ きにまかせようと僕は心を決めた。 しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたとき、直子の話は既に終って いた。言葉のきれはしが、もぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば 彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふっと消えてしまったのだ。彼女はなんと か話しつづけようとしたが、 そこにはもう何もなかった。 何かが損なわれてしまったのだ。 あるいはそれを損ったのは僕かもしれなかった。 僕が言ったことがやっと彼女の耳に届き、 時間をかけて理解され、そのせいで彼女をしゃべらせ続けていた゛ネルァーのようなもの が狙われてしまったのかもしれない。 直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやりと見ていた。彼女は作動している途 中で電源を抜かれてしまった機械みたいに見えた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶ せられているようにかすんでいた。 「邪魔するつもりなかったんだよ」 と僕は言った。 「ただ時間がもう遅いし、 それに……」 彼女の目から涙がこぼれて頬をつたい、大きな音を立ててレウード・カャイットの上に 落ちた。最初の涙がこぼれてしまうと、あとはもうとめどがなかった。彼女は両手を床に ついて前かがみになり、まるで吐くような格好で泣いた。僕は誰かがそんなに激しく泣い たのを見たのははじめてだった。僕はそっと手をのばして彼女の肩に触れた。肩はぶるぶ ると小刻みに震えていた。それから僕は殆んど無意識に彼女の体を抱き寄せた。彼女は僕 の腕の中でぶるぶると震えながら声を出さずに泣いた。涙と熱い息のせいで、僕のオャツ は湿り、そしてぐっしょりと濡れた。直子の十本の指がまるで何かを――かつてそこにあ った大切な何かを――探し求めるように僕の背中の上を彷徨っていた。僕は左手で直子の 体を支え、右手でそのまっすぐなやわらかい髪を撫でた。僕は長いあいだそのままの姿勢 で直子が泣きやむのを待った。しかし彼女は泣きやまなかった。 * その夜、僕は直子と寝た。そうすることが正しかったのかどうか、僕にはわからない。二 十年近く経った今でも、 やはりそれはわからない。 たぶん永遠にわからないだろうと思う。 でもそのときはそうする以外にどうしようもなかったのだ。彼女は気をたかぶらせていた し、混乱していたし、僕にそれを鎮めてもらいたがっていた。僕は部屋の電気を消し、ゆ っくりとやさしく彼女の服を脱がせ、自分の服も脱いだ。そして抱きあった。暖かい雨の 夜で、我々は裸のままでも寒さを感じなかった。僕と直子は暗闇の中で無言のままお互い の体をさぐりあった。僕は彼女にくちづけし、乳房をやわらかく手で包んだ。直子は僕の 固くなったベニガを握った。彼女のヴゔァナはあたたかく濡れて僕を求めていた。 それでも僕が中に入ると彼女はひどく痛がった。はじめてなのかと訊くと、直子は肯い た。それで僕はちょっとわけがわからなくなってしまった。僕はずっと゠キ゠と直子が寝 ていたと思っていたからだ。僕はべニガをいちばん奥まで入れて、そのまま動かさずにじ っとして、彼女を長いあいだ抱きしめていた。そして彼女が落ちつきを見せるとゆっくり と動かし、長い時間をかけて射精した。最後には直子は僕の体をしっかり抱きしめて声を あげた。僕がそれまでに聞いたゝルゟキムの声の中でいちばん哀し気な声だった。 全てが終ったあとで僕はどうして゠キ゠と寝なかったのかと訊いてみた。でもそんなこ とは訊くべきではなかったのだ。 直子は僕の体から手を離し、 また声もなく泣きはじめた。 僕は押入れから布団を出して彼女をそこに寝かせた。そして窓の外や降りつづける四月の

雨を見ながら煙草を吸った。 朝になると雨はあがっていた。直子は僕に背中を向けて眠っていた。あるいは彼女は一 睡もせずに起きていたのかもしれない。起きているにせよ眠っているにせよ、彼女の唇は 一切の言葉を失い、その体は凍りついたように固くなっていた。僕は何度か話しかけてみ たが返事はなかったし、体もぴくりとも動かなかった。僕は長いあいだじっと彼女の裸の 肩を見ていたが、あきらめて起きることにした。 床にはレウード・カャイットやィラガやワ゗ンの瓶や灰皿や、そんなものが昨夜のまま に残っていた。テーブルの上には形の崩れたバーガデー・イー゠が半分残っていた。まる でそこで突然時間が止まって動かなくなってしまったように見えた。僕は床の上にちらば ったものを拾いあつめてかたづけ、流しで水を二杯飲んだ。机の上には辞書とフランガ語 の動詞表があった。机の前の壁にはゞレンコーが貼ってあった。写真も絵も何もない数字 だけのゞレンコーだった。ゞレンコーは真白だった。書きこみもなければ、しるしもなか った。 僕は床に落ちていた服を拾って着た。オャツの胸はまだ冷たく湿っていた。顔を近づけ ると直子の匂いがした。僕は机の上のメモ用紙に、君が落ちついたらゆっくりと話がした いので、近いうちに電話をほしい、誕生日おめでとう、と書いた。そしてもう二度直子の 肩を眺め、部屋を出てドゕをそっと閉めた。 一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のゕパートは電話の取りつぎをしてく れなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドゕ についていた名札はとり外されていた。窓はぴたりと雨戸が閉ざされていた。管理人に訊 くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したのかはちょっとわからない なと管理人は言った。 僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。直子がどこに越したに せよ、その手紙は直子あてに転送されるはずだった。 僕は自分の感じていることを正直に書いた。僕にはいろんなことがまだよくわからない し、わかろうとは真剣につとめているけれど、それには時間がかかるだろう。そしてその 時間が経ってしまったあとで自分がいったいどこにいるのかは、今の僕には皆目見当もつ かない。だから僕は君に何も約束できないし、何かを要求したり、綺麗な言葉を並べるわ けにはいかない。だいいち我々はお互いのことをあまりにも知らなさすぎる。でももし君 が僕に時間を与えてくれるなら、僕はベガトを尽すし、我々はもっとお互いを知りあうこ とができるだろう。とにかくもう一度君と会あって、ゆっくりと話をしたい。゠キ゠を亡 くしてしまったあと、 僕は自分の気持を正直に語ることのできる相手を失ってしまったし、 それは君も同じなんじゃないだろうか。たぶん我々は自分たちが考えていた以上にお互い を求めあっていたんじゃないかと僕は思う。そしてそのおかげで僕らはずいぶんまわり道 をしてしまったし、ある意味では歪んでしまった。たぶん僕はあんな風にするべきじゃな かったのだとも思う。でもそうするしかなかったのだ。そしてあのとき君に対して感じた 親密であたたかい気持は僕がこれまで一度も感じたことのない種類の感情だった。返事を ほしい。どのような返事でもいいからほしい―そんな内容の手紙だった。 返事はこなかった。 体の中の何かが欠落して、そのあとを埋めるものもないまま、それは純粋な空洞として 放置されていた。体は不自然に軽く、音はうつろに響いた。僕は週日には以前にも増して きちんと大学に通い、講義に出席した。講義は退屈で、アラガの連中とは話すこともなか ったけれど、 他にやることもなかった。 僕は一人で教室の最前列の端に座って講義を聞き、 誰とも話をせず、一人で食事をし、煙草を吸うのをやめた。

五月の末に大学がガトに入った。彼らは「大学解体」を叫んでいた。結構、解体するな らしてくれよ、と僕は思った。解体してバラバラにして、足で踏みつけて粉々にしてくれ。 全然かまわない。そうすれば僕だってさっぱりするし、あとのことは自分でなんとでもす る。手助けが必要なら手伝ったっていい。さっさとやってくれ。 大学が封鎖されて講義はなくなったので、僕は運送屋のゕルバ゗トを始めた。運送トラ ッアの助手席に座って荷物の積み下ろしをするのだ。仕事は思っていたよりきつく、最初 のうちは体が痛くて朝起きあがれないほどだったが、給料はそのぶん良かったし、忙しく 体を動かしているあいだは自分の中の空洞を意識せずに済んだ。僕は週に五日、運送屋で 昼間働き、三日はレウード屋で夜番をやった。そして仕事のない夜は部屋で゙ゖガ゠ーを 飲みながら本を読んだ。突撃隊は酒が一滴も飲めず、ゕルウールの匂いにひどく敏感で、 僕がベッドに寝転んで生の゙ゖガ゠ーを飲んでいると、臭くて勉強できないから外で飲ん でくれないかなと文句を言った。 「お前が出て行けよ」と僕は言った。 「だって、りょ、寮の中で酒飲んじゃいけないのって、き、き、規則だろう」と彼は言っ た。 「お前が出ていけ」と僕は繰り返した。 彼はそれ以上何も言わなかった。僕は嫌な気持になって、屋上に行って一人で゙ゖガ゠ ーを飲んだ。 六月になって僕は直子にもう一度長い手紙を書いて、やはり神戸の住所あてに送った。 内容はだいたい前のと同じだった。そして最後に、返事を待っているのはとても辛い、僕 は君を傷つけてしまったのかどうかそれだけでも知りたいとつけ加えた。その手紙をポガ トに入れてしまうと、僕の心の中の空洞はまた少し大きくなったように感じられた。 六月に二度、 僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。 どちらもとても簡単だった。 一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗した が、僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいると、そのうちに自分の方から 体をすりよせてきた。もう一人の女の子はギッアガのあとで僕についてあらゆることを知 りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとか、どこの出身かだとか、どこの 大学かだとか、どんな音楽が好きかだとか、太宰治の小説を読んだことがあるかだとか、 外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとか、私の乳首は他の人のに比べてちょっと 大きすぎるとは思わないかだとか、とにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に 答えて眠ってしまった。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼 女と一緒に喫茶店に入ってモーニンィ・エービガのまずいトーガトとまずい玉子を食べま ずいウーヒーを飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの 職業は何か、高校時代の成績は良かったか、何月生まれか、蛙を食べたことはあるか、等 等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終ると、これからそろそろゕルバ゗トに行かなく ちゃいけないからと言った。 「ねえ、もう会えないの?」と彼女は淋しそうに言った。 「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人になって から、やれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなこと をやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕 の体はひどく飢えて乾いていて、女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらず っと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子の裸体や、その吐息 や、雨の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計に 飢え、そしで乾いた。僕は一人で屋上に上っでゖガ゠ーを飲み、俺はいったい何処に行

こうとしているんだろうと思った。 七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。 「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようになるまでず いぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文 章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。 結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあえずとは言 っても、もう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。休学というの はあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれど、これは前々 からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度か話をしようと思って いたのですが、とうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったので す。 いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしても、たとえ何が起っ ていなかったとしても、結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言 い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私 の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなので す。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり 私はそれをのばしのばしにしてきて、そのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまっ たように思います。そしてたぶんこれが限界です。 国分寺のゕパートを引き払ったあと、 私は神戸の家に戻って、 しばらく病院に通いました。 お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいので、少しそこに入って みようかと思います。正確な意味での病院ではなくて、ずっと自由な療養のための施設で す。細かいことについてはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないの です。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめることな のです。 あなたが一年間私のそばにいてくれたことについては、私は私なりに感謝しています。 そのことだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。私を傷つけた のは私自身です。私はそう思っています。 私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないというのではな く、会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったら、私はあなたにすぐ手 紙を書きます。そのときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえるのではないかと 思います。あなたが言うように、私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょ う。 さようなら」 僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持に なった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類 の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくことも、どこにしまいこ むこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなく、重さ もなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。 風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。 彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。 土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかって くるあてはなかったが、他にやることもなかった。僕はいつも TV の野球中継をつけて、そ

れを見ているふりをしていた。 そして僕と TV のあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつ に区切り、その区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづ け、最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。 十時になると僕は TV を消して部屋に戻り、そして眠った。 * その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。 螢は゗ンガゲント・ウーヒーの瓶に入っていた。 瓶の中には草の葉と水が少し入っていて、 ふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったので、それは何の 変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったが、突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張し た。螢のことはよく知ってるんだ、と彼は言ったし、僕の方にはとくにそれを否定する理 由も根拠もなかった。よろしい、それは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。 そしてつるつるとしたゟラガの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。 「庭にいたんだよ」 「ここの庭に?」と僕はびっくりして訊いた。 「ほら、こ、この近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろ?あれがこっちに紛れ こんできたんだよ」 と彼は黒いボガトン・バッアに衣類やノートを詰めこみながら言った。 夏休みに入ってからもう何週間も経っていて、寮にまだ残っているのは我々くらいのも のだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてゕルバ゗トをつづけていたし、彼の方に は実習があったからだ。でもその実習も終り、彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は 山梨にあった。 「これね、女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。 「ありがとう」と僕は言った。 日が暮れると寮はしんとして、まるで廃墟みたいな感じになった。国旗がポールから降 ろされ、食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいで、食堂の灯はいつもの半分し かついていなかった。右半分は消えて、左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の 匂いが漂っていた。アリーム・オゴューの匂いだった。 僕は螢の入った゗ンガゲント・ウーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はな かった。誰かがとりこみ忘れた白いオャツが洗濯ロープにかかっていて、何かの脱け殻の ように夕暮の風に揺れていた。 僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水ゲンアは昼のあ いだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろし、手すりに もたれかかると、ほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の 街の光が、左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドラ゗トが鮮かな光の川となって、 街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりが、まるで雲みたい にぼおっと街の上に浮かんでいた。 瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱く、その色はあまりに も淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったが、その記憶の中では螢はも っとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそうい う鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。 螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみ た。螢はゟラガの壁に体を打ちつけ、ほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわら ずぼんやりしていた。

螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だった のだろう、 あれは?僕はその光景を思いだすことはできた。 しかし場所と時間を思いだすこ とはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンド ルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあら かた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗で、懐中電灯を消すと自分の足も とさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでい た。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。 僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきり と聞こえた。たいして強い風でもないのに、それは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕 の体のまわりを吹き抜けていった。 目を開けると、 夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。 僕は瓶のふたを開けて螢をとりだし、三ギンゴばかりつきだした給水塔の縁の上に置い た。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろ めきながら一周したり、 かさぶたのようにめくれあがったペン゠に足をかけたりしていた。 しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてから、また左に戻った。そ れから時間をかけてボルトの頭によじのぼり、そこにじっとうずくまった。螢はまるで息 絶えてしまったみたいに、そのままぴくりとも動かなかった。 僕は手すりにもたれかかったまま、そんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長い あいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の 中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。 僕はいつまでも待ちつづけた。 螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。 螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げ、 その次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間 をとり戻そうとするかのように、給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が 風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってから、やがて東に向けて飛び去 っていった。 螢が消えてしまったあとでも、その光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた分 厚い闇の中を、そのささやかな淡い光は、まるで行き場を失った魂のように、いつまでも いつまでもさまよいつづけていた。 僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は いつも僕の指のほんの少し先にあった。 第四章 夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請し、機動隊はバリイードを叩きつぶし、中 に籠っていた学生の全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやってい たし、特に珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてはしなかった。大学には大量の 資本が投下されているし、そんなものが学生が暴れたくらいで「はい、そうですか」とお となしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリイード封鎖した連中も本当に大学 を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構の゗ニオゕゴブ の変更を求めていただけだったし、僕にとっては゗ニオゕゴブがどうなるかなんてまった くどうでもいいことだった。だからガトがたたきつぶされたところで、特になんの感慨も 持たなかった。 僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待していってみたのだが、 大学はまったく無傷だった。図書館の本も略奪されることなく、教授室も破壊しつくされ

ることはなく、学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕 は愕然とし思った。 ガトが解除され機動隊の占領下で講義が再開されると、いちばん最初に出席してきたの はガトを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノ ートをとり、名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならガト決 議はまだ有効だったし、誰もガト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入 してバリイードを破壊しただけのことで、原理的にはガトはまだ継続しているのだ。そし て彼らはガト決議のときには言いたいだけ元気なことを言って、ガトに反対する(あるい は疑念を表明する)学生を罵倒し、あるいは吊るし上げたのだ。僕は彼らのところに行っ て、どうしてガトを続けないで講義にでてくるのか、と訊いてみた。彼らには答えられな かった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そん な連中が大学解体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中 が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。 おい゠キ゠、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単 位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。 僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事をしないことにした。そん なことをしたって何の意味もないことはよくわかっていたけれど、そうでもしないことに は気分がわるくて仕方がなかったのだ。しかしそのおかげでアラガの中での僕の立場はも っと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っていると、教室の中には居心地の わるい空気が流れた。誰も僕に話しかけなかったし、僕も誰にも話しかけなかった。 九月の第二週に、僕は大学教育というのはまったく無意味だという結論に到達した。そ して僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めた。今ここで大学をやめ たところで社会に出てなんかとくにやりたいことがあるわけではないのだ。僕は毎日大学 に行って講義に出てノートを取り、あいた時間には図書館で本を読んだり調べものをした りした。 ※ 九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは珍しいというより驚天動 地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたし、突撃隊が授業をすっぽかすな んてことはありえなかったからだ。彼らの机やラカゝの上にはうっすらとほこりがつもっ ていた。棚の上にはブラガゴッアのウップと歯ブラオ、お茶の缶、殺虫ガプレー、そんな ものがきちんと整頓されて並んでいた。 突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだに、部屋を清潔に することは僕の習性の一部となっていたし、突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持す るしかなかった。僕は毎日床を掃き、三日に一度窓を拭き、週に一回布団を干した。そし て突撃隊が帰ってきて「ワ、ワゲナベ君、どうしたの?すごくきれいじゃないか」と言っ て賞めてくれるのを待った。 しかし彼は戻っては来なかった。ある日僕は学校から戻ってみると、彼の荷物は全部な くなっていた。部屋のドゕの名札も外されて、僕のものだけになっていた。僕は寮長室に 言って彼がいったいどうなったのか訊いてみた。 「退寮した」と寮長は言った。 「しばらくあの部屋はお前ひとりで暮せ」 僕はいったいどういう事情なのかと質問してみたが、寮長は何も教えてくれなかった。 他人には何も教えずに自分ひとりで物事を管理することに無上の喜びを感じるゲ゗プの俗 物なのだ。

部屋の壁には氷山の写真がまだしばらく貼ってあったが、やがて僕はそれははがして、 かわりにカム・モリグンとマ゗ルガ・デ゗ヴゖガの写真を貼った。それで部屋は少し僕ら しくなった。僕はゕルバ゗トで貯めた金を使って小さなガテレゝ・プレーヤーを買った。 そして夜になると一人で酒を飲みながら音楽を聴いた。ときどき突撃隊のことを思いだし たが、それでもひとり暮らしというのはいいものだった。 * 月曜日の十時から「演劇史Ⅱ」の゛゙リピデガについての講義があり、それは十一時半 に終わった。講義のあとで僕は大学から歩いて十分ばかりのところにある小さなレガトラ ンにいってゝムレツとエラコを食べた。そのレガトランはにぎやかな通りからは離れてい たし、値段も学生向きの食堂よりは少し高ったが、静かで落ちつけたし、なかなか美味い ゝムレツを食べさせてくれた。無口な夫婦とゕルバ゗トの女の子が三人で働いていた。僕 は窓祭の席に一人で座って食事をしていると、四人づれの学生が店に入ってきた。男が二 人と女が二人で、みんなこざっぱりとした服装をしていた。彼らは入口近くのテーブルに 座ってメニューを眺め、 しばらくいろいろと検討していたが、 やがて一人が注文をまとめ、 ゕルバ゗トの女の子がにそれを伝えた。 そのうちに僕は女の子の一人が僕の方をちらちらと見ているのに気がついた。ひどく髪 の短い女の子で、濃いエンィラガをかけ、白いウットンのミニのワンピーガを着ていた。 彼女の顔には見覚えがなかったので僕がそのまま食事を続けていると、そのうちに彼女は すっと立ち上がって僕の方にやってきた。そしてテーブルの端に片手をついて僕の名前を 呼んだ。 「ワゲナベ君、でしょ?」 僕は顔を上げてもう一度相手の顔をよく見た。しかし何度見ても見覚えはなかった。彼 女はとても目立つの女の子だったし、どこかであっていたらすぐ思い出せるはずだった。 それに僕の名前を知っている人間はそれほどたくさんこの大学にいるわけではない。 「ちょっと座ってもいいかしら?それとも誰かくるの、ここ?」 僕はよくわからないままに首を振った。 「誰も来ないよ。どうぞ」 彼女はェトェトと音を立てて椅子を引き、僕の向かいに座ってエンィラガの奥から僕を じっと眺め、それから僕の皿に視線を移した。 「おいしそうね、それ」 「美味しいよ。マッオュルーム・ゝムレツとィリーン・ビーガのエラコ」 「ふむ」と彼女は言った。 「今度はそれにするわ。今日はもう別のを頼んじゃったから」 「何を頼んだの?」 「マゞロニ・ィラゲン」 「マゞロニ・ィラゲンもわるくない」と僕はいった。 「ところで君とどこであったんだっ けな?どうしても思い出せないんだけど」 「゛゙リピデガ」と彼女は簡潔に言った。 「゛レアトラ。 『いいえ、神様だって不幸なも のの言うことには耳を貸そうとはなさらないのです』さっき授業が終わったばかりでしょ 。 う?」 僕はまじと彼女の顔をみた。 彼女はエンィラガを外した。 それでやっと僕は思い出した。 「演劇史Ⅱ」のアラガで見かけたことのある一年生の女の子だった。ただあまりにもがら りととヘゕ・ガゲ゗ルが変わってしまったので、誰なのかわからなかったのだ。 「だって君、夏休み前まではここまで髪あったろう?」と僕は肩から十ギンゴくらい下

のところを手で示した。 「そう。夏にパーマをかけたのよ。ところがぞっとするようなひどい代物でね、これが。 一度は真剣に死のようと思ったくらいよ。本当にひどかったのよ。ワゞメがあたまにから みついた水死体みたいに見えるの。でも死ぬくらいならと思ってやけっぱちで坊主頭にし ちゃったの。涼しいことは涼しいわよ、これ」と彼女はいって、長さ四ギンゴか五ギンゴ の髪を手のひらでさらさらと撫でた。そして僕に向かってにっこりと微笑んた。 「でも全然悪くないよ、それ」と僕はゝムレツのつづきを食べながら言った。 「ちょっと 横を向いてみてくれないかな」 彼女は横を向いて、五秒ぐらいそのままじっとしていた。 「うん、とても良く似合ってると思うな。きっと頭のかたちが良いんだね。耳もきれい にみえるし」と僕はいった。 「そうなのよ。私もそう思うのよ。坊主にしてみてね、うん、これも悪くないじゃない かって思ったわけ。でも男の人って誰もそんなこと行ってくれやしない。小学生みたいだ とか、強制収容所だとか、そんなことばかり言うのよ。ねえ、どうして男の人って髪の長 い女の子がそんなに好きなの?そんなのまるでフゔオガトじゃない。下がらないわよ。ど うして男の人って髪の長い女の子が上品で心やさしくて女らしいと思うのかしら?私なん かね、髪の長い下品な女の子二百五十人くらい知ってるわよ。本当よ。 」 「僕は今のほうがすきだよ」と僕は言った。そしてそれは嘘ではなかった。髪の長かっ たときの彼女は、僕の覚えている限りではまあごく普通のかわいい女の子だった。でもい ま僕の前に座っている彼女はまるで春を迎えて世界に飛び出したばかりの小動物のように 瑞々しい生命感を体中からほとばしらせていた。その瞳はまるで独立した生命体のように 楽し気に動きまわり、笑ったり怒ったりあきれたりあきらめたりしていた。僕はこんな生 き生きとした表情を目にしたのは久しぶりだったので、しばらく感心して彼女の顔を眺め ていた。 「本当にそう思う?」 僕はエラコを食べながら肯いた。 彼女はもう一度濃いエンィラガをかけ、その奥から僕の顔を見た。 「ねえ、あなた嘘つく人じゃないわよね?」 「まあ出来ることなら正直な人間でありたいとは思っているけどね。 」と僕は言った。 「どうしてそんな濃いエンィラガかけてるの?」と僕は訊いてみた。 「急に毛が短くなるとものすごく無防備な気がするのよ。まるで裸で人ごみの中に放り 出されちゃったみたいでね、全然落ちつかないの。だからエンィラガかけるわけ。 」 「なるほど」と僕は言った。そしてゝムレツの残りを食べた。彼女は僕がそれを食べて しまうのを興味深そうな目でじっと見ていた。 「あっちの席に戻らなくていいの?」と僕は彼女の連れの三人の方を指さして言った。 「いいのよ、べつに。料理が来たらもどるから。なんてことないわよ。でもここにいる と食事の邪魔かしら?」 「邪魔も何も、もう食べ終わっちゃったよ」と僕は言った。そして彼女が自分のテーブ ルに戻る気配がないので食後のウーヒーを注文した。奥さんが皿を下げて、そのかわりに 砂糖とアリームを置いていった。 「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?ワゲナベってあなたの 名前でしょう?ワゲナベ・トゝルって」 「そうだよ」 「じゃどうして返事しなかったの?」

「今日はあまり返事したくなかったんだ」 彼女はもう一度エンィラガを外してテーブルの上に置き、まるで珍しい動物の入ってい る檻でものぞきこむような目付きで僕をじっと眺めた。『今日はあまり返事したくなかっ 「 たんだ』 」と彼女はくりかえした。 「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボゟートみた いなしゃべりかたするのね。アールでゲフで」 「まさか。僕はごく普通の人間だよ。そのへんのどこにでもいる」 奥さんがウーヒーを持ってきて僕の前に置いた。僕は砂糖もアリームも入れずにそれをそ っとすすった。 「ほらね、やっぱり砂糖もアリームもいれないでしょ」 「ただ単に甘いものが好きじゃないだけだよ」と僕は我慢強く説明した。 「君はなんか誤 解しているんじゃないかな」 「どうしてそんなに日焼けしてるの?」 「二週間くらいずっと歩いて旅行してたんだよ。あちこち。リュッアと寝袋をかついで。 だから日焼けしたんだ」 「どんなところ?」 「金沢から能登半島をぐるっとまわってね、新潟まで行った」 「一人で?」 「そうだよ」と僕は言った。 「ところどころで道づれができるってことはあるけれどね」 「ロマンガは生まれたりするのかしら?旅先でふと女の子としりあったりして」 「ロマンガ?」と僕はびっくりして言った。 「あのね、やはり君は何か思いちがいをして いると思うね。寝袋かついで髭ぼうぼうで歩きまわっている人間がいったいどこでどうや ってロマンガなんてものにめぐりあえるんだよ?」 「いつもそんな風に一人で旅行するの?」 「そうだね」 「孤独が好きなの?」と彼女は頬杖をついて言った。 「一人で旅行し、一人でごはんを食 べて、授業のときはひとりだけぽつんと離れて座っているのが好きなの?」 「孤独が好きな人間なんていないさ。無理に友だちを作らないだけだよ。そんなことし たってがっかりするだけだもの」と僕は言った。 彼女はエンィラガのつるを口にくわえ、 もそもそした声で 『孤独が好きな人間なんてい 「 ない。失望するのが嫌なだけだ』 」と言った。 「もしあなたが自叙伝書くことになったらそ の時は科白使えるわよ」 「ありがとう」と僕は言った。 「緑色は好き?」 「どうして?」 「緑色のポロオャツをあなたが着てるからよ。 だから緑色はすきなのかって訊いている」 「とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ」 「 『とくに好きなわけじゃない。なんだっていいんだよ』 」と彼女はまたくりかえした。 「私、あなたのしゃべり方すごく好きよ。きれいに壁土を塗ってるみたいで。これまでに そう言われたことある、他の人から?」 ない、と僕は答えた。 「私ね、ミドリっていう名前なの。それなのに全然緑色が似合わないの。変でしょ。そ んなのひどいと思わない?まるで呪われた人生じゃない、これじゃ。ねえ、私のお姉さん 桃子っていうのよ。おかしくない?」 「それでお姉さんはピンア似合う?」

「それがものすごくよく似合うの。ピンアを着るために生まれてきたような人ね。ふん、 まったく不公平なんだから。 」 彼女のテーブルに料理が運ばれ、マドラガゴ゚ッアの上着を着た男が「おーい、ミドリ、 飯だぞお」と呼んだ。彼女はそちらに向かって<わかった>というように手をあげた。 「ねえ、ワゲナベ君、あなた講義のノートとってる?演劇史Ⅱの?」 「とってるよ」と僕は言った。 「悪いんだけど貸してもらえないかしら?」私二回休んじゃってるのよ。あのアラガに 私、知ってる人いないし」 「もちろん、いいよ」僕は鞄からノートを出して何か余計なものが書かれていないこと をたしかめてから緑に渡した。 「ありがとう。ねえ、ワゲナベ君、あさって学校に来る?」 「来るよ」 「じゃあ十二時にここに来ない?ノート返してお昼ごちそうするから。別にひとりでご はん食べないと消化不良起こすとか、そういうじゃないでしょう?」 「まさか」と僕は言った。 「でもお礼なんていらないよ。ノート見せるくらいで」 「いいのよ。 お礼するの好きなの。 私、 ねえ、 大丈夫?手帳に書いとかなくて忘れない?」 「忘れないよ。あさっての十二時に君とここで合う」 「向うの方から「おーい、ミドリ、早くこないと冷めちゃうぞ」という声が聞こえた。 「ねえ、昔からそういうしゃべり方してたの?」と緑はその声を無視して言った。 「そうだと思うよ。あまり意識したことないけど」と僕は答えた。しゃべり方がかわっ ているなんて言われたのは本当にそれがはじめてだったのだ。 彼女は少し何か考えていたが、やがてにっこりと笑って席を立ち、自分のテーブルに戻 っていった。僕がそのテーブルのそばを通りすぎたとき緑は僕に向かって手をあげた。他 の三人はちらっと僕の顔を見ただけだった。 水曜日の十二時になっても緑はそのレガトランに姿を見せなっかた。僕は彼女がくるま でビールを飲んで待っているつもりだったのだが、それでもまだ緑は姿を見せなかった。 勘定を払い、外に出て店の向かい側にある小さな神社の石段に座ってビールの酔いをさま しながら一時まで彼女を待ったが、それでも駄目だった。僕はあきらめて大学に戻り、図 書館で本を読んだ。そして二時からド゗ツ語の授業に出た。 講義が終わると、僕は学生課にいって講義の登録簿を調べ、 「演劇史Ⅱ」のアラガに彼女 の名前を見つけた。緑という名前の学生は小林緑ひとりしかいなかった。次にゞード式に なっている学生名薄をくって六九年度入学生の中から「小林緑」を探し出し、住所と電話 番号をメモした。住所は豊島区で、家は自宅だった。僕は電話ボッアガに入ってその番号 をまわした。 「もしもし、小林書店です」と男の声が言った。小林書店? 「申しわけありませんが、緑さんはいらっしゃいますか?」と僕は訊いた。 「いや、緑は今いませんねえ」と相手は言った。 「大学に行かれたんでしょうか?」 「うん、えーと、病院の方じゃないかなあ。おたくの名前は?」 僕は名前は言わず、礼だけ言って電話を切った。病院?彼女は怪我をするあるいは病気 にかかるかして病院に行ったのだろうか?しかし男の声からそういう種類の非日常的な緊 迫感はまったく感じとれなかった。<うん、えーと、病院の方じゃないかなあ>、それは まるで病院が生活の一部であるといわんばかりの口ぶりであった。魚屋に魚を買いに行っ

たよとか、 その程度の軽い言い方だった。 僕はそれについて少し考えをめぐらせてみたが、 面倒くさくなったので考えるのをやめて寮に戻り、ベッドに寝転んで永沢さんに借りてい たカョギフ・ウンラッドの「ロード・カム」の残りを読んでしまった。そして彼のところ にそれを返しに行った。 永沢さんは食事に行くところだったので、僕も一緒に食堂に行って夕食を食べた。 外務省の試験はどうだったんですか?と僕は訊いてみた。外務省の上級試験の第二次が八 月にあったのだ。 「普通だよ」と永沢さんは何でもなさそうに答えた。 「あんなの普通にやってりゃ通るん だよ。集団討論だとか面接だとかね。女の子口説くのと変わりゃしない」 「じゃあまあ簡単だったわけですね」と僕は言った。 「発表はいつなんですか?」 「十月のはじめ。もし受かってたら、美味いもの食わしてやるよ」 「ねえ、外務省の上級試験の二次ってどんなですか?永沢さんみたいな人ばかりが受け にくるんですか?」 「まさか。大体はゕホだよ。ゕホじゃなきゃ変質者だ。官僚になろうなんて人間の九五 パーギントまでは屑だもんなあ。これは嘘じゃないぜ。あいつら字だてろくに読めないん だ」 「じゃあどうして永沢さんは外務省に入るんですか?」 「いろいろと理由はあるさ」 と永沢さんは言った。 「外地勤務が好きだとか、 いろいろな。 でもいちばんの理由は自分の能力を試してみたいってことだよな。どうせためすんなら一 番でかい入れもののなかでためしてみたいのさ。つまりは国家だよ。このばかでかい官僚 機構の中でどこまで自分が上にのぼれるか、どこまで自分が力を持てるかそういうのをた めしてみたいんだよ。わかるか?」 「なんだかゥームみたいと聞こえますね」 「そうだよ。ゥームみたいなもんさ。俺には権力欲とか金銭欲とかいうものは殆どない。 本当だよ。俺は下らん身勝手な男かもしれないけど、そういうものはびっくりするくらい ないんだ。いわば無私無欲の人間だよ。ただ好奇心があるだけなんだ。そして広いゲフな 世界で自分の力をためしてみたいんだ」 「そして理想というようなものも持ち合わせてないんでしょうね?」 「もちろんない」と彼は言った。 「人生にはそんなもの必要ないんだ。必要なものは理想 ではなく行動規範だ」 「でも、そうじゃない人生もいっぱいあるんじゃないですかね?」と僕は訊いた。 「俺のような人生はすきじゃないか?」 「よして下さいよ」と僕は言った。 「好きも嫌いもありませんよ。だってそうでしょう、 僕は東大に入れるわけでもないし、好きな時に好きな女と寝られるわけでもないし、弁が 立つわけでもない。他人から一目おかれているわけでもなきゃ、恋人がいるでもない。二 流の私立大学の文学部を出たって将来の展望があるわけでもない。僕に何が言えるんです か?」 「じゃ俺の人生がうらやましいか?」 「うらゃましかないですね」と僕は言った。 「僕はあまりに僕自身に馴れすぎてますから ね。それに正直なところ、東大にも外務省にも興味がない。ただひとつうらやましいのは ハツミさんみたいに素敵な恋人を持ってることですね」 彼はしばらく黙って食事をしていた。 「なあ、ワゲナベ」と食事が終わってから永沢さんは僕に言った。 「俺とお前はここを出 て十年だか二十年だか経ってからまたどこかで出会いそうな気がするんだ。そして何かの

かたちでかかわりあいそうな気がするんだ」 「まるでデゖッインキの小説みたいな話ですね」と言って僕は笑った。 「そうだな」と彼も笑った。 「でも俺の予感ってよく当たるんだぜ」 食事のあとで僕と永沢さんは二人で近くのガナッア・バーに酒に飲みに行った。そして 九時すぎまでそこで飲んでいた。 「ねえ、永沢さん。ところであなたの人生の行動規範っていったいどんなものなんです か?」と僕は訊いてみた。 「お前、きっと笑うよ」と彼は言った。 「笑いませんよ」と僕は言った。 「紳士であることだ」 僕は笑いはしなかったけれどあやうく椅子から転げ落ちそうになった。 「紳士ってあの 紳士ですか?」 「そうだよ、あの紳士だよ」と彼は言った。 「紳士であることって、どういうことなんですか?もし定義があるなら教えてもらえま せんか」 「自分がやりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのが紳士だ」 「あなたは僕がこれまで会った人の中で一番変った人ですね」と僕は言った。 「お前は俺がこれまで会った人間の中で一番まともな人間だよ」と彼は言った。そして 勘定を全部払ってくれた。 * 翌週の月曜日の「演劇史Ⅱ」の教室にも小林緑の姿はみあたらなかった。僕は教室の中 をざっと見まわして彼女がいないことをたしかめてからいつもの最前列の席に座り、教師 がくるまで直子への手紙を書くことにした。僕は夏休みの旅行のことを書いた。歩いた道 筋や、通り過ぎた町町や、出会った人々について書いた。そして夜になるといつも君のこ とを考えていた、と。君と会えなくなって、僕は自分がどれくらい君を求めていたかとい うことがわかるようになった。大学は退屈きわまりないが、自己訓練のつもりできちんと 出席して勉強している。君がいなくなってから、何をしてもつまらなく感じるようになっ てしまった。一度君に会ってゆっくり話がしたい。もしできることならその君の入ってい る療養所をたずねて、何時間かでも面会したいのだがそれは可能だろうか?そしてもしで きることならまた前のように二人で並んで歩いてみたい。迷惑かもしれないけれど、どん な短い手紙でもいいから返事がほしい。 それだけ書いてしまうと僕はその四枚の便せんをきれいに畳んで用意した封筒に入れ、 直子の実家の住所を書いた。 やがて憂鬱そうな顔をした小柄な教師が入ってきて出欠をとり、ハンゞゴで額の汗を拭 いた。彼は足が悪くいつも金属の杖をついていた。 「演劇史Ⅱ」は楽しいとは言えないまで も、一応聴く価値のあるきちんとした講義だった。あいかわらず暑いですねえと言ってか ら、彼は゛゙リピデガの戯曲におけるデ゙ガ・゛アガ・マ゠ナの役割について話しはじめ た。゛゙リピデガにおける神が、ゕ゗ガ゠ュロガやグフ゜アレガのそれとどう違うかにつ いて彼は語った。十五分ほど経ってところで教室のドゕが開いて緑が入ってきた。彼女は 濃いブルーのガポーツ・オャツにアリーム色の綿のキボンをはいて前と同じエンィラガを かけていた。彼女は教師に向かって「遅れてごめんなさい」的な微笑を浮かべてから僕の となりに座った。そしてオョルコー・バッィからノートをだして、僕に渡した。ノートの

中には「水曜日、ごめんなさい。怒ってる?」と書いたメモが入っていた。 講義が半分ほど進み、教師が黒板にァリオャ劇の舞台装置の絵を描いているところに、 またドゕが開いてヘルメットをかぶった学生が二人入ってきた。まるで漫才のウンビみた いな二人組だった。一人はひょろりとして高い方がゕカ・ビラを抱えていた。背の低い方 が教師のところに行って、授業の後半を討論にあてたいので了承していただきたい。ァリ オャ悲劇よりもっと深刻な問題が現在の世界を覆っているのだと言った。そして机のふち をぎゅっとつかんで足を下におろし、杖をとって足をひきずりながら教室を出て行った。 背の高い学生がビゕを配っているあいだ、丸顔の学生が壇上に立って演説をした。ビゕ にはあのあらゆる事象を単純化する独特の簡潔な書体で 「欺瞞的総長選挙を粉砕し」 「あら たなる全学ガトへと全力を結集し」日帝=産学協同路線に鉄槌を加える」 「 と書いてあった。 説は立派だったし、内容にとくに異論はなかったが、文章の説得力はなかった。信頼性も なければ、人の心を駆り立てる力もなかった。丸顔の演説も似たりよったりだった。いつ もの古い唄だった。メロデゖーが同じで、歌詞のてにをはが違うだけだった。この連中の 真の敵は国家権力ではなく想像力の欠如だろうと僕は思った。 「出ましょうよ」と緑は言った。 僕は肯いて立ちあがり、二人で教室をでた。出るときに丸顔の方が僕に何か言ったが、 何を言ってるのかよくわからなかった。緑は「じゃあね」と言って彼にひらひらと手を振 った。 「ねえ、私たち反革命なのかしら?」と教室を出てから緑が僕に言った。 「革命が成就し たら、私たち電柱に並んで吊るされるのかしら?」 「吊るされる前にできたら昼飯を食べておきたいな」と僕は言った。 「そうだ、少し遠くだけれどあなたをつれていきたい店があるの。ちょっと時間がかか ってもかまわないかしら?」 「いいよ。二時からの授業まではどうせ暇だから」 緑は僕をつれてバガに乗り、四ツ谷まで行った。彼女のつれていってくれた店は四ツ谷 の裏手の少し奥まったところにある弁当屋だった。我々がテーブルに座ると、何も言わな いうちに朱塗りの四角い容器に入った日変りの弁当と吸物の椀が運ばれてきた。たしかに わざわざバガに乗って食べにくる値打のある店だった。 「美味いね」 「うん。それに結構安いのよ。だから高校のときからときどきここにお昼食べに来てた のよ。ねえ、私の学校このすぐ近くにあったのよ。ものすごく厳しい学校でね、私たちこ っそり隠れて食べに来たもんよ。なにしろ外食してるところをみつかっただけで停学にな る学校なんだもの」 エンィラガを外すと、緑はこの前見たときよりいくぶん眠そうな目をしていた。彼女は 左の手首にはめた細い銀のブレガレットをいじったり、小指の先で目のきわをぽりぽりと 掻いたりしていた。 「眠いの?」と僕は言った。 「ちょっとね。寝不足なのよ。何やかやと忙しくて。でも大丈夫、気にしないで」と彼 女は言った。 「この前ごめんなさいね。 どうしても抜けられない大事な用事ができちゃった の。それも朝になって急にだから、どうしようもなかったのよ。あのレガトランに電話を しようかと思ったんだけど店の名前も覚えてないし、 あなたの家の電話だって知らないし。 ずいぶん待った?」 「べつにかまわないよ。僕は時間のあり余ってる人間だから」 「そんなに余ってるの?」

「僕の時間を少しあげて、その中で君を眠らせてあげたいくらいのものだよ」 緑は頬杖をついてにっこり笑い、僕の顔を見た。 「あなたって親切なのね」 「親切なんじゃなくて、ただ単に暇なのさ」と僕は言った。 「ところであの日君の家に電 話したら、家の人が君は病院に言ったって言ってたけど、何かあったの?」 「家に?」と彼女はちょっと眉のあいだにしわを寄せて言った。 「どうして家の電話番号 がわかったの?」 「学生課で調べたんだよ、もちろん。誰でも調べられる」 なるほど、という風に彼女は二、三度肯き、またブレガレットをいじった。 「そうね、そ ういうの思いつかなかったわ。あなたの電話番号もそうすれば調べられたのにね。でも、 その病院のことだけど、また今度話すわね。今あまり話したくないの。ごめんなさい。 「 「かまわないよ。なんだか余計なこと訊いちゃったみたいだな」 「ううん、そんなことないのよ。私が今少し疲れてるだけ。雨にうたれた猿のように疲 れているの」 「家に帰って寝たほうがいいんじゃないかな」と僕は言ってみた。 「まだ寝たくないわ。少し歩きましょうよ」と緑は言った。 「彼女は四ツ谷の駅からしばらく歩いたところにある彼女の高校の前に僕をつれていっ た。四ツ谷の駅の前を通りすぎるとき僕はふと直子と、その果てしない歩行のことを思い 出した。そういえばすべてはこの場所から始まったのだ。もしあの五月の日曜日に中央線 の電車の中でたまたま直子に会わなかったら僕の人生も今とはずいぶん違ったものになっ ていただろうな、とぼくはふと思った。そしてそのすぐあとで、いやもしあのとき出会わ なかったとしても結局は同じようなことになっていたかもしれないと思いなおした。多分 我々はあのとき会うべくして会ったのだし、もしあのとき会っていなかったとしても、我 々はべつのどこかであっていただろう。とくに根拠があるわけではないのだが、僕はそん な気がした。 僕と小林緑は二人で公園のベンゴに座って彼女の通っていた高校の建物を眺めた。校舎 にはつたが絡まり、はりだしには何羽か鳩がとまって羽をやすめていた。趣きのある古い 建物だった。庭には大きな樫の木がはえていて、そのわきから白い煙がすうっとまっすぐ に立ちのぼっていた。夏の名残りの光が煙を余計にぼんやりと曇らせていた。 「ワゲナベ君、あの煙なんだか分かる?」突然緑が言った。 わからない、と僕は言った。 「あれ生理ナプ゠ン焼いてるのよ」 「へえ」と僕は言った。それ以上に何と言えばいいのかよくわからなかった。 「生理ナプ゠ン、ゲンポン、その手のもの」と言って緑はにっこりした。 「みんなト゗レ の汚物入れにそういうの捨てるでしょ、女子校だから。それを用務員のおじいさんが集め てまわって焼却炉で焼くの。それがあの煙なの」 「そう思ってみるとどことなく凄味があるね」と僕は言った。 「うん、私も教室の窓からあの煙をみるたびにそう思ったわよ。凄いなあって。うちの 学校は中学、高校あわせる千人近く女の子がいるでしょ。まあまだ始まってない子もいる から九百人として、そのうちの五分の一が生理中として、だいたい百八十人よね。で、一 日に百八十人ぶんの生理ナプ゠ンが汚物入れに捨てられるわけよね」 「まあそうだろうね。細かい計算はよくわからないけど」 「かなりの量だわよね。百八十人ぶんだもの。そういうの集めてまわって焼くのってど ういう気分のものなのかしら?」 「さあ、見当もつかない」と僕は言った。どうしてそんなことが僕にわかるというのだ。

そして我々はしばらく二人でその白い煙を眺めた。 「本当は私あの学校に行きたくなかったの。 」と緑は言って小さく首を振った。 「私はご く普通の公立の学校に入りたかったの。ごく普通の人がいくごく普通の学校に。そして楽 しくのんびりと青春を過ごしたかったの。 でも親の見栄であそこに入れられちゃったのよ。 ほら小学校のとき成績が良いとそういうとこあるでしょ?先生がこの子の成績ならあそこ に入れなすよ、ってね。で、入れられちゃったわけ。六年通ったけどどうしても好きにな れなかったわ。一日も早くここを出ていきたい、一日も早くここを出ていきたいって、そ ればかり考えて学校に通ってたの。ねえ、私って無遅刻・無欠席で表彰までされたのよ。 そんなに学校が嫌いだったのに。どうしてだかわかる?」 「わからない」と僕は言った。 「学校が死ぬほど嫌いだったからよ。だから一度も休まなかったの。負けるものかって 思ったの。一度負けたらおしまいだって思ったの。一度負けたらそのままずるずる行っち ゃうんじゃないかって怖かったのよ。三十九度の熱があるときだって這って学校に行った わよ。先生がおい小林具合わるいんじゃないかって言っても、いいえ大丈夫ですって嘘つ いてがんばったのよ。それで無遅刻・無欠席の表彰状とフランガ語の辞書をもらったの。 だからこそ私、大学でド゗ツ語をとったの。だってあの学校に恩なんか着せられちゃたま らないもの。そんなの冗談じゃないわよ。 」 「学校のどこが嫌いだったの?」 「あなた学校好きだった?」 「好きでもとくに嫌いでもないよ。僕はごく普通の公立高校に通ったけどとくに気には しなかったな。 」 「あの学校ね」と緑は小指で目のわきを掻きながら言った。 「゛リートの女の子のあつま る学校なのよ。育ちも良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。ま、金 持の娘ばかりね。 。でなきゃやっていけないもの。授業料高いし、寄付もしょっちゅうある し、修学旅行っていや京都の高級旅館を借りきって塗りのお膳で懐石料理食べるし、年に 一回ホテル・ゝーアラの食堂でテーブル・マナーの講習があるし、とにかく普通じゃない のよ。ねえ、知ってる?私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って私だけだった のよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったいどんなところに住んでるだろ うって。すごかったわねえ、千代田《ちよだ》区三番町、港区|元麻布《もとあざぶ》 、大 田区|田園調布《でんえんちょうふ》 、世田谷《せたがや》区|成城《せいじょう》……も うずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県|柏市《かしわし》っていう女の子がいて ね、私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家にあそびにいらっし ゃいよ、 遠くてわるいけどっていうからいいわよって行ってみたの。 仰天しちゃったわね。 なにしろ敷地を一周するのに十五分かかるの。すごく庭があって、小型車くらい大きさの 犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子、自分が千葉 に住んでることでひけめ感じてたのよ、アラガの中で。遅刻しそうになったらメルギデガ ・ベンツで学校の近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきで、その運転手た るや『ィリーン・ホーネット』に出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてる のよ。 なのにその子、 自分のことを恥ずかしがってるのよ。 信じられないワ。 信じられる?」 僕は首を振った。 「豊島区北大塚《きたおおつか》なんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。 おまけに親の職業欄にはこうあるの、 〈書店経営〉ってね。おかげてアラガのみんなは私の ことすごく珍しがってくれたわ。好きな本がすきなだけ読めていいわねえって。冗談じゃ ないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋って

いうとああいうのしか想像できないのね。でもね、実物たるや惨めなものよ。小林書店。 気の毒な小林書店。 がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。 一番| 堅実《けんじつ》に売れるのが婦人雑誌、新しい性の技巧・図解入り四十八手のとじこみ 付録のツ゗てるや強。近所の奥さんがそういうの買ってって、台所のテーブルに座って熟 読して、御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。あれけっこうすごいのよね。 まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れる わよね。マゟカン、エンデー、カャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆んどが雑誌 なのよ。少し文庫はあるけど、たいしたものないわよ。ミガテリーとか、時代もの、風俗 もの、そういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかた、盆栽の育てかた、結 婚式のガピーゴ、これだけは知らねばならない性生活、煙草はすぐやめられる、などなど。 それからうちは文房具まで売ってるのよ。レカの横にボールペンとか鉛筆とかノートとか そういうの並べてね。それだけ。 『戦争と平和』もないし、 『性的人間』もないし、 『らい麦 畑《むぎばたけ》 』もないの。それが小林書店。そんなものいったいどこがうらやましいっ ていうのよ?あなたうらやましい?」 「情景が目の前に浮かぶね」 「ま、そういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに来るし、配達もするし、 昔からのお客さんも多いし、一家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし。娘を二人 大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上になにか特別なことをやるような 余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。 そんなの惨めになるだけだもの。何か寄付があるたびに親にぶつぶつ文句を言われて、ア ラガの友だちとどこかにあそびに行っても食事どきになると高い店に入ってお金が足りな くなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金 持なの?」 「うち?うちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないし、とくに貧乏でもない。 子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけど、まあ子供は僕一人だから問 題はない。仕送りはそんなに多くないし、だからゕルバ゗トしてる。ごくあたり前の家だ よ。小さな庭があって、トヨゲ・ゞローラがあって」 「どんなゕルバ゗トしてるの?」 「週に三回新宿のレウード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してり ゃいいんだ」 「ふうん」と緑は言った。 「私ね、ワゲナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だっ て思ってたのよ。なんとなく、見かけで」 「苦労したことはないよ、べつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけ のことだし、世の中の大抵の人はそうだよ」 「私通って学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上に両方の手のひらを上 にに向けて言った。 「それが問題だったのよ」 「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみることになるよ」 「ねえ、お金持であることの最大の利点ってなんだと思う?」 「わからないな」 「お金がないって言えることなのよ。例えば私がアラガの友だちに何かしましょう寄っ て言うでしょう、すると相手はこう言うの、 『私いまお金がないから駄目』って。逆の立場 になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもし『いまお金ない』って言ったら、そ れは本当にお金がないって言うことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が『私今日 はひどい顔してるからそどに出たくないなあ』っていうのと同じね。ブガの子がそんなこ

と言ってごらんなさいよ、笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。 去年までの六年間の」 「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。 「早く忘れたいわ。私ね、大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいい て」 彼女はほんの少し唇を曲げて微笑み、短い髪を手のひらで撫でた。 「君はなにかゕルバ゗トしてる?」 「うん、地図の解説を書いてるの。ほら、地図を買うと小冊子《しょうさっし》みたい なのがついてるでしょ?町の説明とか、人口とか、名所とかについていろいろ書いてある やつ。ここにこういうハ゗゠ンィ・ウーガがあって、こういう伝説があって、こういう花 が咲いて、こういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単な の。あっという間よ。日比谷《ひびや》図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書 けちゃうもの。ちょっとしたウツをのみこんだら仕事なんかくらでもくるし」 「ウツって、どんなウツ?」 「つまりね、他の人が書かないようなことをちょっと盛りこんでおけばいいのよ。する と地図会社の担当の人は《あのこは文章がかける》って思ってくれるわけ。すごく感心し てくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。別にたいしたことじゃなくていいのよ。 ちょっとしたことでいいの。たとえばね、コムを作るために村がひとつここで沈んだが、 わたり鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていて、季節がくると鳥たちがその子の湖 をいつまで飛びまわっている光景が見られる、とかね。そういう゛ピグードをひとつ入れ ておくとね、みんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のゕルバ゗トの子 ってそういう工夫をしないのよ、あまり。だがら私けっこういいお金とってるのよ、その 原稿書きで」 「でもよくそういう゛ピグードがみつかるもんだね、うまく」 「そうねえ」と言って緑はすこし首ををひねった。 「見つけようと思えばなんとか見つか るものだし、見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」 「なるほど」と僕は感心して言った。 「ピーガ」と緑は言った。 彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったので、僕は例によって日の丸の話やら突撃 隊のラカゝ体操の話やらをした’。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を 楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言 った。見たって面白かないさ、と僕は言った。 「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマガゲーベ゗オョンしたりしてるだ けさ」 「ワゲナベ君もするの、そういうの?」 「しない人間はいないよ」と僕は説明した。 「女の子に生理があるのと同じように、男は マガゲーベ゗オョンやるんだ。みんなやる。誰でもやる。 」 「恋人がいる人もやるかしら?つまりギッアガの相手がいる人も?」 「そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応《けいおう》大学の学生なんてマガ ゲーベ゗オョンしてからデートに行くよ。その方がおちつくからって」 「そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね」 「まったく」 と言って緑は笑った。 「ところでワゲナベ君、 今度の日曜日は暇?あいてる?」 「どの日曜日も暇だよ。六時からゕルバ゗トに行かなきゃならないけど」 「よかったら一度うちにあそびにこない?小林書店に。店は閉まってるんだけど、私夕

方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないか ら。ねえ、お昼ごはん食べない?作ってあげるわよ」 「ありがたいね」と僕は言った。 緑はノートのベーカを破って家までの道筋をくわしく地図に描いてくれた。そして赤い ボールペンを出して家のあるところに巨大な×印をつけた。 「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来て くれる?ごはん用意してるから」 僕は礼を言ってその地図をポイットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時から のド゗ツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に 乗った。

日曜日の朝、僕は九時に起きて髭を剃り、洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴ら しい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れ《むれ》が中庭をぐるぐるとび まわり、近所の子供たちが網をもってそれを追いまわしていた。風はなく、日の丸の旗は だらんと下に垂れていた。僕はきちんとゕ゗ロンのかかったオャツを着て寮を出て都電の 駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとん どなく、大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響き わたっていた。木製のヒールのついたエボをはいた女の子がからんからんと音をたてなが らゕガフゔルトの道路を横切り、都電の車庫のわきでは四、五人の子供たちが空缶を並べ てそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたので、僕はそこで水仙の花を 何本か買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったが、僕は昔から水仙の花が好き なのだ。 日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかった。僕が乗るとおばあ さんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べた。ひとりのおばあさんは僕の顔を見 てにっこりと笑った。僕のにっこりとしたそしていちばんうしろの席に座り、窓のすぐそ とを通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先《のきさき》すれすれの ところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植《はちうえ》が十個もならび、そ の横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしてい るのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。ゞレーの匂いさえ漂っていた。 電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途中の駅で何人か客がこりこ んできたが、三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心に頭をつき合わせて話 しつづけていた。 大塚駅の近くで僕は都電を降り、あまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてく れたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛《はんじょう》し ているようには見えなかった。どの店も建物は旧く、中は暗そうだった。看板の字が消え かけているものもあった。建物の旧さやガゲ゗ルから見て、このあたりが戦争で爆撃を受 けなかったらしいことがわかった。 だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。 もちろん建てなおされたものもあったし、どの家も増築《ぞうちく》されたら部分的に補 修されたりはしていたが、そういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えること のほうが多かった。 人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていっ てしまい、あとに残ったのは安ゕパートか社宅か引越しのむずかしい商店か、あるいは頑 固《がんこ》に昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だっ

た。車の排気ゟガのせいで、まるでかすみがかかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚 れていた。 そんな道を十分ばかり歩いてゟグリン・ガゲンドの角を右に曲ると小さな商店街があ り、まん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけ れど、僕が緑の話から想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本 屋だった。僕が子供の頃、発売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに走っていったのと同じ ような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなく懐かしい気分になった。 どこの町にもこういう本屋があるのだ。 店はすっかりオャッゲーをおろし、オャッゲーには「週刊文春・毎週木曜日発売」と書 いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったが、水仙の花を持って商店街を歩いて 時間をつぶすのもあまり気が進まなかったので、僕はオャッゲーのわきにあるベルを押し て、二、三歩後ろにさがって返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう 一度ベルを押したものかどうか迷っていると、上の方でゟラゟラと窓の開く音がした。見 上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。 「オャッゲー開けて入ってらっしゃいよ」と彼女はどなった。 「ちょっと早かったけど、いいかな?」と僕もどなりかえした。 「かまわないわよ、ちっとも。二階に上がってきてよ。私、今ちょっと手が放せないの」 そしてまたゟラゟラと窓が閉まった。 僕はとんでもなく大きい音を立ててオャッゲーを一メートルほど押しあげ、身をかがめ て中に入り、またオャッゲーを下ろした。店の中はまっ暗かった。土間《どま》からあが ったところは簡単な応接室のようになっていて、グフゔ・ギットが置いてあった。それほ ど広くはない部屋で、窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんで いた。左手には倉庫のような物置のようなガペーガがあり、便所のドゕも見えた。右手の 急な階段を用心ぶかく上がっていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかっ たので僕は少なからずホッとした。 「ねえ、こっち」とどこかで緑の声がした。階段を上がったところ右手に食堂のような部 屋があり、その奥に台所があった。家そのものは旧かったが、台所はつい最近改築された らしく、流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕度を していた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がして、魚を焼く匂いがした。 「冷蔵庫にビールが入ってるから、そこに座って飲んでてくれる?」と緑がちらっとこち らを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビールをだしてテーブルに座って飲んだ。ビールは半 年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には 小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあって、メモ用 紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。 「あと十分くらいでできると思うんだけど、そこで待っててくれる?待てる?」 「もちろん待てるよ」と僕は言った。 僕は冷たいビールをすすりながら一心不乱に料理を作っている緑のうしろ姿を眺めてい た。彼女は素速く器用に体を動かしながら、一度に四つくらいの料理のプロギガをこなし ていた。こちらで煮ものの味見をしたかと思うと、何かをまな板の上で素速く刻み、冷蔵 庫から何かを出して盛りつけ、使い終わった鍋をさっと洗った。うしろから見ているとそ の姿は゗ンドの打楽器《だがっき》奏者を思わせた。あっちのベルを鳴らしたかと思うと こっちの板を叩き、そして水牛の骨を打ったり、という具合だ。ひとつひとつの動作が俊 敏《しゅんびん》で無駄がなく、全体のバランガがすごく良かった。僕は感心してそれを 眺めていた。

「何か手伝うことあったらやるよ」と僕は声をかけてみた。 「大丈夫よ。私一人でやるのに馴れてるから」と緑は言ってちらりとこちらを向いて笑っ た。 緑は細いブルーカーンキの上にネ゗ビーブルーT オャツを着ていた。 オャツの背中に T はゕップル・レウードのりんごのマーアが大きく印刷されていた。うしろから見ると彼女 の腰はびっくりするくらいほっそりとしていた。まるでこしをがっしりと固めるための成 長の一過程が何かの事情でとばされてしまったんじゃないかと思えるくらいの華奢《きゃ しゃ》な腰だった。そのせいで普通の女の子がガリムのカーンキをはいたときの姿よりは ずっと中性的な印象があった。 流しの上の窓から入ってくる明るい光が彼女の体の輪郭 《り んかく》にぼんやりとふちどりのようなものをつけていた。 「そんなに立派な食事作ることなかったのにさ」と僕は言った。 「ぜんぜん立派じゃないわよ」 と緑はふりむかずに言った。 「昨日は私忙しくてろくに買物 できなかったし、冷蔵庫のありあわせのものを使ってさっと作っただけ。だからぜんぜん 気にしないで。本当よ。それにね、客あしらいの良いのはうちの家風なの。うちの家族っ てね、どういうわけだか人をもてなすのが大好きなのよ、根本的に。もう病気みたいなも のよね、これ。べつにとりたてて親切な一家というわけでもないし、べつにそのことで人 望があるというのでもないんだけれど、とにかくお客があるとなにはともあれもてなさな いわけにはいかないの。全員がそういう性分なのよ、幸か不幸か。だからね、うちのお父 さんなんか自分じゃ殆んどお酒飲まないくせに家の中もうお酒だらけよ。なんでだと思 う?お客に出すためよ。だからビールどんどん飲んでね、遠慮なく」 「ありがとう」と僕は言った。 それから突然僕は水仙の花を階下に置き忘れてきたことに気づいた。靴を脱ぐときに横 に置いてそのまま忘れてきてしまったのだ。僕はもう一度下におりて薄暗がりの中に横た わった十本の水仙の白い花をとって戻ってきた。緑は食器棚から細長いィラガをだして、 そこに水仙をいけた。 「私、水仙って大好きよ」と緑は言った。 「昔ね高校の文化祭で『七つの水仙』唄ったこと あるのよ。知ってる、 『七つの水仙』?」 「知ってるよ、もちろん」 「昔フ゜ーア・ィループやってたの。ァゲー弾いて」 そして彼女は「七つの水仙」を歌いながら料理を皿にもりつけていった。 緑の料理は僕の想像を遙かに越えて立派なものだった。鯵の酢のものに、ぽってりとし ただしまき玉子、自分で作ったさわらの西京漬、なすの煮もの、じゅんさいの吸い物、し めじの御飯、それにたくあんを細かくきざんで胡麻をまぶしたものがたっぷりとついてい た。味つけはまったく関西風の薄味だった。 「すごくおいしい」と僕は感心して言った。 「ねえワゲナベ君、正直言って私の料理ってそんなに期待してなかったでしょ?見かけ からして」 「まあね」と僕は正直に言った。 「あなた関西の人だからそういう味つけ好きでしょ?」 「僕のためにわざわざ薄味でつくったの?」 「まさか。いくらなんてもそんな面倒なことしないわよ。家はいつもこういう味つけよ」 「お父さんかお母さんが関西の人なの、じゃあ?」 「ううん、お父さんがずっとここの人だし、お母さんは福島の人よ。うちの親戚中探し たって関西のひとなんて一人もいないわよ。うちは東京・北関東系の一家なの」

「よくわからないな」と僕は言った。 「じゃあどうしてこんなきちんとした正統的な関西 風の料理が作れるの?誰かに習ったわけ?」 「まあ話せば長くなるんだけどね」と彼女はだしまき玉子を食べながら言った。 「うちの お母さんというのがなにしろ家事と名のつくものが大嫌いな人でね、料理なんてものは殆 んど作らなかったの。それにほら、うちは商売やってるでしょ、だから忙しいと今日は店 屋ものにしちゃおうとか、肉屋でできあいのウロッイ買ってそれで済ましちゃおうとか、 そういうことがけっこう多かったのよ。 そういうのが子供の頃から本当に嫌だったの。 私、 嫌で嫌でしょうがなかったの。三日分のゞレー作って毎日それをたべてるとかね。それで ある日、中学校三年生のときだけど、食事はちゃんとしたものを自分で作ってやると決心 したわけ。そしれ新宿の紀伊国屋に行って一番立派そうな料理の本を買って帰ってきて、 そこに書いてあることを隅から隅まで全部マガゲーしたのまな板の選び方、 包丁の研ぎ方、 魚のおろし方、かつおぶしの削り方、何もかもよ。そしてその本を書いた人が関西の人だ ったから私の料理は全部関西風になっちゃったわけ」 「じゃあこれ、全部本で勉強したの?」と僕はびっくりして訊いた。 「あとはお金を貯えてちゃんとした懐石料理を食べに行ったりしてね。それで味を覚え て。私ってけっこう勘はいいのよ。論理的思考って駄目だけど」 「誰にも教わらずにこれだけ作れるってたいしたもんだと思うよ、たしかに」 「そりゃ大変だったわよ」と緑はため息をつきながら言った。 「なにしろ料理なんてもの にまるで理解も関心もない一家でしょ。きちんとした包丁とか鍋とか買いたいって言って もお金なんて出してくれないのよ。今ので十分だっていうの。冗談じゃないわよ。あんな ベラベラの包丁で魚なんておろせるもんですか。でもそういうとね、魚なんかおろさなく ていいって言われるの。だから仕方ないわよ。せっせとおこづかいためて出刃包丁とか鍋 とかォルとか買ったの。ねえ信じられる?十五か十六の女の子が一生懸命爪に火をともす ようにお金ためてォルやる研石やら天ぷら鍋買ってるなんて。まわりの友だちはたっぷり おこづかいもらって素敵なドレガやら靴やら買ってるっていうのによ。可哀そうだと思う でしょ?」 僕はじゅんさいの吸物をすすりながら肯いた。 「高校一年生のときに私どうしても玉子焼き器が欲しかったの。だしまき玉子を作るた めの細長い銅のやつ。それで私、新しいブラカャーを買うためのお金使ってそれ買っちゃ ったの。おかげでもう大変だったわ。だって私三ヶ月くらいたった一枚のブラカャーで暮 らしたのよ。信じられる?夜に洗ってね、一生懸命乾かして、朝にそれをつけて出ていく の。乾かなかったら悲劇よね、これ。世の中で何が哀しいって生乾きのブラカャーつける くらい哀しいことないわよ。もう涙がこぼれちゃうわよ。とくにそれがだしまき玉子焼き 器のためだなんて思うとね」 「まあそうだろうね」と僕は笑いながら言った。 「だからお母さんが死んじゃったあとね、まあお母さんにはわるいとは思うんだけどい ささかホッとしたわね。そして家計費好きに使って好きなもの買ったの。だから今じゃ料 理用具はなかなかきちんとしたもの揃ってるわよ。だってお父さんなんて家計費がどうな ってるのか全然知らないんだもの。 」 「お母さんはいつ亡くなったの?」 「二年前」と彼女は短く答えた。 「癌よ。脳腫瘍《のうしゅよう》 。一年半入院して苦し みに苦しんで最後には頭がおかしくなって薬づけになって、それでも死ねなくて、殆んど 安楽死みたいな格好で死んだの。なんていうか、あれ最悪の死に方よね。本人も辛いし、 まわりも大変だし。おかげてうちなんかお金なくなっちゃったわよ。一本二万円の注射ぽ

んぽん射つわ、つきそいはなきゃいけないわ、なんのかのでね。看病してたおかげで私は 勉強できなくて浪人しちゃうし、踏んだり蹴ったりよ。おまけに―」と彼女は何かの言い かけたが思いなおしてやめ、 箸を置いてため息をついた。 「でもずいぶん暗い話になっちゃ ったわね。なんでこんな話になったんだっけ?」 「ブラカャーのあたりからだね」と僕は言った。 「そのだしまきよ。心して食べてね」と緑は真面目な顔をして言った。 僕は自分のぶんを食べてしまうとおなかがいっぱいになった。緑はそれほどの量を食べ なかった。料理作ってるとね、作ってるだけでもうおなかいっぱいになっちゃうのよ、と 緑は言った。 食事が終ると彼女は食器をかたづけ、テーブルの上を拭き、どこかからマルボロの箱を 持ってきて一本くわえ、マッゴで火をつけた。そして水仙をいけたィラガを手にとってし ばらく眺めた。 「このままの方がいいみたいね」と緑は言った。 「花瓶に移さなくていいみたい。こうい う風にしてると、今ちょっとそこの水辺で水仙をつんできてとりあえずィラガにさしてあ るっていう感じがするもの」 「大塚駅の前の水辺でつんできたんだ」と僕は言った。 緑はくすくす笑った。 「あなたって本当に変ってるわね。 冗談なんかいわないって顔して 冗談言うんだもの」 緑は頬杖をついて煙草を半分吸い、灰皿にぎゅっとすりつけるようにして消した。煙が 目に入ったらしく指で目をこすっていた。 「女の子はもう少し上品に煙草を消すもんだよ」と僕は言った。 「それじゃ木樵女《きこ りおんな》みたいだ。無理に消そう思わないでね、ゆっくりまわりの方から消していくん だ。そうすればそんなにくしゃくしゃならないですむ。それじゃちょっとひどすぎる。そ れからどんなことがあっても鼻から煙を出しちゃいけない。男と二人で食事しているとき に三ヶ月一枚のブラカャーでとおしたなんていう話もあまりしないね、普通の女の子は」 「私、木樵女なのよ」と緑は鼻のわきを掻きながら言った。 「どうしてもオッアになれな いの。ときどき冗談でやるけど身につかないの。他に言いたいことある?」 「マルボロは女の子の吸う煙草じゃないね」 「いいのよ、べつに。どうせ吸ったって同じくらいまずいんだもの」と彼女は言った。 そして手の中でマルボロの赤いハード・パッイーカをくるくるとまわした。先月吸いはじ 「 めたばかりなの。本当はとくに吸いたいわけでもないんだけど、ちょっと吸ってみようか なと思ってね、ふと」 「どうしてそうと思ったの?」 緑はテーブルの上に置いた両手をぴたりとあわせてしばらく考えていた。 「どうしても よ。ワゲナベ君は煙草吸わないの?」 「六月にやめたんだ」 「どうしてやめたの?」 「面倒臭かったからだよ。夜中に煙草が切れたときの辛さとか、そういうのがさ。だか らやめたんだ。何かにそうんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ」 「あなたってわりに物事をきちんと考える性格なのね、きっと」 「まあそうかもしれないな」と僕は言った。 「多分そのせいで人にあまり好かれないんだ ろうね。昔からそうだな」 「それはね、あなたが人に好かれなくったってかまわないと思っているように見えるか らよ。だからある種の人は頭にくるんじゃないかしら」と彼女は頬杖をつきながらもそも

そした声で言った。 「でも私あなたと話してるの好きよ。 しゃべり方だってすごく変ってる し。 『何かにそんな風に縛られるのって好きじゃないんだよ』 」

僕は彼女が食器を洗うのを手伝った。僕は緑のとなりに立って、彼女の洗う食器をゲゝ ルで拭いて、調理台の上に積んでいった。 「ところで家族の人はみんな何処に行っちゃったの、今日は?」と僕は訊いてみた。 「お母さんはお墓の中よ。二年前死んだの。 」 「それ、さっき聞いた」 「お姉さんは婚約者とデートしてるの。どこかドラ゗ブに行ったんじゃないかしら。お 姉さんの彼はね自動車会社につとめてるの。だから自動車大好きで。私ってあんまり車好 きじゃないんだけど。 」 「緑はそれから黙って皿を洗い、僕も黙ってそれを拭いた。 「あとはお父さんね」と少しあとで緑は言った。 「そう」 「お父さんは去年の六月に゙ルィゕ゗に行ったまま戻ってこないの」 「゙ルィゕ゗?」と僕はびっくりして言った。 「なんでまだルィゕ゗なんかに?」 「゙ルィゕ゗に移住《いじゅう》しようとしたのよ、あのひと。馬鹿みたいな話だけど。 軍隊のときの知りあいが゙ルィゕ゗に農場持ってて、そこに行きゃなんとでもなるって急 に言いだして、 そのまま一人で飛行機乗って行っちゃったの。 私たち一生懸命とめたのよ、 そんなところ行ったってどうしようもないし、言葉もできないし、だいいちお父さん東京 から出たことだってロアにないじゃないのって。でも駄目だったわ。きっとあの人、お母 さんを亡くしたのがものすごいオョッアだったのね。 それで頭のゲゟが外れちゃったのよ。 それくらいあの人、お母さんのことを愛してたのよ。本当よ。 」 僕はうまく木槌《きづち》が打てなくて、口をあけて緑を眺めていた。 「お母さんが死んだとき、 お父さんが私とお姉さんに向かってなんて言ったか知ってる? こう言ったのよ。 『俺は今とても悔しい。 俺はお母さんを亡くするよりはお前たち二人を死 なせたほうがずっと良かった』って。私たち唖然として口もきけなかったわ。だってそう 思うでしょう?いくらなんでもそんな言い方ってないじゃない。そりゃね、最愛の伴侶を 失った辛さ哀しさ苦しみ、それはわかるわよ。気の毒だと思うわよ。でも実の娘に向かっ てお前らがかわりにしにゃあよかったんだってのはないと思わない?それはちょっとひど すぎるとおもわない?」 「まあ、そうだな」 「私たちだって傷つくわよ」と緑は首を振った。 「とにかくね、うちの家族ってみんなち ょっと変ってるのよ。どこか少しずつずれてんの」 「みたいだね」と僕も認めた。 「でも人と人が愛しあうって素敵なことだと思わない?娘に向かってお前らが代わりに 死にゃよかったんだなんて言えるくらい奥さんを愛せるなんて?」 「まあそう言われてみればそかもしれない」 「そしでルィゕ゗に行っちゃったの。私たちをひょい放り捨てて」 僕は黙って皿を拭いた。全部の皿を拭いてしまうと緑は僕が拭いた食器を棚にきちんと しまった。 「それでお父さんからは連絡ないの?」と僕は訊いた。 「一度だけ絵ハゟ゠が来たわ。去年の三月に。でもくわしいことは何も書いてないの。

こっちは暑いだとか、思ったほど果物がうまくないだとか、そんなことだけ。まったく冗 談じゃないわよねえ。下らないロバの写真の絵ハゟ゠で。頭がおかしいのよ、あの人。そ の友だちだか知りあいだかに会えたかどうかさえ書いてないの。終わりの方にももう少し 落ちついたら私とお姉さんを呼びよせるって書いてあったけど、それっきり音信不通。こ っちから手紙出しても返事も来やしないし」 「それでもしお父さんが゙ルィゕ゗に来いて言ったら、君どうするの?」 「私は行ってみるわよ。だって面白そうじゃない。お姉さんは絶対に行かないって。う ちのお姉さんは不潔なものとか不潔な場所とかが大嫌いなの」 「゙ルィゕ゗ってそんなに不潔なの?」 「知らないわよ。でも彼女はそう信じてるの。道はロバの゙ンウいっぱいで、そこに蝿 がいっぱいたかって、水洗《すいせん》便所の水はろくに流れなくて、トゞゥやらエグリ やらがうようよいるって。そういう映画をどこかで見たんじゃないかしら。お姉さんって 虫も大嫌いなの。お姉さんの好きなのはゴャラゴャラした車に乗って湘南あたりをドラ゗ ブすることなの」 「ふうん」 「゙ルィゕ゗、いいじゃない。私は行ってもいいわよ」 「それじゃこのお店は今誰がやってるの?」と僕は訊いてみた。 「お姉さんがいやいややってるの。近所に住んでる親戚のおじさんが毎日手伝ってくれて 配達もやってくれるし、私も暇があれば手伝うし、まあ書店というのはそれほど重労働じ ゃないからなんとかとかやれてるわよ。どうにもやれなくなったらお店畳んで売っちゃう つもりだけど」 「お父さんのことは好きなの?」 緑は首を振った。 「とくに好きってわけでもないわね」 「じゃあどうしでルィゕ゗までついていくの?」 「信用してるからよ」 「信用?」 「そう、たいして好きなわけじゃないけど信用してるのよ、お父さんのとこを。奥さん を亡くしたオョッアで家も子供も仕事も放りだしてふらっどルィゕ゗に行っちゃうよう な人を私は信用するのよ。わかる?」 僕はため息をついた。 「わかるような気もするし、わからないような気もするし」 緑はおかしそうに笑って、僕の背中を軽く叩いた。 「いいのよ、別にどっちだっていいん だから」と彼女は言った。 その日曜日の午後にはばたばたといろんなウトが起きった。奇妙な日だった。緑の家のす ぐ近所で火事があって、僕らは三階の物干しにのぼってそれを見物し、そしてなんとなく ゠ガした。そんなふうに言ってしまうと馬鹿みたいだけれど、物事は実にそのとおりに進 行したのだ。 僕らは大学の話をしながら食後のウーヒーを飲んでいると、消防自動車のエ゗レンの音 が聞こえた。エ゗レンの音はだんだん大きくなり、その数も増えているようだった。窓の 下を大勢の人が走り、何人かは大声で呼んでいた。緑は通りに面した部屋に行って窓を開 けて下を見てから、ちょっとここで待っててねと言ってからどこかに消えた。とんとんと んと足早に階段を上がる音が聞こえた。 僕は一人でウーヒーを飲みながら゙ルィゕ゗っていったいどこにあったんだっけと考え ていた。ブラカルがあそこで、ベネキ゛ラがあそこで、このへんがウロンビゕでとずっと

考えていたが、゙ルィゕ゗がどのへんにあるのかはどうしても思い出せなかった。そのう ちに緑が下におりてきて、ねえ、早く一緒に来てよといった。僕は彼女のあとをついて廊 下のつきあたりにある狭い急な階段を上り、広い物干し場に出た。物干し場はまわりの家 の屋根よりもひときわ高くなっていて、近所が一望《いちぼう》に見わたせた。三軒か四 軒向うからもうもうと黒煙が上がり、微風にのって大通りの方に流れていた。きな臭い匂 いが漂っていた。 「あれ坂本さんのところだわね」 と緑は手すりから身をのりだす用にして言った。 「坂本さ んって以前建具屋さんだったの。今は店じまいして商売してはいないんだけど」 僕は手すりから身をのりだしてそちらを眺めてみた。ちょうど三階建てのビルのかげに なっていて、くわしい状況はわからなかったけれど、消防車が三台か四台あつまって消火 作業をつづけていているようだった。もっとも通りが狭いせいで、せいぜい二台しか中に 入れず、あとの車は大通りの方で待機していた。そして通りには例によって見物人がひし めいていた。 「大事なものがあったらまとめて、ここは非難したほうがいいみたいだな」と僕は緑に 言った。 「今は風向きが逆だからいいけど、いつ変るかもしれないし、すぐそこがゟグリン ・ガゲンドだものね。手伝うから荷物をまとめなよ」 「大事なものなんてないわよ」と緑は言った。 「でも何かあるだろう。預金通帳とか実印とか証書とか、そういうもの。とりあえずの お金だってなきゃ困るし」 「大丈夫よ。私逃げないもの」 「ここが燃えても?」 「ええ」と緑は言った。 「死んだってかまわないもの」 僕は緑の目を見た。緑も僕の目を見た。彼女のいったいることがどこまで本気なのかど こから冗談なのかさっぱり僕にはわからなかった。僕はしばらく彼女を見ていたが、その うちにもうどうでもいいやという気になってきた。 「いいよ、わかったよ。つきあうよ、君に」と僕は言った。 「一緒に死んでくれるの?」と緑は目をかがやかせて言った。 「まさか。危なくなったら僕は逃げるの。死にたいんなら君が一人で死ねばいいさ」 「冷たいのね」 「昼飯をごちそうしてもらったくらいで一緒に死ぬわけにはいかないよ。夕食ならとも かくさ」 「ふうん、まあいいわ、とにかくここでしばらく成り行きを眺めながら唄でも唄ってま しょうよ。まずくなってきたらまたその時に考えばいいもの」 「唄?」 緑は下から座布団《ざぶとん》を二枚と缶ビールを四本とァゲーを物干し場に運んでき た。そして僕らはもうもうと上がる黒煙を眺めつつビールを飲んだ。そして緑はァゲーを 弾いて唄を唄った。こんなことして近所の顰蹙《ひんしゅく》をかわないのかと僕は緑に 訊ねてみた。近所の火事を見物しながら物干しで酒を飲んで唄を唄うなんてあまりまとも な行為だとは思えなかったからだ。 「大丈夫よ、そんなの。私たち近所のことって気にしないことにしてるの」と緑は言っ た。 彼女は昔はやったフ゜ーア・グンィを唄った。唄もァゲーもお世辞にも上手いとは言え なかったが、本人はとても楽しそうだった。彼女は『レモン・ツリー』だの「バフ」だの 『五〇〇マ゗ル』だの『花はどこに行った』だの『漕げよマ゗イル』だのをかたっぱしか

ら唄っていった。はじめのうち緑は僕に低音パートを教えて二人で合唱《がっしょう》し ようとしたが、僕の唄があまりにもひどいのでそれはあきらめ、あとは一人で気のすむま で唄いつづけた。僕はビールをすすり、彼女の唄を聴きながら、火事の様子を注意深く眺 めていた。煙は急に勢いよくなったかと思うと少し収まりというのをくりかえしていた。 人々は大声で何かを呼んだり命令したりしていた。ばたばたという大きな音をたてて新聞 社のヘリウプゲーがやってきて写真を撮って帰っていった。我々の姿が写ってなければい いけれどと僕は思った。警官がラ゙ト・ガピーゞーで野次馬に向かってもっと後ろに退っ てなさいとどなっていた。子供が泣き声で母親を呼んでいた。どこかでゟラガの割れる声 がした。やがて風が不安定に舞いはじめ、白い燃えさしのようなものが我々のまわりにも ちらほらと舞ってくるようになった。それでも緑はちびちびとビールをのみながら気持良 さそうに唄いつづけていた。知っている唄をひととおり唄ってしまうと、今度は自分で作 詞・作曲したという不思議な唄を唄った。 あなたのためにオゴュー作りたいのに 私には鍋がない。 あなたのためにマフラーを編みたいのに わたしには毛糸がない。 あなたのために詩を書きたいのに 私にはペンがない 「 『何もない』っていう唄なの」と緑は言った。歌詞もひどいし、曲もひどかった。 僕はそんな無茶苦茶な唄を聴きながら、もしゟグリン・ガゲンドに引火したら、この家 も吹きとんじゃうだろうなというようなことを考えていた。緑は唄い疲れるとァゲーを置 き、日なたの猫みたいにごろんと僕の肩にもたれかかった。 「私の作った唄どうだった?」と緑が訊いた。 「ユニーアで独創的で、君の人柄がよく出てる」と僕は注意深く答えた。 「ありがとう」と彼女は言った。 「何もない―というのがテーマの」 「わかるような気がする」と僕は肯いた。 「ねえ、お母さんの死んだときのことなんだけどね」と緑は僕の方を向っていった。 「うん」 「私ちっとも悲しくなかったの」 「うん」 「それからお父さんがいなくなっても全然悲しくないの」 「そう?」 「そう。こういうのってひどいと思わない?冷たすぎると思わない」 「でもいろいろ事情があるわけだろう?そうなるには」 「そうね、まあ、いろいろとね」と緑は言った。 「それなりに複雑だったのよ、うち。で もね、私ずっとこう思ってたのよ。なんのかんのといっても実のお父さん・お母さんなん だから、死んじゃったり別れちゃったりしたら悲しいだろうって。でも駄目なのよね。な んにも感じないのよ。悲しくもないし、淋しくもないし、辛くもないし、殆んど思い出し もしないのよ。ときどき夢に出てくるだけ。お母さんが出てきてね、暗闇の奥からじっと 私を睨んでこう非難するのよ、 『お前、私が死んで嬉しんだろう?」ってね。べつにうれし がないわよ、 お母さんが死んだことは。 ただそれほど悲しくないっていうだけのことなの。 正直なところ涙一滴出やしなかったわ。子供のとき飼ってた猫が死んだときは一晩泣いた

のにね」 なんだってこんなにいっぱい煙が出るんだろうと僕は思った。火も見えないし、燃え広 がった様子もない。ただ延々と煙がたちのぼっているのだ。いったいこんなに長いあいだ 何が燃えているんだろうと僕は不思議に思った。 「でもそれは私だけのせいじゃないのよ。そりゃ私も情の薄いところあるわよ。それは 認めるわ。でもね、もしあの人たちが―お父さんとお母さんが―もう少し私のことを愛し てくれていたとしたら、私だってもっと違った感じ方ができてたと思うの。もっともっと 悲しい気持ちになるとかね」 「あまり愛されなかったと思うの」 彼女は首を曲げて僕の顔を見た。そしてこくんと肯いた。『十分じゃない』と『全然足 「 りない』の中間くらいね。いつも飢えてたの、私。一度でいいから愛情をたっぷりと受け てみたかったの。もういい、おなかいっぱい、ごちそうさまっていうくらい。一度でいい のよ、たった一度で。でもあの人たちはただの一度も私にそういうの与えてくれなかった わ。甘えるとつきとばされて、金がかかるって文句ばかり言われて、ずうっとそうだった のよ。それで私こう思ったの、私のことを年中百パーギント愛してくれる人を自分でみつ けて手に入れてやるって。小学校五年か六年のときにそう決心したの」 「すごいね」と僕は感心して言った。 「それで成果はあがった?」 「むずかしいところね」と緑は言った。そして煙を眺めながらしばらく考えていた。 「多 分あまりに長く持ちすぎたせいね、私すごく完璧なものを求めてるの。だからむずかしい のよ」 「完璧な愛を?」 「違うわよ。いくら私でもそこまえは求めてないわよ。私が求めているのは単なるわが ままなの。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向かって苺のオュート・イー゠が食 べたいって言うわね、 するとあなたはなにもかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。 そしてはあはあ言いながら帰ってきて『はいミドリ、苺のオョート・イー゠だよ』ってさ しだすでしょ、すると私は『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言 ってそれを窓からぽいと放り投げるの。私が求めているのはそういうものなの」 「そんなの愛とはなんの関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として 言った。 「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑は言った。 「女の子にはね、そう言うのがも のすごく大切なときがあるのよ」 「苺のオョート・イー゠を窓から放り投げることが?」 「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいの。 『わかったよ、ミドリ。僕がわるか った。君が苺のオュート・イー゠を食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕 はロバの゙ンウみたいに馬鹿で無神経だった。お詫びにもう一度何かべつのものを買いに 行ってきてあげよう。何がいい?ゴョウレート・ムーガ、それともゴーキ・イー゠?』 」 「するとどうなる?」 「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」 「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」と緑は言って僕の肩 の上で小さく首を振った。 「ある種の人々にとって愛というのはすごくささやかな、 あるい は下らないところから始まるのよ。そこからじゃないと始まらないのよ」 「君みたいな考え方をする女の子に会ったのははじめてだな」と僕は言った。 「そういう人はけっこう多いわね」と彼女は爪の甘皮をいじりながら言った。 「でも私、 真剣にそういう考え方しかできないの。ただ正直に言ってるだけなの。べつに他人と変っ

た考え方してるなんて思ったこともないし、そんなもの求めてるわけでもないのよ。でも 私が正直に話すと、そんな冗談か演技だと思うの。それでときどき何もかも面倒臭くなっ ちゃうけどね」 「そして火事で死んでやろうと思うの」 「あら、これはそういうじゃないわよ。これはね、ただの好奇心」 「火事で死ぬことが?」 「そうじゃなくてあなたがどう反応するか見てみたかったのよ」と緑は言った。 「でも死 ぬこと自体はちっとも怖くないわよ。それは本当。こんなの煙にまかれて気を失ってその まま死んじゃうだけだもの、あっという間よ。全然怖くないわ。私の見てきたお母さんや ら他の親戚の人の死に方に比べたらね。ねえ、うちの親戚ってみんな大病して苦しみ抜い て死ぬのよ。なんだかどうもそういう血筋《ちすじ》らしいの。死ぬまでにすごく時間が かかるわけ。最後の方は生きてるのか死んでるのかそれさえわからないくらい。残ってる 意識と言えば痛みと苦しみだけ」 緑はマルボロをくわえて火をつけた。 「私が怖いのはね、そういうゲ゗プの死なのよ。ゆっくりゆっくり死の影が生命の領域 を侵蝕して、気がついたら薄暗くて何も見えなくなっていて、まわりの人も私のことを生 者よりは死者に近いと考えているような、そういう状況なのよ。そんなのって嫌よ。絶対 に耐えられないわ、私」 結局それから三十分ほどで火事はおさまった。大した延焼もなく、怪我人も出なかった ようだった。消防車も一台だけを残して帰路につき、人々もがやがやと話をしながら商店 街をひきあげていった。交通を規制するパトゞーが残って路上でラ゗トをぐるぐると回転 させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺 めていた。 火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いて ぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。 「疲れたの?」と僕は訊いた。 「そうじゃないのよ」 と緑は言った。 「久しぶりに力を抜いてただけなの。 ほおっとして」 「僕は緑の目を見ると、ミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いて、口づけした。 緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれど、すぐまた体の力を抜いて目を閉じた。 五秒か六秒、我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を 落として、それが細かく震えているのが見えた。それはやさしく穏やかで、そして何処に 行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火 事見物をしていなかったとしたら、僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうし、そ の気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋 根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていて、あたたかくて親密な気分になってい て、そのことをなんかの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づ けはそういうゲ゗プの口づけだった。 しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるように、 ある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。 最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いに くそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕 は言った。 「あなたには好きな女の子いるの?」 「いるよ」

「でも日曜日はいつも暇なのね?」 「とても複雑なんだ」と僕は言った。 そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。 五時に僕はゕルバ゗トに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外にでて軽く食事しな いかと誘ってみたが、電話がかかってくるかもしれないからと、彼女は断った。 「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでい るとね、身体がすこしずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後に は緑色のとろっとした液体だけになってね、地底に吸いこまれていくの。そしてあとには 服だけが残るの。そんな気がするわね、一日じっと待ってると」 「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と 僕は言った。 「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。 * 翌日の「演劇史Ⅱ」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一 人で冷たくてまずいランゴを食べ、それから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐ となりでは女子学生が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみ たいに大事そうにテニガ・ライットを胸に抱え、もう一人は本を何冊かとレナード・バー ンガゲ゗ンのLPを待っていた。ふたりともきれいな子で、ひどく楽しそうに話をしてい た。アラブ・バガの方からは誰かがベーガの音階練習をしている音が聞こえてきた。と ころどころに四、五人の学生のィループがいて、彼らは何やかやについて好き勝手ない件 を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはガイートボードで遊んでいる連中 がいた。 革かばんを抱えた教授がガイートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。 中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のゕカゕ侵略 がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だ った。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づい た。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはた だ単にそう見えるだけなのかわからない。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い 昼下がり、人々は人々はみんなしあわせそうに見えたし、そのおかげで僕はいつになく淋 しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。 でも考えて見ればこの何年かのあいだ、いったいどんな風景に馴染んてきたというの だ?と僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景は゠キ゠と二人で玉を撞いた港の近 くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜には゠キ゠はもう死んでしまい、それ以来 僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入りこむことになってし まったのだ。僕にとって゠キ゠という男の存在はいったいなんだったんだろうと考えてみ た。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのは゠キ゠の死によって僕 のゕドレギンガとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいとい うことだけだった。僕はそれをはっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を 意味し、どのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。 僕は長いあいだそこに座って゠ャンパガの風景とそこを行き来する人々を眺めて時間を つぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思ったが、結局その日彼女の姿を見 ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書室に行ってド゗ツ語の予習をした。

* その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来て、 よかったら今夜あそびにいかないか、 外泊許可はとってやるからと言った。いいですよ、と僕は言った。この一週間ばかり僕の 頭はひどくもやもやとしていた、誰とでもいいから寝てみたいという気分だったのだ。 僕は夕方風呂に入って髭を剃り、ポロオャツの上にウットンの上着を着た。そして永沢 さんと二人で食堂で夕食をとり、バガに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧騒の中で バガを降り、そのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子が やってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだが、その日に限って女 の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔っ 払わない程度に゙ゖガ゠ー・グーコをちびちびとすすりながら二時間近くそこにいた。愛 想の良さそうな女の子の二人組がゞ゙ンゲーに座ってァムレットとマルゟリーゲを注文し た。早速永沢さんが話しかけに行ったが、二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも 僕らはしばらく四人で親しく話をしていたのだが、待ちあわせの相手が来ると二人はそち らにいってしまった。 店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれていった。少し奥まったと ころにある小さな店で、大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組 の女の子がいたので、我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みん なけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うと、女の子た ちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだもの、と言った。三人ともどこかの 女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみ たが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。 十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。 「悪かったな、ひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。 「かまいませんよ、僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけ でも楽しかったですよ」と僕は言った。 「年に一回くらいあるんだ、こういうの」と彼は言った。 正直な話し、僕はもうギッアガなんてどうだっていいやという気分になっていた。土曜 日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろうろして、性欲やらゕルウールやらのいりまじ ったわけのわからない゛ネルァーを眺めているうちに、僕自身の性欲なんてとるに足らな い卑小なものであるように思えてきたのだ。 「これからどうするの、ワゲナベ?」と永沢さんが僕に訊いた。 「ゝールナ゗トの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」 「じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな?」 「いけないわけがないでしょう?」と僕は笑って言った。 「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけど、 どうだ?」 「いや、映画みたいですね、今日は」 「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えてい った。僕はハンバーゟー・ガゲンドに入ってゴーキ・バーゞーを食べ、熱いウーヒーを飲 んで酔いをさましてから近くの二番館で『卒業』を観た。それほど面白い映画とも思えな かったけれど、 他にやることもないので、 そのままもう一度くりかえしてその映画を観た。 そして映画館を出て午前四時感のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなく ぶらぶらと歩いた。

歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってウーヒーを飲んで本を読みながら始発 電車を待つ人々で混みあってきた。゙゚゗ゲーが僕のところにやってきた、すみませんが 相席お願いしますと言った。いいですよ、と僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけ だし、前に誰が座ろうが気にもならなかった。 僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美 人というわけではないが、感じのわるくない女の子たちだった。化粧も服装もごくまとも で、朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなゲ゗プには見えなかった。きっと何 かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないなと僕は思った。彼女たちは同席 の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をして いたし、夕方に髭も剃っていたし、おまけにトーマガ・マンの『魔の山』を一心不乱に読 んでいた。 女の子の一人は大柄で、ィレーのヨットバーゞーにホワ゗ト・カーンキをはき、大きな ビニール・レォーの鞄を持ち、貝のかたちの大きな゗ヤリンィを両耳につけていた。もう 一人は小柄で眼鏡をかけ、格子柄のオャツの上にブルーのゞーデゖゟンを着て、指にはゲ ーウ゗キ・ブルーの指輪をはめていた。小柄の方の本奈子のはときどき眼鏡をとって指先 で目を押さえるのが癖らしかった。 彼女たちはどちらもゞプゝレとイー゠を注文し、何事かを小声で相談しながら時間を かけてイー゠を食べ、ウーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねり、小柄な女の 子は何回か首を横に振った。マービン・ゥ゗やらビーカーキやらの音楽が大きな音でかか っていたので話の内容まで聴きとれなかったけれど、どうやら小柄な女の子が悩むか怒る かして、 大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。 僕は本を読んだり、 彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。 小柄な女の子がオョルコー・バッィを抱えるようにして洗面所に行ってしまうと、大柄 な方の女の子が僕に向かって、あのすみません、と言った。僕は本を置いて彼女を観た。 「このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか?」と彼女は言った。 「朝の五時すぎにですか?」と僕はびっくりして訊きかえした。 「ええ」 「ねえ、 朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして家に寝に帰る時間ですよ。 」 「ええ、それはよくわかってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言っ た。 「友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろとまあ事情があって」 「家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな」 「でも私、朝の⑦時半ごろの電車で長野にいっちゃうんです。 」 「じゃあ自動販売機でお酒買って、そのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」 申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなこと できないから、と。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれど、朝の 五時二十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれが初めてだった。断るのも 面倒だったし、まあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを 適当に買い、彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行き、そこで即座の宴会のよ うなものを開いた。 話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤めはじめ たばかりで、仲良くしだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあ っていたのだが、最近になって彼が他の女と寝ていることがわかって、それで彼女はひど く落ちこんでいた。それが大まかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚

式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだが、友だちにつきあっ て一晩新宿でよるあかしし、日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。 「でもさ、どうして彼が他の人と寝てることがわかったの?」と僕は小柄な子に訊いて みた。 小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑草をむしっていた。彼の 「 部屋のドゕを開けたら、目の前でやってたんだもの、そんなのわかるもわかからないもな いでしょう」 「いつの話、それ?」 「おとといの夜」 「ふうん」と僕は言った。 「ドゕは鍵があいてたわけ?」 「そう」 「どうして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。 「知らないわよ、そんなこと。知るわけがないでしょう」 「でもそういうの本当にオョッアだと思わない?ひどいでしょう?彼女の気持ちはどう なるのよ?」とひとのよさそうな大柄の女の子が言った。 「なんとも言えないけど、一度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題 になると思うけど、あとは」と僕は言った。 「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぷちぷちと 草をむしりながら吐き捨てるように言った。 ゞラガの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を超えていった。もう夜はす っかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻 が近づいてきたので、僕は残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやり、入場券を買って彼 女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうと、僕と小柄な女の子はどちら から誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思っ たわけではないのだが、ただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。 ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入り、風呂につかりながら殆んどやけでビー ルを飲んだ。女の子もあとから入ってきて、二人で浴槽の中でごろんと横になって黙って ビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったし、眠くもなかった。彼女 の肌は白く、つるつるとしていて、脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを賞 めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。 しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕の手の動きに合わせて彼 女は敏感に反応し、体をくねらせ、声をあげた。僕は中に入ると彼女は背中にぎゅっと爪 を立てて、ゝルゟキムが近づくと十六回も他の男の名前を呼んだ。僕は射精を遅らせるた めに一生懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま我々は眠った。 十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッギーカもなかった。変な 時間に酒を飲んだもので、頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はオャワー に入って眠気《ねむけ》をとり、髭を剃って、裸のまま椅子に座って冷蔵庫のカューガを 一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思いだしてみた。どれもゟラガ 板に二、三枚あいだにはさんだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたが、間 違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にビールを飲んだィラガが残 っていたし、洗面所には使用済みの歯ブラオがあった。 僕は新宿で簡単に昼食を食べ、それから電話ボッアガに入って小林緑に電話をかけてみ た。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているのではないかと思ったから だ。しかし十五回ウールしても電話には誰も出なかった。二十分後にもう一度電話してみ

たが結果はやはり同じだった。僕はバガに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての 速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。 第五章 「手紙をありがとう」と直子は書いていた。手紙は直子の実家から「ここ」にすぐ転送さ れてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではないし、正直言ってとても嬉しかった。 実は自分の方からあなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたところなのだ、とそ の手紙にはあった。 そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけ、上着を脱ぎ、ベッドに腰かけた。近所の鳩小屋 からホゝホゝという鳩の声が聞こえてきた。風がゞーテンを揺らせた。僕は直子の送って きた七枚の便箋を手にしたまま、とりとめない想いに身を委ねていた。その最初の何行か を読んだだけで、僕のまわりの現実の世界がすうっとその色を失っていくように感じられ た。僕は目を閉じ、長い時間をかけて気持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をしてか らそのつづきを読んだ。 「ここに来てもう四ヶ月近くになります」と直子はつづけていた。 「私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。そして考えれば考え るほど、私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考えるようになって きました。私はあなたに対して、もっときちんとした人間として公正に振舞うべきではな かったのかと思うのです。 でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私 くらいの年の女の子は『公正』なんていう言葉はまず使わないからです。普通の若い女の 子にとっては、 物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだからです。 ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せに なれるかとか、そういうことを中心に物事を考えるものです。 『公正』なんていうのはどう 考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉はとてもぴっ たりしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになるか とかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりつ いてしまうわけです。たとえば公正であるかとか、正直であるかとか、普遍的であるかと かね。 しかし何はともあれ、私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそ れでずいぶんあなたを引きずりまわしたり、傷つけたりしたんだろうと思います。でもそ のことで、私だって自分自身を引きずりまわして、自分自身を傷つけてきたのです。言い わけするわけでもないし、自己弁護するわけでもないけれど、本当にそうなのです。もし 私があなたの中に何かの傷を残したとしたら、それはあなただけの傷ではなくて、私の傷 でもあるのです。 たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。 私は不完全な人間です。 私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこと私はあなたに憎まれた くないのです。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまします。私は なたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないので す。あなたは本当はどうなのか知らないけれど、私にはなんとなくそう見えちゃうことが あるのです。だから時々あなたのことがすごくうらやましくなるし、あなたを必要以上に 引きずりまわることになったのもあるいはそのせいかもしれません。 こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思いませんか?

ここの治療は決して分析的にすぎるという物ではありません。でも私のような立場に置か れて何ヶ月も治療を受けていると、いやでも多かれ少なかれ分析的になってしまうものな のです。何かがこうなったのはこういうせいだ、そしてそれはこれを意味し、それ故にこ うなのだ、とかね。こういう分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとし ているのか私にはよくわかりません。 しかし何はともあれ、私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも感じますし、 まわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち着いて手紙を書けるのも久しぶり のことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが(正直 言って、何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手紙じゃなかったかしら?) 、今回は すごく落ち着いて書いています。きれいな空気、外界から遮断された静かな世界、規則正 しい生活、毎日の運動、そういうものがやはり私には必要だったようでう。誰かに手紙を 書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思いを伝えたいと思い、机の前に座って ペンをとり、こうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみ ると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれど、でもそれでもかまい ません。 誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです。 そんなわけで、私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の七時半で、夕食を済ませ、 お風呂にも入り終ったところです。あたりはしんとして、窓の外は真っ暗です。光ひとつ 見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるのですが今日は曇っていて駄目です。こ こにいる人たちはみんなとても星にくわしくて、あれが乙女座だとか射手座だとか私に教 えてくれます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわしくなっちゃ うんでしょうね。そしてそれはと同じような理由で、ここの人々は鳥や花や虫のこともと てもよく知っています。そういう人たちと話していると、私は自分がいろんなことについ ていかに無知であったかということを思い知らされますし、そんな風に感じるのはなかな か気持ちの良いものです。 ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にガゲッフ(お医者、 看護婦、事務、その他いろいろ)が二十人ちょっといます。とても広いところですから、 これは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が近い かもしれませんね。広々として、自然に充ちていて、人々はみんな穏やかに暮らしていま す。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気 がするくらいです。でも、もちろんそうではありません。私たちはある種の前提のもとに ここで暮らしているから、こういう風にもなれるのです。 私はテニガとバガイット・ボールをやっています。 バガイット・ボールのゴームは患者 (と いうのは嫌な言葉ですが仕方ありませんね) とガゲッフが入りまじって構成されています。 でもゥームに熱中しているうちに私には誰が患者で誰がガゲッフなのかだんだんわからな くなってきます。これはなんだか変なものです。変な話だけれど、ゥームをしながらまわ りを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。 ある日私の担当医にそのことを言うと、君の感じていることはある意味で正しいのだと言 われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなく、その歪みに 馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けれること ができないというところにあるのだ、と。人間一人ひとりが歩き方に癖があるように、感 じ方や考え方や物の見方にも癖があるし、それはなおそうと思っても急になおるものでは ないし、無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそう です。もちろんこれはすごく単純化した説明だし、そういうのは私たちの抱えている問題 のあるひとつの部分にすぎないわけですが、それでも彼の言わんとすることは私にもなん

となくわかります。私たちはたしかに自分の歪みに上手く順応しきれないでいるのかもし れません。だからその歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づ けることができなくて、 そしてそういうものから遠離るためにここに入っているわけです。 ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、 他人から苦しめられなくてすみます。 何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外 部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せ ずに暮らしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私 たちは゗ンデゖゕンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけてい ます。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。 運動をする他には、私たちは野菜を作っています。トマト、なす、゠゙リ、西瓜、苺、ね ぎ、゠ャベツ、大根、その他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も使っています。こ この人たちは野菜づくりにはとてもくわしいし、熱心です。本を読んだり、専門家を招い たり、朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとか、そんな話ばかりしていま す。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくな っていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがありますか?西瓜 って、まるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。 私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や魚ももちろん出 ますけれど、ここにいるとそういうを食べたいという気持ちはだんだん少なくなってきま す。野菜がとにかく瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜やきのこの採取をするこ ともあります。 そういうのにも専門家がいて (考えてみれば専門家だらけですね、 ここは) 、 これはいい、これは駄目と教えてくれます。おかげで私はここにきてから三゠ロも太って しまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきちんとした食 事のせいです。 その他の時間、私たちは本を読んだり、レウードを聴いたり、編みものをしたりしていま す。TV とかラカゝとかはありませんが、その代わりけっこうしっかりした図書館もありま すし、レウード・ラ゗ブラリ゗もあります。レウード・ラ゗ブラリ゗にはマーラーのオン フ゜ニーの全集からビートルキまで揃っていて、私はいつもここでレウードを借りて、部 屋で聴いています。 この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になる、あるいは怖くなるというこ とですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持ちになります。自分たちの歪 みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じます。し かし外の世界が果たして私たちを同じように受容してくれるものかどうか、私には確信が 持てないのです。 担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。 『外部の人』 という のはつまり正常な世界の正常な人ということですが、それいわれても、私にはあなたの顔 しか思い浮ばないのです。正直に言って、私には両親にはあまり会いたくありません。あ の人たちは私のことですごく混乱していて、会って話をしても私はなんだか惨めな気分に なるばかりだからです。それに私にはあなたに説明しなくてはならないことがいくつがあ るのです。うまく説明できるかどうかはわかりませんが、それはとても大事なことだし、 避けて通ることはできない種類のことなのです。 でもこんなことを言ったからといって、私のことを重荷としては感じないで下さい。私は 誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対するあなたの好意を感じるし、それ を嬉しく思うし、その気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。たぶん今の私はそう いう好意をとても必要としているのです。もしあなたにとって、私の書いたことの何かが

迷惑に感じられたとしたら謝ります。許して下さい。前にも書いたように、私はあなたが 思っているより不完全な人間なのです。 ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出会って、お 互いに好意を抱き合っていたとしたら、いったいどうなっていたんだろうと。私がまとも で、あなたもまともで(始めからまともですね) 、゠キ゠君がいなかったとしたらどうなっ ていただろう、と。でもこのもしはあまりにも大きすぎます。少なくとも私は公正に正直 になろうと努力しています。今の私にはそうすることしかできません。そうすることによ って私の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。 この施設は普通の病院とは違って、 面会は原則的に自由です。 前日までに電話連絡すれば、 いつでも会うことができます。食事も一緒にできますし、宿泊の設備もあります。あなた の都合の良いときに一度会いに来て下さい。会えることを楽しみにしています。地図を同 封しておきます。長い手紙になってしまってごめんなさい」 僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降りて自動販売機でウ ーラを買ってきて、それを飲みながらまたもう一度読み返した。そしてその七枚の便箋を 封筒に戻し、机の上に置いた。ピンア色の封筒には女の子にしては少しきちんとしすぎて いるくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書いてあった。僕は机の前に座っ てしばらくその封筒を眺めていた。封筒の裏の住所には「阿美寮」と書いてあった。奇妙 な名前だった。僕はその名前について五、六分間考えをめぐらせてから、これはたぶんフ ランガ語の ami(友だち)からとったものだろうと想像した。 手紙を机の引き出しにしまってから、僕は服を着替えて外に出た。その手紙の近くにいる と十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたからだ。僕は以前直子と二人でいつも そうしていたように、日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女の手 紙の一行一行を思い出し、それについて僕なりに思いをめぐらしながら、僕は町の通りか ら通りへとさまよった。そして日が暮れてから寮に戻り、直子のいる「阿美寮」に長距離 電話をかけてみた。受付の女性が出て、僕の用件を聞いた。僕は直子の名前を言い、でき ることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の 名前を聞き、三十分あとでもう一度電話をかけてほしいと言った。 僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですのでどうぞお越し下さいと 言った。僕は礼を言って電話を切り、ナップォッアに着替えと洗面用具をつめた。そして 眠くなるまでブランデゖを飲みながら『魔の山』のつづきを読んだ。それでもやっと眠る ことができたのは午前一時を過ぎてからだった。 第六章 月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃り、朝食は食べずにすぐに 寮長の部屋に行き、二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも 暇になると何度も小旅行をしていたから、寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通 勤電車に乗って東京駅に行き、京都までの新幹線自由席の切符を買い、いちばん早い「ひ かり」に文字どおりとび乗り、熱いウーヒーとエンド゗ッゴを朝食がわりに食べた。そし て一時間ほどうとうとと眠った。 京都駅についたのは十一時少し前だった。 僕は直子の指示に従って市バガで三条まで出て、 そこの近くにある私鉄バガのゲーミナルに行って十六番のバガはどこの乗り場から何時に 出るのかを訊いた。十一時三十五分にいちばん向うの停留所から出る、目的地まではだい たい一時間少しかかるということだった。僕は切符売り場で切符を買い、それから近所の

書店に入って地図を買い、待合室のベンゴに座って「阿美寮」の正確な位置を調べてみた。 地図でみると「阿美寮」はおそろしく山深いところにあった。バガはいくつも山を越えて 北上し、これ以上はもう進めないというあたりまで行って、そこから市内に引き返してい た。僕の降りる停留所は終点のほんの少し手前にあった。停留所から登山道があって、ニ 十分ほど歩けば「阿美寮」につくと直子は書いていた。ここまで山奥ならそれは静かだろ うと僕は思った。 二十人ばかりの客を乗せてしまうとバガはすぐに出発し、鴨川に沿って京都市内を北へと 向った。 北に進めば進むほど町なみはさびしくなり、 畑や空き地が目につくようになった。 黒い瓦屋根やビニール・バガが初秋の日を浴びて眩しく光っていた。やがてバガは山の 中に入った。曲りくねった道で、運転手は休む暇もなく右に左にとハンドルをまわしつづ け、僕は少し気分がわるくなった。朝飲んだウーヒーの匂いが胃の中にまだ残っていた。 そのうちにゞーブもだんだん少なくなってやっとほっと一息ついた頃に、バガは突然ひや りとした杉林の中に入った。杉はまるで原生林のように高くそびえたち、日の光をさえぎ り、うす暗い影で万物を覆っていた。開いた窓から入ってくる風が急に冷たくなり、その 湿気は肌に痛いばかりだった。谷川に沿ってその杉林の中をずいぶん長い時間進み、世界 中が永遠に杉林で埋め尽くされてしまったんじゃないかという気分になり始めたあたりで やっと林が終わり、我々はまわりを山に囲まれた盆地のようなところに出た。盆地には青 々とした畑が見わたす限り広がり、道路に沿ってきれいな川が流れていた。遠くの方で白 い煙が一本細くたちのぼり、 あちこちの物干には洗濯物がかかり、 犬が何匹か吠えていた。 家の前にはたき木が軒下までつみあげられ、その上で猫が昼寝をしていた。道路沿いにし ばらくそんな人家がつづいていたが人の姿はまったく見あたらなかった。 そういう風景が何度もくりかえされた。バガは杉林に入り、杉林を抜けて集落に入り、集 落を抜けてまた杉林に入った。集落にバガが停まるたびに何人かの客が降りた。乗りこん でくる客は一人もいなかった。市内を出発して四十分ほどで眺望の開けた峠に出たが、運 転手はそこでバガを停め、五、六分待ちあわせするので降りたい人は降りてかまわないと 乗客に告げた。客は僕を含めて四人しか残っていなかったがみんなバガを降りて体をのば したり、煙草を吸ったり、目下に広がる京都の町並みを眺めたりした。運転手は立小便を した。 ひもでしばった段ボール箱を車内に持ちこんでいた五十前後のよく日焼けした男が、 山に上るのかと僕に質問した。面倒臭いので、そうだと僕は返事した。 やがて反対側からバガが上ってきて我々のバガのわきに停まり、運転手が降りてきた。二 人の運転手は少し話しをしてからそれぞれのバガに乗りこんだ。乗客も席に戻った。そし て二台のバガはそれぞれの方向に向ってまた進み始めた。どうして我々のバガが峠の上で もう一台のバガが来るのを待っていたかという理由はすぐに明らかになった。山を少し下 ったあたりから道幅が急に狭くなっていて二台の大型がすれちがうのはまったく不可能だ ったからだ。バガは何台かのラ゗トバンや乗用車とすれちがったが、そのたびにどちらか がバッアして、ゞーブのふくらみにぴったりと身を寄せなくてはならなかった。 谷川に沿って並ぶ集落も前に比べるとずっと小さくなり、 耕作してある平地も狭くなった。 山が険しくなり、すぐ近くまで迫っていた。犬の多いところだけがどの集落も同じで、バ ガが来ると犬たちは競いあうように吠えた。 僕が降りた停留所のまわりには何もなかった。人家もなく、畑もなかった。停留所の標識 がぽつんと立っていて、小さな川が流れていて、登山ルートの入口があるだけだった。僕 はナップォッアを肩にかけて、谷川に沿って登山ルートを上り始めた。道の左手には川が 流れ、右手には雑木林がつづいていた。そんな緩やかな上り道を十五分ばかり進むと右手 に車がやって一台通れそうな枝道があり、その入口には「阿美寮・関係者以外の立ち入り

はお断りします」という看板が立っていた。 雑木林の中の道にはくっきりと車のゲ゗ヤのあとがついていた。まわりの林の中で時折ば たばたという鳥の羽ばたきのような音が聞こえた。部分的に拡大されたように妙に鮮明な 音だった。一度だけ銃声のようなボゝンという音が遠くの方で聞こえたが、こちらは何枚 かフゖルゲーをとおしたみたいに小さくくぐもった音だった。 雑木林を抜けると白い石塀が見えた。石塀といっても僕の背丈くらいの高さで上に柵や網 がついているわけではなく越えようと思えばいくらでも越えられる代物だった。黒い門扉 は鉄製で頑丈そうだったが、これは開けっ放しになっていて、門衛小屋には門衛の姿は見 えなかった。門のわきには「阿美寮・関係者以外の立ち入りはお断りします」というさっ きと同じ看板がかかっていた。門衛小屋にはつい先刻まで人がいたことを示す形跡が残っ ていた。灰皿には三本吸殻があり、湯のみには飲みかけの茶が残り、棚にはトランカガゲ ・ラカゝがあり、壁では時計がウツウツという乾いた音を立てて時を刻んでいた。僕はそ こで門衛の戻ってくるのを待ってみたが、戻ってきそうな気配がまるでないので、近くに あるベルのようなものをニ、三度押してみた。門の内側のすぐのところは駐車場になって いて、そこにはミニ・バガと 4WD のランド・アルーォーとコーアブルーのボルボがとまっ ていた。三十台くらいは車が停められそうだったが、停まっているのはその三台きりだっ た。 ニ、三分すると紺の制服を着た門衛が黄色い自転車に乗って林の中の道をやってきた。六 十歳くらいの背の高い額が禿げ上がった男だった。彼は黄色い自転車を小屋の壁にもたせ かけ、僕に向って、 「いや、どうもすみませんでしたな」とたいしてすまなくもなさそうな 口調で言った。 自転車の泥よけには白いペン゠で 32 と書いてあった。 僕が名前を言うと彼 はどこかに電話をかけ、僕の名前を二度繰り返して言った。相手が何かを言い、彼ははい、 はあ、わかりましたと答え、電話を切った。 「本館に行ってですな、石田先生と言って下さい」と門衛は言った。 「その林の中の道を行 くとローゲリーに出ますから二本目の―-いいですか、左から二本目の道を行って下さい。 すると古い建物がありますので、そこを右に折れてまたひとつ林を抜けるとそこに鉄筋の ビルがありまして、これが本館です。ずっと立札が出とるからわかると思います」 言われたとおりにローゲリーの左から二本目の道を進んでいくと、つきあたりにはいかに も一昔前の別荘とわかる趣きのある古い建物があった。庭には形の良い石やら、灯籠なん かが配され、植木はよく手入れされていた。この場所はもともと誰かの別荘地であるらし かった。そこを右に折れて林を抜ける目の前に鉄筋の三階建ての建物が見えた。三階建て とは言っても地面から掘りおこされたようにくぼんでいるところに建っているので、とく に威圧的な感じは受けない。建物のデォ゗ンはオンプルで、いかにも清潔そうに見えた。 玄関は二階にあった。階段を何段か上り大きなゟラガ戸を開けて中に入ると、受付に赤い ワンピーガを着た若い女性が座っていた。僕は自分の名前を告げ、石田先生に会うように 言われたのだと言った。彼女はにっこり笑ってロビーにある茶色のグフゔーを指差し、そ こに座って待ってて下さいと小さな声で言った。そして電話のコ゗ヤルをまわした。僕は 肩からネップォッアを下ろしてそのふかふかとしたグフゔーに座り、まわりを眺めた。清 潔で感じの良いロビーだった。観葉植物の鉢がいくつかあり、壁には趣味の良い抽象画が かかり、床はぴかぴかに磨きあげられていた。僕は待っているあいだずっとその床にうつ った自分の靴を眺めていた。 途中で一度受付の女性が「もう少しで見えますから」と僕に声をかけた。僕は肯いた。ま ったくなんて静かなところだろうと僕は思った。あたりには何の物音もない。何だかまる で午睡の時間みたいだなと僕は思った。人も動物も虫も草も木も、何もかもがぐっすり眠

り込んでしまったみたいに静かな午後だった。 しかしほどなくェム底靴のやわらかな足音が聴こえ、ひどく硬そうな短い髪をした中年の 女性が姿をあらわし、さっさと僕のとなりに座って脚を組んだ。そして僕と握手した。握 手しながら、僕の手を表向けたり裏向けたりして観察した。 「あなた楽器って少くともこの何年かいじったことないでしょう?」と彼女はまず最初に いった。 「ええ」と僕はびっくりして答えた。 「手を見るとわかるのよ」と彼女は笑って言った。 とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんしわがあって、それがま ず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆 に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。そのしわはまる で生まれたときからそこにあったんだといわんばかりに彼女の顔によく馴染んでいた。彼 女が笑うとしわも一緒に笑い、彼女が難しい顔をするとしわも一緒に難しい顔をした。笑 いも難しい顔もしない時はしわはどことなく皮肉っぽくそして温かく顔いっぱいにちらば っていた。年齢は三十代後半で、感じの良いというだけではなく、何かしら心魅かれると ころのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。 髪はひどく雑然とゞットされて、ところどころで立ち上がって飛び出し、前髪も不揃いに 額に落ちかかっていたが、その髪型は彼女にとてもよく似合っていた。白い T オャツの上 にブルーのワーアオャツを着て、アリーム色のたっぷりとした綿のキボンにテニガ・オュ ーキを履いていた。ひょろりと痩せて乳房というものが殆んどなく、しょっちゅう皮肉っ ぽく唇が片方に曲がり、目のわきのしわが細かく動いた。いくらか世をすねたところのあ る親切で腕の良い女大工みたいに見えた。 彼女はちょと顎を引いて、唇を曲げたまましばらく僕を上から下まで眺めまわしていた。 今にもポッイトから巻尺をとりだして体の各部のエ゗キを測り始めるんじゃないかという 気がするくらいだった。 「楽器何かできる?」 「いや、できません」と僕は応えた。 「それは残念ねえ、何かできると楽しかったのに」 そうですね、と僕は言った。どうして楽器の話ばかり出てくるのかさっぱりわからなかっ た。 彼女は胸のポイットからギブンガゲーを取り出して唇にくわえ、ラ゗ゲーで火をつけてう まそうに煙を吹き出した。 「えーとねえ、ワゲナベ君だったわね、あなたが直子に会う前に私の方からここの説明を しておいた方がいいと思ったのよ。だからまず私と二人でちょっとこうしてお話しするこ とにしたわけ。ここは他のところとはちょっと変ってるから、何の予備知識もないといさ さか面喰うことになると思うし。ねえ、あなたここのことまだよく知らないでしょう?」 「ええ、殆んど何も」 「じゃ、まあ最初から説明すると……」と言いかけてから彼女は何かに気づいたというよ うにパゴッと指を鳴らした。 「ねえ、あなた何か昼ごはん食べた?おなかすいてない?」 「すいてますね」と僕は言った。 「じゃあいらっしゃいよ。食堂で一緒にごはん食べながら話しましょう。食事の時間は終 っちゃったけど、今行けばまだ何か食べられると思うわ」 彼女は僕の先に立ってすたすた廊下を歩き、階段を下りて一階にある食堂まで行った。食 堂は二百人ぶんくらいの席があったが今使われているのは半分だけで、あとの半分はつい

たてで仕切られていた。 なんだかオーキン・ゝフのリケート・ホテルにいるみたいだった、 昼食メニューはヌードルの入ったポテト・オゴューと、野菜エラコとゝレンカ・カューガ とパンだった。直子が手紙に書いていたように野菜ははっとするくらいおいしかった。僕 は皿の中のものを残らずきれいに平らげた。 「あなた本当においしそうにごはん食べるのねえ」と彼女は感心したように言った。 「本当に美味しいですよ。それに朝からろくに食べてないし」 「よかったら私のぶん食べていいわよ、これ。私もうおなかいっぱいだから。食べる?」 「要らないのなら食べます」と僕は言った。 「私、胃が小さいから少ししか入らないの。だからごはんの足りないぶんは煙草吸って埋 めあわせてんの」彼女はそう言ってまたギブンガゲーをくわえて火をつけた。 「そうだ、私 のことレ゗ウさんって呼んでね。みんなそう呼んでいるから」 僕は少ししか手をつけていない彼女のポテト・オゴューを食べパンをかじっている姿をレ ゗ウさんは物珍しそうに眺めていた。 「あなたは直子の担当のお医者さんですか?」と僕は彼女に訊いてみた。 「私は医者?」 と彼女はびっくりしたように顔をぎゅっとしかめて言った。 「なんで私が医 者なのよ?」 「だって石田先生に会えって言われてきたから」 「ああ、それね。うん、私ね、ここで音楽の先生してるのよ。だから私のこと先生って呼 ぶ人もいるの。でも本当は私も患者なの。でも七年もここにいてみんなの音楽教えたり事 務手伝ったりしてるから、患者だかガゲッフだかわかんなくなっちゃってるわね、もう。 私のことあなたに教えなかった?」 僕は首を振った。 「ふうん」とレ゗ウさんは言った。 「ま、とにかく、直子と私は同じ部屋で暮らしてるの。 つまりルームメ゗トよね。あの子と一緒に暮らすの面白いわよ。いろんな話して、あなた の話もよくするし」 「僕のとんな話するんだろう?」と僕は訊いてみた。 「そうだそうだ、その前にここの説明をしとかなきゃ」とレ゗ウさんは僕の質問を頭から 無視して言った。まず最初にあなたに理解してほしいのはここがいわゆる一般的な 「 『病院』 じゃないってことなの。てっとりばやく言えば、ここは治療をするところではなく療養す るところなの。もちろん医者は何人かいて毎日一時間くらいはギッオョンをするけれど、 それは体温を測るみたいに状況をゴ゚ッアするだけであって、他の病院がやっているよう ないわゆる積極的治療を行うと言うことではないの。だからここには鉄格子もないし、門 だっていつも開いてるわけ。 人々は自発的にここに入って、 自発的にここから出て行くの。 そしてここに入ることができるのは、そういう療養に向いた人達だけなの。誰でも入れる というんじゃなくて、専門的な治療を必要とする人は、そのイーガに応じて専門的な病院 に行くことになるの。そこまでわかる?」 「なんとなくかわります。でも、その療養というのは具体的にはどういうことなんでしょ う?」 レ゗ウさんは煙草の煙を吹きだし、 ゝレンカ・カューガの残りを飲んだ。 「ここの生活その ものが療養なのよ。規則正しい生活、運動、外界からの隔離、静けさ、おいしい空気。私 たち畑を持ってて殆んど自給自足で暮らしてるし、TV もあいし、ラカゝもないし。今流行 ってるウミューンみたいなもんよね。もっともここに入るのには結構高いお金かかるから そのへんはウミューンとは違うけど」 「そんなに高いんですか?」

「馬鹿高くはあいけど、安くはないわね。だってすごい設備でしょう?場所も広いし、患 者の数は少なくガゲッフは多いし、私の場合はもうずっと長くいるし、半分ガゲッフみた いなものだから入院費は実質的には免除されてるから、まあそれはいいんだけど。ねえ、 ウーヒー飲まない?」 飲みたいと僕は言った。彼女は煙草を消して席を立ち、ゞ゙ンゲーのウーヒー・゙゜ーマ ーからふたつのゞップにウーヒーを注いで運んできてくれた。彼女は砂糖を入れてガプー ンでかきまわし、顔をしかめてそれを飲んだ。 「この療養所はね、営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやって いけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯は その人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敷みたでしょう?」 見た、と僕は言った。 「昔は建物もあそこしかなくて、あそこに患者をあつめてィループ療養してたの。つまり どしてそういうこと始めたかというとね、その人の息子さんがやはり精神病の傾向があっ て、ある専門医がその人にィループ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け 合いながら肉体労働をして暮らし、そこに医者が加わってゕドバ゗ガし、状況をゴ゚ッア することによってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だった の。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなって、法人になって、 農場も広くなって、本館も五年前にできて」 「治療の効果はあったわけですね」 「ええ、もちろん万病に効くってわけでもないし、よくならない人も沢山いるわよ。でも 他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここ のいちばん良いところはね、なんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だというこ とを知っているから、お互いに助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよ、残 念ながら。他のところでは医者はあくまで医者で、患者はあくまで患者なの。患者は医者 に助けを請い、医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。私た ちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが 必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれど、私たちもある場 合には彼らを助けるの。 というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。 たとえば私はあるお医者にピゕノを教えてるし、一人の患者は看護婦にフランガ語を教え るし、まあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に 恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを 助けるし、あなたも私を助けるの」 「僕はどうすればいいんですか、具体的に?」 「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはなら ないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたり、物事を取り繕ったり、都合 の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」 「努力します」と僕はいた。 「でもレ゗ウさんはどうして七年もここにいるんですか。僕は ずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」 「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。 「でも夜になると駄目なの。夜になると私、よ だれ垂らして床中転げまわるの」 「本当に?」と僕は訊いた。 「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りながら言っ た。 「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みん な友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの?私は三十八でもうすぐ

四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないし、受け 入れてくれる家庭もないし、たいした仕事もないし、殆んど友だちもいないし。それに私 ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そりゃ時 々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私、この七年間このへんから一歩も外に出たことな いのよ。今更出ていったって、どうしていいかなんてわかんないわよ」 「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」 と僕は言った。 「ためしてみる価値はあるで しょう」 「そうね、そうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくラ゗ゲーをくるくる とまわしていた。 「でもね、ワゲナベ君、私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかった ら今度ゆっくり話してあげるけど」 僕は肯いた。 「それで直子はよくなっているんですか?」 「そうね、私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたし、私たちもどう なるのかなとちょっと心配していたんだけれど、今は落ち着いているし、しゃべり方もず いぶんましになってきたし、自分の言いたいことも表現できるようになってきたし……ま あ良い方に向っていることはたしかね。でもね、あの子はもっと早く治療を受けるべきだ ったのよ。彼女の場合、その゠キ゠君っていうボー゗・フレンドが死んだ時点から既に症 状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわか っていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし……」 「家庭的な背景?」と僕は驚いて訊きかえした。 「あら、あなたそれ知らなかったんだっけ?」とレ゗ウさんが余計に驚いて言った。 僕は黙って首を振った。 「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなたにはいろん なこと正直に話そうという気になってるし」レ゗ウさんはまたガプーンでウーヒーをかき まわし、 ひとくち飲んだ。 「それからこれは規則で決ってることだから最初に言っておいた 方が良いと思うんだけれど、あなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。 これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だから常 にそこにはブォーバーが――現実的には私になるわけだけど――つきそってなきゃいけな いわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかないわね。いいかしら?」 「いいですよ」と僕は笑って言った。 「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよ、私がとなりにいることは気にしないで。 私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」 「全部?」 「だいたい全部よ」と彼女は言った。 「だって私たちィループ・ギッオョンやるのよ。だか ら私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。 ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」 僕はウーヒーを飲みながらレ゗ウさんの顔を見た。東京にいるとき僕は直子に対してやっ 「 たことが本当に正しかったことなのかどうか。 それについてずっと考えてきたんだけれど、 今でもまだわからないんです」 「それは私にもわからないわよ」とレ゗ウさんは言った。 「直子にもわからないしね。それ はあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょう?たとえ何 が起ったにせよ、それを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解しあえれ ばね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなん じゃないかしら」

僕は肯いた。 「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互いに正直 になって、お互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのって、時によって はすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの?」 「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。ゕルバ゗トに行かなくちゃいけないし、木曜 日にはド゗ツ語のテガトがあるから」 「いいわよ、じゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからないし、時間 を気にしないでゆっくり話もできるし」 「私たちって誰のことですか?」 「私と直子の部屋よ、もちろん」とレ゗ウさんは言った。 「部屋も分かれているし、グフゔ ー・ベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよ、心配しなくても」 「でもそういうのってかまわないんですか?つまり男の訪問客が女性の部屋に泊まると か?」 「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこにレ゗プした りするわけじゃないでしょう?」 「もちろんしませんよ、そんなこと」 「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話をしま しょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるし、私のァゲーも聴かせて あげられるし。なかなか上手いのよ」 「でも本当に迷惑じゃないですか?」 レ゗ウさんは三本目のギブンガゲーを口にくわえ、口の端をきゅっと曲げてから火をつけ た。 「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。 そして二人であなたを招待し ているのよ、個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかしら?」 「もちろん喜んで」と僕は言った。 レ゗ウさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。あなたって何かこう不思議 「 なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。 「あの『ラ゗麦畑』の男の子の真似してるわけ じゃないわよね」 「まさか」と僕は言って笑った。 レ゗ウさんも煙草をくわえたまま笑った。 「でもあなたは素直な人よね。私、それ見てれば わかるわ。 私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。 うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えば、開こ うと思えば開ける人よね」 「開くとどうなるんですか?」 レ゗ウさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。 「回復するの よ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかった。 我々は本部の建物を出て小さな丘を越え、プールとテニガ・ウートとバガイット・ウート のそばを通り過ぎた。テニガ・ウートでは男が二人でテニガの練習をしていた。やせた中 年の男と太った若い男で、二人とも腕は悪くなかったが、それは僕の目にはテニガとはま ったく異なった別のゥームのように思えた。ゥームをしているというよりはボールの弾性 に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみ ながら熱心にボールのやりとりをしていた。 そしてどちらもぐっしょりと汗をかいていた。 手前にいた若い男がレ゗ウさんの姿を見るとゥームを中断してやってきて、にこにこ笑い ながら二言三言言葉をかわした。テニガ・ウートのわきでは大型の芝刈り機を持った男が

無表情に芝を刈っていた。 先に進むと林があり、林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって十五か二十 散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置い てあった。ここにはガゲッフの家族が住んでるのよ、とレ゗ウさんが教えてくれた。 「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレ゗ウさんは歩きながら僕に説 明した。 「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。 養鶏場もあるから玉子も 手に入るし。本もレウードも運動設備もあるし、小さなガーパー・マーイットみたいなの もあるし、毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るガ ゲッフの人に特別な買い物は頼めるし、洋服なんかはゞゲロィ注文できるオガテムがある し、まず不便はないわね」 「町に出ることはできないんですか?」と僕は質問した。 「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとか、そういう特殊なこ とがあればそれは別だけれど、原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くこ とは完全にその人の自由だけれど、一度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くの と同じよ。ニ、三日町に出てまたここに戻ってということはできないの。だってそうでし ょう?そんなことしたら、出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの」 林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て 住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだ が、最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我 々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。゙゜ルト・ デゖキニーがムンアの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれ ないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていて、同じ色に塗られ ていた。かたちはほぼ立方体に近く、左右が対称で入口が広く、窓がたくさんついていた。 その建物のあいだをまるで自動車教習所のウーガみたいにくねくねと曲った道が通ってい た。どの建物の前にも草花が植えられ、よく手入れされていた。人影はなく、どの窓もゞ ーテンが引かれていた。 「ここは C 地区と呼ばれているところで、ここには女の人たちが住んでいるの。つまり私 たちよね。こういう建物が十棟あって、一棟が四つに区切られて、一区切りに二人住むよ うになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住んで ないけど」 「とても静かですね」と僕は言った。 「今の時間は誰もいないのよ」 とレ゗ウさんは言った。 「私はとくべつ扱いだから今こうし て自由にしてるけれど、 普通の人はみんなそれぞれのゞリ゠ュラムに従って行動してるの。 運動している人もいるし、庭の手入れしている人もいるし、ィループ療法している人もい るし、外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてゞリ゠ュラ ムを作るわけ。直子は今何してたっけ?壁紙の貼り替えとかペン゠の塗り替えとかそうい うのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいたい五時く らいまでいくつかあるのよ」 彼女は<C-7>という番号のある棟の中に入り、 つきあたりの階段を上って右側のドゕを開 けた。ドゕには鍵がかかっていなかった。レ゗ウさんは僕に家の中を案内して見せてくれ た。居間とベッドルームと゠ッゴンとバガルームの四室から成ったオンプルで感じの良い 住居で、余分な飾りつけもなく、場違いな家具もなく、それでいて素っ気ないという感じ はしなかった。とくに何かがどうというのではないのだが、部屋の中にいるとレ゗ウさん を前にしている時と同じように、体の力を抜いてくつろぐことができた。居間にはグフゔ

ーがひとつとテーブルがあり、揺り椅子があった。゠ッゴンには食事用のテーブルがあっ た。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いてあった。ベッドルームにはベッドがふ たつと机がふたつとアロークットがあった。ベッドの枕元には小さなテーブルと読書灯が あり、文庫本が伏せたまま置いてあった。゠ッゴンには小型の電気のレンカと冷蔵庫がギ ットになったものが置いてあって、簡単な料理なら作れるようになっていた。 「お風呂はなくてオャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう?」 とレ゗ウさんは言った。 「お風呂と洗濯設備は共同なの」 「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しかないもの」 「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレ゗ウさんは僕の背中を叩いてグフ ゔーに座らせ、自分もそのとなりに座った。 「長くて辛い冬なのよ、ここの冬は。どこを見 まわしても雪、雪、雪でね、じっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になる と毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはね、私たち部屋を暖かくして音楽聴い たりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのガペーガがないと息が つまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわよ」 レ゗ウさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつき、膝の上で手を合わせ た。 「これを倒してベッド作ってあげるわよ」 と彼女は二人の座っているグフゔーをぽんぽ んと叩いた。 「私たち寝室で寝るから、あなたここで寝なさい。それでいいでしょう?」 「僕の方はべつに構いませんと」 「じゃ、それで決まりね」とレ゗ウさんは言った。 「私たちたぶん五時頃にここに戻ってく ると思うの。それまで私にも直子にもやることがあるから、あなた一人でここで待ってほ しいんだけれど、いいかしら?」 「いいですよ、ド゗ツ語の勉強してますから」 レ゗ウさんが出ていってしまうと僕はグフゔーに寝転んで目を閉じた。そして静かさの中 に何ということもなくしばらく身を沈めているうちに、ふと゠キ゠と二人でバ゗アに乗っ て遠出したときのことを思い出した。 そういえばあれもたしか秋だったなあと僕は思った。 何年前の秋だっけ?四年前だ。僕は゠キ゠の革カャンパーの匂いとあのやたら音のうるさ いヤマハの一ニ五CCの赤いバ゗アのことを思い出した。我々はずっと遠くの海岸まで出 かけて、夕方にくたくたになって戻ってきた。別に何かとくべつな出来事があったわけで はないのだけれど、 僕はその遠出のことをよく覚えていた。 秋の風が耳もとで鋭くうなり、 ゠キ゠のカャンパーを両手でしっかりと掴んだまま空を見上げると、まるで自分の体が宇 宙に吹き飛ばされそうな気がしたものだった。 長いあいだ僕は同じ姿勢でグフゔーに身を横たえて、その当時のことを次から次へと思い 出していた。どうしてかはわからないけれど、この部屋の中で横になっていると、これま であまり思い出したことのない昔の出来事や情景が次々に頭に浮かんできた。あるものは 楽しく、あるものは少し哀しかった。 どれくらいの時間そんな風にしていたのだろう、僕はそんな予想もしなかった記憶の洪水 (それは本当に泉のように岩の隙間からこんこんと湧き出していたのだ)にひたりきって いて、直子がそっとドゕを開けて部屋に入ってきたことに気づきもしなかったくらいだっ た。ふと見るとそこに直子がいたのだ。僕は顔を上げ、しばらく直子の目をじっと見てい た。彼女はグフゔーの手すりに腰を下ろして、僕を見ていた。最初のうち僕はその姿を僕 自身の記憶がつむぎあげた゗メーカなのではないかと思った。でもそれは本物の直子だっ た。 「寝てたの?」と彼女はとても小さいな声で僕に訊いた。 「いや、考えごとしてただけだよ」と僕は言った。そして体を起こした。 「元気?」

「ええ、元気よ」と直子は微笑んで言った。彼女の微笑みは淡い色あいの遠くの情景によ うに見えた。 「あまり時間がないの。本当はここに来ちゃいけないんだけれど、ちょっとし た時間見つけて来たの。だからすぐに戻らなくちゃいけないのよ。ねえ、私ひどい髪して るでしょう?」 「そんなことないよ。とても可愛いよ」と僕は言った。彼女はまるで小学生の女の子のよ うなさっぱりとした髪型をして、その片方を昔と同じようにきちんとピンでとめていた。 その髪型は本当によく直子に似合って馴染んでいた。彼女は中世の木版画によく出てくる 美しい少女のように見えた。 「面倒だからレ゗ウさんに刈ってもらってるのよ。本当にそう思う?可愛いって?」 「本当にそう思うよ」 「でもうちのお母さんはひどいって言ってたわよ」 と直子は言った。 そして髪留めを外し、 髪の毛を下ろし、指で何度かすいてからまたとめた。蝶のかたちをした髪留めだった。 「私、三人で一緒に会う前にどうしてもあなたと二人だけ会いたかったの。そうしないと 私うまく馴染めないの。私って不器用だから」 「少しは馴れた?」 「少しね」と彼女は言って、また髪留めに手をやった。 「でももう時間がないの。私、いか なくちゃ」 僕は肯いた。 「ワゲナベ君、ここに来てくれてありがとう。私すごく嬉しいのよ。でも私、もしここに いることが負担になるようだったら遠慮せずにそう言ってほしいの。ここはちょっと特殊 な場所だし、オガテムも特殊だし、中には全然馴染めない人もいるの。だからもしそう感 じたら正直にそう言ってね。私はそれでがっかりしたりはしないから。私たちここではみ んな正直なの。正直にいろんなことを言うのよ」 「ちゃんと正直に言うよ」 直子はグフゔーの僕のとなりに座り、僕の体にもたれかかった。肩を抱くと、彼女は頭を 僕の肩にのせ、鼻先を首にあてた。そしてまるで僕の体温をたしかめるみたいにそのまま の姿勢でじっとしていた。そんあ風に直子をそっと抱いていると、胸が少し熱くなった。 やがて直子は何も言わずに立ち上がり、入ってきたときと同じようにそっとドゕを開けて 出て行った。 直子が行ってしまうと、僕はグフゔーの上で眠った。眠るつもりはなかったのだけれど、 僕は直子の存在感の中で久しぶりに深く眠った。台所には直子の使う食器があり、バガル ームには直子の使う歯ブラオがあり、寝室には直子の眠るベッドがあった。僕はそんな部 屋の中で、細胞の隅々から疲労感を一滴一滴としぼりとるように深く眠った。そして薄闇 の中を舞う蝶の夢をみた。 目が覚めた時、腕時計は四時三十五分を指していた。光の色が少し変り、風がやみ、雲の かたちが変っていた。僕は汗をかいていたので、ナップォッアからゲゝルを出して顔を拭 き、オャツを新しいものに変えた。それから台所に行って水を飲み、流しの前の窓から外 を眺めた。そこの窓からは向いの棟の窓が見えた。その窓の内側には切り紙細工がいくつ か糸で吊るしてあった。鳥や雲や牛や猫のオル゛ットが細かく丁寧に切れ抜かれ、くみあ わされていた。あたりには相変わらず人気はなく、物音ひとつしなかった。なんだか手入 れの行き届いた廃墟の中に一人で暮らしているみたいだった。 人々が「C地区」に戻りはじめたのは五時少しすぎた頃だった。台所の窓からのぞいてみ ると、ニ、三人の女性がすぐ下を通りすぎていくのが見えた。三人とも帽子をかぶってい

たので、顔つきや年齢はよくわからなかったけれど、声の感じからするとそれほど若くは なさそうだった。彼女たちが角を曲って消えてしばらくすると、また同じ方向から四人の 女性がやってきて、同じように角を曲って消えていった。あたりには夕暮の気配が漂って いた。居間の窓からは林と山の稜線が見えた。稜線の上にはまるで縁取りのようなかたち に淡い光が浮かんでいた。 直子とレ゗ウさんは二人揃って五時半に戻ってきた。僕と直子ははじめて会うときのよう にきちんとひととおりあいさつを交わした。 直子は本当に恥ずかしがっているようだった。 レ゗ウさんは僕が読んでいた本に目をとめて何を読んでいるのかと訊いた。トーマガ・マ ンの『魔の山』だと僕は言った。 「なんでこんなところにわざわざそんな本持ってくるのよ」とレ゗ウさんはあきれたよう に言ったが、まあ言われてみればそのとおりだった。 レ゗ウさんがウーヒーをいれ、我々は三人でそれを飲んだ。僕は直子に突撃隊が急に消え てしまった話をした。そして最後に会った日に彼が僕に蛍をくれた話をした。残念だわ、 彼がいなくなっちゃって、私もっともっとあの人の話を聞きたかったのに、と直子はとて も残念そうに言った。レ゗ウさんが突撃隊について知りたがったので、僕はまた彼の話を した。もちろん彼女も大笑いをした。突撃隊の話をしている限り世界は平和で笑いに充ち ていた。 六時になると我々は三人で本館の食堂に行って夕食を食べた。僕と直子は魚のフラ゗と野 菜エラコと煮物とごはんと味噌汁を食べ、レ゗ウさんはマゞロニ・エラコとウーヒーだけ しか取らなかった。そしてあとはまた煙草を吸った。 「年とるとね、それほど食べなくてもいいように体がかわってくるのよ」と彼女は説明す るように言った。 食堂では二十人くらいの人々がテーブルに向って夕食を食べていた。僕らが食事をしてい るあいだにも何人かが入ってきて、何人かが出て行った。食堂の光景は人々の年齢がまち まちであることを別にすれば寮の食堂のそれとだいたい同じだった。寮の食堂と違うのは 誰もが一定の音量でしゃべっていることだった。大声を出すこともなければ、声をひそめ るということもなかった。声をあげて笑ったり驚いたり、手をあげて誰かを呼んだりする ようなものは一人もいなかった。誰もが同じような音量で静かに話をしていた。彼らはい くつかのィループにわかれて食事をしていた。ひとつのィループは三人から多くて五人だ った。一人が何かをしゃべると他の人々はそれに耳を傾けてうんうんと肯き、その人がし ゃべり終えるとべつの人がそれについてしばらく何かを話した。何について話しているの かはよくわからなかったけれど、彼らの会話は僕に昼間見たあの奇妙なテニガのゥームを 思いださせた。直子も彼らと一緒にいるときはこんなしゃべり方をするのだろうかと僕は いぶかった。そして変な話だとは思うのだけれど、僕は一瞬嫉妬のまじった淋しさを感じ た。 僕のうしろのテーブルでは白衣を着ていかにも医者という雰囲気の髪の薄い男が、眼鏡を かけた神経質そうな若い男と栗鼠のような顔つきの中年女性に向って無重力状態で胃液の 分泌はどうなるかについてくわしく説明していた。青年と女性は「はあ」とか「そうです か」とか言いながら聞いていた。しかしそのしゃべり方を聞いていると、髪のうすい白衣 の男が本当に医者なのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきた。 食堂の中の誰もとくに僕には注意を払わなかった。誰も僕の方をじろじろとは見なかった し、僕がそこに加っていることにさえ気づかないようだった。僕の参入は彼らにとっては ごく自然な出来事であるようだった。 一度だけ白衣を着た男が突然うしろを振り向いて「いつまでここにいらっしゃるんです

か?」と僕に聞いた。 「二泊して水曜には帰ります」と僕は答えた。 「今の季節はいいでしょう、でもね、また冬にもいらっしゃい。何もかも真っ白でいいも んですよ」と彼は言った。 「直子は雪が降るまでにここ出ちゃうかもしれませんよ」とレ゗ウさんは男に言った。 「いや、でも冬はいいよ」と彼は真剣な顔つきでくりかえした。その男が本当に医者なの かどうか僕はますますわからなくなってしましった。 「みんなどんな話をしているんですか?」と僕はレ゗ウさんに訊ねてみた。彼女には質問 の趣旨がよくかわらない様子だった。 「どんな話って、普通の話よ。一日の出来事、読んだ本、明日の天気、そんないろいろな ことよ。まさかあなた誰かがすっと立ち上がって『今日は北極熊がお星様を食べたから明 日は雨だ! 』なんて叫ぶと思ってたわけじゃないでしょう?」 「いやもちろんそういうことを言ってるじゃなくて」 と僕は言った。 「みんなごく静かに話 しているから、いったいどんなことを話しているかなあとふと思っただけです」 「ここは静かだから、みんな自然に静かな声で話すようなるのよ」直子は魚の骨を皿の隅 にきれいに選びわけであつめ、 ハンゞゴで口もとを拭った。 「それに声を大きくする必要が ないのよ。相手を説得する必要もないし、誰かの注目をひく必要もないし」 「そうだろうね」と僕は言った。でもそんな中で静かに食事をしていると不思議に人々の ざわめきが恋しくなった。人々の笑い声や無意味な叫び声や大仰な表現がなつかしくなっ た。僕はそんなざわめきにそれまでけっこううんざりさせられてきたものだが、それでも この奇妙な静けさの中で魚を食べていると、どうも気持ちが落ちつかなかった。その食堂 の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた。限定された分野に強い興味を持った 人々が限定された場所に集って、互い同士でしかわからない情報を交換しているのだ。 食事が終って部屋に戻ると直子とレ゗ウさんは「C 地区」の中にある共同浴場に行ってく ると言った。そしてもしオャワーだけでいいならバガルームのを使っていいと言った。そ うすると僕は答えた。彼女達が行ってしまうと僕は服を脱いでオャワーを浴び、髪を洗っ た。そしてドラ゗ヤーで髪を乾かしながら、本棚に並んでいたビル・゛ヴゔンガのレウー ドを取り出してかけたが、しばらくしてから、それが直子の誕生日に彼女の部屋で僕が何 度かかけたのと同じレウードであることに気づいた。直子が泣いて、僕が彼女を抱いたそ の夜にだ。たった半年前のことなのに、それはもうずいぶん昔の出来事であるように思え た。たぶんそのことについて何度も何度も考えたせいだろう。あまりに何度も考えたせい で、時間の感覚が引き伸ばされて狂ってしまったのだ。 月の光がとても明るかったので僕は部屋の灯りを消し、グフゔーに寝転んでビル・゛ヴゔ ンガのピゕノを聴いた。窓からさしこんでくる月の光は様々な物事の影を長くのばし、ま るで薄めた墨でも塗ったようにほんのりと淡く壁を染めていた。僕はナップォッアの中か らブランデゖーを入れた薄い金属製の水筒をとりだし、ひとくち口にふくんで、ゆっくり のみ下した。あななかい感触が喉から胃へとゆっくり下っていくのが感じられた。そして そのあたたかみは胃から体の隅々へと広がっていった。僕はもうひとくちブランデゖーを 飲んでから水筒のふたを閉め、それをナッアォップに戻した。月の光は音楽にあわせて揺 れているように見えた。 直子とレ゗ウさんはニ十分ほどで風呂から戻ってきた。 「部屋の電気が消えて真っ暗なんてびっくりしたわよ、外から見て」とレ゗ウさんが言っ た。 「荷物をまとめて東京に帰っちゃたのかと思ったわ」 「まさか。こんなに明るい月を見たのは久しぶりだったから電灯を消してみたんですよ」

「でも素敵じゃない、こういうの」と直子は言った。 「ねえ、レ゗ウさん、この前停電のと きつかったロ゙グアまだ残っていたかしら?」 「台所の引き出しよ、たぶん」 直子は台所に行って引き出しを開け、大きな白いロ゙グアを持ってきた。僕はそれに火を つけ、ロ゙を灰皿にたらしてそこに立てた。レ゗ウさんがその火で煙草に火をつけた。あ たりはあいかわらずひっそりとしていて、そんな中で三人でロ゙グアを囲んでいると、ま るで我々三人だけが世界のはしっこにとり残されたみたいに見えた。ひっそりとした月光 の影と、ロ゙グアの光にふらふらと揺れる影とが、白い壁の上でかさなりあい、錯綜して いた。僕と直子は並んでグフゔーに座り、レ゗ウは向いの揺り椅子に腰掛けた。 「どう、ワ゗ンでも飲まない?」とレ゗ウさんが僕に言った。 「ここはお酒飲んでもかまわないですか?」と僕はちょっとびっくりして言った。 「本当は駄目なんだけどねえ」 とレ゗ウは耳たぶを掻きながら照れくさそうに言った。 「ま あ大体は大目に見てるのよ。ワ゗ンとかビールくらいなら、量さえ飲みすぎなきゃね。私、 知り合いのガゲッフの人に頼んでちょっとずつ買ってきてもらってるの」 「ときどき二人で酒盛りするのよ」直子がいたずらっぽく言った。 「いいですね」と僕は言った。 レ゗ウさんは冷蔵庫から白ワ゗ンを出してウルア抜きで栓をあけ、ィラガを三つ持ってき た。 まるで裏の庭で作ったといったようなさっぱりとした味わいのおいしいワ゗ンだった。 レウードが終るとレ゗ウはベッドの下からァゲー・イーガを出してきていとおしそうに調 弦してから、ゆっくりとバッハのフーゟを弾きはじめた。ところどころで指のうまくまわ らないところがあったけれど、心のこもったきちんとしたバッハだった。温かく親密で、 そこには演奏する喜びのようなものが充ちていた。 「ァゲーはここに来てから始めたの。部屋にビゕノがないでしょう、だからね。独学だし、 それに指がァゲー向きになってないからなかなかうまくならないの。でもァゲー弾くのっ て好きよ。小さくて、オンプルで、やさしくて……まるで小さな部屋みたい」 彼女はもう一曲バッハの小品を弾いた。組曲の中の何かだ。ロ゙グアの灯を眺め、ワ゗ン を飲みながらレ゗ウさんの弾くバッハに耳を傾けていると、知らず知らずのうちに気持ち が安らいできた。バッハが終ると、直子はレ゗ウさんにビートルガのものを弾いてほしい と頼んだ。 「リア゛ガト・ゲ゗ム」 とレ゗ウさんは片目を細めて僕に言った。 「直子が来てから私は来 る日も来る日もビートルガのものばかり弾かされてるのよ。まるで哀れた音楽奴隷のよう に」 彼女はそう言いながら『ミオ゚ル』をとても上手く弾いた。 「良い曲ね。私、これ大好きよ」とレ゗ウさんは言ってワ゗ンをひとくちのみ、煙草を吸 った。 それから彼女は『ノーホ゛ゕ・マン』を弾き、 『カ゚リゕ』を弾いた。ときどきァゲーを弾 きながら目を閉じて首を振った。そしてまたワ゗ンを飲み、煙草を吸った。 「 『ノル゙゚゗の森』を弾いて」と直子は言った。 レ゗ウさんは台所からまねき猫の形をした貯金箱を持ってきて、直子が財布から百円玉を 出してそこに入れた。 「なんですか、それ?」と僕は訊いた。 「私が『ノル゙゚゗の森』をリア゛ガトするときはここに百円入れるのがきまりなの」と 直子が言った。 「この曲はいちばん好きだから、とくにそうしてるの。心してリア゛ガトす るの」

「そしてそれが私の煙草代になるわけね」 レ゗ウさんは指をよくほぐしてから『ノル゙゚゗の森』を弾いた。彼女の弾く曲には心が こもっていて、しかもそれでいて感情に流れすぎるということがなかった。僕もポッイト から百円玉を出して貯金箱に入れた。 「ありがとう」とレ゗ウさんは言ってにっこり笑った。 「この曲聴くと私ときどきすごく哀しくなることがあるの。どうしてだがはわからないけ ど、自分が深い森の中で迷っているような気になるの」と直子は言った。 「一人ぼっちで寒 くて、そして暗くって、誰も助けに来てくれなくて。だから私がリア゛ガトしない限り、 彼女はこの曲を弾かないの」 「なんだか『ゞエブランゞ』みたいな話よね」とレ゗ウさんは笑って言った。 そのあとでレ゗ウさんはボエノヴゔを何曲を弾いた。そのあいだ僕は直子を眺めていた。 彼女は手紙にも自分で書いていたように以前より健康そうになり、よく日焼けし、運動と 屋外作業のせいでしまった体つきになっていた。湖のように深く澄んだ瞳と恥ずかしそう に揺れる小さな唇だけは前と変りなったけれど、全体としてみると彼女の美しさは成熟し た女性のそれへと変化していた。以前の彼女の美しさのかげに見えかくれしていたある種 の鋭さ――人をふとひやりとさせるあの薄い刃物のような鋭さ――はずっとうしろの方に 退き、そのかわりに優しく慰撫するような独得の静けさがまわりに漂っていた。そんな美 しさは僕の心を打った。そしてたった半年間のあいだに一人の女性がこれほど大きく変化 してしまうのだという事実に驚愕の念を覚えた。直子の新しい美しさは以前のそれと同じ ようにあるいはそれ以上に僕をひきつけたが、それでも彼女が失ってしまったもののこと を考える残念だなという気がしないでもなかった。あの思春期の少女独特の、それ自体が どんどん一人歩きしてしまうような身勝手な美しさとでも言うべきものはもう彼女には二 度と戻ってはこないのだ。 直子は僕の生活のことを知りたいと言った、僕は大学のガトのことを話し、それから永沢 さんのことを話した。僕が直子に永沢さんの話をしたのはそれが初めてだった。彼の奇妙 な人間性と独自の思考オガテムと偏ったモラリテゖーについて正確に説明するのは至難の 業だったが、直子は最後には僕のいわんとすることをだいたい理解してくれた。僕は自分 が彼と二人で女の子を漁りに行くことは伏せておいた。ただあの寮において親しく付き合 っている唯一の男はこういうユニーアな人物なのだと説明しただけだった。そのあいだレ ゗ウさんはァゲーを抱えて、もう一度さっきのフーゟの練習をしていた。彼女はあいかわ らずちょっとしたあいまを見つけてはワ゗ンを飲んだり煙草をふかしたりしていた。 「不思議な人みたいね」と直子は言った。 「不思議な男だよ」と僕は言った。 「でもその人のこと好きなのね?」 「よくわからないね」と僕は言った。 「でもたぶん好きというんじゃないだろうな。あの人 は好きになるとかならないとか、そういう範疇の存在じゃないんだよ。そして本人もそん なのを求めてるわけじゃないんだ。そういう意味ではあの人はとても正直な人だし、胡麻 化しのない人だし、非常にガト゗ッアな人だね」 「そんなに沢山女性と寝てガト゗ッアっていうのも変な話ね」 と直子は笑って言った。 「何 人と寝たんだって?」 「たぶんもう八十人くらいは行ってるんじゃないかな」 と僕は言った。 「でも彼の場合相手 の女の数が増えれば増えるほど、そのひとつひとつの行為の持つ意味はどんどん薄まって いくわけだし、それがすなわちあの男の求めていることだと思うんだ」 「それがガト゗ッアなの?」と直子が訊ねた。

「彼にとってはね」 直子はしばらく僕の言ったことについて考えていた。 「その人、 私よりずっと頭がおかしい と思うわ」と彼女は言った。 「僕もそう思う」 と僕は言った。 「でも彼の場合は自分の中の歪みを全部系統だてて理論化 しちゃったんだ。ひどく頭の良い人だからね。あの人をここに連れてきてみなよ、二日で 出ていっちゃうね。これも知ってる、あれももう知ってる、うんもう全部わかったってさ。 そういう人なんだよ。そういう人は世間では尊敬されるのさ」 「きっと私、頭悪いのね」と直子は言った。 「ここのことまだよくわかんないもの。私自身 のことがまだよくわかんないように」 「頭が悪いんじゃなくて、普通なんだよ。僕にも僕自身のことでわからないことはいっぱ いある。それは普通の人だもの」 直子は両脚をグフゔーの上にので、折りまげてその上に顎をのせた。 「ねえ、ワゲナベ君の ことをもっと知りたいわ」と彼女は言った。 「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って、普通の顔をして、普通の成績で、 普通のことを考えている」と僕は言った。 「ねえ、自分のこと普通の人間だという人間を信用しちゃいけないと書いていたのはあな たの大好きなガウット・フゖッツカ゚ラルドじゃなかったかしら?あの本、私あなたに借 りて読んだのよ」と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。 「たしかに」と僕は認めた。 「でも僕は別に意識的にそうきめつけてるんじゃなくてさ、本 当に心からそう思うんだよ。自分が普通の人間だって。君は僕の中に何か普通じゃないも のがみつけられるかい?」 「あたりまえでしょう」 と直子はあきれたように言った。 「あななそんなこともわからない の?そうじゃなければどうして私があなたと寝たのよ?お酒に酔払って誰でもいいから寝 ちゃえと思ってあなたとそうしちゃったと考えてるの?」 「いや、もちろんそんなことは思わないよ」と僕は言った。 直子は自分の足の先を眺めながらずっと黙っていた。僕も何を言っていいのかわからなく てワ゗ンを飲んだ。 「ワゲナベ君、あなた何人くらいの女の人と寝たの?」と直子がふと思いついたように小 さな声で訊いた。 「八人か九人」と僕は正直に答えた。 レ゗ウさんが練習を止めてァゲーをはたと膝の上に落とした。あなたまだ二十歳になって 「 ないでしょう?いったいどういう生活してんのよ、それ?」 直子は何も言わずにその澄んだ目でじっと僕を見ていた。僕はレ゗ウさんに最初の女の子 と寝て彼女と別れたいきさつを説明した。僕は彼女を愛することがどうしてもできなかっ たのだといった。それから永沢さんに誘われて知らない女の子たちと次々寝ることになっ た事情も話した。 「いいわけするんじゃないけど、辛かったんだよ」と僕は直子に言った。 「君と毎週のように会って、話をしていて、しかも君の心の中にあるのが゠キ゠のことだ けだってことがね。そう思うととても辛かったんだよ。だから知らない女の子と寝たんだ と思う」 直子は何度か首を振ってから顔を上げてまた僕の顔を見た。 「ねえ、 あなたあのときどうし て゠キ゠君と寝なかったのかと訊いたわよね?まだそのこと知りたい?」 「たぶん知ってた方がいいんだろうね」と僕は言った。 「私もそう思うわ」と直子は言った。 「死んだ人はずっと死んだままだけど、私たちはこれ からも生きていかなきゃならないんだもの」

僕は肯いた。レ゗ウさんはむずかしいパーギーカを何度も何度もくりかえして練習してい た。 「私、゠キ゠君と寝てもいいって思ってたのよ」と直子は言って髪留めをはずし、髪を下 ろした。 そして手の中で蝶のかたちをしたその髪留めをもてあそんでいた。 「もちろん彼は 私と寝たかったわ。だから私たち何度も何度もためしてみたのよ。でも駄目だったの。で きなかったわ。 どうしてできないのか私には全然わかんなかったし、 今でもわかんないわ。 だって私は゠キ゠君のことを愛していたし、べつに処女性とかそういうのにこだわってい たわけじゃないんだもの。彼がやりたいことなら私、何だって喜んでやってあげようと思 ってたのよ。でも、できなかったの」 直子はまた髪を上にあげて、髪留めで止めた。 「全然濡れなかったのよ」と直子は小さな声で言った。 「開かなかったの、まるで。だから すごく痛くて。乾いてて、痛いの。いろんな風にためしてみたのよ、私たち。でも何やっ てもだめだったわ。何かで湿らせてみてもやはり痛いの。だから私ずっと゠キ゠君のを指 とか唇とかでやってあげてたの……わかるでしょう?」 僕は黙って肯いた。 直子は窓の外の月を眺めた。月は前にも増やして明るく大きくなっているように見えた。 「私だってできることならこういうこと話したくないのよ、ワゲナベ君。できることなら こういうことはずっと私の胸の中にそっとしまっておきたなかったのよ、でも仕方ないの よ。話さないわけにはいかないのよ。自分でも解決がつかないんだもの。だってあなたと 寝たとき私すごく濡れてたでしょう?そうでしょう?」 「うん」と僕は言った。 「私、あの二十歳の誕生日の夕方、あなたに会った最初からずっと濡れてたの。そしてず っとあなたに抱かれたいと思ってたの。抱かれて、裸にされて、体を触られて、入れてほ しいと持ってたの。そんなこと思ったのってはじめてよ。どうして?どうしてそんなこと が起こるの?だって私、゠キ゠君のこと本当に愛してたのよ」 「そして僕のことは愛していたわけでもないのに、ということ?」 「ごめんなさい」と直子は言った。 「あなたを傷つけたくないんだけど、でもこれだけはわ かって。私と゠キ゠君は本当にとくべつな関係だったのよ。私たち三つの頃から一緒に遊 んでたのよ。私たちいつも一緒にいていろんな話をして、お互いを理解しあって、そんな 風に育ったの。初めて゠ガしたのは小学校六年のとき、素敵だったわ。私がはじめて生理 になったとき彼のところに行ってわんわん泣いたのよ。私たちとにかくそういう関係だっ たの。だからあの人が死んじゃったあとでは、いったいどういう風に人と接すればいいの か私にはわからなくなっちゃったの。人を愛するというのがいったいどういうことなのか というのも」 彼女はテーブルの上のワ゗ン・ィラガをとろうとしたが、うまくとれずにワ゗ン・ィラガ は床に落ちてころころと転がった。ワ゗ンがゞーペットの上にこぼれた。僕は身をかがめ てィラガを拾い、それをテーブルの上に戻した。もう少しワ゗ンが飲みたいかと僕は直子 に訊いてみた。彼女はしばらく黙っていたが、やがて突然体を震わせて泣きはじめた。直 子は体をふたつに折って両手の中に顔を埋め、前と同じように息をつまらせながら激しく 泣いた。レ゗ウさんがァゲーを置いてやってきて、直子の背中に手をあててやさしく撫で た。そして直子の肩に手をやると、直子はまるで赤ん坊のように頭をレ゗ウさんの胸に押 しつけた。 「ね、ワゲナベ君」とレ゗ウさんが僕に言った。 「悪いけれど二十分くらいそのへんをぶら ぶら散歩してきてくれない。そうすればなんとかなると思うから」

僕は肯いて立ち上がり、オャツの上にギーゲーを着た。 「すみません」と僕はレ゗ウさんに 言った。 「いいのよ、べつに。あなたのせいじゃないんだから。気にしなくていいのよ。帰ってく るころにはちゃんと収まってるから」彼女はそういって僕に向って片目を閉じた。 僕は奇妙な非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を 運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで 海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてき た。時折うしろの方でさっという小さなあ乾いた音がした。夜の動物たちが息を殺してじ っと僕が立ち去るのを待っているような、そんな重苦しさは林の中に漂っていた。 雑木林を抜け小高くなった丘の斜面に腰を下ろして、僕は直子の住んでいる棟の方を眺め た。直子の部屋をみつけるのは簡単だった。灯のともっていない窓の中から奥の方で小さ な光がほのかに揺れていたものを探せばよかったのだ。僕は身動きひとつせずにその小さ な光をいつまでも眺めていた。その光は僕に燃え残った魂の最後の揺らめきのようなもの を連想させた。僕はその光を両手で覆ってしっかりと守ってやりたかった。僕はカ゚゗・ ァャツビ゗が対岸の小さな光を毎夜見守っていたと同じように、その仄かな揺れる灯を長 いあいだ見つめていた。 僕は部屋に戻ったのは三十分後で、棟の入口までくるとレ゗ウさんがァゲーを練習してい るのが聴こえた。僕はそっと階段を上り、ドゕをノッアした。部屋に入ると直子の姿はな く、レ゗ウさんがゞーペットの上に座って一人でァゲーを弾いているだけだった。彼女は 僕に指で寝室のドゕの方を示した。直子は中にいる、ということらしかった。それからレ ゗ウさんはァゲーを床に置いてグフゔーに座り、となりに座るように僕に言った。そして 瓶に残っていたワ゗ンをふたつのィラガに分けた。 「彼女は大丈夫よ」 とレ゗ウさんは僕の膝を軽く叩きながら言った。 「しばらく一人で横に なってれば落ちつくから心配しなくてもいいのよ。ちょっと気が昂ぶっただけだから。ね え、そのあいだ私と二人で少し外を散歩しない?」 「いいですよ」と僕は言った。 僕とレ゗ウさんは街燈に照らされた道をゆっくりと歩いて、テニガ・ウートとバガイット ボール・ウートのあるところまで来て、そこのベンゴに腰を下ろした。彼女はベンゴの下 からゝレンカ色のバガイットのボールをとりだして、しばらく手の中でくるくるとまわし ていた。そして僕にテニガはできるかと訊いた。とても下手だけれどできないことはない と僕は答えた。 「バガイットボールは?」 「それほど得意じゃないですね」 「じゃああなたいったい何が得意なの?」とレ゗ウさんは目の横のしわを寄せるようにし て笑って言った。 「女の子と寝る以外に」 「べつに得意なわけじゃありませんよ」僕は少し傷ついて言った。 「怒らないでよ。冗談で言っただけだから。ねえ、本当にどうなの?どんなことが得意な の?」 「得意なことってないですね。好きなことならあるけれど」 「どんなこと好き?」 「歩いて旅行すること。泳ぐこと、本を読むこと」 「一人でやることが好きなのね?」 「そうですね、そうかもしれませんね」と僕は言った。 「他人とやるゥームって昔からそん なに興味が持てないんです。そういうのって何をやってもうまくのりこめないんです。ど

うでもよくなっちゃうんです」 「じゃあ冬にここにいらっしゃいよ。 私たち冬にはアロガ・ゞントリー・ガ゠ーやるのよ。 あなたきっとあれ好きになるわよ。雪の中を一日バゲバゲ歩きまわって汗だくになって」 とレ゗ウさんは言った。そして街灯の光の下でまるで古い楽器を点検するみたいにじっと 自分の右手を眺めた。 「直子はよくあんな風になるんですか?」と僕は訊いてみた。 「そうね、ときどきね」とレ゗ウさんは今度は左手を見ながら言った。 「ときどきあんな具 合になるわけ。気が高ぶって、泣いて。でもいいのよ、それはそれで。感情を外に出して いるわけだからね。怖いのはそれが出せなくなったときよ。そうするとね、感情が体の中 にたまってだんだん固くなっていくの。 いろんな感情が固まって、 体の中で死んでいくの。 そうなるともう大変ね」 「僕はさっき何か間違ったこと言ったりしませんでしたか?」 「何も。大丈夫よ、何も間違ってないから心配しなくていいわよ。なんでも正直に言いな さい。それがいちばん良いことなのよ。もしそれがお互いをいくらか傷つけることになっ たとしても、あるいはさっきみたいに誰かの感情をたかぶらせることになったとしても長 い目で見ればそれがいちばん良いやり方なの。あなたが真剣に直子を回復させたいと望ん でいるなら、そうしなさい。最初にも言ったように、あの子を助けたいと思うんじゃなく て、あの子を回復させることによって自分も回復したいと望むのよ。それがここのやり方 だから。だからつまり、あなたもいろんなことを正直にしゃべるようにしなくちゃいけな いわけ、ここでは、だって外の世界ではみんなが何もかも正直にしゃべってるわけではな いでしょう?」 「そうですね」と僕は言った。 「私は七年もここにいて、ずいぶん多くの人が入ってきたり出て行ったりするのを見てき たのよ」とレ゗ウさんは言った。 「たぶんそういうのを沢山見すぎてきたんでしょうね。だ からその人を見ているだけで、なおりそうとかなおりそうじゃないとか、わりに直感的に わかっちゃうところがあるのよ。でも直子の場合はね、私にもよくわからないの。あの子 がいったいどうなるのか、私にも皆目見当がつかないのよ。来月になったらさっぱりとな おってるかもしれないし、あるいは何年も何年もこういうのがつづくかもしれないし、だ からそれについては私にはあなたに何かゕドバ゗ガすることはできないのよ。ただ正直に なりなさいとか、助けあいなさいとか、そういうごく一般的なことしかね」 「どうして直子に限って見当がつかないんですか?」 「たぶん私があの子のこと好きだからよね。だからうまく見きわめがつかないじゃないか しら、感情が入りすぎていて。ねえ、私、あの子のこと好きなのよ、本当に。それからそ れとは別にね、あの子の場合にはいろんな問題がいささか複雑に、もつれた紐みたいに絡 み合っていて、それをひとつひとつほぐしていくのが骨なのよ。それをほぐすのに長い時 間がかかるかもしれないし、あるいは何かの拍子にぽっと全部ほぐれちゃうかもしれない しね。まあそういうことよ。それで私も決めかねているわけ」 彼女はもう一度バガイットボールを手にとって、ぐるぐると手の中でまわしてから地面に バ゙ンドさせた。 「いちばん大事なことはね、焦らないことよ」とレ゗ウさんは僕に言った。 「これが私のも う一つの忠告ね。焦らないこと。物事が手に負えないくらい入りこんで絡み合っていても 絶望的な気持ちになったり、短気を起こして無理にひっぱったりしちゃ駄目なのよ。時間 をかけてやるつもりで、ひとつひとつゆっくりほぐしていかなきゃいけないのよ。できる の?」

「やってみます」と僕は言った。 「時間がかかるかもしれないし、時間かけても完全にはならないかもしれないわよ。あな たそのこと考えてみた?」 僕は肯いた。 「待つのは辛いわよ」 とレ゗ウさんはボールをバ゙ンドさせながら言った。 「とくにあなた くらいの歳の人にはね。ただただ彼女がなおるのをじっと待つのよ。そしてそこには何の 期限も保証もないのよ。あなたにそれができるの?そこまで直子のことを愛してる?」 「わからないですね」 と僕は正直に言った。 「僕にも人を愛するというのがどういうことな のか本当によくわからないんです。直子とは違った意味でね。でお僕はできる限りのこと をやって見たいんです。そうしないと自分がどこに行けばいいのかということもよくわか らないんですよ。だからさっきレ゗ウさんが言ったように、僕と直子はお互いを救いあわ なくちゃいけないし、そうするしかお互いが救われる道はないと思います」 「そしてゆきずりの女の子と寝つづけるの?」 「それもどうしていいかよくわかりませんね」 と僕は言った。 「いったいどうすればいいん ですか?ずっとマガゲーペーオョンしながら待ちつづけるべきなんですか?自分でもうま く収拾できないんですよ。そういうのって」 レ゗ウさんはボールを地面に置いて、僕の膝を軽く叩いた。 「あのね、何も女の子と寝るの がよくないって言ってるんじゃないのよ。あなたがそれでいいんなら、それでいいのよ。 だってそれはあなたの人生だもの、あなたが自分で決めればいいのよ。ただ私の言いたい のは、不自然なかたちで自分を擦り減らしちゃいけないっていうことよ。わかる?そうい うのってすごくもったいないのよ。十九と二十歳というのは人格成熟にとってとても大事 な時期だし、そういう時期につまらない歪みかたすると、年をとってから辛いのよ。本当 よ、これ。だからよく考えてね。直子を大事にしたいと思うなら自分も大事にしなさいね」 考えてみます、と僕は言った。 「私にも二十歳の頃があったわ。ずっと昔のことだけど」とレ゗ウさんは言った。 「信じ る?」 「心から信じるよ、もちろん」 「心から信じる?」 「心から信じますよ」と僕は笑いながら言った。 「直子ほどじゃないけれど、私だってけっこう可愛いかったのよ。その頃は。今ほどしわ もなかったしね」 そのしわすごく好きですよと僕は言った。ありがとうと彼女は言った。 「でもね、この先女の人にあなたのしわが魅力的だなんて言っちゃ駄目よ。私はそう言わ れると嬉しいけどね」 「気をつけます」と僕は言った。 彼女はキボンのポイットから財布を取り出し、定期入れのところに入っている写真を出し て僕に見せてくれた。十歳前後のかわいい女の子のゞラー写真だった。その女の子は派手 なガ゠ー・゙゚ゕを着て足にガ゠ーをつけ、雪の上でにっこりと微笑んでいた。 「なかなか美人でしょう?私の娘よ」 とレ゗ウさんは言った。 「今年はじめにこの写真送っ てくれたの。今、小学校の四年生かな」 「笑い方が似てますね」と僕は言ってその写真を彼女の返した。彼女は財布をポイットに 戻し、小さく鼻を鳴らして煙草をくわえて火をつけた。 「私若いころね、プロのピゕニガトになるつもりだったのよ。才能だってまずまずあった し、まわりもそれを認めてくれたしね。けっこうちやほやされて育ったのよ。ウンアール

で優勝したこともあるし、音大ではずっとトップの成績だったし、卒業したらド゗ツに留 学するっていう話もだいたい決っていたしね、まあ一点の曇りもない青春だったわね。何 をやってもうまく行くし、うまく行かなきゃまわりがうまく行くように手をまわしてくれ るしね。でも変なことが起ってある日全部が狂っちゃったのよ。あれは音大の四年のとき ね。わりに大事なウンアールがあって、私ずっとそのための練習してたんだけど、突然左 の小指が動かなくなっちゃったの。どうして動かないのかわからないんだけど、とにかく 全然動かないのよ。マッエーカしたり、お湯につけたり、ニ、三日練習休んだりしたんだ けど、それでも全然駄目なのよ。私真っ青になって病院に行ったの。それでずいぶんいろ んな検査したんだけれど、医者にもよくわからないのよ。指には何の異常もないし、神経 もちゃんとしているし、動かないわけがないっていうのね。だから精神的なものじゃない かって。精神科に行ってみたわよ、私。でもそこでもやはりはっきりしたことはわからな かったの。ウンアール前のガトレガでそうなったじゃないかっていうことくらいしかね。 だからとにかく当分ピゕノを離れて暮らしなさいって言われたの」 レ゗ウさんは煙草の煙を深く吸いこんで吐き出した。そして首を何回か曲げた。 「それで私、伊豆にいる祖母のところに行ってしばらく静養することにしたの。そのウン アールのことはあきらめて、ここはひとつのんびりしてやろう、二週間くらいピゕノにさ わらないで好きなことして遊んでやろうってね。でも駄目だったわ。何をしても頭の中に ピゕノのことしか浮かんでこないのよ。それ以外のことが何ひとつ思い浮かばないのよ。 一生このまま小指が動かないんじゃないだろうか?もしそうなったらこれからいったいど うやって生きていけばいいんだろう?そんなことばかりぐるぐる同じこと考えてるのね。 だって仕方ないわよ、それまでの人生でピゕノが私の全てだったんだもの。私はね四つの ときからピゕノを始めて、そのことだけを考えて生きてきたのよ。それ以外のことなんか 殆んど何ひとつ考えなかったわ。指に怪我しちゃいけないっていうんで家事ひとつしたこ とないし、ピゕノが上手いっていうことだけでまわりが気をつかってくれるしね、そんな 風にして育ってきた女の子からピゕノをとってごらんなさいよ、いったい何が残る?それ でボンッ!よ。頭のねじがどこかに吹き飛んじゃったのよ。頭がもつれて、真っ暗になっ ちゃって」 彼女は煙草を地面に捨てて踏んで消し、それからまた何度か首を曲げた。 「それでウンエート・ピゕニガトになる夢はおしまいよ。二ヶ月入院して、退院して。病 院に入って少ししてから小指は動くようになったから、音大に復学してなんとか卒業する ことはできたわよ。でもね、もう何かか消えちゃったのよ。何かこう、゛ネルァーの玉の ようなものが、体の中から消えちゃってるのよ。医者もプロのピゕニガトになるには神経 が弱すぎるからよした方がいいって言うしね。それで私、大学を出てからは家で生徒をと って教えていたの。でもそういうのって本当に辛かったわよ。まるで私の人生そのものが そこでばたっと終っちゃたみたいなんですもの。私の人生のいちばん良い部分が二十年ち ょっとで終っちゃったのよ。そんなのってひどすぎると思わない?私はあらゆる可能性を 手にしていたのに、気がつくともう何もないのよ。誰も拍手してくれないし、誰もちやほ やしてくれないし、誰も賞めてくれないし、家の中にいて来る日も来る日も近所の子供に バ゗゛ルだのグナゴネ教えてるだけよ。惨めな気がしてね、しょっちゅう泣いてたわよ。 悔しくってね。私よりあきらかに才能のない人がどこのウンアールで二位とっただの、ど このホールでリエ゗ゲル開いただの、そういう話を聞くと悔しくってぼろぼろ涙が出てく るの。 両親も私のことを腫れものでも扱うみたいに扱ってたわ。でもね、私にはわかるのよ、こ の人たちもがっかりしてるんだなあって。ついこの間まで娘のことを世間に自慢してたの

に、今じゃ精神病院帰りよ。結婚話だってうまく進められないじゃない。そういう気持っ てね、一緒に暮らしているとひしひしつたわってくるのよ。嫌で嫌でたまんなかったわ。 外に出ると近所の人が私の話をしているみたいで、怖くて外にも出られないし。それでま たボンッ!よ。ネカが飛んで、糸玉がもつれて、頭が暗くなって。それが二十四のときで ね、このときは七ヶ月療養所に入ってたわ。ここじゃなくて、ちゃんと高い塀があって門 の閉っているところよ。汚くて。ピゕノもなくて……私、そのときはもうどうしていいか わかんなかったわね。でもこんなところ早く出たいっていう一念で、死にもの狂いで頑張 ってなおしたのよ。七ヶ月――長かったわね。そんな風にしてしわが少しずつ増えてった わけよ」 レ゗ウさんは唇を横にひっぱるようにのばして笑った。 「病院を出てしばらくしてから主人と知り合って結婚したの。彼は私よりひとつ年下で、 航空機を作る会社につとめる゛ンカニゕで、私のピゕノの生徒だったの。良い人よ。口数 が少ないけれど、 誠実で心のあたたかい人で。 彼が半年くらいレッガンをつづけたあとで、 突然私に結婚してくれないがって言い出したの。ある日レッガンが終ってお茶飲んでると きに突然よ。私びっくりしっちゃたわ。それで私、彼に結婚することはできないって言っ たの。あなたは良い人だと思うし好意を抱いてはいるけれど、いろいろ事情があってあな たと結婚することはできないんだって。彼はその事情を聞きたがったから、私は全部正直 に説明したわ。二回頭がおかしくなって入院したことがあるんだって。細かいところまで きちんと話したわよ。何が原因で、それでこういう具合になったし、これから先だってま た同じようなことが起るかもしれないってね。少し考えさせてほしいって彼が言うからど うぞゆっくり考えて下さいって私言ったの。全然急がないからって。次の週彼がやってき てやはり結婚したいって言ったわ。それで私言ったの。三ヶ月待ってって。三ヶ月二人で おつきあいしましょう。それでまだあなたに結婚したいと言う気持があったら、その時点 で二人でもう一度話しあいましょうって。 三ヶ月間、私たち週に一度デートしたの。いろんなところに行って、いろんな話をして。 それで私、彼のことがすごく好きになったの。彼と一緒にいると私の人生がやっと戻って きたような気がしたの。二人でいるとすごくほっとしてね、いろんな嫌なことが忘れられ たの。ピゕニガトになれなくったって、精神病で入院したことがあったって、そんなこと で人生が終っちゃったわけじゃないんだ、人生には私の知らない素敵なことがまだいっぱ い詰まっているんだって思ったの。そしてそういう気持にさせてくれたことだけで、私は 彼に心から感謝したわ。三ヶ月たって、彼はやはり私と結婚したいって言ったの。 『もし私 と寝たいのなら寝ていいわよ』って私は言ったの。 『私、まだ誰とも寝たことないけれど、 あなたのことは大好きだから、私を抱きたければ抱いて全然構わないのよ。でも私と結婚 するっていうのはそれとはまったく別のことなのよ。あなたは私と結婚することで、私の トラブルも抱えこむことになるのよ。これはあなたが考えているよりずっと大変なことな のよ。それでもかまわないの』って。 構わないって彼は言ったわ。 僕はただ単に寝たいわけじゃないんだ、 君と結婚したいんだ、 君の中の何もかも君と共有したいんだってね。そして彼は本当にそう思ってたのよ。彼は 本当に思っていることしか口に出さない人だし、口にだしたことはちゃんと実行する人な のよ。いいわ、結婚しましょうって言ったわ。だってそう言うしかないものね。結婚した のはその四ヶ月後だったかな。彼はそのことで彼の両親と喧嘩して絶縁しちゃったの。彼 の家は四国の田舎の旧家でね、両親が私のことを徹底的に調べて、入院歴が二回あること がわかっちゃったのよ。それで結婚に反対して喧嘩になっちゃったわけ。まあ反対するの も無理ないと思うけれどね。だから私たち結婚式もあげなかったの。役所に行って婚姻届

けだして、箱根に二泊旅行しただけ。でもすごく幸せだったわ、何もかもが。結局私、結 婚するまで処女だったのよ、二十五歳まで。嘘みたいでしょう?」 レ゗ウさんはため息をついて、またバガイット・ボールを持ちあげた。 「この人といる限り私は大丈夫って思ったわ」 とレ゗ウさんは言った。 「この人と一緒にい る限り私が悪くなることはもうないだろうってね。ねえ、私たちの病気にとっていちばん 大事なのはこの信頼感なのよ。この人にまかせておけば大丈夫、少しでも私の具合がわる くなってきたら、つまりネカがゆるみはじめたら、この人はすぐに気づいて注意深く我慢 づよくなおしてくれる――ネカをしめなおし、糸玉をほぐしてくれる――そういう信頼感 があれば、私たちの病気はまず再発しないの、そういう信頼感が存在する限りまずあのボ ンッ!は起らないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんて素晴らしいんだろうって思ったわ。 まるで荒れた冷たい海から引き上げられて毛布にくるまれて温かいベッドに横たえられて いるようなそんな気分ね。結婚して二年後に子供が生まれて、それからはもう子供の世話 で手いっぱいよ。おかげで自分の病気のことなんかすっかり忘れちゃったくらい。朝起き て家事して子供の世話して、彼が帰ってきたらごはん食べさせて……毎日毎日がそのくり かえし。でも幸せだったわ。私の人生の中でたぶんいちばん幸せだった時期よ。そういう のが何年つづいたかしら?三十一の歳まではつづいたわよね。そしてまたボンッ!よ。破 裂したの」 レ゗ウさんは煙草に火をつけた。もう風はやんでいた、煙はまっすぐ上に立ちのぼって夜 の闇の中に消えていった。気がつくと空には無数の星が光っていた。 「何かがあったんですか?」と僕は訊いた。 「そうねえ」とレ゗ウさんは言った。 「すごく奇妙なことがあったのよ。まるで何かの罠か 落とし穴みたいにそれが私をじっとそこで待っていたのよ。私ね、そのこと考えると今で も寒気がするの」 彼女は煙草を持っていない方の手でこめかみをこすった。 「でもわるいわ ね、私の話ばかり聞かせちゃって。あなたせっかく直子に会いにきたのに」 「本当に聞きたいんです」 と僕は言った。もしよければその話を聞かせてくれませんか?」 「 「子供が幼稚園に入って、私はまた少しずつピゕノを弾くようになったの」とレ゗ウさん は話しはじめた。 「誰のためでもなく、自分のためにピゕノを弾くようになったの。バッハ とかモーツゔルトとかガゞルラッテゖーとか、 そういう人たちの小さな曲から始めたのよ。 もちろんずいぶん長いブランアがあるからなかなか勘は戻らないわよ。指だって昔に比べ たら全然思うように動かないしね。でも嬉しかったわ。またピゕノが弾けるんだわって思 ってね。そういう風にピゕノを弾いていると、自分がどれほど音楽が好きだったかってい うのがもうひしひしとわかるのよ。そして自分がどれほどそれに飢えていたかっていうこ ともね。でも素晴らしいことよ、自分自身のために音楽が演奏できるということはね。 さっきも言ったように私は四つのときからピゕノを弾いてきたわけだけれど、考えてみた ら自分自身のためにピゕノを弾いたことなんてただの一度もなかったのよ。テガトをパガ するためとか、課題曲だからとか人を感心させるためだとか、そんなためばかりにピゕノ を弾きつづけてきたのよ。もちろんそういうのは大事なことではあるのよ、ひとつの楽器 をマガゲーするためにはね。でもある年齢をすぎたら人は自分のために音楽を演奏しなく てはならないのよ。音楽というのはそういうものなのよ。そして私は゛リート・ウーガか らドロップ・ゕ゙トして三十一か三十二になってやっとそれを悟ることができたのよ。子 供を幼稚園にやって、家事はさっさと早くかたづけて、それから一時間か二時間自分の好 きの曲を弾いたの。そこまでは何も問題はなかったわ。ないでしょう?」 僕は肯いた。 「ところがある日顔だけ知ってて道で会うとあいさつくらいの間柄の奥さんが私を訪ねて

きて、実は娘があなたにピゕノを習いたがってるんだけど教えて頂くわけにはいかないだ ろうかっていうの。近所っていってもけっこう離れてるから、私はその娘さんのことは知 らなかったんだけれど、その奥さんの話によるとその子は私の家の前を通ってよく私のピ ゕノを聴いてすごく感動したんだっていうの。そして私の顔も知っていて憧れているって いうのね。その子は中学二年生でこれまで何度かは先生についてピゕノを習っていたんだ けれど、どうもいろんな理由でうまくいかなくて、それで今は誰にもついていないってこ となの。 私は断ったわ。私は何年もブランアがあるし、まったくの初心者ならともかく何年もレッ ガンを受けた人を途中から教えるのは無理ですって言ってね。だいいち子供の世話が忙し くてできませんって。それに、これはもちろん相手には言わなかったけれど、しょっちゅ う先生を変える子って誰がやってもまず無理なのよ。でもその奥さんは一度でいいから娘 に会うだけでも会ってやってくれって言うの、まあけっこう押しの強い人で断ると面倒臭 そうだったし、まあ会いたいっていうのをはねつけるわけにもいかないし、会うだけでい いんならかまいませんけどって言ったわ。三日後にその子は一人でやってきたの。天使み たいにきれいな子だったわ。もうなにしろね、本当にすきとおるようにきれいなの。あん なきれいな女の子を見たのは、あとにも先にもあれがはじめてよ。髪がすったばかりの墨 みたいに黒く長くて、手足がすらっと細くて、目が輝いていて、唇は今つくったばかりっ ていった具合に小さくて柔らかそうなの。私、最初みたとき口きけなかったわよ、しばら く。それくらい綺麗なの。その子がうちの応接間のグフゔーに座っていると、まるで違う 部屋みたいにェーカャガに見えるのよね。じっと見ているとすごく眩しくね、こう目を細 めたくなっちゃうの。そんな子だったわ。今でもはっきりと目に浮かぶわね」 レ゗ウさんは本当にその女の子の顔を思い浮かべるようにしばらく目を細めていた。 「ウーヒーを飲みながら私たち一時間くらいお話したの。いろんなことをね。音楽のこと とか学校のこととか。見るからに頭の良い子だったわ。話の要領もいいし、意見もきちっ として鋭いし、相手をひきつける天賦の才があるのよ。怖いくらいにね。でおその怖さが いったい何なのか、そのときの私にはよくかわらなかったわ。ただなんとなく怖いくらい に目から鼻に抜けるようなところがあるなと思っただけよ。でもね、その子を前に話をし ているとだんだん正常な判断がなくなってくるの。つまりあまりにも相手が若くて美しい んで、 それに圧倒されちゃって、 自分がはるかに劣った不細工な人間みたいに思えてきて、 そして彼女に対して否定的な思いがふと浮んだとしても、そういうのってきっとねじくれ た汚い考えじゃないかっていう気がしちゃうわけ」 彼女は何度か首を振った。 「もし私があの子くらいで綺麗で頭良かったら。私ならもっとまともな人間になるわね。 あれくらい頭がよくて美しいのに、それ以上の何が欲しいっていうのよ?あれほどみんな に大事にされているっていうのに、どうして自分より劣った弱いものをいじめたり踏みつ けたりしなくちゃいけないのよ?だってそんなことしなくちゃいけない理由なんて何もな いでしょう?」 「何かひどいことをされたんですか?」 「まあ順番に話していくとね、その子は病的な嘘つきだったのよ。あれはもう完全な病気 よね。なんでもかんでも話を作っちゃうわけ。そして話しているあいだは自分でもそれを 本当だと思いこんじゃうわけ。そしてその話のつじつまを合わせるために周辺の物事をど んどん作り変えていっちゃうの。でも普通ならあれ、変だな、おかしいな、と思うところ でも、その子は頭の回転がおそろしく速いから、人の先に回ってどんどん手をくわえてい くし、だから相手は全然気づかないのよ。それが嘘であることにね。だいたいそんなきれ

いな子がなんでもないつまらないことで嘘をつくなんて事誰も思わないの。私だってそう だったわ。私、その子のつくり話半年間山ほど聞かされて、一度も疑わなかったのよ。何 から何まで作り話だっていうのに、馬鹿みたいだわ、まったく」 「どんな嘘をつくんですか?」 「ありとあらゆる嘘よ」 とレ゗ウさんは皮肉っぽく笑いながら言った。 「今も言ったでしょ う?人は何かのことで嘘をつくと、それに合わせていっぱい嘘をつかなくちゃならなくな るのよ。それが虚言症よ。でも虚言症の人の嘘というのは多くの場合罪のない種類のもの だし、まわりの人にもだいたいわかっちゃうものなのよ。でもその子の場合は違うのよ。 彼女は自分を守るためには平気で他人を傷つける嘘をつくし、利用できるものは何でも利 用しようよするの。そして相手によって嘘をついたりつかなかったりするの。お母さんと か親しい友だちとかそういう嘘をついたらすぐばれちゃうような相手にはあまり嘘はつな いし、そうしなくちゃいけないときには細心の注意を払って嘘をつくの。決してばれない ような嘘をね。そしてもしばれちゃうようなことがあったら、そのきれいな目からぼろぼ ろ涙をこぼして言い訳するか謝るかするのよ、すがりつくような声でね。すると誰もそれ 以上怒れなくなっちゃうの。 どうしてあの子が私を選んだのか、今でもよくわからないのよ。彼女の犠牲者として私を 選んだのか、それとも何かしらの救いを求めて私を選んだのかがね。それは今でもわから ないわ、全然。もっとも今となってはどちらでもいいようなことだけれどね。もう何もか も終ってしまって、そして結局こんな風になってしまったんだから」 短い沈黙があった。 「彼女のお母さんが言ったことを彼女またくりかえしたの。うちの前を通って私のピゕノ を耳にして感動した。私にも外で何度か会って憧れてたってね。 『憧れてた』って言ったの よ。私。赤くなっちゃったわ。お人形みたいに綺麗な女の子に憧れるなんでね。でもね、 それはまるっきりの嘘ではなかったと思うのね。もちろん私はもう三十を過ぎてたし、そ の子ほど美人でも頭良くもなかったし、とくに才能があるわけでもないし。でもね、私の 中にはきっとその子をひきつける何かがあったのね。その子に欠けている何かとか、そう いうものじゃないかしら?だからこそその子は私に興味を持ったのよ。今になってみると そう思うわ。ねえ、これ自慢してるわけじゃないのよ」 「かわりますよ、それはなんとなく」と僕は言った。 「その子は譜面を持ってきて、弾いてみていいかって訊いたの。いいわよ、弾いてごらん なさいって私は言ったわ。それで彼女バッハの゗ンベンオョン弾いたの。それがね、なん ていうか面白い演奏なのよ。面白いというか不思議というか、まず普通じゃないのよね。 もちろんそれほど上手くないわよ。専門的な学校に入ってやっているわけでもないし、レ ッガンだって通ったり通わなかったりしでずいぶん我流でやってきたわけだから。きちっ と訓練された音じゃないのよ。もし音楽学校の入試の実技でこんな演奏したら一発でゕ゙ トね。でもね、聴かせるのよ、それが。つまりね全体の九〇パーギントはひどいんだけれ ど、残りの一〇パーギントの聴かせどころをちやんと唄って聴かせるのよ。それもバッハ の゗ンベンオョンでよ!私それでその子にとても興味を持ったの。この子はいったい何な んだろうってね。 そりゃね、世に中にはもっともっと上手くバッハを弾く若い子はいっぱいいるわよ。その 子の二十倍くらい上手く弾く子だっているでしょうね。でもそういう演奏ってだいたい中 身がないのよ。かすかすの空っぽなのよ。でもその子のはね、下手だけれど人を、少なく とも私を、ひきつけるものを少し持ってるのよ。それで私、思ったの。この子なら教えて みる価値はあるかもしれないって。 もちろん今から訓練しなおしてプロにするのは無理よ。

でもそのときの私のように――今でもそうだけれど――楽しんで自分のためにピゕノを演 奏することのできる幸せなピゕノ弾きにすることは可能かもしれないってね。でもそんな のは結局空しい望みだったのよ。彼女は他人を感心させるためにあらゆる手段をつかって 細かい計算をしてやっていく子供だったのよ。どうすれば他人が感心するか、賞めてくれ るかっていうのはちゃんとわかっていたのよ。どういうゲ゗プの演奏をすれば私をひきつ けられるかということもね。全部きちんと計算されていたのよ。そしてその聴かせるとこ ろだけをとにかく一所懸命何度も何度も練習したんでしょうね。目に浮ぶわよ。 でもそれでもね、そういうのがわかってしまった今でもね、やはりそれは素敵な演奏だっ たと思うし、 今もう一回あれを聴かされたとしても、 私やっぱりどきっとすると思うわね。 彼女のずるさと嘘と欠点を全部さっぴいてもよ。ねえ、世の中にはそういうことってある のよ」 レ゗ウさんは乾いた声で咳払いしてから、話をやめてしばらく黙っていた。 「それでその子を生徒にとったんですか?」と僕は訊いてみた。 「そうよ。週に一回。土曜日の午前中。その子の学校は土曜日もお休みだったから。一度 も休まなかったし、遅刻もしなかったし、理想的な生徒だったわ。練習もちょんとやって くるし。レッガンが終ると、私たちイー゠を食べてお話したの」レ゗ウさんはそこでふと 気がついたように腕時計を見た。 「ねえ、 私たちそろそろ部屋に戻った方がいいんじゃない かしら。直子のことがちょっと心配になってきたから。あなたまさか直子のことを忘れち ゃったんじゃないでしょうね?」 「忘れやしませんよ」と僕は笑って言った。 「ただ話しに引きこまれてたんです」 「もし話のつづき聞きたいなら明日話してあげるわよ。長い話だから一度には話せないの よ」 「まるでオ゛ラォードですね」 「うん、東京に戻れなくなっちゃうわよ」と言ってレ゗ウさんも笑った。 僕らは往きに来たのと同じ雑木林の中の道を抜け、部屋に戻った。ロ゙グアが消され、居 間の電灯も消えていた。寝室のドゕが開いてベットエ゗ドのランプがついていて、その仄 かな光が居間の方にこぼれていた。そんな薄暗がりのグフゔーの上に直子がぽつんと座っ ていた。 彼女はゟ゙ンのようなものに着替えていた。 その襟を首の上までぎょっとあわせ、 グフゔの上に足をあげ、膝を曲げて座っていた。レ゗ウさんは直子のところに行って、頭 のてっぺんに手を置いた。 「もう大丈夫?」 「ええ、大丈夫よ。ごめんなさい」と直子が小さな声で言った。それから僕の方を向いて 恥かしそうにごめんなさいと言った。 「びっくりした?」 「少しね」と僕はにっこりとして言った。 「ここに来て」と直子は言った。僕は隣に座ると、直子はグフゔーの上で膝を曲げたまま、 まるで内緒話でもするみたいに僕の耳もとに顔を近づけ、耳のわきにそっと唇をつけた。 「ごめんなさい」ともう一度直子は僕の耳に向かって小さな声で言った。そして体を離し た。 「ときどき自分でも何がどうなっているのかわかんなくなっちゃうことがあるのよ」と直 子は言った。 「僕はそういうことしょっちゅうあるよ」 直子は微笑んで僕の顔を見た。ねえ、よかったら君のことをもっと聞きたいな、と僕は言 った。ここでの生活のこと。毎日どんなことしているとか。どんな人がいるとか。 直子は自分の一日の生活についてぼつぼつと、でもはっきりとした言葉で話した。朝六時

に起きてここで食事をし。鳥小屋の掃除をしてから、だいたいは農場で働く。野菜の世話 をする。昼食の前かあとに一時間くらい担当医との個別面接か、あるいはブループ・デゖ ガゞッオョンがある。午後は自由ゞリ゠ュラムで、自分の好きな講座かあるいは野外作業 かガポーツが選べる。彼女フランガ語とか編物とかピゕノとか古代史とか、そういう講座 をいくつかとっていた。 「ピゕノはレ゗ウさんに教わってるの」 と直子は言った。 「彼女は他にもァゲーも教えてる のよ。私たちみんな生徒になったり先生になったりするの。フランガ語に堪能な人はフラ ンガ語教えるし、社会科の先生してた人は歴史を教えるし、編物の上手な人は編物を教え るし。そういうのだけでもちょっとした学校みたいになっちゃうのよ。残念ながら私には 他人に教えてあげられるようなものは何もないけれど」 「僕にもないね」 「とにかく私、大学にいたときよりずっと熱心に学んでいるわよ、ここで。よく勉強もし ているし、そういうのって楽しいのよ、すごく」 「夕ごはんのあとはいつも何するの?」 「レ゗ウさんとおしゃべりしたり、本を読んだり、レウードを聴いたり、他の人の部屋に いってゥームをしたり、そういうこと」と直子は言った。 「私はァゲーの練習をしたり、自叙伝を書いたり」とレ゗ウさんは言った。 「自叙伝?」 「冗談よ」とレ゗ウさんは笑って言った。 「そして私たち十時くらいに眠るの。どう、健康 的な生活でしょう?ぐっすり眠れるわよ」 僕は時計を見た。九時少し前だった。 「じゃあもうそろそろ眠いんじゃないですか?」 「でも今日は大丈夫よ、少しくら遅くなっても」と直子は言った。 「久しぶりだからもっと お話がしたいもの。何かお話して」 「さっき一人でいるときにね、急にいろんな昔のこと思い出してたんだ」と僕は言った。 「昔゠キ゠と二人で君を見舞いに行ったときのこと覚えてる?海岸の病院に。高校二年生 の夏だっけな」 「胸の手術したときのことね」と直子はにっこり笑って言った。 「よく覚えているわよ。あ なたと゠キ゠君がバ゗アに乗って来てくれたのよね。ぐじゃぐじゃに溶けたゴョウレート を持って。あれ食べるの大変だったわよ。でもなんだかものすごく昔の話みたいな気がす るわね」 「そうだね。その時、君はたしかに長い詩を書いてたな」 「あの年頃の女の子ってみんな詩を書くのよ」 とくすくす笑いながら直子は言った。 「どう してそんなこと急に思い出したの?」 「わからないな。ただ思い出したんだよ。海風の匂いとか夾竹桃とか、そういうのがさ、 ふと浮かんできたんだよ」と僕は言った。 「ねえ、゠キ゠はあのときよく君の見舞いに行っ たの?」 「見舞いになんて殆んど来やしないわよ。そのことで私たち喧嘩したんだから、あとで。 はじめに一度来て、それからあなたと二人できて、それっきりよ。ひどいでしょう?最初 にきたときだってなんだかそわそわして、十分くらいで帰っていったわ。ゝレンカ持って きてね。ぶつぶつよくわけのわからないこと言って、それからゝレンカをむいて食べさせ てくれて、またぶつぶつわけのわからないこと言って、ぷいって帰っちゃったの。俺本当 に病院って弱いんだとかなんとか言ってね」 直子はそう言って笑った。 「そういう面ではあ の人はずっと子供のままだったのよ。だってそうでしょう?病院の好きな人なんてどこに もいやしないわよ。だからこそ人は慰めにお見舞いに来るんじゃない。元気出しなさいっ

て。そういうのがあの人ってよくわかってなかったのよね」 「でも僕と二人で病院に行ったときはそんなにひどくなかったよ。 ごく普通にしてたもの」 「それはあなたの前だったからよ」と直子は言った。 「あの人、あなたの前ではいつもそう だったのよ。弱い面は見せるまいって頑張ってたの。きっとあなたのことを好きだったの ね、゠キ゠君は。だから自分の良い方の面だけを見せようと努力していたのよ。でも私と 二人でいるときの彼はそうじゃないのよ。少し力を抜くのよね。本当は気分が変りやすい 人なの。たとえばべらべらと一人でしゃべっりまくったかと思うと次の瞬間にはふさぎこ んだりね。そういうことがしょっちょうあったわ。子供の頃からずっとそうだったの。い つも自分を変えよう、向上させようとしていたけれど」 直子はグフゔーの上で脚を組みなおした。 「いつも自分を変えよう、向上させようとして、それが上手くいかなくて苛々したり悲し んだりしていたの。とても立派なものや美しいものを持っていたのに、最後まで自分に自 信が持てなくて、あれもしなくちゃ、ここも変えなくちゃなんてそんなことばかり考えて いたのよ。可哀そうな゠キ゠君」 「でももし彼が自分の良い面だけを見せようと努力していたんだとしたら、その努力は成 功していたみたいだね。だって僕は彼の良い面しか見えなかったもの」 直子は微笑んだ。 「それを聞いたら彼きっと喜ぶわね。 あなたは彼のたった一人の友だちだ ったんだもの」 「そして゠キ゠も僕にとってたった一人の友だちだったんだよ」 と僕は言った。 「その前に もそのあとにも友だちと呼べそうな人間なんて僕にはいないんだ」 「だから私、あなたと゠キ゠君と三人でいるのけっこう好きだったのよ。そうすると私゠ キ゠君の良い面だけ見ていられるでしょう。そうすると私、すごく気持が楽になったの。 安心していられるの。だから三人でいるの好きだったの。あなたがどう思っていたのかは 知らないけれど」 「僕は君がどう思っているのか気になってたな」と僕は言って小さく首を振った。 「でもね、問題はそういうことがいつまでもつづくわけはないってことだったのよ。そう いう小さな輪みたいなものが永遠に維持されるわけはないのよ。それは゠キ゠君にもわか っていたし、私にもわかっていたし、あなたにもわかっていたのよ。そうでしょう?」 僕は肯いた。 「でお正直言って、私はあの人の弱い面だって大好きだったのよ。良い面と同じくらい好 きだったの。だって彼にはずるさとか意地わるさとか全然なかったのよ。ただ弱いだけな の。でも私がそう言っても彼は信じなかったわ。そしていつもこう言うのよ。直子、それ は僕と君が三つのときからずっと一緒にいて僕のことを知りすぎているせいだ。だから何 が欠点で何が長所かみわけがつかなくていろんなものをごたまぜしてるんだってね。彼は いつもそう言ったわ。でもどう言われても私、彼のことが好きだったし、彼以外の人にな んて殆んど興味すら持てなかったのよ」 直子は僕の方を向いて哀しそうに微笑んだ。 「私たちは普通の男女の関係とはずいぶん違ってたのよ。何かどこかの部分で肉体がくっ つきあっているような、そんな関係だったの。あるとき遠くに離れていても特殊な引力に よってまたもとに戻ってくっついてしまうようなね。だから私と゠キ゠君が恋人のような 関係になったのはごく自然なことだったの。考慮とか選択の余地のないことだったの。私 たちは十二の歳には゠ガして、十三の歳にはもうベッテゖンィしたの。私が彼の部屋に行 くか、彼が私の部屋に遊びにくるかして、それで彼のを手で処理してあげて……。でもね、 私は自分たちが早熟だなんてちっとも思わなかったわ。そんなの当然のことだと思ってい

たの。彼が私の乳房やら性器やらをいじりたいんならそんなのいじったって全然かまわな いし、彼が精液を出したいんならそれを手伝ってあげるのも全然かまわなかったのよ。だ からもし誰かがそのことで私たちを非難したとしたら、私きっとびっくりするか腹を立て たと思うわ。だって私たち間違ったことやってたわけじゃないんだもの。当然やるはずの ことをやってただけのことなのよ。 私たち、 お互いの体を隅から隅まで見せ合ってきたし、 まるでお互いの体を共有しているような、そんな感じだったのよ。でも私たちしばらくは それより先にはいかないようにしていたの。妊娠するのは怖かったし、どうすれば避妊で きるのかその頃はよくわからなかったし……。とにかく私たちはそんな具合に成長してき たのよ。二人一組で手をとりあって。普通の成長期の子供たちが経験するような性の重圧 とか゛ェの膨張の苦しみみたいなものを殆んど経験することなくね。私たちさっきも言っ たように性に対しては一貫してゝープンだったし、自我にしたってお互いで吸収しあった りわけあったりすることが可能だったからとくに強く意識することもなかったし。私の言 ってる意味わかる?」 「わかると思う」と僕は言った。 「私たち二人は離れることができない関係だったのよ。だからもし゠キ゠君が生きていた ら、私たちたぶん一緒にいて、愛し合っていて、そして少しずつ不幸になっていたと思う わ」 「どうして?」 直子は指で何度か髪をすいた。もう髪どめを外していたので、下を向くと髪が落ちて彼女 の顔を隠した。 「たぶん私たち、世の中に借りを返さなくちゃならなかったからよ」と直子は顔を上げて 言った。 「成長の辛さのようなものをね。 私たちは支払うべきときに代価を支払わなかった から、そのつけが今まわってきてるのよ。だから゠キ゠君はああなっちゃったし、今私は こうしてここにいるのよ。 私たちは無人島で育った裸の子供たちのようなものだったのよ。 おなかがすけばバナナを食べ、淋しくなれば二人で抱き合って眠ったの。でもそんなこと いつまでもつづかないわ。私たちはどんどん大きくなっていくし、社会の中に出ていかな くちゃならないし。だからあなたは私たちにとっては重要な存在だったのよ。あなたは私 たちと外の世界を結ぶリンアのような意味を持っていたのよ。私たちはあなたを仲介して 外の世界にうまく同化しようと私たちなりに努力していたのよ。結局はうまくいかなかっ たけれど」 僕は肯いた。 「でも私たちがあなたを利用したなんて思わないでね。゠キ゠君は本当にあなたのことが 好きだったし、たまたま私たちにとってはあなたとの関りが最初の他者との関りだったの よ。そしてそれは今でもつづいているのよ。゠キ゠君は死んでもういなくなっちゃったけ れど、あなたは私と外の世界を結びづける唯一のリンアんなのよ、今でも。そして゠キ゠ 君があなたのことを好きだったように、私もあなたのことが好きなのよ。そしてそんなつ もりはまったくなかったんだけれど、結果的には私たちあなたの心を傷つけてしまったの かもしれないわね。そんなことになるかもしれないなんて思いつきもしなかったのよ。 直子はまた下を向いて黙った。 「どう、ウウゕでも飲まない?」とレ゗ウさんが言った。 「ええ、飲みたいわ、とても」と直子は言った。 「僕は持ってきたブランデゖーを飲みたいんだけどかまいませんか?」と僕は訊いた。 「どうぞどうぞ」とレ゗ウさんは言った。 「私にもひとくちくれる?」 「もちろんいいですよ」と僕は笑って言った。

レ゗ウさんはィラガをふたつ持って来て、僕と彼女はそれで乾杯した。それからレ゗ウさ んは゠ッゴンに行ってウウゕを作った。 「もう少し明るい話をしない?」と直子が言った。 でも僕には明るい話の持ち合わせがなかった。突撃隊がいてくれたらなあと僕は残念に思 った。あいつさえいれば次々に゛ピグードが生まれた、そしてその話さえしていればみん なが楽しい気持になれるのに、と。仕方がないので僕は寮の中でみんながどれほど不潔な 生活をしているかについて延々としゃべった。あまりにも汚くて話してるだけで嫌な気分 になったが、二人にはそういうのが珍しいらしく笑い転げて聴いていた。それからレ゗ウ さんがいろんな精神病患者の物真似をした。これも大変におかしかった。十一時になって 直子が眠そうな目になってきたので、レ゗ウさんがグフゔーの背を倒してベッドにし、オ ーツと毛布と枕をギットしてくれた。 「夜中にレ゗プしにくるのはいいけど相手まちがえないでね」 とレ゗ウさんが言った。 「左 側のベッドで寝てるしわのない体が直子のだから」 「嘘よ。私右側だわ」と直子は言った 「ねえ、明日は午後のゞリ゠ュラムをいくつかパガできるようにしておいたから、私たち ピアニッアに行きましょうよ。近所にとてもいいところがあるのよ」とレ゗ウさんは言っ た。 「いいですね」と僕は言った。 彼女たちがかわりばんこに洗面所で歯をみがき寝室に引き上げてしまうと、僕はブランデ ゖーを少し飲み、グフゔー・ベッドに寝転んで今日いちにちの出来事を朝から順番に辿っ てみた。なんだかとても長い一日みたいに思えた。部屋の中はあいかわらず月の光に白く 照らされていた。直子とレ゗ウさんが眠っている寝室はひっそりとして、物音らしきもの は殆んど何も聞こえなかった。ただ時折ベッドの小さな軋みが聞こえるだけだった。目を 閉じると、暗闇の中でちらちらとした微小な図形が舞い、耳もとにレ゗ウさんの弾くァゲ ーの残響を感じたが、しかしそれも長くはつづかないかった。眠りがやってきて、温かい 泥の中に僕を運んでいった。そして僕は柳の夢を見た。山道の両側にずっと柳の木が並ん でいた。信じられないくらいの数の柳だった。けっこう強い風が吹いていたが、柳の枝は そよとも揺れなかった。どうしてだろうと思ってみると、柳の枝の一本一本に小さい鳥が しがみついているのが見えた。その重みで柳の枝が揺れないのだ。僕は棒切れを持って近 くの枝を叩いてみた。鳥を追い払って柳の枝を揺らそうとしたのだ。でも鳥は飛びたたな かった。飛び立つかわりに鳥たちは鳥のかたちをした金属になってどさっどさっと音を立 てて地面に落ちた。 目を覚ましたとき、僕はまるでその夢の続きを見ているような気分だった。部屋の中は月 のあかりでほんのりと白く光っていた。僕は反射的に床の上の鳥のかたちをした金属を探 し求めたが、もちろんそんなものはどこにもなかった。直子が僕のベッドの足もとにぽつ んと座って、窓の外をじっと見ているだけだった。彼女は膝をふたつに折って、飢えた孤 児のようにその上に顎を乗せていた。僕は時間を調べようと思って枕もとの腕時計を探し たが、それは置いたはずの場所にはなかった。月の光の具合からするとたぶん二時か三時 だろうと僕は見当をつけた。激しい喉の渇きを感じたが、僕はそのままじっと直子の様子 を見ていることにした。直子はさっきと同じブルーのゟ゙ンのようなものを着て、髪の片 側を例の蝶のかたちをしたピンでとめていた。そのせいで彼女のきれいな額がくっきりと 月光に照らされていた。 妙だなと僕は思った。 彼女は寝る前には髪留めを外していたのだ。 直子は同じ姿勢のままびくりとも動かなかった、彼女はまるで月光に引き寄せられる夜の 小動物にように見えた。月光の角度のせいで、彼女の唇の影が誇張されていた。そのいか

にも傷つきやすそうな影は、彼女の心臓の鼓動かあるいは心の動きにあわせて、ぴくぴく と細かく揺れていた。それはあたかも夜の闇に向って音のない言葉を囁きかけるかのよう に。 僕は喉の乾きを癒すために唾を飲み込んだが、夜の静寂の中でその音はひどく大きく響い た。すると直子は、まるでその音が何かの合図だとでも言うようにすっと立ち上がり、か すかな衣ずれの音をさせながら僕の枕もとの床に膝をつき、 僕の目をじっとのぞきこんだ。 僕も彼女の目を見たけれど、その目は何も語りかけていなかった。瞳は不自然なくらい澄 んでいて、向う側の世界がすけて見えそうなほどだったが、それだけ見つめてもその奥に 何かを見つけることはできなかった。僕の顔と彼女の顔はほんの三十ギンゴくらいしか離 れていなかったけれど、彼女は何光年も遠くにいるように感じられた。 僕は手をのばして彼女に触れようとすると、直子はずっとうしろに身を引いた。唇が少し だけ震えた。 それから直子は両手を上にあげてゆっくりとゟ゙ンのボゲンを外しはじめた。 ボゲンは全部で七つあった。僕は彼女の細い美しい指が順番にボゲンを外していくのを、 まるで夢のつづきを見ているような気持で眺めていた。その小さな七つの白いボゲンが全 部外れてしまうと、直子は虫が脱皮するときのように腰の方にゟ゙ンをするりと下ろして 脱ぎ捨て、裸になった。ゟ゙ンの下に、直子は何もつけていなかった。彼女が身につけて いるのは蝶のかたちをしたヘゕピンだけだった。直子はゟ゙ンを脱ぎ捨ててしまうと、床 に膝をついたまま僕を見ていた。やわらかな月の光に照らされた直子の体はまだ生まれ落 ちて間のない新しいの肉体のようにつややかで痛々しかった。彼女が少し体を 動かす と――それはほんの僅かな動きなのに――月の光のあたる部分が微妙に移動し、体を染め る影のかたちが変った。丸く盛り上がった乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや、腰骨 や陰毛のつくりだす粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変え ていた。 これはなんという完全な肉体なのだろう――と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全 な肉体を持つようになったのだろう?そしてその春の夜に僕が抱いた彼女の肉体はいった いどこに行ってしまったのだろう? その夜、泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったとき、僕は彼女の体 がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。乳房は固く、乳首は場ちがい な突起のように感じられたし、腰のまわりに妙にこわばっていた。もちろん直子は美しい 娘だったし、その肉体は魅力的だった。それは僕を性的に興奮させ、巨大な力で僕を押し 流していった。しかしそれでも、僕は彼女の裸の体を抱き、愛撫し、そこに唇をつけなが ら、肉体というもののゕンバランガについて、その不器用さについてふと奇妙な感慨を抱 いたものだった。僕は直子を抱きながら、彼女に向ってこう説明したかった。僕は今君と 性交している。僕は君の中に入っている。でもこれは本当になんでもないことなんだ。ど ちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不 完全な体を触れ合わせることでしか語ることのできないことを語り合っているだけなん だ。こうすることで僕はそれぞれの不完全さを頒ちあっているんだよ、と。しかしもちろ んそんなことを口に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子の体 を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いていると、僕はその中に何かしらうまく馴 染めないで残っているような異物のごつごつとした感触を感じることができた、そしてそ の感触は僕を愛しい気持にさせ、おそろしいくらい固く勃起させた。 しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子の肉体はいつか の変遷を経た末に、こうして今完全な肉体となって月の光の中に生れ落ちたのだ、と僕は 思った。まずふっくらとした少女の肉が゠キ゠の死と前後してすっかりそぎおとされ、そ

れから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子の肉体はあまりにも美しく完成されてい たので、 僕は性的な興奮すら感じなかった。 僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれや、 丸くつややかな乳房や、呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらか な黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。 彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か六分くらいのものだったの ではなかったかと思う。やがて彼女はゟ゙ンを再びまとい、上から順番にボゲンをはめて いった。ボゲンをはめてしまうと直子はすっと立ちあがり、静かに寝室のドゕを開けてそ の中に消えた。 僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたが、思いなおしてベッドから出て、 床に落ちている時計を拾い上げ、月の光の方に向けて見た。三時四十分だった。僕は台所 で何杯か水を飲んでからまたベッドに横になったが、結局夜が明けて日の光が部屋の隅々 にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去ってしまうまで眠りは訪れなかった。 僕は眠ったか眠らないかのうちにレ゗ウさんがやってきて僕の頬をぴしゃぴしゃと叩き 「朝よ、朝よ」とどなった。 レ゗ウさんが僕のベッドを片づけているあいだ、直子が台所に立って朝食を作った。直子 は僕に向ってにっこり笑って「おはよう」と言った。おはよう、と僕も言った。ハミンィ しながら湯をわかしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立ってしばらく眺め ていたが、昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じられなかった。 「ねえ、目が赤いわよ。どうしたの?」と直子がウーヒーを入れながら僕に言った。 「夜中に目が覚めちゃってね、それから上手く寝られなかったんだ」 「私たちいびきかいてなかった?」とレ゗ウさんが訊いた。 「かいてませんよ」と僕は言った。 「よかった」と直子が言った。 「彼、礼儀正しいだけなのよ」とレ゗ウさんはあくびしながら言った。 僕は最初のうち直子はレ゗ウさんの手前何もなかったふりをしているのか、あるいは恥か しいがっているのかとも思ったが、レ゗ウさんがしばらく部屋から姿を消したときにも彼 女の素振りには全く変化がなかったし、その目はいつもと同じように澄みきっていた。 「よく眠れた?」と僕は直子訊ねた。 「ええ、ぐっすり」と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざりもないオンプル なヘゕピンで髪をとめていた。 僕はそのわりきれない気分は、朝食をとっているあいだもずっとつづいていた。僕はパン にバゲーを塗ったり、ゆで玉子の殻をむいたりしながら、何かのしるしのようなものを求 めて、向いに座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。 「ねえ、ワゲナベ君、どうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの?」と直子がおかしそう に訊いた。 「彼、誰かに恋してるのよ」とレ゗ウさんが言った。 「あなた誰かに恋してるの?」と直子は僕に訊いた。 そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかなにした冗 談を言い合っているのを見ながら、それ以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめて パンを食べ、ウーヒーを飲んだ。 朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったので、僕もついていくこと にした。二人は作業用のカーンキとオャツに着替え、白い長靴をはいた。鳥小屋はテニガ ・ウートの裏のちょっとした公園の中にあって、ニワトリから鳩から、孔雀、ゞムにい

たる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇があり、植え込みがあり、ベンゴがあ った。やはり患者らしい二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も 四十から五十のあいだに見えた。レ゗ウさんと直子はその二人のところに行って朝のあい さつをし、レ゗ウさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑わせた。花壇にはウガモガの 花が咲き、植込みは念入りに刈り揃えられていた。レ゗ウさんの姿を見ると、鳥たちは゠ ゗゠゗という声を上げながら檻の中をとびまわった。 彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋とェム・ホーガを出して きた。直子がホーガを蛇口につなぎ、水道の栓をひねった。そして鳥が外に出ないように 注意しながら檻の中に入って汚物を洗いおとし、レ゗ウさんがデッ゠・ブラオでごしごし と床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝き、孔雀たちはそのはねをよけて檻の中 をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首を上げて気むずかしい老人のような目で僕を睨み つけ、ゞムは横木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきした。レ゗ウさんはゞ ムに向って猫の鳴き真似をすると、ゞムは隅の方に寄って肩をひそめていたが、少しす ると「ゕリゟト、゠ゴゟ゗、アグゲレ」と叫んだ。 「誰がああいうの教えたのよね」とため息をつきながら直子が言った。 「私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの」とレ゗ウさんは言った。そ してまた猫の鳴き真似をした。ゞムは黙り込んだ。 「このヒト、一度猫にひどい目にあわされたもんだから、猫が怖くって怖くってしようが ないのよ」とレ゗ウさんは笑って言った。 掃除が終ると二人は掃除用具を置いて、それからそれぞれの餌箱に餌を入れていった。七 面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえしながらやってきて餌箱に顔をつっこ み、直子がお尻を叩いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べていた。 「毎朝これをやっているの?」と僕は直子に訊いた。 「そうよ、新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だから。゙エァみたい?」 見たい、と僕は言った。鳥小屋の裏に゙エァ小屋があり、十匹ほどの゙エァがワラの中に 寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめ、餌箱に餌を入れてから、子゙エァを抱きあげ頬ず りした。 「可愛いでしょう?」と直子は楽しそうに言った。そして僕に゙エァを抱かせてくれた。そ のあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと身をすくめ、耳をぴくぴくと震わせ ていた。 「大丈夫よ。この人怖くないわよ」と直子は言って指で゙エァの頭を撫で、僕の顔を見て にっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔だったので、僕も思わず笑わない わけにはいかなかった。そして昨夜の直子はいったいなんだったんだろうと思った。あれ は間違いなく本物の直子だった、夢なんかじゃない――彼女はたしかに僕の前で服を脱い で裸になったんだ、と。 レ゗ウさんは『プラ゙ド・メゕリ』を口笛できれいに吹きながらごみを集め、ビニールの ェミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを手伝った。 「朝っていちばん好きよ」 と直子は言った。 「何もかも最初からまた新しく始まるみたいで ね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って 暮らしてるの」 「そうして、そう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。朝が来て夜が来 てなんて思っているうちにね」と楽しそうにレ゗ウさんは言った。 「すぐよ、そんなの」 「でもレ゗ウさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。 「年をとるのが楽しいと思わないけど、今更もう一度若くなりたいとは思わないわね」と

レ゗ウさんは言った。 「どうしてですか?」と僕は訊いた。 「面倒臭いからよ。決まってんじゃない」とレ゗ウさんは答えた。そして『プラ゙ド・メ ゕリ』を吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみ、戸を閉めた。 部屋に戻ると彼女たちはェム長靴を脱いで普通の運動靴にはきかえ、これから農場に行っ てくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもないし、他の人たちとの共同作業だから あなたはここに残って本でも読んでいた方がいいでしょうとレ゗ウさんは言った。 「それから洗面所に私たちの汚れた下着がバイツにいっぱいあるから洗っといてくれ る?」とレ゗ウさんが言った。 「冗談でしょう?」と僕はびっくりして訊きかえした。 「あたり前じゃない」とレ゗ウさんは笑っていった。 「冗談に決ってるでしょう、そんなこ と。あなたってかわいいわねえ。そう思わない、直子?」 「そうねえ」と直子も笑って同意した。 「ド゗ツ語やってますよ」と僕はため息をついて言った。 「いい子ね、 お昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ」 とレ゗ウさんは言った。 そして二人はアガアガ笑いながら部屋を出で行った。何人かの人々が窓の下を通り過ぎて いく足音や話し声が聞こえた。 僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切った。二人の女性が住 んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。化粧アリームやリップ・アリーム や日焼けどめやローオョンといったものがぱらぱらと並んでいるだけで、化粧品らしいも のは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でウーヒーを入れ、テーブルの前に座 ってそれを飲みながらド゗ツ語の教科書を広げた。台所の日だまりの中でTオャツ一枚に なってド゗ツ語の文法表を片端から暗記していると、何だかふと不思議な気持になった。 ド゗ツ語の不規則動詞とこの台所のテーブルはおよそ考えられる限りの遠い距離によって 隔てられているような気がしたからだ。 十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にオャワーに入り、 さっぱりした服に着がえた。 そして三人で食堂に行って昼食をとり、そのあとで門まで歩いた。門衛小屋には今度はち ゃんと門番がいて、 食堂から運ばれてきたらしい昼食を机の前で美味しそうに食べていた。 棚の上のトランカガゲ・ラカゝからは歌謡曲が流れていた。僕らが歩いていくと彼はやあ と手をあげてあいさつし、僕らも「こんにちは」と言った。 これから三人で外を散歩してくる、三時間くらいで戻ってくると思う、とレ゗ウさんが言 った。 「ええ、どうぞ、どうぞ、ええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの雨で崩れとるん で危ないですが、それ以外なら大丈夫、問題ないです」と門番は言った。レ゗ウさんは外 出者リガトのような用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入した。 「気ゖつけていってらしゃい」と門番は言った。 「親切そうな人ですね」と僕は言った。 「あの人ちょっとここおかしいのよ」とレ゗ウさんは言って指の先で頭を押えた。 いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるように青く、細くかすれ た雲がまるでペン゠のためし塗りでもしたみたいに天頂にすうっと白くこびりついてい た。我々はしばらく「阿美寮」の低い石塀に沿って歩き、それから塀を離れて、道幅の狭 い急な坂道を一列になって上った。先頭がレ゗ウさんで、まん中が直子で、最後は僕だっ た。レ゗ウさんはこのへんの山のことなら隅から隅まで知っているといったしっかりした 歩調でその細い坂道を上って行った。 我々は殆んど口をきかずにただひたすら歩を運んだ。

直子はブルーカーンキと白いオャツという格好で、上着を脱いで手に持っていた。僕は彼 女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを 振り向き、僕と目を合うと微笑んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたが、レ゗ ウさんの歩調はまったく崩れなかったし、直子もときどき汗を拭きながら遅れることなく そのあとをついて行った。僕は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切れた。 「いつもこういう山のぼりしてるの?」と僕は直子に訊いてみた。 「週に一回くらいかな」と直子は答えた。 「きついでしょ、けっこう?」 「いささか」と僕は言った。 「三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょう?しっかりしなくちゃ」とレ゗ ウさんが言った。 「運動不足なんですよ」 「女の子と遊んでばかりいるからよ」と直子が一人ごとみたいに言った。 僕は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなかった。時折目の前を 頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの 姿はいかにも鮮やかだった。まわりの草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れ、いた るところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺めながらもう何も考えずに ただ一歩一歩足を前に運んだ。 それから十分ほどで坂道は終り、高原のようになった平坦な場所に出た。我々はそこで一 服して汗を拭き、息と整え、水筒の水を飲んだ。レ゗ウさんは何かの葉っぱをみつけてき て、それで笛を作って吹いた。 道はなだらかな下りになり、両側にはすすきの穂が高くおい茂っていた。十五分ばかり歩 いたところで我々は集落を通り過ぎたが、そこには人の姿はなく十二軒か十三軒の家は全 て廃屋と化していた。家のまわりには腰の高さほど草が茂り、壁にあいた穴には鳩の糞が まっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを残してすっかり崩れ落ちていたが、 中には雨戸を開ければ今すぐにでも住みつけそうなものもあった。我々は死に絶えて無言 の家々にはさまれた道を抜けた。 「ほんの七、八年前まで、ここには何人か人が住んでたのよ」とレ゗ウさんが教えてくれ た。 「まわりもずっと畑でね。 でももうみんな出て行っちゃったわ。 生活が厳しすぎるのよ。 冬は雪がつもって身動きつかなくなるし、それほど土地が肥えているわけじゃないしね。 町に出て働いた方がお金になるのよ」 「もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに」と僕は言った。 「一時ヒッピーが住んでたこともあるんだけど、冬に音を上げて出て行ったわよ」 集落を抜けてしばらく先に進むと垣根にまわりを囲まれた放牧場のようなものがあり、遠 くの方に馬が何頭か草を食べているのが見えた。垣根に沿って歩いていくと、大きな犬が 尻尾をばたばたと振りながら走ってきて、レ゗ウさんにのしかかるようにして顔の匂いを かぎ、そのれから直子にとびかかってじゃれついた。僕が口笛を吹くとやってきて、長い 舌でべろべろと僕の手を舐めた。 「牧場の犬なのよ」 と直子が犬の頭を撫でながら言った。 「もう二十歳近くになっているじ ゃないかしら、歯が弱ってるから固いものは殆んど食べれないの。いつもお店の前で寝て て人の足音が聞こえるととんできて甘えるの」 レ゗ウさんがナップォッアからゴーキの切れはしをとりだすと、犬は匂いを嗅ぎつけてそ ちらにとんでいき、嬉しそうにゴーキにかぶりついた。 「この子と会えるのももう少しなのよ」 とレ゗ウさんは犬の頭を叩きながら言った。 「十月 半ばになると馬と牛をトラッアにのせて下の方の牧舎につれていっちゃうのよ。夏場だけ

ここで放牧して、草を食べさせて、観光客相手に小さなウーヒー・バガのようなものを 開けてるの。観光客ったって、ハ゗ゞーが一日二十人くるかこないかってくらいのものだ けどね。あなた何か飲みたくない、どう?」 「いいですね」と僕は言った。 犬が先に立って我々をそのウーヒー・バガまで案内した。正面にポーゴのある白いペン ゠塗りの小さな建物で、ウーヒー・ゞップのかたちをした色褪せた看板が軒から下がって いた。犬は先に立ってポーゴに上り、ごろんと寝転んで目を細めた。僕らがポーゴのテー ブルに座ると中からトレーナー・オャツとホワ゗ト・カーンキという格好の髪をポニー・ テールにした女の子が出てきて、レ゗ウさんと直子に親しい気にあいさつした。 「この人直子のお友だち」とレ゗ウさんが僕に紹介した。 「こんにちは」とその女の子は言った。 「こんにちは」と僕も言った。 三人の女性がひとしきり世間話をしているあいだ、僕はテーブルの下の犬の首を撫でてい た。犬の首はたしかに年老いて固く筋張っていた。その固いところをぼりぼりと掻いてや ると、犬は気持良さそうに目をつぶってはあはあと息をした。 「名前はなんていうの?」と僕は店の女の子に訪ねた。 「ぺぺ」と彼女は言った。 「ぺぺ」と僕は呼んでみたが、犬はびくりとも反応しなかった。 「耳遠いから、もっと大きな声で呼ばんと聞こえへんよ」と女の子は京都弁で言った。 「ペペッ! 」と僕は大きな声で呼ぶと、犬は目を開けてすくっと身を起こし、ワンッと吠え た。 「よしよし、もうええからゆっくり寝て長生きしなさい」と女の子が言うと、ぺぺはまた 僕の足もとにごろんと寝転んだ。 直子とレ゗ウさんはゕ゗ガ・ミルアを注文し、僕はビールを注文した。レ゗ウさんは女の 子に FM をつけてよと言って、女の子はゕンプのガ゗ッゴを入れて FM 放送をつけた。プラ ット・ガ゙゚ット・ゕンド・テゖゕーキが『ガピニンィ・ホ゗ール』を唄っているのが聴 こえた。 「私、実を言うと FM が聴きたくてここに来てんのよ」とレ゗ウさんは満足そうに言った。 「何しろうちはラカゝもないし、たまにここに来ないと今世間でどんな音楽かかってるの かわかんなくなっちゃうのよ」 「ずっとここに泊ってるの?」と僕は女の子に聴いてみた。 「まさか」 と女の子は笑って答えた。こんなところに夜いたら淋しくて死んでしまうわよ。 「 夕方に牧場の人にあれで市内まで送ってもらうの。それでまた朝に出てくるの」彼女はそ う言って少し離れたところにある牧場のゝフゖガの前に停まった四輪駆動車を指さした。 「もうそろそろここも暇なんじゃないの?」とレ゗ウさんが訊ねた。 「まあぼちぼちおしまいやわねえ」と女の子は言った。レ゗ウさんは煙草をさしだし、彼 女たちは二人で煙草を吸った。 「あなたいなくなると淋しいわよ」とレ゗ウさんは言った。 「来年の五月にまた来るわよ」と女の子は笑って言った。 アリームの『ホワ゗ト・ルーム』がかかり、ウマーオャルがあって、それからエ゗モン・ ゕンド・ゞーフゔンアルの『ガゞボロ・プゕ』がかかった。曲が終るとレ゗ウさんは私 この歌すきよと言った。 「この映画観ましたよ」と僕は言った。 「誰が出てるの?」

「コガテゖン・ホフマン」 「その人知らないわねえ」 とレ゗ウさんは哀しそうに首を振った。 「世界はどんどん変って いくのよ、私の知らないうちに」 レ゗ウさんは女の子にァゲーを貸してくれないかと言った。いいわよと女の子は言ってラ カゝのガ゗ッゴを切り、奥から古いァゲーを持ってきた。犬が顔を上げてァゲーの匂いを くんくんと嗅いだ。 「食べものじゃないのよ、これ」とレ゗ウさんが犬に言い聞かせるよう に言った。草の匂いのする風がポーゴを吹き抜けていった。山の稜線がくっきりと我々の 眼前に浮かび上がっていた。 「まるで『エ゙ンド・ゝブ・ミューカッア』のオーンみたいですね」と僕は調弦をしてい るレ゗ウさんに言った。 「何よ、それ?」彼女は言った。 彼女は『ガゞボロ・プゕ』の出だしのウードを弾いた。楽譜なしではじめて弾くらしく 最初のうちは正確なウードを見つけるのにとまどっていたが、何度か試行錯誤をくりかえ しているうちに彼女はある種の流れのようなものを捉え、全曲をとおして弾けるようにな った。 そして三度目にはところどころ装飾音を入れてすんなりと弾けるようになった。 「勘 がいいのよ」とレ゗ウさんは僕に向っで゗ンアして、指で自分の頭を指した。 「三度聴く と、楽譜がなくてもだいたいの曲は弾けるの」 彼女はメロデゖーを小さくハミンィしながら『ガゞボロ・プゕ』を最後まできちんと弾 いた。僕らは三人で拍手をし、レ゗ウさんは丁寧に頭を下げた。 「昔モーツゔルトのウンゴ゚ルト弾いたときはもっと拍手が大きかったわね」と彼女は言 った。 店の女の子が、もしビートルキの『ヒゕ・ゞムキ・ォ・エン』を弾いてくれたらゕ゗ガ・ ミルアのぶん店のおごりにするわよと言った。 レ゗ウさんは親指をあげて OK のエ゗ンを出 した。それから歌詞を唄いながら『ヒゕ・ゞムキ・ォ・エン』を弾いた。あまり声量がな く、おそらくは煙草の吸いすぎのせいでいくぶんかすれていたけれど、存在感のある素敵 な声だった。ビールを飲みながら山を眺め、彼女の唄を聴いていると、本当にそこから太 陽がもう一度顔をのぞかせそうな気がしてきた。それはとてもあたたかいやさしい気持だ った。 『ヒゕ・ゞムキ・ォ・エン』を唄い終ると、レ゗ウさんはァゲーを女の子に返し、また FM 放送をつけてくれと言った。そして僕と直子に二人でこのあたりを一時間ばかり歩いてい らっしゃいよと言った。 「私、ここでラカゝ聴いて彼女とおしゃべりしてるから、三時までに戻ってくれば、それ でいいわよ」 「そんなに長く二人きりになっちゃってかまわないんですか?」と僕は訊いた。 「本当はいけないんだけど、まあいいじゃない。私だってつきそいばあさんじゃないんだ から少しはのんびりしたいわよ、一人で。それにせっかく遠くから来たんだからつもる話 もあるんでしょう?」とレ゗ウさんは新しい煙草に火をつけながら言った。 「行きましょうよ」と直子が言って立ち上がった。 僕も立ち上がって直子のあとを追った。犬が目をさましてしばらく我々のあとをついてき たが、そのうちにあきらめてもとの場所に戻っていた。我々は牧場の柵に沿って平坦な道 をのんびりと歩いた。ときどき直子は僕の手を握ったり、腕をくんだりした。 「こんな風にしてるとなんだか昔みたいじゃない?」と直子は言った。 「あれは昔じゃないよ。今年の春だぜ」と僕は笑って言った。 「今年の春までそうしてたん だ。あれが昔だったら十年前は古代史になっちゃうよ」

「古代史みたいなものよ」と直子は言った。 「でも昨日ごめんなさい。なんだか神経がたか ぶっちゃって。せっかくあなたが来てくれたのに、悪かったわ」 「かまわないよ。たぶんいろんな感情をもっともっと外に出し方がいいんだと思うね、君 も僕も。だからもし誰かにそういう感情をぶっつけたいんなら、僕にぶっつければいい。 そうすればもっとお互いを理解できる」 「私を理解して、それでそうなるの?」 「ねえ、君はわかってない」と僕は言った。 「どうなるかといった問題ではないんだよ、こ れは。世の中には時刻表を調べるのが好きで一日中時刻表読んでいる人がいる。あるいは マッゴ棒をつなぎあわせて長さ一メートルの船を作ろうとする人だっている。だから世の 中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたっておかしくないだろう?」 「趣味のようなものかしら?」と直子はおかしそうに言った。 「趣味と言えば言えなくもないね。一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情 とかいう名前で呼ぶけれど、君は趣味って呼びたいんならそう呼べばいい」 「ねえ、 ワゲナベ君」 と直子が言った。 「あなた゠キ゠君のことも好きだったんでしょう?」 「もちろん」と僕は答えた。 「レ゗ウさんはどう?」 「あの人も大好きだよ。いい人だね」 「ねえ、どうしてあなたそういう人たちばかり好きになるの?」と直子は言った。 「私たち みんなどこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく人間な のよ。私も゠キ゠君もレ゗ウさんも。みんなそうよ。どうしてもっとまともな人を好きに ならないの?」 「それは僕にはそう思えないからだよ」 僕は少し考えてからそう答えた。 「君や゠キ゠やレ ゗ウさんがねじまがってるとはどうしても思えないんだ。ねじまがっていると僕が感じる 連中はみんな元気に外で歩きまわってるよ」 「でも私たちねじまがってるのよ。私にはわかるの」と直子は言った。 我々はしばらく無言で歩いた。道は牧場の柵を離れ、小さな湖のようにまわりを林に囲ま れた丸いかたちの草原に出た。 「ときどき夜中に目が覚めて、たまらなく怖くなるの」と直子は僕の腕に体を寄せながら 言った。 「こんな風にねじ曲ったまま二度ともとに戻れないと、 このままここで年をとって 朽ち果てていくんじゃないかって。そう思うと、体の芯まで凍りついたようになっちゃう の。ひどいのよ。辛くて、冷たくて」 僕は直子の肩に手をまわして抱き寄せた。 「まるで゠キ゠君が暗いところから手をのばして私を求めてるような気がするの。おいナ ゝウ、俺たち離れられないんだぞって。そう言われると私、本当にどうしようもなくなっ ちゃうの」 「そういうときはどうするの?」 「ねえ、ワゲナベ君、変に思わないでね」 「思わないよ」と僕は言った。 「レ゗ウさんに抱いてもらうの」と直子は言った。 「レ゗ウさんを起こして、彼女のベッド にもぐりこんで、抱きしめてもらうの。そして泣くのよ。彼女は私の体を撫でてくれるの。 体の芯があたたまるまで。こういうのって変?」 「変じゃないよ。レ゗ウさんのかわりに僕が抱きしめてあげたいと思うだけど」 「今、抱いて、ここで」と直子は言った。 我々は草原の乾いた草の上に腰を下ろして抱き合った。腰を下ろすと我々の体は草の中に

すっぽりと隠れ、空と雲の他には何も見えなくなってしまった。僕は直子の体をゆっくり と草の上に倒し、抱きしめた。直子の体はやわらかくあたたかで、その手は僕の体を求め ていた。僕と直子は心のこもった口づけをした。 「ねえ、ワゲナベ君?」と僕の耳もとで直子が言った。 「うん?」 「私と寝たい?」 「もちろん」と僕は言った。 「でも待てる?」 「もちろん待てる」 「そうする前に私、もう少し自分のことをきちんとしたいの。きちんとして、あなたの趣 味にふさわしい人間になりたいのよ。それまで待ってくれるの?」 「もちろん待つよ」 「今固くなってる?」 「足の裏のこと?」 「馬鹿ねえ」とくすくす笑いながら直子は言った。 「勃起してるかということなら、してるよ、もちろん」 「ねえ、そのもちろんっていうのやめてくれる?」 「いいよ、やめる」と僕は言った。 「そういうのってつらい?」 「何が?」 「固くなってることが」 「つらい?」と僕は訊きかえした。 「つまり、その……苦しいかっていうこと」 「考えようによってはね」 「出してあげようか?」 「手で?」 「そう」と直子は言った。 「正直言うとさっきからそれすごくェツェツしてて痛いのよ」 僕は少し体をずらせた。 「これでいい?」 「ありがとう」 「ねえ、直子?」と僕は言った。 「なあに?」 「やってほしい」 「いいわよ」と直子はにっこりと微笑んで言った。そして僕のキボンのカッパーを外し、 固くなったペニガを手に握った。 「あたたかい」と直子は言った。 直子が手を動かそうとするのを僕は止めて。彼女のブラ゙ガのボゲンを外し、背中に手を まわしてブラカャーのホッアを外した。そしてやわらかいピンア色の乳房にそっと唇をつ けた。直子は目を閉じ、それからゆっくりと指を動かしはじめた。 「なかなか上手いじゃない」と僕は言った。 「いい子だから黙っていてよ」と直子が言った。 射精が終ると僕はやさしく彼女を抱き、もう一度口づけした。そして直子はブラカャーと ブラ゙ガをもとどおりにし、僕はキボンのカッパーをあげた。 「これで少し楽に歩けるようになった?」と直子が訊いた。

「おかげさまで」と僕は答えた。 「じゃあよろしかったらもう少し歩きません?」 「いいですよ」と僕は言った。 僕らは草原を抜け、雑木林を抜け、また草原を抜けた。そして歩きながら直子は死んだ姉 の話をした。このことは今まで殆んど誰にも話したことはないのだけれど。あなたには話 しておいた方がいいと思うから話すのだと彼女は言った。 「私たち年が六つ離れていたし、性格なんかもけっこう違ったんだけれど、それでもとて も仲が良かったの」と直子は言った。 「喧嘩ひとつしなかったわ。本当よ。まあ喧嘩になら ないくらいレベルに差があったということもあるんだけどね」 お姉さんは何をやらせても一番になってしまうゲ゗プだったのだ、と直子は言った。勉強 もいちばんならガポーツもいちばん、人望もあって指導力もあって、親切で性格もさっぱ りしているから男の子にも人気があって、先生にもかわいがられて、表彰状が百枚もあっ てという女の子だった。どの公立校にも一人くらいこういう女の子がいる。でも自分のお 姉さんだから言うわけじゃないんだけれど、そういうことでガボ゗ルされて、つんつんし たり鼻にかけたりするような人ではなかったし、派手に人目をつくのを好む人でもなかっ た、ただ何をやらせても自然に一番になってしまうだけだったのだ、と。 「それで私、小さい頃から可愛い女の子になってやろうと決心したの」と直子はすすきの 穂をくるくると回しながら言った。 「だってそうでしょう、 ずっとまわりの人がお姉さんが いかに頭が良くて、ガポーツができて、人望もあってなんて話してるの聞いて育ったんで すもの。どう転んだってあの人には勝てないと思うわよ。それにまあ顔だけとれば私の方 が少しきれいだったから、親の方も私は可愛く育てようと思ったみたいね。だからあんな 学校に小学校からいれられちゃったのよ。ベルベットのワンピーガとかフリルのついたブ ラ゙ガとか゛ナメルの靴とか、ピゕノやバレ゛のレッガンとかね。でもおかげでお姉さん は私のことすごく可愛がってくれたわ、可愛い小さな妹って風にね。こまごまとしたもの 買ってプレクントしてくれたし、いろんなところにつれていってくれたり、勉強みてくれ たり。ボー゗・フレンドとデートするとき私も一緒につれてってくれたりもしたのよ。と ても素敵なお姉さんだったわ。 彼女がどうして自殺しちゃったのか、誰にもその理由はわからなかったの。゠キ゠君のと きと同じようにね。全く同じなのよ。年も十七で、その直前まで自殺するような素振りは なくて、遺書もなくて――同じでしょう?」 「そうだね」と僕は言った。 「みんなはあの子は頭が良すぎたんだとか本を読みすぎたんだとか言ってたわ。まあたし かに本はよく読んでいたわね。いっぱ本を持ってて、私はお姉さんが死んだあとでずいぶ んそれ読んだんだけど、哀しかったわ。書きこみしてあったり、押し花がはさんであった り、ボー゗・フレンドの手紙がはさんであったり。そういうので私、何度も泣いたのよ」 直子はしばらくまた黙ってすすきの穂をまわしていた。 「大抵のことは自分一人で処理しちゃう人だったのよ。誰かに相談したり、助けを求めた りということはまずないの。べつにプラ゗ドが高くてというじゃないのよ。ただそうする のが当然だと思ってそうしていたのね、たぶん。そして両親もそれに馴れちゃってて、こ の子は放っておいても大丈夫って思ってたのね。私はよくお姉さんに相談したし、彼女は とても親切にいろんなこと教えてくれるんだけど、自分は誰にも相談しないの。一人で片 づけちゃうの。怒ることもないし、不機嫌になることもないの。本当よこれ。誇張じゃな くて。女の人って、たとえば生理になったりするとムオャアオャして人にあたったりする でしょ、多かれ少なかれ。そういうのもないの。彼女の場合は不機嫌になるかわりに沈み

こんでしまうの。二ヶ月か三ヶ月に一度くらいそういうのが来て、二日くらいずっと自分 の部屋に籠って寝てるの。学校も休んで、物も殆んど食べないで。部屋を暗くして、何も しないでボゝッとしてるの。でも不機嫌というじゃないのよ。私が学校から戻ると部屋に 呼んで、隣りに座らせて、私のその日いちにちのことを聞くの。たいした話じゃないのよ。 友だちと何をして遊んだとか、先生がこう言ったとか、テガトの成績がどうだったとか、 そんな話よ。そしてそういうのを熱心に聞いて感想を言ったり、忠告を与えたりしてくれ るの。でも私がいなくなると――たとえばお友だちと遊ぶに行ったり、バレ゛のレッガン に出かけたりすると――また一人でボゝッとしてるの。そして二日くらい経つとそれがバ ゲッと自然になおって元気に学校に行くの。そういうのが、そうねえ、四年くらいつづい たんじゃないかしら。はじめのうちは両親も気にしてお医者に相談していたらしいんだけ れど、なにしろ二日たてばイロッとしちゃうわけでしょ、だからまあ放っておけばそのう ちなんとかなるだろうって思うようになったのね。頭の良いしっかりした子だしってね。 でもお姉さんが死んだあとで、私、両親の話を立ち聞きしたことあるの。ずっと前に死ん じゃった父の弟の話。その人もすごく頭がよかったんだけれど、十七から二十一まで四年 間家の中に閉じこもって、 結局ある日突然外に出てって電車にとびこんじゃったんだって。 それでお父さんこういったのよ。 『やはり血筋なのかなあ、俺の方の』って」 直子は話しながら無意識に指先ですすきの穂をほぐし、風にちらせていた。全部ほぐして しまうと、彼女はそれをひもみたいにぐるぐると指に巻きつけた。 「お姉さんが死んでるのを見つけたのは私なの」 と直子はつづけた。小学校六年生の秋よ。 「 十一月。雨が降って、どんより暗い一日だったわ。そのときお姉さんは高校三年生だった わ。私がピゕノのレッガンから戻ってくると六時半で、お母さんが夕食の支度していて、 もうごはんだからお姉さん呼んできてって言ったの。私は二階に上って、お姉さんの部屋 のドゕをノッアしてごはんよってどなったの。でもね、返事がなくて、しんとしてるの。 寝ちゃったのかしらと思ってね。でもお姉さんは寝てなかったわ。窓辺に立って、首を少 しこう斜めに曲げて、外をじっと眺めていたの。まるで考えごとをしてるみたいに。部屋 は暗くて、電灯もついてなくて、何もかもぼんやりとしか見えなかったのよ。私は『ねえ 何してるの?もうごはんよ』って声かけたの。でもそういってから彼女の背がいつもより 高くなってることに気づいたの。それで、あれどうしたんだろうってちょっと不思議に思 ったの。ハ゗ヒールはいてるのか、それとも何かの台の上に乗ってるのかしらって、そし て近づいていって声をかけようとした時にはっと気がついたのよ。首の上にひもがついて いることにね。天井のはりからまっすぐにひもが下っていて――それがね、本当にびっく りするくらいまっすぐなのよ、まるで定規を使って空間にピッと線を引いたみたいに。お 姉さんは白いブラ゙ガ着ていて――そう、ちょうど今私が着てるようなオンプルなの―― ィレーのガゞートはいて、足の先がバレ゛の爪立てみたいに゠ュッとのびていて、床と足 の指先のあいだに二十ギンゴくらいの何もない空間があいてたの。私、そういうのをこと 細かに全部見ちゃったのよ。顔も。顔も見ちゃったの。見ないわけには行かなかったのよ。 私すぐ下に行ってお母さんに知らせなくちゃ、叫ばなくちゃと思ったわ。でも体の方が言 うことをきかないのよ。私の意識とは別に勝手に体の方が動いちゃうのよ。私の意識は早 く下にいかなきゃと思っているのに、体の方は勝手にお姉さんの体をひもから外そうとし ているのよ。でももちろんそんなこと子供の力でできるわけないし、私そこで五、六分ぼ おっとしていたと思うの、放心状態で。何が何やらわけがわからなくて。体の中の何かが 死んでしまったみたいで。お母さんが『何してるのよ?』って見に来るまで、ずっと私そこ にいたのよ、お姉さんと一緒に。その暗くて冷たいところに……」 直子は首を振った。

「それから三日間、私はひとことも口がきけなかったの。ベッドの中で死んだみたいに、 目だけ開けてじっとしていて。何がなんだか全然わからなくて」直子は僕の腕に身を寄せ た。 「手紙に書いたでしょ?私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間なんだって。 あなたが思っているより私はずっと病んでいるし、その根はずっと深いのよ。だからもし 先に行けるものならあなた一人で先に行っちゃってほしいの。私を待たないで。他の女の 子と寝たいのなら寝て。私のことを考えて遠慮したりしないで、どんどん自分の好きなこ とをして。そうしないと私はあなたを道づれにしちゃうかもしれないし、私、たとえ何が あってもそれだけはしたくないのよ。あなたの人生の邪魔をしたくないの。誰の人生の邪 魔もしたくないの。さっきも言ったようにときどき会いに来て、そして私のことをいつま でも覚えていて。私が望むのはそれだけなのよ」 「僕は望むのはそれだけじゃないよ」と僕は言った。 「でも私とかかわりあうことであなたは自分の人生を無駄にしてるわよ」 「僕は何も無駄になんかしてない」 「だって私は永遠に回復しないかもしれないのよ。それでもあなたは私を待つの?十年も 二十年も私を待つことができるの?」 「君は怯えすぎてるんだ」 と僕は言った。暗闇やら辛い夢うやら死んだ人たちの力やらに。 「 君がやらなくちゃいけないのはそれを忘れることだし、それさえ忘れれば君はきっと回復 するよ」 「忘れることができればね」と直子は首を振りながら言った。 「ここを出ることができたら一緒に暮らさないか?」 と僕は言った。 「そうすれば君を暗闇 やら夢やらから守ってあげることができるし、レ゗ウさんがいなくてもつらくなったとき に君を抱いてあげられる」 直子は僕の腕にもっとぴったりと身を寄せた。そうすることができたら素敵でしょうね」 と直子は言った。 我々がウーヒー・バガに戻ったのは三時少し前だった。 レ゗ウさんは本を読みながら FM 放送でブラームガの二番のピゕノ協奏曲を聴いていた。見わたす限り人影のない草原の端 っこでブラームガがかかっているというのもなかなか素敵なものだった。三楽章のゴ゚ロ の出だしのメロデゖーを彼女は口笛でなぞっていた。 「バッアバガとベーム」 とレ゗ウさんは言った。 「昔はこのレウードをすれきれるくらい 聴いたわ。本当にするきれっちゃたのよ。隅から隅まで聴いたの。なめつくすようにね」 僕と直子は熱いウーヒーを注文した。 「お話はできた?」とレ゗ウさんは直子に訊ねた。 「ええ、すごくたくさん」と直子は言った。 「あとで詳しく教えてね、彼のがどんなだったか」 「そんなこと何もしてないわよ」と直子が赤くなって言った。 「本当に何もしてないの?」とレ゗ウさんは僕に訊いた。 「してませんよ」 「つまんないわねえ」とレ゗ウさんはつまらなそうに言った。 「そうですね」と僕はウーヒーをすすりながら言った。 夕食の光景は昨日とだいたい同じだった。雰囲気も話し声も人々の顔つきも昨日そのまま で、メニューだけが違っていた。昨日無重力状態での胃液の分泌について話していた白衣 の男が僕ら三人のテーブルに加わって、脳の大きさとその能力の相関関係についてずっと

話していた。僕らは大豆のハンバーィ・ガテー゠というのを食べながら、ビガマルアやナ ポレゝンの脳の容量についての話を聞かされていた。彼は皿をわきに押しやって、メモ用 紙にボールペンで脳の絵を描いてくれた。そして何度も「いやちょっと違うな、これ」と 言っては描きなおした。そして描き終わると大事そうにメモ用紙を白衣のポイットにしま い、ボールペンを胸のポイットにさした。胸のポイットにはボールペンが三本と鉛筆と定 規が入っていた。そして食べ終ると「ここの冬はいいですよ。この次は是非冬にいらっし ゃい」と昨日と同じことを言って去っていた。 「あの人は医者なんですか、 それとも患者さんですか?」 と僕はレ゗ウさんに訊いてみた。 「どっちだと思う?」 「どちらか全然見当がつかないですね。いずれにせよあまりまともには見えないけど」 「お医者よ。宮田先生っていうの」と直子が言った。 「でもあの人この近所じゃいちばん頭がおかしいわよ。賭けてもいいけど」とレ゗ウさん が言った。 「門番の大村さんだって相当狂ってるわよねえ」と直子が言った。 「うん、あの人狂ってる」とレ゗ウさんがブロッウリーをフ゜ーアでつきさしながら肯い た。 「だって毎朝なんだかわけのわからないこと叫びながら無茶苦茶な体操してるもの。それ から直子の入ってくる前に木下さんっていう経理の女の子がいて、この人はノ゗ロークで 自殺未遂したし、徳島っていう看護人は去年ゕルウール中毒がひどくなってやめさせられ たし」 「患者とガゲッフを全部入れかえてもいいくらいですね」と僕は感心して言った。 「まったくそのとおり」 とレ゗ウさんはフ゜ーアをひらひらと振りながら言った。 「あなた もだんだん世の中のしくみがわかってきたみたいじゃない」 「みたいですね」と僕は言った。 「私たちがまとな点は」 とレ゗ウさんは言った。 「自分たちがまともじゃないってかわって いることよね」 部屋に戻って僕と直子は二人でトランプ遊びをし、そのあいだレ゗ウさんはまたァゲーを 抱えてバッハの練習をしていた。 「明日は何時に帰るの?」とレ゗ウさんが手を休めて煙草に火をつけながら僕に訊いた。 「朝食を食べたら出ます。九時すぎにバガが来るし、それなら夕方のゕルバ゗トをすっぽ かさずにすむし」 「残念ねえ、もう少しゆっくりしていけばいいのに」 「そんなことしてたら、 僕もずっとここにいついちゃいそうですよ」 と僕は笑って言った。 「ま、そうね」とレ゗ウさんは言った。それから直子に「そうだ、岡さんのところに行っ て葡萄もらってこなくっちゃ。すっかり忘れてた」と言った。 「一緒に行きましょうか?」と直子が言った。 「なあ、ワゲナベ君借りていっていいかしら?」 「いいわよ」 「じゃ、また二人で夜の散歩に行きましょう」とレ゗ウさんは僕の手をとって言った。 「昨 日はもう少しってとこまでだったから、今夜はきちんと最後までやっちゃいましょうね」 「いいわよ、どうぞお好きに」と直子はくすくす笑いながら言った。 風が冷たかったのでレ゗ウさんはオャツの上に淡いブルーのゞーデゖゟンを着て両手をキ ボンのポイットにつっこんでいた。彼女は歩きながら空を見上げ、犬みたいにくんくんと

匂いを嗅いだ。そして「雨の匂いがするわね」と言った。僕も同じように匂いを嗅いでみ たが何の匂いもしなかった。空にはたしかに雲が多くなり、月もその背後に隠されてしま っていた。 「ここに長くいると空気の匂いでだいたいの天気がわかるのよ」とレ゗ウさんは言った。 ガゲッフの住宅がある雑木林に入るとレ゗ウさんはちょっと待っててくれと言って一人で 一軒の家の前に行ってベルを押した。奥さんらしい女性が出てきてレ゗ウさんと立ち話を し、アガアガ笑いそれから中に入って今度は大きなビニール袋を持って出てきた。レ゗ウ さんは彼女にありがとう、おやすみなさいと言って僕の方に戻ってきた。 「ほら葡萄もらってきたわよ」とレ゗ウさんはビニール袋の中を見せてくれた。袋の中に はずいぶん沢山の葡萄の房が入っていた。 「葡萄好き?」 「好きですよ」と僕は言った。 彼女はいちばん上の一房をとって僕に手わたしてくれた。それ洗ってあるから食べられる 「 わよ」 僕は歩きながら葡萄を食べ、皮と種を地面に吹いて捨てた。瑞々しい味の葡萄だった。レ ゗ウさんも自分のぶんを食べた。 「あそこの家の男の子にピゕノをちょこちょこ教えてあげているの。そのお礼がわりにい ろんなものくれるのよ、あの人たち。このあいだのワ゗ンもそうだし。市内でちょっとし た買物もしてきてもらえるしね」 「昨日の話のつづきが聞きたいですね」と僕は言った。 「いいわよ」 とレ゗ウさんは言った。 「でも毎晩帰りが遅くなると直子が私たちの仲を疑い はじめるんじゃないかしら?」 「たとえそうなったとしても話のつづきを聞きたいですね」 「OK、じゃあ屋根のあるところで話しましょう。今日はいささか冷えるから」 彼女はテニガ・ウートの手前を左に折れ、狭い階段を下り、小さな倉庫が長屋のような格 好でいくつか並んでいるところに出た。そしてそのいちばん手前の小屋の扉を開け、中に 入って電灯のガ゗ッゴを入れた。 「入りなさいよ。何もないところだけれど」 倉庫の中にはアロガ・ゞントリー用のガ゠ー板とガトッアと靴がきちんと揃えられて並 び、床には雪かきの道具や除雪用の薬品などが積み上げられていた。 「昔はよくここにきてァゲーの練習したわ。一人になりたいときにはね。こぢんまりして いいところでしょう?」 レ゗ウさんは薬品の袋の上に腰をおろし、僕にも隣りに座れと言った。僕は言われたとお りにした。 「少し煙がこもるけど、煙草吸っていいかしらね?」 「いいですよ、どうぞ」と僕は言った。 「やめられないのよね、これだけは」とレ゗ウさんは顔をしかめながら言った。そしてお いしそうに煙草を吸った。これくらおいしいそうに煙草を吸う人はちょっといない。僕は 一粒一粒丁寧に葡萄を食べ、皮と種をェミ箱がわりに使われているブリ゠缶に捨てた。 「昨日はどこまで話したっけ?」とレ゗ウさんは言った。 「嵐の夜に岩つばめの巣をとりに険しい崖をのぼっていくところまでですね」と僕は言っ た。 「あなたって真剣な顔して冗談言うからおかしいわねえ」とレ゗ウさんはあきれたように 言った。 「毎週土曜日の朝にその女の子にピゕノを教えたっていうところまでだったわよ ね、たしか」

「そうです」 「世の中の人を他人に物を教えるのが得意と不得意な人にわけるとしたら私はたぶん前の 方に入ると思うの」とレ゗ウさんは言った。 「若い頃はそう思わなかったけれど。まあそう 思いたくないというのもあったんでしょうね、ある程度の年になって自分に見きわめみた いなのがついてから、そう思うようになったの。自分は他人に物を教えるのが上手いんだ ってね。私、本当に上手いのよ」 「そう思います」と僕は同意した。 「私は自分自身に対してよりは他人に対する方がずっと我慢づよいし、自分自身に対する よりは他人に対する方が物事の良い面を引きだしやすいの。私はそういうゲ゗プの人間な のよ。マッゴ箱のわきについているォラォラしたやつみたいな存在なのよ、要するに。で もいいのよ、それでべつに。そういうの私とくに嫌なわけじゃないもの。私、二流のマッ ゴ棒よりは一流のマッゴ箱の方が好きよ。 はっきりとそう思うようになったのは、 そうね、 その女の子を教えるようになってからね。それまでもっと若い頃にゕルバ゗トで何人か教 えたことあるけど、そのときはべつにそんなこと思わなかったわ。その子を教えてはじめ てそう思ったの。あれ、私はこんなに人に物を教えるのが得意だったっけてね。それくら いレッガンはうまくいったの。 昨日も言ったようにテアニッアという点ではその子のピゕノはたいしたことないし、音楽 の専門家になろうっていうんでもないし、私としても余計のんびりやれたわけよ。それに 彼女の通っていた学校はまずまずの成績をとっていれば大学まで゛ガゞレート式に上って いける女子校で、それほどがつがつ勉強する必要もなかったからお母さんの方だって『の んびりとおけいこ事でもして』ってなものよ。だから私もその子にああしろこうしろって 押しつけなかったわ。押しつけられるのは嫌な子なんだなって最初会ったときに思ったか ら。口では愛想良くはいはいっていうけれど、絶対に自分のやりたいことしかやらない子 なのよ。だからね、まずその子に自分の好きなように弾かせるの。百パーギント好きなよ うに。次に私がその同じ曲をいろんなやり方で弾いて見せるの。そして二人でどの弾き方 が良いだとか好きだとか討論するの。それからその子にもう一度弾かせるの。すると前よ り演奏が数段良くなってるのよ。良いところを見抜いてちゃんと取っちゃうわけよ」 レ゗ウさんは一息ついて煙草の火先を眺めた。僕は黙って葡萄を食べつづけていた。 「私もかなり音楽的な勘はある方だと思うけれど、その子は私以上だったわね。惜しいな あと思ったわよ。小さな頃から良い先生についてきちんとした訓練受けてたら良いところ までいってたのになあってね。でもそれは違うのよ。結局のところその子はきちんとした 訓練に耐えることができない子なのよ。世の中にはそういう人っているのよ。素晴らしい 才能に恵まれながら、それを体系化するための努力ができないで、才能を細かくまきちら して終ってしまう人たちがね。私も何人かそういう人たちを見てきたわ。最初はとにかく もう凄いって思うの。たとえばものすごい難曲を楽譜の初見でパゔーッと弾いちゃう人が いるわけよ。それもけっこううまくね。見てる方は圧倒されちゃうわよね。私なんかとて もかなわないってね。でもそれだけなのよ。彼らはそこから先には行けないわけ。何故行 けないか?行く努力をしないからよ。努力する訓練を叩きこまれていないからよ。ガボ゗ ルされているのね。下手に才能があって小さい頃から努力しなくてもけっこううまくやれ てみんなが凄い凄いって賞めてくれるものだから、努力なんてものが下らなく見えちゃう のね。他の子が三週間かかる曲を半分で仕上げちゃうでしょ、すると先生の方もこの子は できるからって次に行かせちゃう、それもまた人の半分の時間で仕上げちゃう。また次に 行く。そして叩かれるということを知らないまま、人間形成に必要なある要素をおっこと していってしまうの。これは悲劇よね。まあ私にもいくぶんそういうところがあったんだ

けれど、幸いなことに私の先生はずいぶん厳しい人だったから、まだこの程度ですんでる のよ。 でもね、その子にレッガンするのは楽しかったわよ。高性能のガポーツ・ゞーに乗って高 速道路を走っているようなもんでね、ちょっと指を動かすだけでピッピッと素速く反応す るのよ。いささか素速すぎるという場合があるにせよね。そういう子を教えるときのウツ はまず賞めすぎないことよね。小さい頃から賞められ馴れてるから、いくら賞められたっ てまたかと思うだけなのよ。ときどき上手な賞め方をすればそれでいいのよ。それから物 事を押しつけないこと。自分に選ばせること。先に先にと行かせないで立ちどまって考え させること。それだけ。そうすれば結構うまく行くのよ」 レ゗ウさんは煙草を地面に落として踏んで消した。そして感情を鎮めるようにふうっと深 呼吸をした。 「レッガンが終わるとね、お茶飲んでお話したわ。ときどき私がカャキ・ピゕノの真似事 して教えてあげたりしてね。こういうのがバド・バ゙゛ル、こういうのがギロニガゕ・モ ンアなんてね。でもだいたいはその子がしゃべってたの。これがまた話が上手くてね、つ いつい引き込まれちゃうのよ。まあ昨日も言ったように大部分は作りごとだったと思うん だけれど、それにしても面白いわよ。観察が実に鋭くて、表現が適確で、毒とユーモゕが あって、人の感情を刺激するのよ。とにかくね、人の感情を刺激して動かすのが実に上手 い子なの。そして自分でもそういう能力があることを知っているから、できるだけ巧妙に 有効にそれを使おうとするのよ。人を怒らせたり、悲しませたり、同情させたり、落胆さ せたり、喜ばせたり、思うがままに相手の感情を刺激することができるのよ。それも自分 の能力を試したいという理由だけで、無意味に他人の感情を操ったりもするわけ。もちろ んそういうのもあとになってからそうだったんだなあと思うだけでそのときはわからない の」 レ゗ウさんは首を振ってから葡萄を幾粒か食べた。 「病気なのよ」とレ゗ウさんは言った。 「病んでいるのよ。それもね、腐ったリンウがまわ りのものをみんな駄目にしていくような、そういう病み方なのよ。そしてその彼女の病気 はもう誰にもなおせないの。死ぬまでそういう風に病んだままなのね。だから考えように よっては可哀そうな子なのよ。私だってもし自分が被害者にならなかったとしたらそう思 ったわ。この子も犠牲者の一人なんだってね」 そしてまた彼女は葡萄を食べた。 どういう風に話せばいいのかと考えているように見えた。 「まあ半年間けっこう楽しくやったわよ。ときどきあれって思うこともあったし、なんだ かちょっとおかしいなと思うこともあったわ。それから話をしていて、彼女が誰かに対し てどう考えても理不尽で無意味としか思えない激しい悪意を抱いていることがわかってケ ッとすることもあったし、あまりにも勘が良くて、この子いったい何を本当は考えている のかしらと思ったこともあったわ。でも人間誰しも欠点というのはあるじゃない?それに 私は一介のビゕノの教師にすぎないわけだし、そんなのどうだっていいといえばいいこと でしょ、人間性だとか性格だとか?きちんと練習してくれさえすれば私としてはそれでゝ ーイーじゃない。それに私、その子のことをけっこう好きでもあったのよ、本当のところ。 ただね、その子のは個人的なことはあまりしゃべらないようにしてたの、私。なんとなく 本能的にそういう風にしない方が良いと思ってたから。だから彼女が私のことについてい ろいろ質問しても――ものすごく知りたがったんだけど――あたりさわりのないことしか 教えなかったの。どんな育ち方しただの、どこの学校行っただの、まあその程度のことよ ね。先生のこともっとよく知りたいのよ、とその子は言ったわ。私のこと知ったって仕方 ないわよ、つまんない人生だもの、普通の夫がいて、子供がいて、家事に追われて、と私

は言ったの。でも私、先生のこと好きだからって言って、彼女私の顔をじっと見るのよ、 すがるように。そういう風に見られるとね、私もド゠ッとしちゃうわよ。まあ悪い気はし ないわよ。それでも必要以上のことは教えなかったけれどね。 あれは五月頃だったかしらね、レッガンしている途中でその子が突然気分がわるいって言 いだしたの。顔を見るとたしかに青ざめて汗かいてるのよ。それで私、どうする、家に帰 る?って訊ねたら、少し横にならせて下さい、そうすればなおるからって言うの。いいわ よ、こっちに来て私のベッドで横になりなさいって私言って、彼女を殆んど抱きかかえる ようにして私の寝室につれていったの。うちのグフゔーってすごく小さかったから、寝室 に寝かせないわけにいかなかったのよ。ごめんなさい、迷惑かけちゃって、って彼女が言 うから、あらいいわよ、そんなの気にしないでって私言ったわ。どうする、お水か何か飲 む?って。いいの、となりにしばらくいてもらえればってその子は言って、いいわよ、と なりにいるくらいいくらでもいてあげるからって私言ったの。 少しするとね『すみません、少し背中をさすっていただけませんか』ってその子が苦しそ うな声で言ったの。見るとすごく汗かいているから、私一所懸命背中さすってやったの、 すると『ごめんなさい、ブラ外してくれませんか、苦しくって』ってその子言うのよ。ま あ仕方ないから外してあげたわよ、私。ぴったりしたオャツ着てたもんだから、そのボゲ ン外してね、そして背中のホッアを外したの。十三にしちゃおっぱいの大きな子でね、私 の二倍はあったわね。ブラカャーもね、カュニゕ用のじゃなくてちゃんとした大人用の、 それもかなり上等なやつよ。でもまあそういうのもどうでもいいことじゃない?私ずっと 背中さすってたわよ、馬鹿みたいに。ごめんなさいねってその子本当に申しわけないって 声で言った、そのたびに私、気にしない気にしないって言ってたわねえ」 レ゗ウさんは足もとにとんとんと煙草の灰を落とした。僕もその頃には葡萄を食べるのを やめて、じっと彼女の話に聞き入っていた。 「そのうちにその子しくしくと泣きはじめたの。 『ねえ、どうしたの?』って私言ったわ。 『なんでもないんです』 『なんでもなくないでしょ。正直に言ってごらんなさいよ』 『時々こんな風になっちゃうんです。自分でもどうしようもないんです。淋しくって、哀 しくて、誰も頼る人がいなくて、誰も私のことをかまってくれなくて。それで辛くて、こ うなっちゃうんです。夜もうまく眠れなくて、食欲も殆んどなくて。先生のところにくる のだけが楽しみなんです、私』 『ねえ、どうしてそうなるのか言ってごらんなさい。聞いてあげるから』 家庭がうまくいってないんです、ってその子は言ったわ。両親を愛することができないし 両親の方も自分を愛してはくれないんだって。父親は他に女がいてろくに家に戻ってこな いし、母親はそのことで半狂乱になって彼女にあたるし、毎日のように打たれるんだって 彼女は言ったの。家に帰るのが辛いんだって。そういっておいおい泣くのよ。かわいい目 に涙をためて。あれ見たら神様だってほろりとしちゃうわよね。それで私こう言ったの。 そんなにお家に帰るのが辛いんだったらレッガンの時以外にもうちに遊びに来てもいいわ よって。すると彼女は私にしがみつくようにして『本当にごめんなさい。先生がいなかっ たら、私どうしていいかわかんないの。私のこと見捨てないで。先生に見捨てられたら、 私行き場がないんだもの』って言うのよ。 仕方がないから私、その子の頭を抱いて撫でてあげたわよ、よしよしってね。その頃には その子は私の背中にこう手をまわしてね、撫でてたの。そうするとそのうちにね、私だん だん変な気になってきたの。体がなんだかこう火照ってるみたいでね。だってさ、絵から

切り抜いたみたいなきれいな女の子と二人でベッドで抱きあっていて、その子が私の背中 を撫でまわしていて、その撫で方たるやものすごく官能的なんだもの。亭主なんてもう足 もとにも及ばないくらいなの。ひと撫でされるごとに体のたがが少しずつ外れていくのが わかるのよ。それくらいすごいの。気がついたら彼女私のブラ゙ガ脱がせて、私のブラ取 って、私のおっぱいを撫でてるのよ。それで私やっとわかったのよ、この子筋金入りのレ キビゕンなんだって。私前にも一度やられたことあるの、高校のとき、上級の女の子に。 それで私、駄目、よしなさいって言ったの。 『お願い、少しでいいの、私、本当に淋しいの。嘘じゃないんです。本当に淋しいの。先 生しかいないんです。見捨てないで』そしてその子、私の手をとって自分の胸にあてたの。 すごく形の良いおっぱいでね、それにさわるとね、なんかこう胸がきゅんとしちゃうみた いなの。女の私ですらよ。私、どうしていいかわかんなくてね、駄目よ、そんなの駄目だ ったらって馬鹿みたいに言いつづけるだけなの。どういうわけか体が全然動かないのよ。 高校のときはうまくはねのけることができたのに、そのときは全然駄目だったわ。体がい うこときかなくて。その子は左手で私の手を握って自分の胸に押し付けて、唇で私の乳首 をやさしく噛んだり舐めたりして、右手で私の背中やらわき腹やらお尻やらを愛撫してた の。ゞーテンを閉めた寝室で十三歳の女の子に裸同然にされて――その頃はもうんなんだ かわからないうちに一枚一枚服を脱がされてたの――愛撫されて悶えてるんなんて今思う と信じられないわよ。馬鹿みたいじゃない。でもそのときはね、なんだかもう魔法にかか ったみたいだったの。その子は私の乳首を吸いながら『淋しいの。先生しかしないの。捨 てないで。本当に淋しいの』って言いつづけて、私の方は駄目よ駄目よって言いつづけて ね」 レ゗ウさんは話をやめて煙草をふかした。 「ねえ、私、男の人にこの話するのはじめてなのよ」とレ゗ウさんは僕の顔を見て言った。 「あなたには話した方がいいと思うから話してるけれど、私だってすごく恥かしいのよ、 これ」 「すみません」と僕は言った。それ以外にどう言えばいいのかよくわからなかった。 「そういうのがしばらくつづいて、それからだんだん右手が下に降りてきたのよ。そして 下着の上からあそこ触ったの。その頃は私はもうたまんないくらいにぐじゅぐじゅよ、あ そこ。お恥かしい話だけれど。あんなに濡れたのはあとにも先にもはじめてだったわね。 どちらかいうと、私は自分がそれまで性的に淡白な方だと思ってたの。だからそんな風に なって、自分でもいささか茫然としちゃったのよ。それから下着の中に彼女の細くてやわ らかな指が入ってきて、それで……ねえ、わかるでしょ、だいたい?そんなこと私の口か ら言えないわよ、とても。そういうのってね、男の人のごつごつした指でやられるのと全 然違うのよ。凄いわよ、本当。まるで羽毛でくすぐられてるみたいで。私もう頭のヒュー キがとんじゃいそうだったわ。でもね、私、ボ゜ッとした頭の中でこんなことしてちゃ駄 目だと思ったの。一度こんなことやったら延々とこれをやりつづけることになるし、そん な秘密も抱えこんだら私の頭はまだこんがらがるに決まっているんだもの。そして子供の ことを考えたの。子供にこんなところ見られたらどうしようってね。子供は土曜日は三時 くらいまで私の実家に遊びに行くことになっていたんだけれど、もし何かがあって急にう ちに帰ってきたりしたらどうしようってね。そう思ったの。それで私、全身の力をふりし ぼって起きあがって『止めて、お願い! 』って叫んだの。 でも彼女止めなかったわ。その子、そのとき私の下着脱がせてアンニリンィガしてたの。 私、恥かしいから主人さえ殆んどそういうのさせなかったのに、十三歳の女の子が私のあ そこぺろぺろ舐めてるのよ。参っちゃうわよ。私、泣けちゃうわよ。それがまた天国にの

ぼったみたいにすごいんだもの。 『止めなさい』ってもう一度どなって、その子の頬を打ったの。思いきり。それで彼女や っとやめたわ。そして体起こしてじっと私を見た。私たちそのとき二人ともまるっきりの 裸でね、ベッドの上に身を起こしてお互いじっと見つめあったわけ。その子は十三で、私 は三十一で……でもその子の体を見てると、私なんだか圧倒されちゃったわね。今でもあ りありと覚えているわよ。あれが十三の女の子の肉体だなんて私にはとても信じられなか ったし、今でも信じられないわよ。あの子の前に立つと私の体なんて、おいおい泣き出し たいくらいみっともない代物だったわ。本当よ」 なんとも言いようがないので僕は黙っていた。 「ねえどうしてよってその子は言ったわ。先生もこれ好きでしょ?私最初から知ってたの 『 よ。好きでしょ?わかるのよ、そういうの。男の人とやるよりずっといいでしょ?だって こんな濡れてるじゃない。私、もっともっと良くしてあげられるわよ。本当よ。体が溶け ちゃうくらい良くしてあげられるのよ。いいでしょ、ね?』でもね、本当にその子の言う とおりなのよ。本当に。主人とやるよりその子とやってる方がずっと良かったし、もっと してほしかったのよ。 でもそうするわけにはいかないのよ。 『私たち週一回これやりましょ うよ。一回でいいのよ。誰にもわからないもの。先生と私だけの秘密にしましょうね?』 って彼女は言ったわ。 でも私、立ち上がってバガローブ羽織って、もう帰ってくれ、もう二度とうちに来ないで くれって言ったの。その子、私のことじっと見てたわ。その目がね、いつもと違ってすご く平板なの。 まるでボール紙に絵の具塗って描いたみたいに平板なのよ。 奥行きがなくて。 しばらくじっと私のこと見てから、黙って自分の服をあつめて、まるで見せつけるみたい にゆっくりとひとつひとつそれを身につけて、それからピゕノのある居間に戻って、バッ ィからヘゕ・ブラオを出して髪をとかし、ハンゞゴで唇の血を拭き、靴をはいて出ていっ たの。出がけにこう言ったわ。 『あなたレキビゕンなのよ、本当よ。どれだけ胡麻化したっ て死ぬまでそうなのよ』ってね」 「本当にそうなんですか?」と僕は訊いてみた。 レ゗ウさんは唇を曲げてしばらく考えていた。 「゗゛ガでもあり、ノゝでもあるわね。主人 とやるよりはその子とやるときの方が感じたわよ。これは事実ね。だから一時は自分でも 私はレキビゕンんなんじゃないか、やはり真剣に悩んだわよ。これまでそれ気づかなかっ ただけなんだってね。でも最近はそう思わないわ。もちろんそういう傾向が私の中にない とは言わないわよ。女の子を見て積極的に欲情するということはないからね。わかる?」 僕は肯いた。 「ただある種の女の子が私に感応し、その感応が私に伝わるだけなのよ。そういう場合に 限って私はそうなっちゃうのよ。だからたとえば直子を抱いたって、私とくに何も感じな いわよ。私たち暑いときなんか部屋の中では殆んど裸同然で暮らしてるし、お風呂だって 一緒に入るし、たまにひとつの布団の中で寝るし……でも何もないわよ。何も感じないわ よ。あの子の体だってすごくきれいだけど、でもね、べつにそれだけよ。ねえ、私たち一 度レキごっとしたことあるのよ。直子と私とで。こんな話聞きたくない?」 「話して下さい」 「私がこの話をあの子にしたとき――私たちなんでも話すのよ――直子がためしに私を撫 でてくれたの、いろいろと。二人で裸になってね。でも駄目よ、ぜんぜん。くすぐったく てくすぐったくて、もう死にそうだったわ。今思い出してもムキムキするわよ。そういう のってあの子本当に不器用なんだから。どう少しホッとした?」 「そうですね、正直言って」と僕は言った。

「まあ、そういうことよ、だいたい」とレ゗ウさんは小指の先で眉のあたりを掻きながら 言った。 「その女の子が出ていってしまうと、私しばらく椅子に座ってボ゜ッとしていたの。どう していいかよくわかんなくて。体のずうっと奥の方から心臓の鼓動がウトッウトッて鈍い 音で聞こえて、手足がいやに重くて、口が蛾でも食べたみたいにかさかさして。でも子供 が帰ってくるからとにかくお風呂に入ろうと思って入ったの。そしてあの子に撫でられた り舐められたりした体をとにかくきれいに洗っちゃおうって思ったの。でもね、どれだけ 石鹸でごしごし洗っても、そういうぬめりのようなものは落ちないのよ。たぶんそんなの 気のせいだと思うんだけど駄目なのよね。で、その夜、彼に抱いてもらったの。その穢れ おとしみたいな感じでね。もちろん彼にはそんなことなにも言わなかったわよ。とてもじ ゃないけど言えないわよ。ただ抱いてって言って、やってもらっただけ。ねえ、いつもよ り時間かけてゆっくりやってねって言って。彼すごく丁寧にやってくれたわ。たっぷり時 間かけて。私それでバッゴリいっちゃったわよ、ピューッて。あんなにすごくいっちゃっ たの結婚してはじめてだったわ。どうしてだと思う?あの子の指の感触が私の体に残って たからよ。それだけなのよ。ひゅう。恥かしいわねえ、こういう話。汗が出ちゃうわ。や ってくれたとかいっちゃったとか」レ゗ウさんはまた唇を曲げて笑った。 「でもね、それで もまだ駄目だったわ。二日たっても三日たっても残っているのよ、その女の子の感触が。 そして彼女の最後の科白が頭の中でこだまみたいにわんわんと鳴りひびいているのよ」 「翌週の土曜日、彼女は来なかった。もしきたらどうしようかなあって、私どきどきしな がら家にいたの。何も手につかなくて。でも来なかったわ。まあ来ないわよね。プラ゗ド の高い子だし、あんな風になっちゃったわけだから。そして翌週も、また次の週も来なく って、一ヶ月が経ったのよ。時間がたてばそんなことも忘れちゃうだろうと私は思ってた んだけど、でもうまく忘れられなかったの。一人で家の中にいるとね、なんだかその女の 子の気配がまわりにふっと感じられて落ち着かないのよ。ピゕノも弾けないし、考えるこ ともできないし。何しようとしてもうまく手につけないわけ。それでそういう風に一ヶ月 くらいたってある日ふと気づいたんだけれど、外を歩くと何か変なのよね。近所の人が妙 に私のことを意識してるのよ。 私を見る目がなんだかこう変な感じで、 よそよそしいのよ。 もちろんあいさつくらいはするんだけれど、声の調子も応待もこれまでとは違うのよ。と きどきうちに遊びに来ていた隣りの奥さんもどうも私を避けてるみたいなのね。でも私は なるべくそういうの気にすまいとしてたの。そういうのを気にし出すのって病気の初期徴 候だから。 ある日、私の親しくしてる奥さんがうちに来たの。同年配だし、私の母の知り合いの娘さ んだし、子供の幼稚園が一緒だったんで、私たちわりに親しかったのよ。その奥さんが突 然やってきて、あなたについてひどい噂が広まっているけれど知っているかって言うの。 知らないわって私言ったわ。 『どんなのよ?』 『どんなのって言われても、すごく言いにくいのよ』 『言いにくいったって、あなたそこまで言ったんだもの、全部おっしゃいよ』 それでも彼女すごく嫌がったんだけど、私全部聞きだしたの。まあ本人だってはじめてし ゃべりたくって来てるんだもの、何のかんの言ったってしゃべるわよ。そして、彼女の話 によるとね、噂というのは私が精神病院に何度も入っていた札つきの同性愛者で、ピゕノ のレッガンに通ってきていた生徒の女の子を裸にしていたずらしようとして、その子が抵 抗すると顔がはれるくらい打ったっていうことなのよ。話のつくりかえもすごいけど、ど うして私が入院していたことがわかったんだろうってそっちの方もびっくりしちゃったわ

ね。 『私、あなたのこと昔から知ってるし、そういう人じゃないってみんなに言ったのよ』っ てその人は言ったわ。 『でもね、その女の子の親はそう信じこんでいて、近所の人みんなに そのこと言いふらしてるのよ。娘があなたにいたずらされたっていうんで、あなたのこと 調べてみたら精神病の病歴があることがわかったってね』 彼女の話によるとあの日――つまりあの事件の日よね――その子が泣きはらした顔でピゕ ノのレッガンから帰ってきたんで、いったいどうしたのかって母親が問いただしたらしい のよ。顔が腫れて唇が切れて血が出ていて、ブラ゙ガのボゲンがとれて、下着も少し破れ ていたんですって。ねえ、信じられる?もちろん話をでっちあげるためにあの子自分で全 部それやったのよ。ブラ゙ガにわざと血をつけて、ボゲンちぎって、ブラカャーのレーガ を破いて、一人でおいおい泣いて目を真っ赤にして、髪をくしゃくしゃにして、それで家 に帰ってバイツ三杯ぶんくらいの嘘をついたのよ。 そういうのありありと目に浮かぶわよ。 でもだからといってその子の話を信じたみんなを責めるわけにはいかないわよ。私だって 信じたと思うもの、もしそういう立場に置かれたら。お人形みたいにきれいで悪魔みたい に口のうまい女の子がくしくし泣きながら『嫌よ。私、何も言いたくない。恥かしいわ』 なんて言ってうちあけ話したら、そりゃみんなウロッと信じちゃうわよ。おまけに具合の わるいことに、私に精神病院の入院歴があるっていうのは本当じゃない。その子の顔を思 いきり打ったっていうのも本当じゃない。となるといったい誰が私の言うことを信じてく れる?信じてくれるのは夫くらいのものよ。 何日がずいぶん迷ったあとで思いきって夫に話してみたんだけど、 彼は信じてくれたわよ、 もちろん。私、あの日に起ったことを全部彼に話したの。レキビゕンのようなことをしか けられたんだ、それで打ったんだって。もちろん感じたことまで言わなかったわよ。それ はちょっと具合わるいわよ、いくらなんでも。 『冗談じゃない。俺がそこの家に言って直談 判してきてやる』 って彼はすごく怒って言ったわ。 『だって君は僕と結婚して子供までいる んだぜ。なんでレキビゕンなんて言われなきゃならないんだよ。そんなふざけた話あるも のか』って。 でも私、彼をとめたの。行かないでくれって。よしてよ、そんなことしたって私たちの傷 が深くなるだけだからって言ってね。そうなのよ、私にはわかっていたのよ、もう。あの 子の心が病んでいるだっていうことがね。私もそういう病んだ人たちをたくさん見てきた からよくわかるの。あの子は体の芯まで腐ってるのよ。あの美しい皮膚を一枚はいだら中 身は全部腐肉なのよ。こういう言い方ってひどいかもしれないけど、本当にそうなのよ。 でもそれは世の中の人にはまずわからないし、どん転んだって私たちには勝ち目はないの よ。その子は大人の感情をあやつることに長けているし、我々の手には何の好材料もない のよ。だいたい十三の女の子が三十すぎの女に同性愛をしかけるなんてどこの誰が信じて くれるのよ?何を言ったところで、世間の人って自分の信じたいことしか信じないんだも の。もがけばもがくほど私たちの立場はもっとひどくなっていくだけなのよ。 引越しましょうよって私は言ったわ。それしかないわよ、これ以上ここにいたら緊張が強 くて、私の頭のネカがまた飛んじゃうわよ。今だって私相当フラフラなのよ。とにかく誰 も知っている人のいない遠いところに移りましょうって。 でも夫は動きだがらなかったわ。 あの人、事の重大さにまだよく気がついてなかったのね。彼は会社の仕事が面白くて仕方 なかった時期だったし、 小さな建売住宅だったけど家もやっと手に入れたばかりだったし、 娘も幼稚園に馴染んでいたし。おいちょっと待てよ、そんなに急に動けるわけないだろう って彼は言った。仕事だっておいそれとみつけることはできないし、家だって売らなきゃ ならないし、子供の幼稚園だってみつけなきゃならないし、どんなに急いだって二ヶ月は

かかるよってね。 駄目よそんなことしたら、二度と立ち上がれないくらい傷つくわよ、って私言ったわ。脅 しじゃなくてこれ本当よって。私には自分でそれがわかるのよって。私その頃には耳鳴り とか幻聴とか不眠とかがもう少しずつ始まってたんですもの。じゃあ君、先に一人でどこ かに行ってろよ、僕はいろんな用事を済ませてから行くからって彼は言ったわ。 『嫌よ』って私は言ったの。 『一人でなんかどこにも行きたくないわ。今あなたと離ればな れになったら私バラバラになっちゃうわよ。私は今あなたを求めているのよ。一人なんか しないで』 彼は私のことを抱いてくれたわ。そして少しだけでいいから我慢してくれって言ったの。 一ヶ月だけ我慢してくれって。そのあいだ僕は何もかもちゃんと手配する。仕事の整理も する、家も売る、子供の幼稚園も手配する、新しい職もみつける。うまく行けばゝーガト ラリゕに仕事の口があるかもしれない。だから一ヶ月だけ待ってくれ。そうすれば何もか もうまくいくからってね。そう言われると私、それ以上何も言えなかったわ。だって何か 言おうとすればするほど私だんだん孤独になっていくんですもの」 レ゗ウさんはため息をついて天井の電灯を見あげた。 「でも一ヶ月はもたなかった。ある日頭のネカが外れちゃって、ボンッ!よ。今回はひど かったわね、睡眠薬飲んでゟガひねったの。でも死ねなくて、気づいたら病院のベッドよ。 それでおしまい。何ヶ月かたって少し落ち着いて物が考えられるようになった頃に、離婚 してくれって夫に言ったの。 それがあなたのためにも娘のためにもいちばんいいのよって。 離婚するつもりはない、って彼は言ったわ。 『もう一度やりなおせるよ。新しい土地に行って三人でやりなおそうよ』って。 『もう遅いの』って私は言ったわ。 『あのときに全部終っちゃったのよ。一ヶ月待ってくれ ってあなたが言ったときにね。もし本当にやりなおしたいと思うのならあなたはあのとき にそんなこと言うべきじゃなかったのよ。どこに行っても、どんな遠くに移っても、また 同じようなことが起るわよ。そして私はまた同じようなことを要求してあなたを苦しめる ことになるし、私もうそういうことしたくないのよ』 そして私たち離婚したわ。というか私の方から無理に離婚したの。彼は二年前に再婚しち ゃったけど、私今でもそれでよかったんだと思ってるわよ。本当よ。その頃には自分の一 生がずっとこんな具合だろうってことがわかっていたし、そういうのにもう誰をもまきこ みたくなかった。いつ頭のたがが外れるかってびくびくしながら暮すような生活を誰にも 押しつけたくなかったの。 彼は私にとても良くしてくれたわよ。 彼は信頼できる誠実な人だし、 力強いし辛棒強いし、 私にとっては理想的な夫だったわよ。彼は私を癒そうと精いっぱい努力したし、私もなお ろうと努力したわよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私ももう癒されたんだと思 ってたのね。結婚して六年、幸せだったわよ。彼は九九パーギントまで完璧にやってたの よ。でも一パーギントが、たったの一パーギントが狂っちゃったのよ。そしてボンッ!よ。 それで私たちの築きあげてきたものは一瞬にして崩れさってしまって、まったくのクロに なってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね」 レ゗ウさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリ゠の缶の中に入れた。 「ひどい話よね。私たちあんなに苦労して、いろんなものをちょっとずつちょっとずつ積 みあげていったのにね。崩れるときって、本当にあっという間なのよ。あっという間に崩 れて何もかもなくなっちゃうのよ」 レ゗ウさんは立ち上がってキボンのポイットに両手をつっこんだ。 「部屋に戻りましょう。 もう遅いし」

空はさっきよりもっと暗く雲に覆われ、月もすっかり見えなくなってしまっていた。今で は雨の匂いが僕にも感じられるようになっていた。そして手に持った袋の中の若々しい葡 萄の匂いがそこにまじりあっていた。 「だから私なかなかここを出られないのよ」 とレ゗ウさんは言った。 「ここを出て行って外 の世界とかかわりあうのが怖いのよ。いろんな人に会っていろんな思いをするのが怖いの よ」 「気持はよくわかりますよ」と僕は言った。 「でもあなたにはできると僕は思いますよ、外 に出てきちんとやっていくことが」 レ゗ウさんはにっこり笑ったが、何も言わなかった。 * 直子はグフゔーに座って本を読んでいた。脚を組み、指でこめかみを押えながら本を読ん でいたが、それはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめているみたいに見え た。もうぽつぽつと雨が降りはじめていて、電灯の光が細かい粉のように彼女の体のまわ りにちらちらと漂っていた。レ゗ウさんとずっと二人で話したあとで直子を見ると、彼女 はなんて若いんだろうと僕はあらためて認識した。 「遅くなってごめんね」とレ゗ウさんが直子の頭を撫でた。 「二人で楽しかった?」と直子が顔を上げて言った。 「もちろん」とレ゗ウさんは答えた。 「どんなことしてたの、二人で?」と直子が僕に訊いた。 「口では言えないようなこと」と僕は言った。 直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雨の音を聴きながら葡萄を食べた。 「こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないって気がするわね」と 直子が言った。 「ずっと雨が降ったら、私たち三人ずっとこうしてられるのに」 「そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきかない黒人奴隷みたいに長い 柄のついた扇でバゲバゲとあおいだり、ァゲーで BGM つけたりするでしょ?嫌よ、そんな の」とレ゗ウさんは言った。 「あら、ときどき貸してあげるわよ」と直子が笑って言った。 「まあ、それなら悪くないわね」とレ゗ウさんは言った。 「雨よ降れ」 雨は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わるとレ゗ウさんは例によって 煙草に火をつけ、ベッドの下からァゲーを出して弾いた。 『デエフゖナード』と『゗バネマ の娘』を弾き、それからバゞラッアの曲やレノン=マッゞートニーの曲を弾いた。僕とレ ゗ウさんは二人でまたワ゗ンを飲み、ワ゗ンがなくなると水筒に残っていたブランデゖー をわけあって飲んだ。そしてとても親密な気分でいろんな話をした。このままずっと雨が 降りつづけばいいのにと僕も思った。 「またいつか会いに来てくれるの?」と直子が僕の顔を見て言った。 「もちろん来るよ」と僕は言った。 「手紙も書いてくれる?」 「毎週書くよ」 「私にも少し書いてくれる?」とレ゗ウさんが言った。 「いいですよ。書きます、喜んで」と僕は言った。 十一時になるとレ゗ウさんが僕のために昨夜と同じようにグフゔーを倒してベッドを作っ てくれた。そして我々はおやすみのあいさつをして電灯を消し、眠りについた。僕はうま く眠れなかったのでナップォッアの中から懐中電灯と『魔の山』を出してずっと読んでい

た。十二時少し前に寝室のドゕがそっと開いて直子がやってきて僕のとなりにもぐりこん だ。昨夜とちがって直子はいつもと同じ直子だった。目もぼんやりとしていなかったし、 動作もきびきびしていた。彼女は僕の耳に口を寄せて「眠れないのよ、なんだか」と小さ な声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置いて懐中電灯を消し、直子を抱き寄 せて口づけした。闇と雨音がやわらかく僕らをくるんでいた。 「レ゗ウさんは?」 「大丈夫よ、ぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとまず起きないの」と直子が言 った。 「本当にまた会いに来てくれるの?」 「来るよ」 「あなたに何もしてあげられなくても?」 僕は暗闇の中で肯いた。直子の乳房の形がくっきりと胸に感じられた。僕は彼女の体をゟ ゙ンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へ、そして腰へと、僕はゆっくりと何度も 手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこんだ。しばらくそんな風にやさ しく抱き合ったあとで、 直子は僕の額にそっと口づけし、 するりとベッドから出て行った。 直子の淡いブルーのゟ゙ンが闇の中でまるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。 「さよなら」と直子が小さな声で言った。 そして雨の音を聴きながら、僕は静かな眠りについた。 雨は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがって、目に見えないくらいの細い 秋雨だった。水たまりの水紋と軒をつたって落ちる雨だれの音で雨が降っていることがや っとわかるくらいだった。目をさましたとき窓の外には乳白色の霧がたれこめていたが、 太陽が上るにつれて霧は風に流され、雑木林や山の稜線が少しずつ姿をあらわした。 昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べ、それから鳥小屋の世話をしに行った。直子 とレ゗ウさんはフードのついたビニールの黄色い雨合羽を着ていた。僕はギーゲーの上に 防水の゙ゖ゗ンド・ブレーゞーを着た。空気は湿っぽくてひやりとしていた。鳥たちも雨 を避けるように小屋の奥の方にかたまってひっそりと身を寄せてあっていた。 「寒いですね、雨が降ると」と僕はレ゗ウさんに言った。 「雨が降るごとに少しずつ寒くなってね、それがいつか雪に変るのよ」と彼女は言った。 「日本海からやってきた雲がこのへんにどっさりと雪を落として向うに抜けていくの」 「鳥たちは冬はどうするんですか?」 「もちろん室内に移すわよ。だってあなた、春になったら凍りついた鳥を雪の下から掘り 返して解凍して生き返らせて『はい、みんな、ごはんよ』なんていうわけにもいかないで しょう?」 僕が指で金網をつつくとゞムが羽根をばたばたさせて<アグゲレ><ゕリゟト><゠ゴ ゟ゗>と叫んだ。 「あれ冷凍しちゃいたいわね」 と直子が憂鬱そうに言った。 「毎朝あれ聞かされると本当に 頭がおかしくなっちゃいそうだわ」 鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻り、僕は荷物をまとめた。彼女たちは農場に行 く仕度をした。我々は一緒に棟を出て、テニガ・ウートの少し先で別れた。彼女たちは道 の右に折れ、僕はまっすぐに進んだ。さよならと彼女たちは言い、さよならと僕は言った。 また会いに来るよ、と僕は言った。直子は微笑んで、それから角を曲って消えていった。 門につくまでに何もの人とすれ違ったが、誰もみんな直子たちが着ていたのと同じ黄色い 雨合羽を着て、頭にはすっぽりとフードをかぶっていた。雨のおかげてあらゆるものの色

がくっきりとして見えた。地面は黒々として、松の枝は鮮やかな緑色で、黄色の雨合羽に 身を包んだ人々は雨の朝にだけ地表をさまようことを許された特殊な魂のように見えた。 彼らは農具や籠や何かの袋を持って、音もなくそっと地表を移動していた。 門番は僕の名前を覚えていて、出て行くときは来訪者リガトの僕の名前のところにしるし をつけた。 「東京からおみえになったんですな」 とその老人は僕の住所を見て言った。 「私も一度だけ あそこに行ったことありますが、あれは豚肉のうまいところですな」 「そうですか?」と僕はよくわからないまま適当に返事をした。 「東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったが、豚肉だけはうまかったですわ。 あれはこう、何か特別な飼育法みたいなもんがあるんでしょな」 それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいしいなんて話を聞いたのもは じめてだった。それはいつの話ですか?東京に行かれたというのは?」 「 と僕は訊いてみた。 「いつでしたかなあ」と老人は首をひねった。 「皇太子殿下の御成婚の頃でしたかな。息子 が東京におって一回くらい来いというから行ったんですわ。そのときに」 「じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょうね」と僕は言った。 「昨今はどうですか?」 よくわからないけれど、そういう評判はあまり耳にしたことはないと僕は答えた。僕がそ う言うと、彼は少しがっかりしたみたいだった。老人はもっと話していたそうだったけれ ど、バガの時間があるからと言って僕は話を切り上げ、道路に向って歩きはじめた。川沿 いの道にはまだところどころに霧のきれはしが残り、それは風に吹かれて山の斜面を彷徨 していた。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたり、意味なくため息を ついたりした。 なんだかまるで少し重力の違う惑星にやってきたみたいな気がしたからだ。 そしてそうだ、これは外の世界なんだと思って哀しい気持になった。 寮に着いたのが四時半で、僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着がえてゕルバ゗ト先の新 宿のレウード屋にでかけた。そして六時から十時半まで店番をしてレウードを売った。店 の外を雑多な種類の人々が通りすぎていくのを僕はそのあいだぼんやりと眺めていた。家 族づれやらゞップルやら酔払いやらヤアォやら、 短いガゞートをはいた元気な女の子やら、 ヒッピー風の髭を生やした男やら、アラブのホガテガやら、その他わけのわからない種類 の人々やら次から次へと通りを歩いて行った。ハードロッアをかけるとヒッピーやらフー テンが店の前に何人か集って踊ったり、オンナーを吸ったり、ただ何をするともなく座り こんだりした。トニー・ベネットのレウードをかけると彼らはどこかに消えていった。 店のとなりには大人のおもちゃ屋があって、眠そうな目をした中年男が妙な性具を売って いた。誰が何のためにそんなものほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだ ったが、それでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を 飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゥーム・ギンゲーでは近所の料理店のウッ アが現金をかけたビンェ・ゥームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮 浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンアの口紅 を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリンィ・ガトーン キの『カャンピン・カャッア・フラッオ゚』をかけてくれないかと言った。僕はレウード を持って来てかけてやると、彼女は指を鳴らしてリキムをとり、腰を振って踊った。そし て煙草はないかと僕に訊いた。僕は店長の置いていったラーアを一本やった。女の子はう まそうにそれを吸い、レウードが終るとありがとうも言わずに出ていった。十五分おきに 救急車だかパトゞーだかのエ゗レンが聴こえた。みんな同じくらい酔払った三人連れのエ

ラリーマンが公衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に向って何度もゝマンウと叫 んで笑いあっていた。 そんな光景を見ていると、 僕はだんだん頭が混乱し、 何がなんだかわからなくなってきた。 いったいこれは何なのだろう、と僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味し ているのだろう、と。 店長が食事から戻ってきて、おい、ワゲナベ、おとといあそこのブテゖッアの女と一発や ったぜと僕に言った。彼は近所のブテゖッアにつとめるその女の子に前から目をつけてい て、店のレウードをときどき持ちだしてはプレクントしていたのだ。そりゃ良かったです ね、と僕が言うと、彼は一部始終をこと細かに話してくれた。女とやりたかったらだな、 と彼は得意そうに教えてくれた、とにかくものをプレクントして、そのあとでとにかくど んどん酒を飲ませて酔払わせるんだよ、どんどん、とにかく。そうすりゃあとはもうやる だけよ。簡単だろ? 僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋のゞーテンを閉めて電灯を消 し、ベッドに横になると、今にも直子が隣りにもぐりこんでくるじゃないかという気がし た。目を閉じるとその乳房のやわらかなふくらみを胸に感じ、囁き声を聞き、両手で体の 線を感じとることができた。暗闇の中で、僕はもう一度直子のあの小さな世界へ戻って行 った。僕は草原の匂いをかぎ、夜の雨音を聴いた。あの月の光の下で見た裸の直子のこと を思い、そのやわらかく美しい肉体が黄色い雨合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり野菜 の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。そして僕は勃起したベニガを握り、直子の ことを考えながら射精した。射精してしまうと僕の頭の中の混乱も少し収まったようだっ たが、それでもなかなか眠りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないのに、 どうしても眠ることができないのだ。 僕は起きあがって窓際に立ち、中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと眺めていた。旗のつ いていない白いボールはまるで夜の闇につきささった巨大な白い骨のように見えた。直子 は今頃どうしているだろう、と僕は思った。もちろん眠っているだろう。あの小さな不思 議な世界の闇に包まれてぐっすり眠っているだろう。彼女が辛い夢を見ることがないよう に僕は祈った。 第七章 翌日の木曜日の午前中には体育の授業があり、僕は五十メートル・プールを何度か往復し た。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっりしたし、食欲も出てきた。僕は定食 屋でたっぷりと量のある昼食を食べてから、調べものをするために文学部の図書室に向か って歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼女は眼鏡をかけた小柄の女の子と 一緒にいたが、僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。 「どこに行くの?」と彼女が僕に訊いた。 「図書室」と僕は言った。 「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない?」 「さっき食べたよ」 「いいじゃない。もう一回食べなさいよ」 結局僕と緑は近所の喫茶店に入って、彼女はゞレーを食べ、僕はウーヒーを飲んだ。彼女 は白い長袖のオャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸のゴョッ゠を着て、金の細 いネッアレガをかけ、デゖキニー・ワ゜ッゴをつけていた。そして実においしいそうにゞ レーを食べ、水を三杯飲んだ。 「ずっとここのところあなたいなったでっしょ?私何度も電話したのよ」と緑は言った。

「何か用事でもあったの?」 「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」 「ふうむ」と僕は言った。 「 『ふうむ』って何よいったい、それ?」 「別に何でもないよ、 ただのあいづちだよ」 と僕は言った。どう、 「 最近火事は起きてない?」 「うん、あれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったし、そのわりに煙がい っばい出てリゕリテゖーがあったし、ああいうのいいわよ」緑はそう言ってからまたごく ごくと水を飲んだ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。 「ねえ、ワゲナベ君、 どうしたの?あなたなんだか漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあっていないし」 「旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともない」 「幽霊でも見てきたよな顔してるわよ」 「ふうむ」と僕は言った。 「ねえワゲナベ君、午後の授業あるの?」 「ド゗ツ語と宗教学」 「それすっぼかせない?」 「ド゗ツ語の方は無理だね。今日テガトがある」 「それ何時に終わる?」 「二時」 「じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない?」 「昼の二時から?」と僕は訊いた。 「たまにはいいじゃない。あなたすごくボ゜ッとした顔しているし、私と一緒にお酒でも 飲んで元気だしなさいよ。 私もあなたとお酒飲んで元気になりたいし。 いいでしょう?」 ね、 「いいよ、じゃあ飲みに行こう」と僕はため息をついて言った。 「二時に文学部の中庭で待 っているよ」 ド゗ツ語の授業が終わると我々はバガに乗って新宿の駅に出て、紀伊国屋の裏手の地下に ある DUG に入ってワ゜ッゞ・トニッアを二杯ずつ飲んだ。 「ときどきここ来るのよ、 昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」 と彼女は言った。 「そんなにお昼から飲んでるの?」 「たまによ」 と緑はィラガに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振った。 「たまに世の中 が辛くなると、ここに来てワ゜ッゞ・トニッア飲むのよ」 「世の中が辛いの?」 「たまにね」と緑は言った。 「私には私でいろいろと問題があるのよ」 「たとえばどんなこと?」 「家のこと、恋人のこと、生理不順のことーーいろいろよね」 「もう一杯飲めば?」 「もちろんよ」 僕は手をあげで゚゗ゲーを呼び、゙゜ッゞ・トニッアを二杯注文した。 「ねえ、このあいだの日曜日あなた私に゠ガしたでしょう」と緑は言った。 「いろいろと考 えてみたけど、あれよかったわよ、すごく」 「それはよかった」 「 『それはよかった』 とまた緑はくりかえした。 」 「あなたって本当に変ったしゃべり方する わよねえ」 「そうかなあ」と僕は言った。

「それはまあともかくね、私思ったのよ、あのとき。これが生まれて最初の男の子との゠ ガだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生の順番を組みかえることができた としたら、あれをフゔーガト・゠ガにするわね、絶対。そして残りの人生をこんな風に考 えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめて゠ガをしたワゲナベ君っていう男 の子に今どうしてるだろう?五十八歳になった今は、なんてね。どう、素敵だと思わない」 「素敵だろうね」と僕はビガゲゴゝの殻をむきながら言った。 「たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ」 と僕は少し考えてから言った。 「ここがな んだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだ本当じゃ ないみたいに思える」 緑はゞ゙ンゲーに片肘をついて僕の顔を見つめた。カム・モリグンの歌にたしかそういう 「 のあったわよね」 「People are strange when you are a stranger」 「ピーガ」と緑は言った。 「ピーガ」と僕も言った。 「私と一緒に゙ルィゔ゗に行っちゃえば良いのよ」と緑はゞンゲンーに片肘をついたまま 言った 「恋人も家族も大学も何にもかも捨てて」 「それも悪くないな」と僕は笑って言った。 「何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴らしいと 思わない?私ときどきそうしたくなちゃうのよ、すごく。だからもしあなたが私をひょい とどこか遠くに連れてってくれたとしたら、私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊い っばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床の上をころころと転げまわ って」 僕は笑って三杯めの゙゜ッゞ・トニッアを飲み干した。 「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね?」と緑は言った。 「興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね」と僕は言った。 「いいのよべつに、欲しくなくだって」緑はピガゲゴゝを食べながら言った。 「私だって昼 下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。何もかも放り投げてどこか に行ってしまいたいって。それに゙ルィゔ゗なんか行ったってどうせロバの゙ンウくらい しかないのよ」 「まあそうかもしれないな」 「どこもかしこもロバの゙ンウよ。ここにいったって。向うに行ったって、世界はロバの ゙ンウよ。ねえ、この固いのあげる」緑は僕に固い殻のビガゲゴをくれた。僕は苦労して その殻をむいた。 「でもこの前の日曜日ね、私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物干し場に上がって 火事を眺めて、お酒飲んで、唄を唄って。あんなにホっとしたの本当に久しぶりだったわ よ。だってみんな私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせればああだこうだっ てね。少くともあなたは私に何も押しつけないわよ」 「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」 「じゃあ私のことをもっとよく知ったら、あなたもやはり私にいろんなものを押しつけて くる?他の人たちと同じように」 「そうする可能性はあるだろうね」 と僕は言った。 「現実の世界では人はみんないろんなも のを押しつけあって生きているから」 「でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよ、そういうのが。押

しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとした権威だから。あなたはそ ういうゲ゗プではないし、 だから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。 ねえ知ってる? 世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢 山いるのよ。そして押しつけた、押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが 好きなのよ。 でも私はそんななの好きじゃないわ。 やらなきゃ仕方ないからやってるのよ」 「どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は?」 緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。 「私のこともっと知りたい?」 「興味はあるね、いささか」 「ねえ、私は『私のこともっと知りたい?』って質問したのよ。そんな答えっていくらな んでもひどいと思わない?」 「もっと知りたいよ、君のことを」と僕は言った。 「本当に?」 「本当に」 「目をそむけたくなっても?」 「そんなにひどいの?」 「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。 「もう一杯ほしい」 僕ば゚゗ゲーを呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑はゞ゙ゲンーに頬杖を ついていた。僕は黙ってギロニゕガ・モンアの弾く「ハニエッアル・ローキ」を聴いてい た。店の中には他に五、六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけだった。ウーヒーの 香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。 「今度の日曜日、あなた暇?」と緑が僕に訊いた。 「この前も言ったと思うけれど、日曜日はいつも暇だよ。六時からのゕルバ゗トを別にす ればね」 「じゃあ今度の日曜日、私につきあってくれる?」 「いいよ」 「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきりわからないけど。か まわない?」 「どうぞ。かまわないよ。 」と僕は言った。 「ねえ、ワゲナベ君。私が今何にをしたがっているわかる?」 「さあね、想像もつかないね」 「広いふかふかしたベットに横になりたいの、まず」と緑は言った。 「すごく気持がよくて 酔払っていて、 まわりにはロバの゙ンウなんて全然なくて、 となりにはあなたが寝ている。 そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱 がせるときみたいに、そっと」 「ふむ」と僕は言った。 「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもね、ほら、ふと我に返って 『だめよ、ワゲナベ君! 』って叫ぶの。 『私ワゲナベ君のこと好きだけど、私には他につき あってる人人がいるし、そんなことできないの。私そういうのけっこう堅いのよ。だから やめて、お願い』って言うの。でもあなたやめないの」 「やめるよ、僕は」 「知ってるわよ。でもこれは幻想オーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑は言っ た。 「そして私にばっちり見せつけるのよ、あれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せる んだけど、それでもちらっとみえちゃうのよね。そして言うの、 『駄目よ、本当に駄目、そ

んなに大きくて固いのとても入らないわ』って」 「そんなに大きくないよ。普通だよ」 「いいのよ、べつに。幻想なんだから。するとね、あなたはすごく哀しそうな顔をするの。 そして私、可哀そうだから慰めてあげるの。よしよし、可哀そうにって」 「それがつまり君が今やりたいことなの?」 「そうよ」 「やれやれ」と僕は言った。 全部で五杯ずづ゜ッゞ・トニッアを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払うとすると 緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけ、財布からしわひとつない一万円札をだして勘定 を払った。 「いいのよ、ゕルバ゗トのお金入ったし、それに私が誘ったんだもの」と緑は言った。 「も ちろんあなたが筋金入りのフゔオガトで女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら 話はべつだけど」 「いや、そうは思わないけど」 「それに入れさせてもあげなかったし」 「固くて大きいから」と僕は言った。 「そう」と緑は言った。 「固くて大きいから」 緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外して、我々はあやうく下まで転げおちそうになっ た。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れて、夕暮に近い太陽が街にやさしく光 を注いでいた。僕と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがしたいと いったが、新宿にはあいにくそんな木はなかったし、新宿御苑はもう閉まる時間だった。 「残念だわ、私木のぼり大好きなのに」と緑は言った。 緑と二人で゙ゖンド゙・カョッピンィをしながら歩いていると、さっきまでに比べて街の 光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。 「君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。 緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。 「本当だ。 目の焦点もずいぶんしっかりし てきたみたい。ねえ、私とつきあってるとけっこ良いことあるでしょ?」 「たしかに」と僕は言った。 五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言った。僕はバガに乗って 寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送り、そこで別れた。 「ねえ今私が何やりたいかわかる?」と別れ際に緑が僕に訪ねた。 「見当もつかないよ、君の考えることは」と僕は言った。 「あなたと二人で海賊につかまって裸にされて、体を向いあわせにぴったりとかさねあわ せたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」 「なんでそんなことするの?」 「変質的な海賊なのよ、それ」 「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。 「そして一時間後には海には放り込んでやるから、それまでその格好でたっぷり楽しんで なっって船倉に置き去りにされるの」 「それで?」 「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったり、体よじったりして」 「それが君のいちばんやりたいことなの?」 「そう」

「やれやれ」と僕は首を振った。 日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかりでまだ顔も洗っていな かった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いて、おいワゲナベ、女が来てるぞ!とどなったの で玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いカーンキのガゞートをはいてロビーの 椅子に座って脚を組み、あくびをしていた。朝食を食べに行く連中がとおりがけにみんな 彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗だっ た。 「早すぎたかしら、私?」と緑は言った。 「ワゲナベ君、今起きたばかりみたいじゃない」 「これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待ってくれる?」と僕は言った。 「待つのはいいけど、さっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」 「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いガゞートはいてくるだもの。見るにきまっ てるよ、みんな」 「でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンアので素敵なレーガ飾りがつい てるの。ひらひらっと」 「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。そして部屋に戻っ てなるべく急いで顔を洗い、髭を剃った。そしてブルーのボゲン・ゴン・オャツの上に ィレーのツ゗ードの上着を着て下に降り、緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が出た。 「ねっ、ここにいる人たちがみんなマガゲーベーオョンしてるわけ?オウオウって?」と 緑は寮の建物を見上げながら言った。 「たぶんね」 「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ?」 「まあそうだろね」 と僕は言った。 「株式相場とか動詞の活用とかガ゛キ運河のことを考え ながらマガゲーベーオョンする男はまあいないだろうね。まあだいたいは女の子のこと考 えてやるじゃないかな」 「ガ゛キ運河」 「たとえば、だよ」 「つまり特定の女の子のことを考えるのね?」 「あのね、そういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの?」と僕は言った。 「どうして 僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃならないんだよ?」 「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。 「それに彼にこんなこと訊いたらすごく怒るのよ。 女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって」 「まあまともな考えだね」 「でも知りたいのよ、私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえ、マガゲーべーオョンすると き特定の女の子のこと考えるの?」 「考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれど」と僕はあきらめ て答えた。 「ワゲナベ君は私のこと考えてやったことある?正直に答えてよ、怒らないから」 「やったことないよ、正直な話」と僕は正直に答えた。 「どうして?私が魅力的じゃないから?」 「違うよ。君は魅力的だし、可愛いし、挑発的な格好がよく似合うよ」 「じゃあどうして私のこと考えないの?」 「まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるから、そういうことにまきこみたくない んだよ。そういう性的な幻想にね。第二に――」

「他に想い浮かべるべき人がいるから」 「まあそういうことだよね」と僕は言った。 「あなたってそういうことでも礼儀正しのね」と緑は言った。 「私、あなたのそういうとこ ろ好きよ。でもね、一回くらいちょっと私を出演させてくれない?その性的な幻想だか妄 想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だってこんなこ と他の人に頼めないじゃない。今夜マガゲーベーオョンするときちょっと私のこと考えて ね、なんて誰にでも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼む のよ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか」 僕はため息をついた。 「でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね?入れなければあとは何してもい いわよ、何考えても」 「どうかな。 そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」 と僕は言った。 「考えておいてくれる?」 「考えておくよ」 「あのねワゲナベ君。私のことを淫乱とか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わな いでね。私ただそういうことにすごく興味があって、すごく知りたいだけなの。ずっと女 子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ?男の人が何を考えて、その体のしくみがどう なってるのかって、そういうことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑誌のとじこみとか そういうんじゃなくて、いわばイーガ・ガゲデゖーとして」 「イーガ・ガゲデゖー」と僕は絶望的につぶやいた。 「でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりすると、彼不機嫌になったり怒 ったりするの。淫乱だって言って。私の頭が変だって言うのよ。プラゴゝだってなかな かさせてくれないの。私あれすごく研究してみたいのに」 「ふむ」と僕は言った。 「あなたプラゴゝされるの嫌?」 「嫌じゃないよ、べつに」 「どちらかというと好き?」 「どちらかというと好きだよ」 と僕は言った。 「でもその話また今度にしない?今日はとて も気持の良い日曜の朝だし、マガゲーベーオョンとプラゴゝの話をしてつぶしたくない んだ。もっと違う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人?」 「ううん、よその大学よ、もちろん。私たち高校のときのアラブ活動で知りあったの。私 は女子校で、彼は男子校で、ほらよくあるでしょう?合同ウンエートとか、そういうの。 恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえ、ワゲナベ君?」 「うん?」 「本当に一回でいいから私のことを考えてよね」 「試してみるよ、今度」と僕はあきらめて言った。 我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べていなかったので新宿駅 で乗りかえるときに駅のガゲンドで薄いエンド゗ッゴを買って食べ、新聞の゗ンアを煮た ような味のするウーヒーを飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこかに出かけようとする 家族連れやゞップルでいっぱいだった。揃いのユニフ゜ームを着た男の子の一群がバット を下げて車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中には短いガゞートをはいた女の子 が何人もいたけれど、緑くらい短いガゞートをはいたのは一人もいなかった。緑はときど ききゅっきゅっとガゞートの裾をひっばって下ろした。何人かの男はじろじろと彼女の太

腿を眺めたのでどうも落ちつかなかったが、彼女の方はそういうのはたいして気にならな いようだった。 「ねえ、私が今いちばんやりたいことわかる?」と市ヶ谷あたりで緑が小声で言った。 「見当もつかない」と僕は言った。 「でもお願いだから、電車の中ではその話しないでくれ よ。他の人に聞こえるとまずいから」 「残念ね。けっこうすごいやつなのに、今回のは」と緑はいかにも残念そうに言った。 「ところでお茶の水に何があるの?」 「まあついてらっしゃいよ、そうすればわかるから」 日曜日のお茶の水は模擬テガトだか予備校の講習だかに行く中学生や高校生でいっばいだ った。緑は左手でオョルコー・バッィのガトラップを握り、右手で僕の手をとって、そん な学生たちの人ごみの中をするすると抜けていった。 「ねえワゲナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる?」と突 然僕に質問した。 「できると思うよ」と僕は言った。 「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる?」 「日常生活の中で役に立つということはあまりないね」 と僕は言った。 「でも具体的に何か の役に立つというよりは、そういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだ と僕は思ってるけれど」 緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。 「あなたって偉いのね」 と彼女 は言った。 「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。 仮定法だの微分だの化学記号 だの、そんなもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。だからずっと無視し てやってきたの、そういうややっこしいの。私の生き方は間違っていたのかしら?」 「無視してやってきた?」 「ええそうよ。そういうの、ないものとしてやってきたの。私、エ゗ン、ウエ゗ンだって 全然わっかてないのよ」 「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね」と僕はあきれて言った。 「あなた馬鹿ねえ」 と緑は言った。 「知らないの?勘さえ良きゃ何も知らなくても大学の試 験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。次の三つの中から正しいものを選べ なんてパッとわかっちゃうもの」 「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的なものの考え方を身につける必要がある んだ。鴉が木のほらにゟラガを貯めるみたいに」 「そういうのが何か役に立つのかしら?」 「どうかな」と僕は言った。 「まあある種のことはやりやすくなるだろね」 「たとえばどんなことが?」 「形而上的思考、数ヵ国語の習得、たとえばね」 「それが何かの役に立つのかしら?」 「それはその人次第だね。役に立つ人もいるし、立たない人もいる。でもそういうのはあ くまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。最初にも言ったよう に」 「ふうん」と緑は感心したように言って、僕の手を引いて坂道を下りつづけた。 「ワゲナベ ア君って人にもの説明するのがとても上手なのね」 「そうかな?」 「そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質問したけれ ど、誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私が

そういう質問すると混乱するか、怒るか、馬鹿にするか、そのどれかだったわ。誰もちゃ んと教えてくれなかったの。 そのときにあなたみたいな人がいてきちと説明してくれたら、 私だって仮定法に興味持てたかもしれないのに」 「ふむ」と僕は言った。 「あなた『資本論』って読んだことある?」と緑が訊いた。 「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」 「理解できた?」 「理解できるところもあったし、できないところもあった。 『資本論』を正確に読むにはそ うするための思考オガテムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としてのマルアオキムは だいたいは理解できていると思うけれど」 「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が『資本論』読んですっと理解でき ると思う?」 「まず無理じゃないかな、そりゃ」と僕は言った。 「あのね、私、大学に入ったときフ゜ーアの関係のアラブに入ったの。唄を唄いたかった から。それがひどい゗ンゴ゠な奴らの揃ってるところでね、今思いだしてもケッとするわ よ。そこに入るとね、まずマルアガを読ませられるの。何ベーカから何ベーカまで読んで こいってね。フ゜ーア・グンィと社会とラデゖゞルにかかわりあわねばならぬものであっ て……なんて演説があってね。で、まあ仕方ないから私一生懸命マルアガ読んだわよ、家 に帰って。でも何がなんだか全然わかんないの、仮定法以上に。三ペーカで放りだしちゃ たわ。それで次の週のミーテゖンィで、読んだけど何もわかりませんでした、ハ゗って言 ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないのだの、社会性に欠けるだのね。 冗談じゃないわよ。私ただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんなのひど いと思わない?」 「ふむ」と僕は言った。 「デゖガゞッオョンってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかしい 言葉使ってるのよ。 それで私わかんないからそのたびに質問したの。 『その帝国主義的搾取 って何のことですか?東゗ンド会社と何か関係あるんですか?』 とか、 『産学協同体粉砕っ て大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですか?』とかね。でも誰も説明してく れなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる?」 「信じられる」 「そんなことわからないでどうするんだよ、何考えて生きてるんだお前?これでおしまい よ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えて るのは庶民だし、搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何 が革命よ、何が社会変革よ!私だってね、世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当 に搾取されているのならそれやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこの質問する わけじゃない。そうでしょ?」 「そうだね」 「そのとき思ったわ、私。こいつらみんな゗ンゴ゠だって。適当に偉そうな言葉ふりまわ していい気分になって、新入生の女の子を感心させて、ガゞートの中に手をつっこむこと しか考えてないのよ、あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だの TBS だの IBM だの富士銀行だのにさっさと就職して、マルアガなんて読んだこともないか わいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉 砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわかっ てないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そしてあとで私に言うのよ。

あなた馬鹿ねえ、わかんなくだってハ゗ハ゗そうですねって言ってりゃいいのよって。ね え、もっと頭に来たことあるんだけど聞いてくれる?」 「聞くよ」 「ある日私たち夜中の政治集会に出ることになって、女の子たちはみんな一人二十個ずつ の夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよ、そんな完 全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わずに ちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて海苔まいて。そうしたらあとで なんて言われたと思う?小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかった、おかずもつい てなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やゲラウが入っていたし、玉子焼なんか がついてたりしたんですって。もうゕホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じて いる連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよ、いち いち。海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。゗ンドの子供のこと 考えてごらんなさいよ」 僕は笑った。 「それでそのアラブはどうしたの?」 「六月にやめたわよ、あんまり頭にきたんで」と緑は言った。 「でもこの大学の連中は殆ん ど゗ンゴ゠よ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしよう がなくてビアビアした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んで、みんな同じ ような言葉ふりまわして、カョン・ウルトレーン聴いたりパケリーニの映画見たりして感 動してるのよ。そういうのが革命なの?」 「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えないよね」 「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れ なかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。 仮定法をきちんと理解してるというような理由で」 「ありうる」と僕は言った。 「ねえ、私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいが、庶民 というのはロアでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革 命が何よ?そんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが 何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人たちには。あなた税務署員っ て見たことある?」 「ないな」 「私、何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何、この帳簿?おたくい い加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの?領収書見せなさいよ、領収書、なんて ね。私たち隅の方にこそっといて、ごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。でも ね、うちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そうい う人なのよ、昔気質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収 入がちょっと少なすぎるんじゃないの、これって。冗談じゃないわよ。収入が少ないのは もうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ち のところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえ、もし 革命が起ったら税務署員の態度って変ると思う?」 「きわめて疑わしいね」 「じゃあ私、革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」 「ピーガ」と僕は言った。 「ピーガ」と緑も言った。 「我々は何処に向かっているんだろう、ところで?」と僕は訊いてみた。

「病院よ。お父さんが入院していて、今日いちにち私がつきそってなくちゃいけないの。 私の番なの」 「お父さん?」 と僕はびっくりして言った。 「お父さんばルィゔ゗に行っちゃったんじゃ なかったの?」 「嘘よ、そんなの」と緑はけろりとした顔で言った。 「本人は昔から゙ルィゔ゗に行くだっ てわめいてるけど、行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロアに出られないんだ から」 「具合はどうなの?」 「はっきり言って時間の問題ね」 我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。 「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる?二年前にお母さんそ れで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」 大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっ ていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布 団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆って、看護婦がウツウツと乾いた靴音を立 ててその中を歩きまわっていた。 緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていた、彼の寝ている姿は深手を負った小動物を 思わせた。横向きにぐったりと寝そべり、点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま 身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったが、これからもっとやせてもと小さくな りそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられ、青白い腕 には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一 点をぼんやりと見ていたが、僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我 々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。 その目を見ると、この男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力 というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微か な痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだ けの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに 不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだな と僕は思った。 緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手 はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二、三度咳をしてから枕 もとに置いてあった水を飲み、それからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に 目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲 の姿すらなかった。 「どう、お父さん、元気?」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマ゗ アロフ゜ンのテガトをしているようなしゃべり方だった。 「どう、今日は?」 父親はもそもそと唇を動かした。 <よくない>と彼は言った。 しゃべるというのではなく、 喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。<あたま>と 彼は言った。 「頭が痛いの?」と緑が訊いた。 <そう>と父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。 「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけど、もう少し我慢 しなさい」と緑は言った。 「この人ワゲナベ君。私のお友だち」

はじめまして、と僕は言った。父親は半分唇を開き、そして閉じた。 「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言 われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませ、果物かフルーツ ・クリーを食べたくないかと訊いた。<いらない>と父親は言った。でも少し食べなきゃ 駄目よ緑が言うと<食べた>と彼は答えた。 ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあって、そこに水さしやウ ップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻 の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理し、入口のわきにあるロッゞの 中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。ィレープフルーツが 二個とフルーツ・クリーと゠゙リが三本。 「゠゙リ?」 と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。 「なんでまた゠゙リなんても のがここにあるのよ?まったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。 ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。゠゙リ買ってくれなんて 言わなかったわよ、私」 「゠゙゗と聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。 緑はぱちんと指を鳴らした。 「たしかに、゠゙゗って頼んだわよ。それよね。でも考えりゃ わかるじゃない?なんで病人が生の゠゙リをかじるのよ?お父さん、゠゙リ食べたい?」 <いらない>と父親は言った。 緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。 の映りがわるくなって修理を呼 TV んだとか、高井戸のおばさんが二、三日のうち一度見舞にくるって言ってたとか、薬局の 宮脇さんがバ゗アに乗ってて転がだとか、そういう話だった。父親はそんな話に対した< うん><うん>と返事をしているだけだった。 「本当に何か食べたくない、お父さん?」 <いらない>と父親は答えた。 「ワゲナベ君、ィレープフルーツ食べない?」 「いらない」と僕も答えた。 少しあとで緑は僕を誘って TV 室に行き、そこのグフゔーに座って煙草一本吸った。TV 室 ではパカャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見てい た。 「ねえ、あそこの松葉杖持ってるおじさん、私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あ のブルーのパカャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。 「そりゃ見るさ。そんなガゞートはいてりゃみんな見るさ」 「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろし、たまには若い女の子の脚見るのも いいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」 「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。 緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。 「お父さんのことだけどね」緑は言った。 「あの人、悪い人じゃないのよ。ときどきひどい こと言うから頭にくるけど、少くとも根は正直な人だし、お母さんのこと心から愛してい たわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところ があったし、商売の才覚もなかったし、人望もなかったけど、でもうそばかりついて要領 よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだす とあとに引かない性格だから、二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃな いのよ」 緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとって、自分の膝の上に置いた。

僕の手の半分はガゞートの布地の上に、あとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしば らく僕の顔を見ていた。 「あのね、ワゲナベ君、こんなところで悪いんだけど、もう少し私と一緒にここにいてく れる?」 「五時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。 「君と一緒にいるのは楽しいし、 他に何もやることもないもの」 「日曜日はいつも何をしてるの?」 「洗濯」と僕は言った。 「そしてゕ゗ロンがけ」 「ワゲナベ君、私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょ?そのつきあってい る人のこと」 「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だし、うまく説明できそうにないし」 「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。 「でも私の想像してることちょっと言 ってみていいかしら?」 「どうぞ。君の想像することって、面白そうだから是非聞いてみたいね」 「私はワゲナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」 「ふむ」と僕は言った。 「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんで、毛皮のウートとかオャルル・カュール コンの靴とか絹の下着とか、 そういうゲ゗プでおまけにものすごくギッアガに飢えてるの。 そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりに、ワゲナベ君と二人で体を 貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う?」 「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。 「きっと体を縛らせて、目かくしさせて、体の隅から隅までべろべろと舐めさせたりする のよね。それからほら、変なものを入れさせたり、ゕアロバートみたいな格好をしたり、 そういうところをポラロ゗ド・ゞメラで撮ったりもするの」 「楽しそうだな」 「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日毎日考 えをめぐらせているわけ。 何しろ暇だから。 今度ワゲナベ君が来たらこんなこともしよう、 あんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くらい゗ッ ちゃうの。そしてワゲナベ君にこう言うの。 『どう、私の体って凄いでしょ?あなたもう若 い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほら、若い子がこんなことやってくれる?どう? 感じる?でも駄目よ、まだ出しちゃ』なんてね」 「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。 「やっばりそうかなあ」と緑は言った。 「でも私、ポルノ映画って大好きなの。今度一緒に 見にいかない?」 「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」 「本当?すごく楽しみ。SM のやつに行きましょうね。ムゴでばしばし打ったり、女の子に みんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」 「いいよ」 「ねえワゲナベ君、ポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる?」 「さあ見当もつかないね」 「あのね、ギッアガ・オーンになるとんね、まわりの人がみんなェアンって唾を呑みこむ 音が聞こえるの」と緑は言った。 「そのェアンっていう音が大好きなの、私。とても可愛い くって」

病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をし、父親の方は<ああ>とか<うん>と あいづちを打ったり、何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝てい る男の奥さんがやってきて、夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の 人の好さそうな奥さんで、緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴 の瓶を新しいものととりかえ、緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。その あいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたり、窓の外の電線をみた りしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は父親に話しかけ、汗を拭いて やったり、痰をとってやったり、隣りの奥さんや看護婦と話したり、僕にいろいろ話しか けたり、点滴の具合をゴ゚ッアしたりしていた。 十一時半に医師の回診があったので、 僕と緑は廊下に出て待っていた。 医者が出てくると、 緑は「ねえ先生、どんな具合ですか?」と訊ねた。 「手術後まもないし痛み止めの処置してあるから、まあ相当消耗はしてるよな」と医者は 言った。 「手術の結果はあと二、三日経たんことにはわからんよね、私にも。うまく行けば うまく行くし、うまく行かんかったらまたその時点で考えよう」 「また頭開くんじゃないでしょうね?」 「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」 と医者は言った。 「おい今日はえらい短 かいガゞートはいてるじゃないか」 「素敵でしょ?」 「でも階段上るときどうするんだ、それ?」と医者が質問した。 「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言って、うしろの看護婦がくすくす笑 った。 「君、そのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医 者が言った。 「それからこの病院の中じゃなるべく゛レベーゲーを使ってくれよな。 これ以 上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」 回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワェンに食事をのせて病室から 病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポゲーカュ・ガープとフルーツとやわらかく 煮て骨をとった魚と、野菜をすりつぶしてクリー状したようなものだった。緑は父親をあ おむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こし、ガプーンで ガープをすくって飲ませた。父親は五、六口飲んでから顔をそむけるようにして、<いら ない>と言った。 「これくらい、食べなくちゃ駄目よ、あなた」と緑は言った。 父親は<あとで>と言った。 「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。 「おしっ こはまだ大丈夫?」 <ああ>と父親は答えた。 「ねえワゲナベ君、私たち下の食堂にごはん食べに行かない?」と緑が言った。 いいよ、 と僕は言ったが、 正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。 食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひとつもない地下の がらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいて、そこでみんなが食事をとり ながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう――それが地下道の中み たいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧して、医者や看護婦を呼び出す放 送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだに、緑が二人分の定食をゕルミニ゙ムの 盆にのせて運んできてくれた。アリーム・ウロッイとポテト・エラコと゠ャベツのせん切 りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病人用のものと同じ白いプラガゴッアの食器に盛

られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしま った。 「ワゲナベ君、あまりおなかすいてないの?」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。 「うん、あまりね」と僕は言った。 「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。 「馴れない人はみんなそうなの。 匂い、音、どんよりとした空気、病人の顔、緊張感、荷立ち、失望、苦痛、疲労――そう いうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも 馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看 病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさん、おばあさん、お母さん、お父さん と四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられないことだ ってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなきゃ駄目なのよ」 「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。 「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょ、するとみんなやはり 半分くらい残すのよ、あなたと同じように。でね、私がぺロッと食べちゃうと『ミドリち ゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよ』って 言うの。でもね、看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て 同情するだけじゃない。゙ンウの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの 私なのよ。同情するでけで゙ンウがかたづくんなら、私みんなの五十倍くらい同情しちゃ うわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非難がましい目で見て『ミ ドリちゃんは元気でいいわねえ』だもの。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみ たいに思ってるのかしら。いい年をした人たちなのにどうしてみんな世の中のしくみって ものがわかんないかしら、あの人たち?口でなんてなんとでも言えるのよ。大事なのば ンウをかたづけるかかたづけないかなのよ。私だって傷つくことはあるのよ。私だってヘ トヘトになることはあるのよ。私だって泣きたくなることあるのよ。なおる見こみもない のに医者がよってたかって頭切って開いていじくりまわして、それを何度もくりかえし、 くりかえすたびに悪くなって、頭がだんだんおかしくなっていって、そういうの目の前で ずっと見ててごらんなさいよ、たまらないわよ、そんなの。おまけに貯えはだんだん乏し くなってくるし、私だってあと三年半大学に通えるかどうかもわかんないし、お姉さんだ ってこんな状態じゃ結婚式だってあげられないし」 「君は週に何日くらいここに来てるの?」と僕は訊いてみた。 「四日くらいね」 と緑は言った。 「ここは一応完全看護がたてまえなんだけれど実際には看 護婦さんだけじゃまかないきれないのよ。あの人たち本当によくやってくれるわよ、でも 数は足りないし、やんなきゃいけないことが多すぎるのよ。だからどしても家族がつかざ るを得ないのよ、 ある程度。お姉さんは店をみなくちゃいけないし、大学の授業のあいまをぬって私が来な きゃしかたないでしょ。お姉さんがそれでも週に三日来て、私が四日くらい。そしてその 寸暇を利用してデートしてるの、私たち。過密なガイカュールよ」 「そんなに忙しいのに、どうしてよく僕に会うの?」 「あなたと一緒にいるのが好きだからよ」と緑は空のプラガゴッアの湯のみ茶碗をいじり まわしながら言った。 「二時間ばかり一人でそのへん散歩してきなよ」 と僕は言った。 「僕がしばらくお父さんの こと見ててやるから」 「どうして?」 「少し病院を離れて、一人でのんびりしてきた方がいいよ。誰とも口きかないで頭の中を

空 っぽにしてさ」 緑は少し考えていたが、やがて肯いた。 「そうね。そうかもしれないわね。でもあなたやり 方わかる?世話のしかた」 「見てたからだいたいわかると思うよ。点滴をゴ゚ッアして、水を飲ませて、汗を拭いて、 痰をとって、しびんはベットの下にあって、腹が減ったら昼食の残りを食べさせる。その 他わからないことは看護婦さんに訊く」 「それだけわかってりゃまあ大丈夫ね」と緑は微笑んで言った。 「ただね、あの人今ちょっ と頭がおかしくなり始めてるからときどき変なこと言いだすのよ。なんだかよくわけのわ からないことを。もしそういうこと言ってもあまり気にしないでね」 「大丈夫だよ」と僕は言った。 病室に戻ると緑は父親に向かって自分はあるのでちょっと外出してくる、そのあいだこの 人が面倒を見るからと言った。父親はそれについてはとくに感想は持たなかったようだっ た。あるいは緑の言ったことを全く理解してなかったのかもしれない。彼はあおむけにな って、じっと天井を見つめていた。ときどきまばたきしなければ、死んでいると言っても 通りそうだった。目は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすか に膨らんだ。 彼はもうびくりとも動かず、 緑が話しかけても返事をしようとはしなかった。 彼がその混濁した意識の底で何を想い何を考えているのか。僕には見当もつかなった。 緑が行ってしまったあとで僕は彼に何か話しかけてみようかとも思ったが、何をどう言え ばいいのかわからなかったので、結局黙っていた。するとそのうちに彼は目を閉じて眠っ てしまった。僕は枕もとの椅子に座って、彼がこのまま死んでしまわないように祈りなが ら、鼻がときどきぴくぴくと動く様を観察していた。そしてもし僕がつきそっているとき にこの男が息引きとってしまったらそれは妙なものだろうなと思った。だって僕はこの男 にさっきはじめて会ったばかりだし、この男と僕を結びつけいるのは緑だけで、緑と僕は 「演劇史Ⅱ」で同じアラガだいうだけの関係にすぎないのだ。 しかし彼は死にかけてはいなかった。ただぐっすりと眠っているだけだった。耳を顔に近 づけると微かな寝息が聞こえた。それで僕は安心して隣りの奥さんと話をした。彼女は僕 のことを緑の恋人だと思っているらしく、僕にずっと緑の話をしてくれた。 「あの子、本当に良い子よ」彼女は言った。 「とてもよくお父さんの面倒をみてるし、親切 でやさしいし、よく気がつくし、しっかりしてるし、おまけに綺麗だし。あなた、大事に しなきゃ駄目よ。放しちゃだめよ。なかなかあんな子いないんだから」 「大事にします」と僕は適当に答えておいた。 「うちは二十一の娘と十七の息子がいるけど。病院になんて来やしないわよ。休みになる とエーフゖンだ、デートだ、なんだかんだってどこかに遊びに行っちゃってね。ひどいも んよねえ。おこづかいしぼれるだけしぼりっとて、あとはポ゗だもん」 一時半になると奥さんはちょっと買物してくるからと言って病室を出て行った。病人は二 人ともぐっそり眠っていた。午後の穏やかな日差しが部屋の中にたっぷりと入りこんでい て、僕も丸椅子の上で思わず眠り込んでしまいそうだった。窓辺のテーブルの上には白と 黄色の菊の花が花瓶にいけられていて、今は秋なのだと人々に教えていた。病室には手つ かずで残された昼食の煮魚の甘い匂いが漂っていた。看護婦たちはあいかわらずウツウツ という音を立てて廊下を歩きまわり、はっきりとしたよく通る声で会話をかわしていた。 彼女たちはときどき病室にやってきて、患者が二人ともぐっすり眠っているのを見ると、 僕に向かってにっこり微笑んでから姿を消した。何か読むものがあればと思ったが、病室

には本も雑誌も新聞も何にもなかった。ゞレンコーが壁にかかっているだけだった。 僕は直子のことを考えた。髪どめしかつけていない直子の裸体のことを考えた。腰のくび れと陰毛のかげりのことを考えた。どうして彼女は僕の前で裸になったりしたのだろう? あのとき直子は夢遊状態にあったのだろうか?それともあれは僕の幻想にすぎなかったの だろうか?時間が過ぎ、あの小さな世界から遠く離れれば離れるほど、その夜の出来事が 本当にあったことなのかどうか僕にはだんだんわからなくなってきていた。本当にあった ことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと思えば幻想であるよ うな気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がくっきりとしていたし、本当の出来 事にしては全てが美しすぎた。あの直子の体も月の光も。 緑の父親が突然目を覚まして咳をはじめたので、僕の思考はそこで中断した。僕テゖッオ ュ・ペーパーで痰を取ってやり、ゲゝルで額の汗を拭いた。 「水を飲みますか?」と僕が訊くと、彼は四ミリくらい肯いた。小さなゟラガの水さしで 少しずつゆっくり飲ませると、乾いた唇が震え、喉がびくびくと動いた。彼は水さしの中 のなまぬるそうな水を全部飲んだ。 「もっと飲みますか?」と僕は訊いた。彼は何か言おうとしているようなので、僕は耳を 寄せてみた。<もういい>と彼は乾いた小さな声で言った。その声はさっきよりもっと乾 いて、もっと小さくなっていた。 「何か食べませんか?腹減ったでしょうう?」と僕は訊いた。父親はまた小さく肯いた。 僕は緑がやっていたようにハンドルをまわしてベットを起こし、野菜のクリーと煮魚をガ プーンでかわりばんこにひと口ずつすくって食べさせた。すごく長い時間をかけてその半 分ほどを食べてから、もういいという風に彼は首を小さく横に振った。頭を大きく動かす と痛みがあるらしく、ほんのちょっとしか動かさなかった。フルーツはどうするかと訊く と彼は<いらない>と言った。僕はゲゝルで口もとを拭き、ベットを水平に戻し、食器を 廊下に出しておいた。 「うまかったですか?」と僕は訊いてみた。 <まずい>と彼は言った。 「うん、たしかにあまりうまそうな代物ではないですね」と僕は笑って言った。父親は何 も言わずに、閉じようか開けようか迷っているような目でじっと僕を見ていた。この男は 僕が誰だかわかっているのかなと僕はふと思った。彼はなんとなく緑といるときより僕と 二人になっているときの方がリラッアガしているように見えたからだ。あるいは僕のこと を他の誰かと間違えているのかもしれなかった。もしそうだとすれば僕にとってはその方 が有難かった。 「外は良い天気ですよ、すごく」と僕は丸椅子に座って脚を組んで言った。 「秋で、日曜日 で、お天気で、どこに行っても人でいっばいですよ。そういう日にこんな風に部屋の中で のんびりしているのがいちばんですね、疲れないですむし。混んだところ行ったって疲れ るだけだし、空気もわるいし。僕は日曜日だいたい洗濯するんです。朝に洗って、寮の屋 上に干して、夕方前にとりこんでせっせとゕ゗ロンをかけます。ゕ゗ロンかけるの嫌いじ ゃないですね、僕は。くしゃくしゃのものがまっすぐになるのって、なかなかいいもんで すよ、あれ。僕ゕ゗ロンがけ、わりに上手いんです。最初のうちはもちろん上手くいかな かったですよ、なかなか。ほら、筋だらけになっちゃったりしてね。でも一か月やってり ゃ馴れちゃいました。そんなわけで日曜日は洗濯とゕ゗ロンがけの日なんです。今日はで きませんでしたけどね、残念ですね、こんな絶好の洗濯日和なのにね。 でも大丈夫ですよ。朝早く起きて明日やりますから。べつに気にしなくっていいです。日 曜日ったって他にやること何もないんですから。

明日の朝洗濯して干してから、十時の講義に出ます。この講義はミドリさんと一緒なんで す。 『演劇史Ⅱ』で、今は゛゙リビデガをやっています。゛゙リビデガ知ってますか?昔の ァリオャ人で、ゕ゗ガ゠ュロガ、グフ゜アレガならんでァリオャ悲劇のビッィ・ガリーと 言われています。最後はマイドニゕで犬に食われて死んだということになっていますが、 これには異説もあります。これが゛゙リビデガです。僕はグフ゜アレガの方が好きですけ どね、まあこれは好みの問題でしょうね。だからなんとも言えないです。 彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して身働きがとれなくなってしまう ことなんです。わかりますか?いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と 理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を追求しているわけです。そして そのおかげで全員がにっちもさっちもいかなくなっちゃうんです。そりゃそうですよね。 みんなの正義がとおって、みんなの幸福が達成されるということは原理的にありえないで すからね、だからどうしようもないゞゝガがやってくるわけです。それでどうなると思い ます?これがまた実に簡単な話で、最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するん です。お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ、お前そこでしばらくじ っとしてろっていう風に。フゖアエーみたいなもんですね。そして全てはぴたっと解決し ます。これはデ゙ガ・゛アガ・マ゠ナと呼ばれています。゛゙リビデガの芝居にはしょっ ちゅうこのデ゙ガ・゛アガ・マ゠ナが出てきて、そのあたりで゛゙リビデガの評価がわか れるわけです。 しかし現実の世界にこういうデ゙゙・゛アガ・マ゠ナというのがあったとしたら、これは 楽でしょうね。困ったな、身動きとれないなと思ったら神様が上からするすると降りてき て全部処理してくれるわけですからね。こんな楽なことはない。でもまあとにかくこれが 『演劇史Ⅱ』です。我々はまあだいたい大学でこういうことを勉強してます」 僕がしゃべっているあいだ緑の父親は何も言わずにぼんやりとした目で僕を見ていた。僕 のしゃべっていることを彼がいささかなりとも理解しているのかどうかその目から判断で きなかった。 「ピーガ」と僕は言った。 それだけしゃべってしまうと、ひどく腹が減ってきた。朝食を殆んど食べなかった上に、 昼の定食も半分残してしまったからだ。僕は昼をきちんと食べておかなかったことをひど く後悔したが、後悔してどうなるどういうものでもなかった。何か食べものがないかと物 入れの中を探してみたが、海苔の缶とヴゖッアガ・ドロップと醤油があるだけだった。紙 袋の中に゠゙リとィレープフルーツがあった。 「腹が減ったんで゠゙リ食べちゃいますけどかまいませんかね」と僕は訊ねた。 緑の父親は何も言わなかった。僕は洗面所で三本の゠゙リを洗った。そして皿に醤油を少 し入れ、゠゙リに海苔を巻き、醤油をつけてぽりぽりと食べた。 「うまいですよ」と僕は言った。 「オンプルで、新鮮で、生命の香りがします。いい゠゙リ ですね。゠゙゗なんかよりずっとまともな食いものです」 僕は一本食べてしまうと次の一本にとりかかった。ぽりぽりというとても気持の良い音が 病室に響きわたった。゠゙リを丸ごとと二本食べてしまうと僕はやっと一息ついた。そし て廊下にあるゟガ・ウンロで湯をかわし、お茶を入れて飲んだ。 「水かカューガ飲みますか?」と僕は訊いてみた。 <゠゙リ>と彼は言った。 僕はにっこり笑った。 「いいですよ。海苔つけますか?」 彼は小さく肯いた。僕はまたベットを起こし、果物ナ゗フで食べやすい大きさに切った゠ ゙リに海苔を巻き、醤油をつけ、楊子に刺して口に運んでやった。彼は殆んど表情を変え

ずにそれを何度も何度も噛み、そして呑みこんだ。 <うまい>と彼は言った。 「食べものがうまいっていいもんです。生きている証しのようなもんです」 結局彼は゠゙リを一本食べてしまった。゠゙リを食べてしまうと水を飲みたがったので、 僕はまた水さしで飲ませてやった。水を飲んで少しすると小便したいと言ったので、僕は ベットの下からしびんを出し、その口をベニガの先にあててやった。僕は便所に行って小 便を捨て、しびんを水で洗った。そして病室に戻ってお茶の残りを飲んだ。 「気分どうですか?」と僕は訊いてみた。 <すこし>と彼は言った。<ゕゲマ> 「頭が少し痛むんですか?」 そうだ、というように彼は少し顔をしかめた。 「まあ手術のあとだから仕方ありませんよね。僕は手術なんてしたことないからどういう もんだかよくわからないけれど」 <゠ップ>と彼は言った。 「切符?なんの切符ですか?」 <ミドリ>と彼は言った。<゠ップ> 何のことかよくわからなかったので僕は黙っていた。彼もしばらく黙っていた。それから <ゲノム>と言った。 「頼む」ということらしかった。彼しっかりと目を開けてじっと僕の 顔を見ていた。彼は僕に何かを伝えたがっているようだったが、その内容は僕には見当も つかなかった。 <゙゛ノ>と彼は言った。<ミドリ> 「上野駅ですか?」 彼は小さく肯いた。 「切符・緑・頼む・上野駅」と僕はまとめてみた。でも意味はさっぱりわからなかった。 たぶん意識が混濁しているのだろうと僕は思ったが、目つきがさっきに比べていやにしっ かりしていた。彼は点滴の針がささっていない方の手を上げて僕の方にのばした。そうす るにはかなりの力が必要であるらしく、手は空中でぴくぴくと震えていた。僕は立ちあが ってそのくしゃくしゃとした手を握った。彼は弱々しく僕の手を握りかえし、<ゲノム> とくりかえした。 切符のことも緑さんもちゃんとしますから大丈夫です、心配しなくてもいいですよ、と僕 が言うと彼は手を下におろし、ぐったりと目を閉じた。そして寝息を立てて眠った。僕は 彼が死んでいないことをたしかめてから外に出て湯をわかし、またお茶を飲んだ。そして 自分がこの死にかけている小柄な男に対して好感のようなものを抱いていることに気づい た。 少しあとで隣りの奥さんが戻ってきて大丈夫だった?と僕に訊ねた。ええ大丈夫ですよ、 と僕は答えた。彼女の夫もすうすうと寝息を立てて平和そうに眠っていた。 緑は三時すぎに戻ってきた。 「公園でぼおっとしてたの」と彼女は言った。 「あなたに言われたように、一人で何もしゃ べらずに、頭の中を空っぽにして」 「どうだった?」 「ありがとう。とても楽になったような気がするわ。まだ少しだるいけれど、前に比べる とずいぶん体が軽くなったもの。私、自分自身で思っているより疲れてたみたいね」 父親はぐっすり眠っていたし、とくにやることもなかったので、我々は自動販売機のウー

ヒーを買って TV 室で飲んだ。 そして僕は緑に、 彼女のいないあいだに起った出来事をひと つひとつ報告した。ぐっすり眠って起きて、昼食の残りを半分食べ、僕が゠゙リをかじっ ていると食べたいと言って一本食べ、小便して眠った、と。 「ワゲナベ君、あなたってすごいわね」と緑は感心して言った。 「あの人ものを食べなくて それでみんなすごく苦労してるのに、゠゙リまで食べさせちゃうんだもの。信じられない わね、もう」 「よくわからないけれど、僕がおいしそうに゠゙リを食べてたせいじゃないかな」と僕は 言った。 「それともあなたには人をほっとさせる能力のようなものがあるのかしら?」 「まさか」と言って僕は笑った。 「逆のことを言う人間はいっばいいるけれどね」 「お父さんのことどう思った?」 「僕は好きだよ。とくに何を話したってわけじゃないけれど、でもなんとなく良さそうな 人だっていう気はしたね」 「おとなしかった?」 「とても」 「でもね一週間前は本当にひどかったのよ」 と緑は頭を振りながら言った。 「ちょっと頭が おかしくなっててね、暴れたの。私にウップ投げつけてね、馬鹿野郎、お前なんか死んじ まえって言ったの。この病気ってときどきそういうことがあるの。どうしてだかわからな いけれど、ある時点でものすごく意地わるくなるの。お母さんのときもそうだったわ。お 母さんが私に向ってなんて言ったと思う?お前は私の子じゃないし、お前のことなんか大 嫌いだって言ったのよ。私、目の前が一瞬真っ暗になっちゃった。そういうのって、この 病気の特徴なのよ。何かが脳のどこかを圧迫して、人を荷立たせて、それであることない こと言わせるのよ。それはわかっているの、私にも。でもわかっていても傷つくわよ、や はり。これだけ一所懸命やっていて、その上なんでこんなこと言われなきゃならないんだ ってね。情なくなっちゃうの」 「わかるよ、それは」と僕は言った。それから僕は緑の父親がわけのわからいことを言っ たのを思いだした。 「切符、上野駅?」と緑は言った。 「なんのことかしら?よくわからないわね」 「それから<頼む><ミドリ>って」 「それは私のことを頼むって言ったんじゃないの?」 「あるいは君に上に駅に切符を買いにいってもらいたいのかもしれないよ」 と僕は言った。 「とにかくその四つの言葉の順番がぐしゃぐしゃだから意味がよくわからないんだ。上野 駅で何か思いあたることない?」 「上野駅……」 と言って緑は考えこんだ。 「上野駅で思いだせるといえば私が二回家出した ことね。小学校三年のときと五年のときで、どちらのときも上野から電車に乗って福島ま で行ったの。レカからお金とって。何かで頭に来て、腹いせでやったのよ。福島に伯母の 家があって、私その伯母のことわりに好きだったんで、そこに行ったのよ。そうするとお 父さんが私を連れて帰るの。福島まで来て。二人で電車に乗ってお弁当を食べながら上野 まで帰るのよ。そういうときね、お父さんはすごくポツポツとだけれど、私にいろんな話 してくれるの。関東大震災のときの話だとか、戦争のときの話だとか、私が生まれた頃の 話だとか、そういう普段あまりしたことないよう話ね。考えてみたら私とお父さんが二人 きりでゆっくり話したのなんてそのときくらいだったわね。ねえ、信じられる?うちのお 父さん、関東大震災のとき東京のどまん中にいて地震のあったことすら気がつかなかった のよ」

「まさか」と僕は唖然として言った。 「本当なのよ、それ。お父さんはそのとき自転車にリヤゞーつけて小石川のあたり走って たんだけど、何も感じなかったんですって。家に帰ったらそのへん瓦がみんな落ちて、家 族は柱にしがみついてゟゲゟゲ震えてたの。それでお父さんはわけわからなくて『何やっ てるんだ、いったい?』って訊いたんだって。それがお父さんの関東大震災の思い出話」 緑はそう言って笑った。 「お父さんの思い出話ってみんなそんな風なの。全然ドラマテゖッアじゃないのね。みん などこかずれてるのよ、ウロッて。そういう話を聞いているとね、この五十年か六十年く らい日本にはたいした事件なんか何ひとつ起らなかったような気になってくるの。二・二 六事件にしても太平洋戦争にしても、そう言えばそういうのあったっけなあっていう感じ なの。おかしいでしょう? そういう話をポツポツとしてくれるの。福島から上野に戻るあいだ。そして最後にいつも こういうの。どこいったって同じだぞ、ミドリって。そう言われるとね、子供心にそうな のかなあって思ったわよ」 「それが上野駅の思い出話?」 「そうよ」と緑は言った。 「ワゲナベ君は家出したことある?」 「ないね」 「どうして?」 「思いつかなかったんだよ。家出するなんて」 「あなたって変わってるわね」と緑は首をひねりながら感心したように言った。 「そうかな」と僕は言った。 「でもとにかくお父さんはあなたに私のこと頼むって言いたかったんだと思うわよ」 「本当?」 「本当よ。私にはそういうのよくわかるの、直感的に。で、あなたなんて答えたの?」 「よくわからないから、心配ない、大丈夫、緑ちゃんも切符もちゃんとやるから大丈夫で すって言っといたけど」 「じゃあお父さんにそう約束したのね?私の面倒みるって?」緑はそう言って真剣な顔つ きで僕の目をのぞきこんだ。 「そうじゃないよ」 と僕はあわてて言いわけした。 「何がなんだかそのときよくわからなか ったし――」 「大丈夫よ、冗談だから。ちょっとからかっただけよ」緑はそう言って笑った。 「あなたっ てそいうところすごく可愛いのね」 ウーヒーを飲んでしまうと僕と緑は病室に戻った。父親はまだぐっすりと眠っていた。耳 を近づけると小さな寝息が聞こえた。午後が深まるにつれて窓の外の光はいかにも秋らし いやわらかな物静かな色に変化していった。鳥の群れがやってきて電線にとまり、そして 去っていた。僕と緑は部屋の隅に二人で並んで座って、小さな声でいろんな話をした。彼 女は僕の手相を見て、 あなたは百五歳まで生きて三回結婚して交通事故で死ぬと予言した。 悪くない人生だな、と僕は言った。 四時すぎに父親が目をさますと、緑は枕もとに座って、汗を拭いたり、水を飲ませたり頭 の痛みのことを訊いたりした。看護婦がやってきた熱を測り、小便の回数をゴ゚ッアし点 滴の具合をたしかめた。僕は TV 室のグフゔーに座ってエッゞー中継を少し見た。 「そろそろ行くよ」と五時に僕は言った。それから父親に向かって「今からゕルバ゗ト行 かなきゃならないんです」と説明した。 「六時から十時半まで新宿でレウード売るんです」 彼は僕の方に目を向けて小さく肯いた。

「ねえ、ワゲナベ君。私今あまりうまく言えないんだけれど、今日のことすごく感謝して るのよ。ありがとう」と玄関のロビーで緑が僕に言った。 「それほどのことは何もしてないよ」 と僕は言った。 「でももし僕で役に立つのならまた来 週も来るよ。君のお父さんにももう一度会いたいしね」 「本当?」 「どうせ寮にいたってたいしたやることもないし、ここにくれば゠゙リも食べられる」 緑は腕組みをして、靴のかかとでリノリ゙ムの床をとんとんと叩いていた。 「今度また二人でお酒飲みに行きたいな」と彼女はちょっと首をかしげるようにして言っ た。 「ポルノ映画?」 「ポルノ見てからお酒飲むの」 と緑は言った。 「そしていつものように二人でいっばいいや らしい話をするの」 「僕はしてないよ。君がしてるんだ」と僕は抗議した。 「どっちだっていいわよ。とにかくそういう話をしながらいっばいお酒飲んでぐでんぐで んに酔払って、一緒に抱きあって寝るの」 「そのあとはだいたい想像つくね」と僕はため息をついて言った。 「僕がやろうとすると、 君が拒否するんだろう?」 「ふふん」と彼女は言った。 「まあとにかくまた今朝みたいに朝迎えに来たくれよ、来週の日曜日に。一緒にここに来 よう」 「もう少し長いガゞートはいて?」 「そう」と僕は言った。 でも結局その翌週の日曜日、僕は病院に行かなかった。緑の父親が金曜日の朝に亡くなっ てしまったからだ。 その朝の六時半に緑が僕に電話で、それを知らせた。電話がかかってきていることを教え るブォーが鳴って、僕はパカャマの上にゞーデゖゟンを羽織ってロビーに降り、電話をと った。冷たい雨が音もなく降っていた。お父さんさっき死んじゃったの、と小さな静かな 声で緑が言った。何かできることあるかな、と僕は訊いてみた。 「ありがとう、大丈夫よ」と緑は言った。 「私たちお葬式に馴れてるの。ただあなたに知せ たかっただけなの」 彼女はため息のようなものをついた。 「お葬式には来ないでね。私あれ嫌いなの。ああいうところであなたに会いたくないの」 「わかった」と僕は言った。 「本当にポルノ映画につれてってくれる?」 「もちろん」 「すごくいやらしいやつよ」 「ちゃんとっ探しておくよ、そういうのを」 「うん。私の方から連絡するわ」と緑は言った。そして電話を切った。 しかしそれ以来一週間、 彼女からは何の連絡もなかった。 大学の教室でも会わなかったし、 電話もかかってこなかった。寮に帰るたびに僕への伝言メモがないかと気にして見ていた のだが、僕への電話はただの一本もかかってはこなかった。僕はある夜、約束を果たすた めに緑のことを考えながらマガゲーベーオョンをしてみたのだったがどうもうまくいかな

かった。仕方なく途中で直子に切りかえてみたのだが、直子の゗メーカも今回はあまり助 けにならなかった。それでなんとなく馬鹿馬鹿しくなってやめてしまった。そしでゖガ ゠ーを飲んで、歯を磨いて寝た。 * 日曜日の朝、僕は直子に手紙を書いた。僕は手紙の中で緑の父親のこと書いた。僕はその 同じアラガの女の子の父親の見舞いに行って余った゠゙リをかじった。すると彼もそれを 欲しがってぽりぽりと食べた。でも結局その五日後の朝に彼は亡くなってしまった。僕は 彼が゠゙リを噛むときのポリ、ポリという小さな音を今でもよく覚えている。人の死とい うものは小さな奇妙な思い出をあとに残していくものだ、と。 朝目を覚ますと僕はベットの中で君とレ゗ウさんと鳥小屋のことを考えると僕は書いた。 孔雀や鴉やゞムや七面鳥、そしでエァのことを。雨の朝に君たちが着ていたフードつ きの黄色い雨合羽のことも覚えています。あたたかいベットの中で君のことを考えている のはとても気持の良いものです。まるで僕のとなりに君がいて、体を丸めてぐっすり眠っ ているような気がします。 そしてそれがもし本当だったらどんなに素敵だろうと思います。 ときどきひどく淋しい気持になることはあるにせよ、僕はおおむね元気に生きています。 君が毎朝鳥の世話をしたり畑仕事をしたりするように、僕も毎朝僕自身のねじを巻いてい ます。ベットから出て歯を磨いて、髭を剃って、朝食を食べて、服を着がえて、寮の玄関 を出て大学につくまでに僕はだいたい三十六回くらいウリウリとねじを巻きます。さあ今 日も一日きちんと生きようと思うわけです。自分では気がつかなかったけれど、僕は最近 よく一人言を言うそうです。 たぶんねじを巻きながらぶつぶつと何か言ってるのでしょう。 君に会えないのは辛いけれど、もし君がいなかったら僕の東京での生活はもっとひどいこ とになっていたと思う。朝ベットの中で君のことを考えればこそ、さあねじを巻いてきち んと生きていかなくちゃとと僕は思うのです。君がそこできちんとやっているように僕も ここできちんとやっていかなくちゃと思うのです。 でも今日は日曜日でね、ねじを巻かない朝です。洗濯をすませてしまって、今は部屋で手 紙を書いています。この手紙を書き終えて切手を貼ってポガトに入れてしまえば夕方まで 何もありません。日曜には勉強もしません。僕は平日の講義のあいまに図書室でかなりし っかりと勉強しているので、日曜日には何もすることがないのです。日曜日の午後は静か で平和で、そして孤独です。 僕は一人で本を読んだり音楽を聴いたりしています。君が東京にいた頃の日曜日に二人で 歩いた道筋をひとつひとつ思いだしてみることもあります。君が着ていた服なんかもずい ぶんはっきりと思いだせます。日曜日の午後には僕は本当にいろんなことを思いだすので す。 レ゗ウさんによろしく。僕は夜になると彼女のァゲーがとてもなつかしくなります。 僕は手紙を書いてしまうとそれを二百メートルほど離れたところにあるポガトに入れ、近 くのパン屋で玉子のエンド゗ッゴとウーラを買って、公園のベンゴに座って昼飯がわりに それを食べた。公園では少年野球をやっていたので、僕は暇つぶしにそれを見ていた。空 は秋の深まりとともにますます青く高くなり、ふと見あげると二本の飛行機雲が電車の線 路みたいに平行にまっすぐ西に進んでいくのが見えた。僕の近くに転がってきたフゔ゙ル ・ボールを投げ返してやると子供たちは帽子をとってありがとうございますと言った。大 方の少年野球がそうであるように四球と盗塁の多いゥームだった。 午後になると僕は部屋に戻って本を読み、本に神経が集中できなくなると天井を眺めて緑 のことを思った。そしてあの父親は本当に僕に緑のことをよろしく頼むと言おうとしたの

だろうかと考えてみた。でももちろん彼が本当に何を言いたかったかということは僕には 知りようもなかった。たぶん彼は僕を他の誰かと間違えていたのだろう。いずれにせよと 冷たい雨の降る金曜日の朝に彼は死んでしまったし、本当はどうだったのかたしかめよう もなくなってしまった。おそらく死ぬときの彼はもっと小さく縮んでいたのだろうと僕は 想像した。そして高熱炉で焼かれて灰だけになってしまったのだ。彼があとに残したもの といえば、あまりぱっとしない商店街の中のあまりぱっとしない本屋と二人の――少くと もそのうちの一人はいささか風変りな――娘だけだった。それはいったいどのような人生 だったんだろう、と僕は思った。彼は病院のベットの上で、切り裂かれて混濁した頭を抱 え、いったいどんな思いで僕を見ていたのだろう? そんな風に緑の父親のことを考えているとだんだんやるせない気持になってきたので、僕 は早めに屋上の洗濯ものをとりこんで新宿に出て街を歩いて時間をつぶすことにした。混 雑した日曜日の街は僕をホッとさせてくれた。僕は通勤電車みたいに混みあった紀伊国屋 書店でフ゜ーアナーの『八月の光』を買い、なるべく音の大きそうなカャキ喫茶に入って ゝーネット・ウールマンだのパド・パ゙゛ルだののレウードを聴きながら熱くて濃くてま ずいウーヒーうを飲み、買ったばかりの本を読んだ。五時半になると僕は本を閉じて外に 出て簡単な夕食を食べた。そしてこの先こんな日曜日をいったい何十回、何百回くりかえ すことになるのだろうとふと思った。 「静かで平和で孤独な日曜日」 と僕は口に出して言っ てみた。日曜日には僕はねじを巻かないのだ。 第八章 その週の半ばに僕は手のひらをゟラガの先で深く切ってしまった。レウード棚のゟラガの 仕切りが割れていることに気がつかなかったのだ。自分でもびっくりするくらい血がいっ ぱい出て、それがぽたぽたと下にこぼれ、足もとの床が真っ赤になった。店長がゲゝルを 何枚が持ってきてそれを強く巻いて包帯がわりにしてくれた。そして電話をかけて夜でも 開いている救急病院の場所を訊いてくれた。ろくでもない男だったが、そういう処置だけ は手ばやかった。病院は幸い近くにあったが、そこに着くまでにゲゝルは真っ赤に染まっ て、はみでた血がゕガフゔルトの上にこぼれた。人々はあわてて道をあけてくれた。彼ら は喧嘩か何かの傷だと思ったようだった。痛みらしい痛みはなかった。ただ次から次へと 血が出てくるだけだった。 医者は無感動に血だらけのゲゝルを取り、手首をぎゅっとしばって血を止め傷口を消毒し てから縫い合わせ、明日また来なさいと言った。レウード店に戻ると、お前もう家帰れよ、 出勤にしといてやるから、と店長が言った。僕はバガに乗って寮に戻った。そして永沢さ んの部屋に行ってみた。怪我のせいで気が高ぶっていて誰かと話がしたかったし、彼にも ずいぶん長く会っていないような気がしたからだ。 彼は部屋にいて、TV のガペ゗ン語講座を見ながら缶ビールを飲んでいた。彼は僕の包帯を 見て、お前それどうしたんだよと訊いた。ちょっと怪我したのだがたいしたことはないと 僕は言った。ビール飲むかと彼が訊いて、いらないと僕は言った。 「これもうすぐ終るから待ってろよ」と永沢さんは言って、ガペ゗ン語の発音の練習をし た。僕は自分で湯をわかし、テゖーバッィで紅茶を作って飲んだ。ガペ゗ン人の女性が例 文を読みあげた。 「こんなひどい雨ははじめてですわ。 バルギロナでは橋がいくつも流され ました」 。永沢さんは自分でもその例文を読んで発音してから「ひどい例文だよな」と言っ た。 「外国語講座の例文ってこういうのばっかりなんだからまったく」 ガペ゗ン語講座が終ると永沢さんは TV を消し、 小型の冷蔵庫からもう一本ビールを出して 飲んだ。

「邪魔じゃないですか?」と僕は訊いてみた。 「俺?全然邪魔じゃないよ。退屈してたんだ。本当にビールいらない?」 いらないと僕は言った。 「そうそう、このあいだ試験の発表あったよ。受かってたよ」と永沢さんが言った。 「外務省の試験?」 「そう、正式には外務公務員採用一種試験っていうんだけどね、ゕホみたいだろ?」 「おめでとう」と僕は言って左手をさしだして握手した。 「ありがとう」 「まあ当然でしょうけれどね」 「まあ当然だけどな」 と永沢さんは笑った。 「しかしまあちゃんと決まるってのはいいこと だよ、とにかく」 「外国に行くんですか、入省したら?」 「いや最初の一年間は国内研修だね。それから当分は外国にやられる」 僕は紅茶をすすり、彼はうまそうにビールを飲んだ。 「この冷蔵庫だけどさ、もしよかったらここを出るときにお前にやるよ」と永沢さんは言 った。 「欲しいだろ?これあると冷たいビール飲めるし」 「そりゃもらえるんなら欲しいですけどね、永沢さんだって必要でしょう?どうぜゕパー ト暮しか何かだろうし」 「馬鹿言っちゃいけないよ。こんなところ出たら俺はもっとでかい冷蔵庫を買ってェーカ ャガに暮すよ。こんなイゴなところで四年我慢したんだぜ。こんなところで使ってたもの なんて目にしたくもないさ。何でも好きなものやるよ、TV だろうが、魔法瓶だろうが、ラ カゝだろうが」 「まあなんでもいいですけどね」と僕は言った。そして机の上のガペ゗ン語のテ゠ガト・ ブッアを手にとって眺めた。 「ガペ゗ン語始めたんですか?」 「うん。語学はひとつでも沢山できた方が役に立つし、だいたい生来俺はそういうの得意 なんだ。フランガ語だって独学でやってきて殆んど完璧だしな。ゥームと同じさ。ルール がひとつわかったら、あとはいくつやったってみんな同じなんだよ。ほら女と一緒だよ」 「ずいぶん内省的な生き方ですね」と僕は皮肉を言った。 「ところで今度一緒に飯食いに行かないか」と永沢さんが言った。 「また女漁りじゃないでしょうね?」 「いや、そうじゃなくてさ、純粋な飯だよ。ハツミと三人でちゃんとしたレガトランに行 って会食するんだ。俺の就職祝いだよ。なるべく高い店に行こう。どうせ払いは父親だか ら」 「そういうのはハツミさんと二人でやればいいじゃないですか」 「お前がいてくれた方が楽なんだよ。その方が俺もハツミも」と永沢さんは言った。 やれやれ、と僕は思った。それじゃ゠キ゠と直子のときとまったく同じじゃないか。 「飯のあとで俺はハツミのところ行って泊るからさ。飯くらい三人で食おうよ」 「まああなた二人がそれでいいって言うんなら行きますよ」 と僕は言った。 「でも永沢さん はどうするですか、ハツミさんのこと?研修のあとで国外勤務になって何年も帰ってこな いんでしょ?彼女はどうなるんですか?」 「それはハツミの問題であって、俺の問題ではない」 「よく意味がわかんないですね」 彼は足を机の上にのせたままビールを飲み、あくびをした。 「つまり俺は誰とも結婚するつもりはないし、 そのことはハツミにもちゃんと言ってある。

だからさ、ハツミは誰かと結婚したきゃすりゃいいんだ。俺は止めないよ。結婚しないで 俺を待ちたきゃ待ちゃいい。そういう意味だよ」 「ふうん」と僕は感心して言った。 「ひどいと思うだろ、俺のこと?」 「思いますね」 「世の中というのは原理的に不公平なものなんだよ。それは俺のせいじゃない。はじめか らそうなってるんだ。俺はハツミをだましたことなんか一度もない。そういう意味では俺 はひどい人間だから、それが嫌なら別れろってちゃんと言ってる」 永沢さんはビールを飲んでしまうとゲバウをくわえて火をつけた。 「あなたは人生に対して恐怖を感じるということはないですか?」と僕は訊いてみた。 「あのね、俺はそれほど馬鹿じゃないよ」と永沢さんは言った。 「もちろん人生に対して恐 怖を感じることはある。そんなの当たり前じゃないか。ただ俺はそういうのを前提条件と して認めない。自分の力を百パーギント発揮してやれるところまでやる。欲しいものはと るし、欲しくないものはとらない。そうやって生きていく。駄目だったら駄目になったと ころでまた考える。 不公平な社会というのは逆に考えれば能力を発揮できる社会でもある」 「身勝手な話みたいだけれど」と僕は言った。 「でもね、俺は空を見上げて果物が落ちてくるのを待ってるわけじゃないぜ。俺は俺なり にずいぶん努力をしている。お前の十倍くらい努力してる」 「そうでしょうね」と僕は認めた。 「だからね、ときどき俺は世間を見まわして本当にうんざりするんだ。どうしてこいつら は努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」 僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせく 「 と身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでし ょうか?」 「あれは努力じゃなくてただの労働だ」 と永沢さんは簡単に言った。 「俺の言う努力という のはそういうのじゃない。 努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」 「たとえば就職が決って他のみんながホッとしている時にガペ゗ン語の勉強を始めると か、そういうことですね?」 「そういうことだよ。俺は春までにガペ゗ン語を完全にマガゲーする。英語とド゗ツ語と フランガ語はもうできあがってるし、゗ゲリゕ語もだいたいはできる。こういうのって努 力なくしてできるか?」 彼はゲバウを吸い、 僕は緑の父親のことを考えた。 そして緑の父親は TV でガペ゗ン語の勉 強を始めようなんて思いつきもしなかったろうと思った。努力と労働の違いがどこかにあ るかなんて考えもしなかったろう。そんなことを考えるには彼はたぶん忙しすぎたのだ。 仕事も忙しかったし、福島まで家出した娘を連れ戻しにも行かねばならなかった。 「食事の話だけど、今度の土曜日でどうだ?」と永沢さんが言った。 いいですよ、と僕は言った。 永沢さんが選んだ店は麻布の裏手にある静かで上品なフランガ料理店だった。永沢さんが 名前を言うと我々は奥の個室に通された。小さな部屋で壁には十五枚くらい版画がかかっ ていた。ハツミさんが来るまで、僕と永沢さんはカョギフ・ウンラッドの小説の話をしな がら美味しいワ゗ンを飲んだ。永沢さんは見るからに高価そうなィレーのガーツを着て、 僕はごく普通のネ゗ビー・ブルーのブレォー・ウートを着ていた。 十五分くらい経ってからハツミさんがやってきた。彼女はとてもきちんと化粧をして金の

゗ヤリンィをつけ、深いブルーの素敵なワンピーガを着て、上品なかたちの赤いパンプガ をはいていた。僕はワンピーガの色を賞めると、これはミッドナ゗ト・ブルーっていうの よとハツミさんは教えてくれた。 「素敵なところじゃない」とハツミさんが言った。 「父親が東京に来るとここで飯食うんだ。前に一度一緒に来たことあるよ。俺はこういう 気取った料理はあまり好きじゃないけどな」と永沢さんが言った。 「あら、たまにはいいじゃない、こういうのも。ねえ、ワゲナベ君」とハツミさんが言っ た。 「そうですね、自分の払いじゃなければね」と僕は言った。 「うちの父親はだいたいいつも女と来るんだ」 と永沢さんが言った。東京に女がいるから」 「 「そう?」とハツミさんが言った。 僕は聞こえないふりをしてワ゗ンを飲んでいた。 やがで゚゗ゲーがやってきて、我々は料理を注文した。ゝードブルとガープを我々は選 び、メ゗ン・デゖッオュに永沢さんは鴨を、僕とハツミさんは鱸を注文した。料理はとて もゆっくり出てきたので、僕らはワ゗ンを飲みながらいろんな話をした。最初は永沢さん が外務省の試験の話をした。受験者の殆んどは底なし沼に放りこんでやりたいようなェミ だが、まあ中には何人かまともなのもいたなと彼は言った。その比率は一般社会の比率と 比べて低いのか高いのかと僕は質問してみた。 「同じだよ、もちろん」と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言った。 「そういうの って、どこでも同じなんだよ。一定不変なんだ」 ワ゗ンを飲んでしまうと永沢さんはもう一本注文し、自分のためにガウッゴ・゙ゖガ゠ー をコブルで頼んだ。 それからハツミさんがまた僕に紹介したい女の子の話を始めた。これはハツミさんと僕の 間の永遠の話題だった。彼女は僕に<アラブの下級生のすごく可愛い子>を紹介したがっ て、僕はいつも逃げまわっていた。 「でも本当に良い子なのよ、美人だし。今度連れてくるから一度お話しなさいよ。きっと 気にいるわよ」 「駄目ですよ」 と僕は言った。 「僕はハツミさんの大学の女の子とつきあうには貧乏すぎる もの。お金もないし、話もあわないし」 「あら、そんなことないわよ。その子なんてとてもさっぱりした良い子よ。全然そんな風 に気取ってないし」 「一度会ってみりゃいいじゃないか、ワゲナベ」と永沢さんが言った。 「べつにやらなくて いいんだから」 「あたり前でしょう。そんなことしたら大変よ。ちゃんとバーカンなんだから」とハツミ さんが言った。 「昔の君みたい」 「そう、昔の私みたいに」とハツミはにっこり笑って言った。 「でもワゲナベ君、貧乏だと かなんだかとかって、そんなのあまり関係ないよ。そりゃアラガに何人かはものすごく気 取ったバリバリの子はいるけれど、あとは私たち普通なのよ。お昼には学食で二百五十円 のランゴ食べて――」 「ねえハツミさん」と僕は口をはさんだ。 「僕の学校の学食のランゴは、A、B、C とあって A が百二十円で B は百円で C が八十円なんです。それでたまに僕が A ランゴを食べるとみ んな嫌な目で見るんです。C ランゴが食えないやつは六十円のラーメン食うんです。そう いう学校なんです。話があうと思いますか?」

ハツミさんは大笑いした。 「安いわねえ、私食べに行こうかしら。でもね、ワゲナベ君、あ なた良い人だし、きっと彼女と話あうわよ。彼女だって百二十円のランゴ気に入るかもし れないわよ」 「まさか」と僕は笑って言った。 「誰もあんなもの気に入ってやしませんよ。仕方ないから 食べてるんです。 「でも入れもので私たちを判断しないでよ、ワゲナベ君。そりゅまあかなりちゃらちゃら したお嬢様学校であるにせよ、真面目に人生を考えて生きているまともな女の子だって沢 山いるのよ。みんながみんなガポーツ・ゞーに乗った男の子とつきあいたいと思ってるわ けじゃないのよ」 「それはもちろんわかってますよ」と僕は言った。 「ワゲナベには好きな女の子がいるんだよ」 と永沢さんが言った。 「でもそれについてはこ の男は一言もしゃべらないんだ。なにしろ口が固くてね。全ては謎に包まれているんだ」 「本当?」とハツミさんが僕に訊いた。 「本当です。でも別に謎なんてありませんよ。ただ事情がとてもこみいって話しづらいだ けです」 「道ならぬ恋とかそういうの?ねえ、私に相談してごらんなさいよ」 僕はワ゗ンを飲んでごまかした。 「ほら、口が固いだろう」と三杯目の゙ゖガ゠ーを飲みながら永沢さんが言った。 「この男 は一度言わないって決めたら絶対に言わないんだもの」 「残念ねえ」とハツミさんはテリーヌを小さく切ってフ゜ーアで口に運びながら言った。 「その女の子とあなたがうまくいったら私たちコブル・デートできたのにね」 「酔払ってガワッピンィだってできたのにね」と永沢さんが言った。 「変なこと言わないでよ」 「変じゃないよ、ワゲナベ君のこと好きなんだから」 「それとこれは別でしょう」 とハツミさんは静かな声で言った。 「彼はそういう人じゃない わよ。自分のものをとてもきちんと大事にする人よ。私わかるもの。だから女の子を紹介 しようとしたのよ」 「でも俺とワゲナベで一度女をとりかえっこしたことあるよ、前に。なあ、そうだよな?」 永沢さんは何でもないという顔をしでゖガ゠ーのィラガをあけ、おわかりを注文した。 ハツミさんはフ゜ーアとナ゗フを下に置き、ナプ゠ンでそっと口を拭った。そして僕の顔 を見た。 「ワゲナベ君、あなた本当にそんなことしたの?」 どう答えていいのかわからなかったので、僕は黙っていた。 「ちゃんと話せよ。かまわないよ」と永沢さんが言った。まずいことになってきたと僕は 思った。時々酒が入ると永沢さんは意地がわるくなることがあるのだ。そして今夜の彼の 意地のわるさは僕に向けられたものではなく、ハツミさんに向けられたものだった。それ がわかっていたもので、僕としても余計に居心地がわるかった。 「その話聞きたいわ。すごく面白そうじゃない」とハツミさんが僕に言った。 「酔払ってたんです」と僕は言った。 「いいのよ、べつに。責めてるわけじゃないんだから。ただその話を聞かせてほしいだけ なの」 「渋谷のバーで永沢さんと二人で飲んでいて、二人連れの女の子と仲良くなったんです。 どこかの短大の女の子で、向うも結構出来上っていて、それでまあ結局そのへんのホテル に入って寝たんです。僕と永沢さんとで隣りどうしの部屋をとって。そうしたら夜中に永 沢さんが僕の部屋をノッアして、おいワゲナベ、女の子とりかえようぜって言うから、僕

が永沢さんの方に行って、永沢さんが僕の方に来たんです」 「その女の子たちは怒らなかったの?」 「その子たちも酔ってたし、それにどっちだってよかったんです。結局その子たちとして も」 「そうするにはそうするだけの理由があったんだよ」と永沢さんが言った。 「どんな理由?」 「その二人組の女の子だけど、ちょっと差がありすぎたんだよ。一人の子はきれいだった んだけど、もう一人がひどくってさ、そういうの不公平だと思ったんだ。つまり俺が美人 の方をとっちゃったからさ、ワゲナベにわるいじゃないか。だから交換したんだよ。そう だよな、ワゲナベ?」 「まあ、そうですね」と僕は言った。しかし本当のことを言えば、僕はその美人じゃない 子の方をけっこう気に入っていたのだ。話していて面白かったし、性格もいい子だった。 僕と彼女がギッアガのあとベッドの中でわりに楽しく話をしていると、永沢さんが来てと りかえっこしようぜと言ったのだ。僕がその子にいいかなと訊くと、まあいいわよ、あな たたちそうしたいんなら、と彼女は言った。彼女はたぶん僕がその美人の子の方とやりた がっていると思ったのだろう。 「楽しかった?」とハツミさんが僕に訊いた。 「交換のことですか?」 「そんな何やかやが」 「べつにとくに楽しくはないです」と僕は言った。 「ただやるだけです。そんな風に女の子 と寝たってとくに何か楽しいことがあるわけじゃないです」 「じゃあ何故そんなことするの?」 「俺が誘うからだよ」と永沢さんが言った。 「私、ワゲナベ君に質問してるのよ」とハツミさんはきっぱりと言った。 「どうしてそんな ことするの?」 「ときどきすごく女の子と寝たくなるんです」と僕は言った。 「好きな人がいるのなら、その人となんとかするわけにはいかないの?」とハツミさんは 少し考えてから言った。 「複雑な事情があるんです」 ハツミさんはため息をついた。 そこでドゕが開いて料理が運ばれてきた。永沢さんの前には鴨のローガトが運ばれ、僕と ハツミさんの前には鱸の皿が置かれた。皿には温野菜が盛られ、グーガがかけられた。そ して給仕人が引き下がり、我々はまた三人きりになった。永沢さんは鴨をナ゗フで切って うまそうに食べ、゙ゖガ゠ーを飲んだ。 僕はボレン草を食べてみた。ハツミさんは料理には手をつけなかった。 「あのね、ワゲナベ君、どんな事情があるかは知らないけれど、そういう種類のことはあ なたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれど、どうかしら?」とハツミさん は言った。彼女はテーブルの上に手を置いて、じっと僕の顔を見ていた。 「そうですね」と僕は言った。 「自分でもときどきそう思います」 「じゃあ、どうしてやめないの?」 「ときどき温もりが欲しくなるんです」 と僕は正直に言った。 「そういう肌のぬくもりのよ うなものがないと、ときどきたまらなく淋しくなるんです」 「要約するとこういうことだと思うんだ」 永沢さんが口をはさんだ。 「ワゲナベには好きな 女の子がいるんだけれどある事情があってやれない。だからギッアガはギッアガと割り切

って他で処理するわけだよ。それでかまわないじゃないか。話としてはまともだよ。部屋 にこもってずっとマガゲーベーオョンやってるわけにもいかないだろう?」 「でも彼女のことが本当に好きなら我慢できるんじゃないかしら、ワゲナベ君?」 「そうかもしれないですね」と言って僕はアリーム・グーガのかかった鱸の身を口に運ん だ。 「君には男の性欲というものが理解できないんだ」 と永沢さんがハツミさんに言った。 「た とえば俺は君と三年つきあっていて、しかもそのあいだにけっこう他の女と寝てきた。で も俺はその女たちのことなんて何も覚えてないよ。名前も知らない、顔も覚えない。誰と も一度しか寝ない。会って、やって、別れる。それだけよ。それのどこがいけない?」 「私が我慢できないのはあなたのそういう傲慢さなのよ」とハツミさんは静かに言った。 「他の女の人と寝る寝ないの問題じゃないの。私これまであなたの女遊びのことで真剣に 怒ったこと一度もないでしょう?」 「あんなの女遊びとも言えないよ。ただのゥームだ。誰も傷つかない」と永沢さんは言っ た。 「私は傷ついてる」とハツミさん言った。 「どうして私だけじゃ足りないの?」 永沢さんはしばらく黙っでゖガ゠ーのィラガを振っていた。 「足りないわけじゃない。 そ れはまったく別のプ゗ガの話なんだ。俺の中には何かしらそういうものを求める渇きの ようなものがあるんだよ。そしてそれがもし君を傷つけたとしたら申しわけないと思う。 決して君一人で足りないとかそういうんじゃないんだよ。でも俺はその渇きのもとでしか 生きていけない男だし、それが俺なんだ。仕方ないじゃないか」 ハツミさんはやっとナ゗フとフ゜ーアを手にとって鱸を食べはじめた。でもあなたは少な 「 くともワゲナベ君をひきずりこむべきじゃないわ」 「俺とワゲナベには似ているところがあるんだよ」 と永沢さんは言った。 「ワゲナベも俺と 同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。傲慢か傲慢じゃな いかの差こそあれね。自分が何を考え、自分が何を感じ、自分がどう行動するか、そうい うことにしか興味が持てないんだよ。だから自分と他人をきりはなしてものを考えること ができる。俺がワゲナベを好きなのはそういうところだよ。ただこの男の場合自分でそれ がまだきちんと認識されていないものだから、迷ったり傷ついたりするんだ」 「迷ったり傷ついたりしない人間がどこにいるのよ?」 とハツミさんは言った。 「それとも あなたは迷ったり傷ついたりしたことないって言うの?」 「もちろん俺だって迷うし傷つく。 ただそれは訓練によって軽減することが可能なんだよ。 鼠だって電気オョッアを与えれば傷つくことの少ない道を選ぶようになる」 「でも鼠は恋をしないわ」 「鼠は恋をしない」と永沢さんはそうくりかえしてから僕の方を見た。 「素敵だね。バッア ィランド・ミューカッアがほしいね。ゝーイガトラにハーブが二台入って――」 「冗談にしないでよ。私、真剣なのよ」 「今は食事をしてるんだよ」と永沢さんは言った。 「それにワゲナベもいる。真剣に話をす るのは別の機会にした方が礼儀にかなっていると思うね」 「席を外しましょうか?」と僕は言った。 「ここにいてちょうだいよ。その方がいい」とハツミさんが言った。 「せっかく来たんだからデォートも食べていけば」と永沢さんが言った。 「僕はべつにかまいませんけど」 それからしばらく我々は黙って食事をつづけた。僕は鱸をきれいに食べ、ハツミさんは半 分残した。永沢さんはとっくに鴨を食べ終えて、まだゖガ゠ーを飲みつづけていた。

「鱸、けっこううまかったですよ」と僕は言ってみたが誰も返事をしなかった。まるで深 い竪穴に小石を投げ込んだみたいだった。 皿がさげられて、レモンのオャーベットと゛ガプレッグ・ウーヒーが運んできた。永沢さ んはどちらにもちょっと手をつけただけで、すぐに煙草を吸った。ハツミさんはレモンの オャーベットにはまったく手をつけなかった。やれやれと思いながら僕はオャーベットを たいらげ、ウーヒーを飲んだ。ハツミさんはテーブルの上に揃えておいた自分の両手を眺 めていた。ハツミさんの身につけた全てのものと同じように、その両手はとてもオッアで 上品で高価そうだった。僕は直子とレ゗ウさんのことを考えていた。彼女たちは今頃何を しているんだろう?直子はグフゔーに寝転んで本を読み、レ゗ウさんはァゲーで『ノル゙ ゚゗の森』を弾いているのかもしれないなと僕は思った。僕は彼女たち二人のいるあの小 さな部屋に戻りたいという激しい想いに駆けられた。俺はいったいここで何をしているの だ? 「俺とワゲナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていな いところなんだ」と永沢さんが言った。 「そこが他の連中と違っているところなんだ。他の 奴らはみんな自分のことをまわりの人間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも 俺はそうじゃないし、ワゲナベもそうじゃない。理解してもらわなくったってかまわない と思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」 「そうなの?」とハツミさんが僕に訊いた。 「まさか」と僕は言った。 「僕はそれほど強い人間じゃありませんよ。誰にも理解されなく ていいと思っているわけじゃない。理解しあいたいと思う相手だっています。ただそれ以 外の人々にはある程度理解されなくても、まあこれは仕方ないだろうと思っているだけで す。あきらめてるんです。だから永沢さんの言うように理解されなくたってかまわないと 思っているわけじゃありません」 「俺の言ってるのも殆んど同じ意味だよ」と永沢さんはウーヒー・ガプーンを手にとって 言った。 「本当に同じことなんだよ。 遅いめの朝飯と早いめの昼飯の違いくらいしかないん だ。食べるものも同じで、食べる時間も同じで、ただ呼び方がちがうんだ」 「永沢君、あなたは私にもべつに理解されなくったっていいと思ってるの?」とハツミさ んが訊いた。 「君にはどうもよくわかってないようだけれど、人が誰かを理解するのはしかるべき時期 がきたからであって、その誰かが相手に理解してほしいと望んだからではない」 「じゃあ私が誰かにきちんと私を理解してほしいと望むのは間違ったことなの?たとえば あなたに?」 「いや、 べつに間違っていないよ」 と永沢さんは答えた。 「まともな人間はそれを恋と呼ぶ。 もし君が俺を理解したいと思うのならね。俺のオガテムは他の人間の生き方のオガテムと はずいぶん違うんだよ」 「でも私に恋してはいないのね?」 「だから君は僕のオガテムを――」 「オガテムなんてどうでもいいわよ! とハツミさんがどなった。 」 彼女がどなったのを見た のはあとにも先にもこの一度きりだった。 永沢さんがテーブルのわきのベルを押すと給仕人が勘定書を持ってやってきた。永沢さん はアレカット・ゞードを出して彼に渡した。 「悪かったな、ワゲナベ、今日は」と彼は言った。 「俺はハツミを送っていくから、お前一 人であとやってくれよ」 「いいですよ、僕は。食事はうまかったし」と僕は言ったが、それについては誰も何も言

わなかった。 給仕人がゞードを持ってきて、永沢さんは金額をたしかめてボールペンでエ゗ンをした。 そして我々は席を立って店の外に出た。永沢さんが道路に出てゲアオーを停めるようとし たが、ハツミさんがそれを止めた。 「ありがとう、でも今日はもうこれ以上あなたと一緒にいたくないの。だから送ってくれ ないでいいわよ。ごちそさま」 「お好きに」と永沢さんは言った。 「ワゲナベ君に送ってもらうわ」とハツミさんは言った。 「お好きに」と永沢さんは言った。 「でもワゲナベだって殆んど同じだよ、俺と。親切でや さしい男だけど、心の底から誰かを愛することはできない。いつもどこか覚めていて、そ してただ乾きがあるだけなんだ。俺にはそれがわかるんだ」 僕はゲアオーを停めてハツミさんを先に乗せ、まあとにかく送りますよと永沢さんに言っ た。 「悪いな」と彼は僕に謝ったが、頭の中ではもう全然別のことを考えはじめているよう に見えた。 「どこに行きますか?恵比寿に戻りますか?」と僕はハツミさんに訊いた。彼女のゕパー トは恵比寿にあったからだ。ハツミさんは首を横に振った。 「じゃあ、そこかで一杯飲みますか?」 「うん」と彼女は肯いた。 「渋谷」と僕は運転手に言った。 ハツミさんは腕組みをして目をつぶり、ゲアオーの座席によりかかっていた。金の小さな ゗ヤリンィが車のゆれにあわせてときどききらりと光った。彼女のミッドナ゗ト・ブルー のワンピーガはまるでゲアオーの片隅の闇にあわせてあつらえたように見えた。淡い色あ いで塗られた彼女のかたちの良い唇がまるで一人言を言いかけてやめたみたいに時折ぴく りと動いた。そんな姿を見ていると永沢さんがどうして彼女を特別な相手として選んだの かわかるような気がした。ハツミさんより美しい女はいくらでもいるだろう、そして永沢 さんならそういう女をいくらでも手に入ることができただろう。しかしハツミさんという 女性の中には何かしら人の心を強く揺さぶるものがあった。そしてそれは決して彼女が強 い力を出して相手を揺さぶるというのではない。彼女の発する力はささやかなものなのだ が、 それが相手の心の共震を呼ぶのだ。 ゲアオーが渋谷に着くまで僕はずっと彼女を眺め、 彼女が僕の心の中に引き起こすこの感情の震えはいったい何なんだろうと考えつづけてい た。しかしそれが何であるのかはとうとう最後までわからなかった。 僕はそれが何であるかに思いあたったのは十二年か十三年あとのことだった。僕はある画 家を゗ンゲヴ゚ーするためにニュー・メ゠オウ州エンゲ・プの町に来ていて、夕方近所 のピツゔ・バガに入ってビールを飲みピツゔをかじりながら奇蹟のように美しい夕陽を 眺めていた。世界中のすべてが赤く染まっていた。僕の手から皿からテーブルから、目に つくもの何から何までが赤く染まっていた。まるで特殊な果汁を頭から浴びたような鮮や かな赤だった。そんな圧倒的な夕暮の中で、僕は急にハツミさんのことを思いだした。そ してそのとき彼女がもたらした心の震えがいったい何であったかを理解した。それは充た されることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の 憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと 昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら 長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠 っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど泣きだ してしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがな

んとしてもでも彼女を救うべきだったのだ。 でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは――多くの僕の知 りあいがそうしたように――人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生 命を絶った。彼女は永沢さんがド゗ツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二 年後に剃刀で手首を切った。 彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕に手紙を書 いてきた。 「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、 それはたまらなく哀しく辛いこ とだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かな かった。 * 我々は小さなバーに入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツミさんも殆んど口をきかな かった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦みたいに向いあわせに座って黙って酒を飲み、ピ ーナッツをかじった。そのうちに店が混みあってきたので、我々は外を少し散歩すること にした。ハツミさんは自分が勘定を払うと言ったが、僕は自分が誘ったのだからと言って 払った。 外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミさんは淡いィレーのゞーデ ゖゟンを羽織った。そしてあいかわらず黙って僕の横を歩いていた。どこに行くというあ てもなかったけれど、僕はキボンのポイットに両手をつっこんでゆっくりと夜の街を歩い た。まるで直子と歩いていたときみたいだな、と僕はふと思った。 「ワゲナベ君。どこかこのへんでビリヤードできるところ知らない?」ハツミさんが突然 そう言った。 「ビリヤード?」と僕はびっくりして言った。 「ハツミさんがビリヤードやるんですか?」 「ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう?」 「四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれど」 「じゃ、行きましょう」 我々は近くでビリヤード屋をみつけて中に入った。路地のつきあたりにある小さな店だっ た。オッアなワンピーガを着たハツミさんとネ゗ビー・ブルーのブレォー・ウートにレカ メンゲル・ゲ゗という格好の僕の組みあわせはビリヤード屋の中ではひどく目立ったが、 ハツミさんはそんなことはあまり気にせずに゠ューを選び、ゴョーアでその先を゠ュッ゠ ュッとこすった。そしてバッィから髪どめを出して額のわきでとめ、玉を撞くときの邪魔 にならないようにした。 我々は四ツ玉のゥームを二回やったが、ハツミさんは自分でも言ったようになかなか腕が 良かったし、僕は厚く包帯を巻いていたのであまり上手く玉を撞くことができなかった。 それでニゥームとも彼女が圧勝した。 「上手いですね」と僕は感心して言った。 「見かけによらず、でしょう?」とハツミさんは丁寧に玉の位置を測りながらにっこりと して言った。 「いったいどこで練習したんですか?」 「私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持っていたのよ。それでそこに行く と小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊んでたの。少し大きくなってからは祖父が正式な 撞き方を教えてくれたし。良い人だったな。ガマートでハンエムでね。もう死んじゃった けれど。昔ニューヨーアでデゖゕナ・コービンにあったことがあるっていうのが自慢だっ たわね」 彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一回得点し、それからやさし

いのを撞き損った。 「包帯してるせいよ」とハツミさんは慰めてくれた。 「長くやってないせいですよ。もう二年五ヶ月もやってないから」 「どうしてそんなにはっきり覚えてるの?」 「友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それでよく覚えてるんです」 「それでそれ以来ビリヤードやらなくなったの?」 「いや、とくにそういうわけではないんです」と僕は少し考えてからそう答えた。 「ただな んとなくそれ以来玉撞きをする機会がなかったんです。それだけのことですよ」 「お友だちはどうして亡くなったの?」 「交通事故です」と僕は言った。 彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣で、玉を撞くときの力の入れ 方は正確だった。彼女はきれいにギットした髪をくるりとうしろに回して金の゗ヤリンィ を光らせ、パンプガの位置をきちんと決め、すらりと伸びた美しい指で台のプルトを押 えて玉を撞く様子を見ていると、うす汚いビリヤード場のそこの場所だけが何かしら立派 な社交場の一角であるように見えた。彼女と二人きりになるのは初めてだったが、それは 僕にとって素敵な体験だった。彼女と一緒にいると僕は人生を一段階上にひっぱりあげら れたような気がした。三ゥームを終えたところで――もちろん三ゥームめも彼女が圧勝し た――僕の手の傷が少しうずきはじめたので我々はゥームを切りあげることにした。 「ごめんなさい。ビリヤードなんかに誘うんじゃなかったわね」とハツミさんはとても悪 そうに言った。 「いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったです、すごく」と僕は言った。 帰り際にビリヤード場の経営者らしいやせた中年の女がハツミさんに「お姐さん、良い筋 してるわね」と言った。 「ありがとう」とにっこり笑ってハツミさんは言った。そして彼女 がそこの勘定を払った。 「痛む?」と外に出てハツミさんが言った。 「それほど痛くはないです」と僕は言った。 「傷口開いちゃったかしら?」 「大丈夫ですよ、たぶん」 「どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえてあげるから」とハツミさ んが言った。 「うち、ちゃんと包帯も消毒薬もあるし、すぐそこだから」 そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言ったが、彼女の方は傷口が開い ていないかどうかちゃんと調べてみるべきだと言いはった。 「それとも私と一緒にいるの嫌?一刻も早く自分のお部屋に戻りたい?」とハツミさんは 冗談めかして言った。 「まさか」と僕は言った。 「じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いてすぐだから」 ハツミさんのゕパートは渋谷から恵比寿に向って十五分くらい歩いたところにあった。豪 華とは言えないまでもかなり立派なゕパートで、小さなロビーもあれば゛レベーゲーもつ いていた。ハツミさんはその 1DK の部屋の台所のテーブルに僕を座らせ、となりの部屋に 行って服を着がえてきた。プリンガトン・ユニヴゔオテゖーという文字の入ったヨットパ ーゞーと綿のキボンという格好で、金の゗ヤリンィも消えていた。彼女はどこから救急箱 を持って来て、テーブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が開いていないことをたしかめて から、一応そこを消毒して、新しい包帯に巻きなおしてくれた。とても手際がよかった。 「どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか?」と僕は訊いてみた。

「昔ボランテゖゕでこういうのやってたことあるのよ。看護婦のまね事のようなもの。そ こで覚えたの」とハツミさんは言った。 包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビールを二本出してきた。彼女が一缶の半分を 飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミさんは僕にアラブの下級生の女の子たちが写った 写真を見せてくれた。たしかに何人か可愛い子がいた。 「もしゟールフレンドがほしくなったらいつでも私のところにいらっしゃい。すぐ紹介し てあげるから」 「そうします」 「でもワゲナベ君、 あなた私のことをお見合い紹介おばさんみたいだなと思ってるでしょ、 正直言って?」 「幾分」と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼女は笑顔がとてもよく似合 う人だった。 「ねえワゲナベ君はどう思ってるの?私と永沢君のこと?」 「どう思うって、何についてですか?」 「私どうすればいいのかしら、これから?」 「私が何を言っても始まらないでしょう」と僕はよく冷えたビール飲みながら言った。 「いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて」 「僕があなただったら、あの男とは別れます。そして少しまともな考え方をする相手を見 つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあの人とつきあって幸せになれる わけがないですよ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにしようとか、そんな風 に考えて生きている人じゃないんだもの。 一緒にいたら神経がおかしくなっちゃいますよ。 僕から見ればハツミさんがあの人と三年も付き合ってるというのが既に奇跡ですよ。もち ろん僕だって僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人だし、立派なところも沢山あると 思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能力と強さを持ってるし。でもね、あの人 の物の考え方とか生き方はまともじゃないです。あの人と話をしていると、時々自分が同 じところを堂々めぐりしているような気分になることがあるんです。彼の方は同じプロギ ガでどんどん上に進んで行ってるのに、僕の方はずっと堂々めぐりしてるんです。そして すごく空しくなるんです。要するにオガテムそのものが違うんです。僕の言ってることわ かりますか?」 「よくわかるわ」とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビールを出してくれた。 「それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当分国外に行っちゃうわけで しょう?ハツミさんはどうするんですか?ずっと待ってるんですか?あの人、誰とも結婚 する気なんかありませんよ」 「それもわかってるのよ」 「じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上」 「うん」とハツミさんは言った。 僕はィラガにゆっくりとビールを注いで飲んだ。 「さっきハツミさんとビリヤードやっててふと思ったんです」と僕は言った。 「つまりね、 僕には兄弟がいなくってずっと一人で育ってきたけれど、それで淋しいとか兄弟が欲しい と思ったことはなかったんです。一人でいいやと思ってたんです。でもハツミさんとさっ きビリヤードやってて、僕にもあなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと突然思った んです。ガマートでオッアで、ミッドナ゗ト・ブルーのワンピーガと金の゗ヤリンィがよ く似合って、ビリヤードが上手なお姉さんがね」 ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。少なくともこの一年くらいのあいだに耳に 「

したいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉しかったわ。本当よ」 「だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです」と僕はちょっと赤くな って言った。 「でも不思議ですね。 あなたみたいな人なら誰とだって幸せになれそうに見え るのに、どうしてまたよりによって永沢さんみたいな人とくっついちゃうんだろう?」 「そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分ではどうしようもないことな のよ。永沢君に言わせれば、そんなこと君の責任だ。俺は知らんってことになるでしょう けれどね」 「そういうでしょうね」と僕は同意した。 「でもね、ワゲナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はどっちかっていうと 馬鹿で古風な女なの。オガテムとか責任とか、そんなことどうだっていいの。結婚して、 好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めばそれでいいのよ。それだけなの。私が求めている のはそれだけなのよ」 「彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ」 「でも人は変るわ。そうでしょう?」とハツミさんは言った。 「社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になり……ということ?」 「そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情も変ってくるかもしれない でしょう?」 「それは普通の人間の話です」 と僕は言った。 「普通の人間だったらそういうのもあるでし ょうね。でもあの人は別です。あの人は我々の想像を越えて意志の強い人だし、その上毎 日毎日それを補強してるんです。そして何かに打たれればもっと強くなろうとする人なん です。他人にうしろを見せるくらいならナメアカだって食べちゃうような人です。そんな 人間にあなたはいったい何を期待するんですか?」 「でもね、ワゲナベ君。今の私には待つしかないのよ」とハツミさんはテーブルに頬杖を ついて言った。 「そんなに永沢さんのこと好きなんですか?」 「好きよ」と彼女は即座に答えた。 「やれやれ」と僕は言ってため息をつき、ビールの残りを飲み干した。 「それくらい確信を 持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね」 「私はただ馬鹿で古風なのよ」とハツミさんは言った。 「ビールもっと飲む?」 「いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビールをどうもありがとう」 僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴りはじめた。ハツミさんは僕 を見て電話を見て、それからまた僕を見た。 「おやすみなさい」と言って僕はドゕを開けて 外に出た。ドゕをそっと閉めるときにハツミさんが受話器をとっている姿がちらりと見え た。それが僕の見た彼女の最後の姿だった。 寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの部屋に行ってドゕをノッア した。そして十回くらいノッアしてから今日は土曜日の夜だったことを思いだした。土曜 日の夜は永沢さんは親戚の家に泊まるという名目で毎週外泊許可をとっているのだ。 僕は部屋に戻ってネアゲ゗を外し、上着とキボンをハンゟーにかけてパカャマに着がえ、 歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた日曜日かと思った。まるで四日に一回くらいのペ ーガで日曜日がやってきているような気がした。そしてあと二回土曜日が来たら僕は二十 歳になる。僕はベッドに寝転んで壁にかかったゞレンコーを眺め、暗い気持になった。 * 日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書いた。大きなゞップでウー

ヒーを飲み、マ゗ルガ・デゖヴゖガの古いレウードを聴きながら、長い手紙を書いた。窓 の外には細い雨が降っていて、部屋の中は水族館みたいにひやりとしていた。衣裳箱から 出してきたばかりの厚手のギーゲーには防虫剤の匂いが残っていた。窓ゟラガの上の方に はむくむくと太った蠅が一匹とまったまま身動きひとつしなかった。日の丸の旗は風がな いせいで元老院議員のトーゟの裾みたいにくしゃっとボールに絡みついたままびくりとも 動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた気弱そうな顔つきのやせた茶色い犬が、 花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわっていた。いったい何の目的で雨の日に犬が花の 匂いを嗅いでまわらねばならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。 僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った右手の傷が痛んでくるとそんな雨の中庭の風景 をぼんやりと眺めた。 僕はまずレウード店で働いているときに手のひらを深く切ってしまったことを書き、土曜 日の夜に、永沢さんとハツミさんと僕の三人で永沢さんの外交官試験合格の祝いのような ことをやったと書いた。そして僕はそこがどんな店で、どんな料理が出たかというのを説 明した。料理はなかなかのものだったが、途中で雰囲気がいささかややこしいものになっ て云々と僕は書いた。 僕はハツミさんとビリヤード場に行ったことに関連して゠キ゠のことを書こうかどうか少 し迷ったが、結局書くことにした。書くべきだという気がしたからだ。 「僕はあの日――゠キ゠が死んだ日――彼が最後に撞いたボールのことをはっきりと覚え ています。それはずいぶんむずかしいアッオョンを必要とするボールで、僕はまさかそん なものがうまく行くと思わなかった。でも、たぶん何かの偶然によるものだとは思うのだ けれど、そのオョットは百パーギントぴったりと決まって、緑のプルトの上で白いボー ルと赤いボールが音もたてないくらいそっとぶつかりあって、それが結局最終得点になっ たわけです。今でもありありと思い出せるくらい美しく印象的なオョットでした。そして それ以来二年近く僕はビリヤードというものをやりませんでした。 でもハツミさんとビリヤードをやったその夜、僕は最初の一ゥームが終るまで゠キ゠のこ とを思い出しもしなかったし、そのことは僕としては少なからざるオョッアでした。とい うのは゠キ゠が死んだあとずっと、これからはビリヤードをやるたびに彼を思い出すこと になるだろうなという風に考えていたからです。でも僕は一ゥーム終えて店内の自動販売 機でペプオウーラを買って飲むまで、゠キ゠のことを思い出しもしませんでした。どうし てそこで゠キ゠のことを思い出したかというと、僕と彼がよく通ったビリヤード屋にもや はりペプオの販売機があって、僕らはよくその代金を賭けてゥームをしたからです。 ゠キ゠のことを思い出さなかったことで、僕は彼に対してなんだか悪いことをしたような 気になりました。そのときはまるで自分が彼のことを見捨ててしまったように感じられた のです。でもその夜部屋に戻って、こんな風に考えました。あれからもう二年半だったん だ。そしてあいつはまだ十七歳のままなんだ、と。でもそれは僕の中で彼の記憶が薄れた ということを意味しているのではありません。彼の死がもたらしたものはまだ鮮明に僕の 中に残っているし、その中のあるものはその当時よりかえって鮮明になっているくらいで す。僕が言いたいのはこういうことです。僕はもうすぐ二十歳だし、僕と゠キ゠が十六か 十七の年に共有したもののある部分は既に消滅しちゃったし、それはどのように嘆いたと ころで二度と戻っては来ないのだ、ということです。僕はそれ以上うまく説明できないけ れど、君なら僕の感じたこと、言わんとすることをうまく理解してくれるのではないかと 思います。そしてこういうことを理解してくれるのはたぶん君の他にはいないだろうとい う気がします。

僕はこれまで以上に君のことをよく考えています。今日は雨が降っています。雨の日曜日 は僕を少し混乱させます。雨が降ると洗濯できないし、したがってゕ゗ロンがけもできな いからです。 散歩もできなし、 屋上に寝転んでいることもできません。 机の前に座って 『ゞ ゗ンド・ゝブ・ブルー』をゝートリピートで何度も聴きながら雨の中庭の風景をぼんやり と眺めているくらいしかやることがないのです。前にも書いたように僕は日曜日にはねじ を巻かないのです。そのせいで手紙がひどく長くなってしまいました。もうやめます。そ して食堂に行って昼ごはんを食べます。さようなら」 第九章 翌日の月曜日の講義にも緑は現れなかった。いったいどうしちゃったんだろうと僕は思っ た。最後に電話で話してからもう十日経っていた。家に電話をかけてみようかとも思った が、自分の方から連絡するからと彼女が言っていたことを思い出してやめた。 その週の木曜日に、僕は永沢さんと食堂で顔をあわせた。彼は食事をのせた盆を持って僕 のとなりに座り、このあいだいろいろ済まなかったなと謝まった。 「いいですよ。こちらこそごちそうになっちゃったし」と僕は言った。 「まあ奇妙といえば 奇妙な就職決定祝いでしたけど」 「まったくな」と彼は言った。 そして我々はしばらく黙って食事をつづけた。 「ハツミとは仲なおりしたよ」と彼は言った。 「まあそうでしょうね」と僕は言った。 「お前にもけっこうきついことを言ったような気がするんだけど」 「どうしたんですか、反省するなんて?体の具合がわるいんじゃないですか?」 「そうかもしれないな」と彼は言ってニ、三度小さく肯いた。 「ところでお前、ハツミに俺 と別れろって忠告したんだって?」 「あたり前でしょう」 「そうだな、まあ」 「あの人良い人ですよ」と僕は味噌汁を飲みながら言った。 「知ってるよ」と永沢さんはため息をついて言った。 「俺にはいささか良すぎる」 * 電話かかかっていることを知らせるブォーが鳴ったとき、僕は死んだようにぐっすり眠っ ていた。僕はそのとき本当に眠りの中枢に達していたのだ。だから僕には何がどうなって いるのかさっぱりわからなかった。眠っているあいだに頭の中が水びたしになって脳がふ やけてしまったような気分だった。時計を見ると六時十五分だったが、それが午前か午後 かわからなかった。何日の何曜日なのかも思い出せなかった。窓の外を見ると中庭のボー ルには旗は上っていなかった。それでたぶんこれは夕方の六時十五分なのだろうと僕は見 当をつけた。国旗掲揚もなかなか役に立つものだ。 「ねえワゲナベ君、今は暇?」と緑が訊いた。 「今日は何曜日だったかな?」 「金曜日」 「今は夕方だっけ?」 「あたり前でしょう。変な人ね。午後の、ん―と、六時十八分」 やはり夕方だったんだ、と僕は思った。そうだ、ベッドに寝転んで本を読んでいるうちに ぐっすり眠りこんでしまったんだ。金曜日――と僕は頭を働かせた。金曜日の夜にはゕル バ゗トはない。 「暇だよ。今どこにいるの?」

「上野駅。今から新宿に出るから待ちあわせない?」 我々は場所とだいたいの時刻を打ち合わせ、電話を切った。 DUG に着いたとき、緑は既にゞ゙ンゲーのいちばん端に座って酒を飲んでいた。彼女は男 もののくしゃっとした白いガテン・ゞラー・ウートの下に黄色い薄いギーゲーを着て、ブ ルーカーンキをはいていた。そして手首にはブレガレットを二本つけていた。 「何飲んでるの?」と僕は訊いた。 「トム・ウリンキ」と緑は言った。 僕ばゖガ゠ー・グーコを注文してから、足もとに大きな革鞄が置いてあることに気づい た。 「旅行に行ってたのよ。ついさっき戻ってきたところ」と彼女は言った。 「どこに行ったの?」 「奈良と青森」 「一度に?」と僕はびっくりして訊いた。 「まさか。いくら私が変ってるといっても奈良と青森に一度にいったりはしないわよ。べ つべつに行ったのよ。二回にわけて。奈良には彼と行って、青森は一人でぶらっと行って きたの」 僕ばゖガ゠ー・グーコをひとくち飲み、緑のくわえたマルボロにマッゴで火をつけてや った。 「いろいろと大変だった?お葬式とか、そういうの」 「お葬式なんて楽なものよ。私たち馴れてるの。黒い着物着て神妙な顔して座ってれば、 まわりの人がみんなで適当に事を進めてくれるの。親戚のおじさんとか近所の人とかね。 勝手にお酒買ってきたり、おすし取ったり、慰めてくれたり、泣いたり、騒いだり、好き に形見わけしたり、気楽なものよ。あんなのピアニッアと同じよ。来る日も来る日も看病 にあけくれてたのに比べたら、ピアニッアよ、もう。ぐったり疲れて涙も出やしないもの、 お姉さんも私も。気が抜けて涙も出やしないのよ、本当に。でもそうするとね、まわりの 人たちはあそこの娘たちは冷たい、涙も見せないってかげぐちきくの。私たちだから意地 でも泣かないの。嘘泣きしようと思えばできるんだけど、絶対にやんないもの。しゃくだ から。みんなが私たちの泣くことを期待してるから、余計に泣いてなんかやらないの。私 とお姉さんはそういうところすごく気が合うの。性格はずいぶん違うけれど」 緑はブレガレットをじゃらじゃらと鳴らしで゚゗ゲーを呼び、トム・ウリンキのおかわ りとピガゲゴゝの皿を頼んだ。 「お葬式が終ってみんな帰っちゃってから、私たち二人で明け方まで日本酒を飲んだの、 一升五合くらい。 そしてまわりの連中の悪口をかたっぱしから言ったの。 あいつはゕホだ、 アグだ、疥癬病みの犬だ、豚だ、偽善者だ、盗っ人だって、そういうのずうっと言ってた のよ。すうっとしたわね」 「だろうね」 「そして酔払って布団に入ってぐっすり眠ったの。すごくよく寝たわねえ。途中で電話な んかかかってきても全然無視しちゃってね、ぐうぐう寝ちゃったわよ。目がさめて、二人 でおすしとって食べて、それで相談して決めたのよ。しばらく店を閉めてお互い好きなこ としようって。これまで二人でずいぶん頑張ってやってきたんだもの、それくらいやった っていいじゃない。お姉さんは彼と二人でのんびりするし、私も彼と二泊旅行くらいして やりまくろうと思ったの」緑はそう言ってから少し口をつぐんで、耳のあたりをぼりぼり と掻いた。 「ごめんなさい。言葉わるくて」 「いいよ。それで奈良に行ったんだ」

「そう。奈良って昔から好きなの」 「それでやりまくったの?」 「一度もやらなかった」 と彼女は言ってため息をついた。 「ホテルに着いて鞄をよっこらし ょと置いたとたんに生理が始まっちゃったの、どっと」 僕は思わず笑ってしまった。 「笑いごとじゃないわよ、あなた。予定より一週間早いのよ。泣けちゃうわよ、まったく。 たぶんいろいろと緊張したんで、それで狂っちゃったのね。彼の方はぶんぶん怒っちゃう し。わりに怒っちゃう人なのよ、すぐ。でも仕方ないじゃない、私だってなりたくてなっ たわけじゃないし。それにね、私けっこう重い方なのよ、あれ。はじめの二日くらいは何 もする気なくなっちゃうの。だからそういうとき私と会わないで」 「そうしたいけれど、どうすればわかるかな?」と僕は訊いた。 「じゃあ私、生理が始まったらニ、三日赤い帽子かぶるわよ。それでかわるんじゃない?」 と緑は笑って言った。 「私が赤い帽子をかぶってたら、 道で会っても声をかけずにさっさと 逃げればいいのよ」 「いっそ世の中の女の人がみんなそうしてくれればいいのに」 と僕は言った。 「それで奈良 で何してたの?」 「仕方ないから鹿と遊んだり、そのへん散歩して帰ってきたわ。散々よ、もう。彼とは喧 嘩してそれっきり会ってないし。まあそれで東京に戻ってきてニ、三日ぶらぶらして、そ れから今度は一人で気楽に旅行しようと思って青森に行ったの。弘前に友だちがいて、そ こでニ日ほど泊めてもらって、そのあと下北とか竜飛とかまわったの。いいところよ、す ごく。私あのへんの地図の解説書書いたことあるのよ、一度。あなた行ったことある?」 ない、と僕は言った。 「それでね」と言ってから緑はトム・ウリンキをすすり、ピガゲゴゝの殻をむいた。 「一人 で旅行しているときずっとワゲナベ君のことを思いだしていたの。そして今あなたがとな りにいるといいなあって思ってたの」 「どうして?」 「どうして?」と言って緑は虚無をのぞきこむような目で僕を見た。 「どうしてって、どう いうことよ、それ?」 「つまり、どうして僕のことを思いだすかってことだよ」 「あなたのこと好きだからに決まっているでしょうが。他にどんな理由があるっていうの よ?いったいどこの誰が好きでもない相手と一緒いたいと思うのよ?」 「だって君には恋人がいるし、僕のこと考える必要なんてないじゃないか?」と僕ばゖ ガ゠ー・グーコをゆっくり飲みながら言った。 「恋人がいたらあなたのことを考えちゃいけないわけ?」 「いや、べつにそういう意味じゃなくて――」 「あのね、ワゲナベ君」と緑は言って人さし指を僕の方に向けた。 「警告しておくけど、今 私の中にはね、一ヶ月ぶんくらいの何やかやが絡みあって貯ってもやもやしてるのよ。す ごおく。だからそれ以上ひどいことを言わないで。でないと私ここでおいおい泣きだしち ゃうし、一度泣きだすと一晩泣いちゃうわよ。それでもいいの?私はね、あたりかまわず 獣のように泣くわよ。本当よ」 僕は肯いて、それ以上何も言わなかった。゙ゖガ゠ー・グーコの二杯目を注文し、ピガゲ ゴゝを食べた。オ゚ーゞが振られたり、ィラガが触れ合ったり、製氷機の氷をすくうェグ ェグという音がしたりするうしろでエラ・ヴ゜ーンが古いラブ・グンィを唄っていた。 「だいたいゲンポン事件以来、私と彼の仲はいささか険悪だったの」と緑は言った。

「ゲンポン事件?」 「うん、一ヶ月くらい前、私と彼と彼の友だちの五、六人くらいでお酒飲んでてね、私、 うちの近所のおばさんがくしゃみしたとたんにガポッとゲンポンが抜けた話をしたの。お かしいでしょう?」 「おかしい」と僕は笑って同意した。 「みんなにも受けたのよ、すごく。でも彼は怒っちゃったの。そんな下品な話をするなっ て。それで何かこうしらけちゃって」 「ふむ」と僕は言った。 「良い人なんだけど、そういうところ偏狭なの」と緑は言った。 「たとえば私が白以外の下 着をつけると怒ったりね。偏狭だと思わない、そういうの?」 「うーん、でもそういうのは好みの問題だから」と僕は言った。僕としてはそういう人物 が緑を好きになったこと自体が驚きだったが、それは口に出さないことにした。 「あなたの方は何してたの?」 「何もないよ。ずっと同じだよ」それから僕は約束どおり緑のことを考えてマガゲーペー オョンしてみたことを思いだした。僕はまわりに聞こえないように小声で緑にそのことを 話した。 緑は顔を輝かせて指をぱちんと鳴らした。 「どうだった?上手く行った?」 「途中でなんだか恥ずかしくなってやめちゃったよ」 「立たなくなっちゃったの?」 「まあね」 「駄目ねえ」と緑は横目で僕を見ながら言った。 「恥ずかしがったりしちゃ駄目よ。すごく いやらしいこと考えていいから。ね、私がいいって言うからいいんじゃない。そうだ、今 度電話で言ってあげるわよ。ああ……そこいい……すごく感じる……駄目、私、いっちゃ う……ああ、そんなことしちゃいやっ……とかそういうの。それを聞きながらあなたがや るの」 「寮の電話は玄関わきのロビーにあってね、みんなそこの前を通って出入りするだよ」と 僕は説明した。 「そんなところでマガゲーペーオョンしてたら寮長に叩き殺されるね、 まず 間違いなく」 「そうか、それは弱ったわね」 「弱ることないよ。そのうちにまた一人でなんとかやってみるから」 「頑張ってね」 「うん」 「私ってあまりギアオーじゃないのかな、存在そのものが?」 「いや、そういう問題じゃないんだ」と僕は言った。 「なんていうかな、立場の問題なんだ よね」 「私ね、背中がすごく感じるの。指ですうっと撫でられると」 「気をつけるよ」 「ねえ、今からいやらしい映画観に行かない?ばりばりのいやらしい SM」と緑は言った。 僕と緑は鰻屋に入って鰻を食べ、それから新宿でも有数のうらさびれた映画館に入って、 成人映画三本立てを見た。 新聞を買って調べるとそこでしか SM ものをやっていなかったか らだ。わけのわからない臭いのする映画館だった。うまい具合に我々が映画館に入ったと きにその SM ものが始まった。OL のお姉さんと高校生の妹が何人かの男たちにつかまって どこかに監禁され、エデゖガテゖッアにいたぶられる話だった。男たちは妹をレ゗プする ぞと脅してお姉さんに散々ひどいことをさせるのだが、そうこうするうちにお姉さんは完

全なマケになり、妹の方はそういうのを目の前で逐一見せられているうちに頭がおかしく なってしまうという筋だった。雰囲気がやたら屈折して暗い上に同じようなことばかりや っているので、僕は途中でいささか退屈してしまった。 「私が妹だったらあれくらいで気が狂ったりしないわね。もっとじっと見てる」と緑は僕 に言った。 「だろうね」と僕は言った。 「でもあの妹の方だけど、処女の高校生にしちゃゝッパ゗が黒ずんでると思わない?」 「たしかに」 彼女はすごく熱心に、食いいるようにその映画を見ていた。これくらい一所懸命見るなら 入場料のぶんくらいは十分もとがとれるなあと僕は感心した。そして緑は何か思いつくた びに僕にそれを報告した。 「ねえねえ、凄い、あんなことやっちゃうんだ」とか、 「ひどいわ。三人も一度にやられた りしたら壊れちゃうわよ」とか、 「ねえワゲナベ君。私、ああいうの誰かにちょっとやって みたい」とか、そんなことだ。僕は映画を見ているより、彼女を見ている方がずっと面白 かった。 休憩時間に明るくなった場内を見まわしてみたが、 緑の他には女の客はいないようだった。 近くに座っていた学生風の若い男は緑の顔を見て、ずっと遠くの席に移ってしまった。 「ねえワゲナベ君?」と緑が訊ねた。 「こういうの見てると立っちゃう?」 「まあ、そりゃときどきね」と僕は言った。 「この映画って、そういう目的のために作られ ているわけだから」 「それでそういうオーンが来ると、ここにいる人たちのあれがみんなピンと立っちゃうわ けでしょ?三十本か四十本、一斉にピンと?そういうのって考えるとちょっと不思議な気 しない?」 そう言われればそうだな、と僕は言った。 二本目のはわりにまともな映画だったが、まともなぶん一本目よりもっと退屈だった。や たら口唇性愛の多い映画で、プラゴゝやアンニリンィガやオッアガテゖー・ナ゗ンをや るたびにぺちゃぺちゃとかくちゃくちゃとかいう擬音が大きな音で館内に響きわたった。 そういう音を聞いていると、僕は自分がこの奇妙な惑星の上で生を送っていることに対し て何かしら不思議な感動を覚えた。 「誰がああいう音を思いつくんだろうね」と僕は緑に言った。 「あの音大好きよ、私」 ペニガがヴゔァナに入って往復する音というのもあった。そんな音があるなんて僕はそれ まで気づきもしなかった。男がはあはあと息をし、女があえぎ、 「いいわ」とか「もっと」 とか、そういうわりにありふれた言葉を口にした。ベッドがきしむ音も聞こえた。そうい うオーンがけっこう延々とつづいた。緑は最初のうち面白がって見ていたが、そのうちに さすがに飽きたらしく、もう出ようと言った。僕らは立ち上がって外に出て深呼吸した。 新宿の町の空気がすがすがしく感じられたのはそれが初めてだった。 「楽しかった」と緑は言った。 「また今度行きましょうね」 「何度見たって同じようなことしかやらないよ」と僕は言った。 「仕方なしでしょ、私たちだってずっと同じようなことやってるんだもの」 そう言われて見ればたしかにそのとおりだった。 それから僕らはまたどこかのバーに入ってお酒を飲んだ。僕ばゖガ゠ーを飲み、緑はわ けのわからないゞアテルを三、 四杯飲んだ。 店を出ると木のぼりしたいと緑が言いだした。 「このへんに木なんてないよ。それにそんなふらふらしてちゃ木になんてのぼれないよ」

と僕は言った。 「あなたっていつも分別くさいこと言って人を落ちこませるのね。酔払いたいから酔払っ てるのよ。それでいいんじゃない。酔払ったって木のぼりくらいできるわよ。ふん。高い 高い木の上にのぼっててっぺんから蝉みたいにおしっこしてみんなにひっかけてやるの」 「ひょっとして君、ト゗レに行きたいの?」 「そう」 僕は新宿駅の有料ト゗レまで緑をつれていって小銭を払って中に入れ、売店で夕刊を買っ てそれを読みながら彼女が出てくるのを待った。でも緑はなかなか出てこなかった。十五 分たって、僕が心配になってちょっと様子を見に行ってみようかと思う頃にやっと彼女が 外に出てきた。顔色はいくぶん白っぽくなっていた。 「ごめんね。座ったままうとうと眠っちゃったの」と緑は言った。 「気分はどう?」と僕はウートを着せてやりながら訊ねた。 「あまり良くない」 「家まで送るよ」 と僕は言った。家に帰ってゆっくり風呂にでも入って寝ちゃうといいよ。 「 疲れてるんだ」 「家なんか帰らないわよ。今家に帰ったって誰もいないし、あんなところで一人で寝たく なんかないもの」 「やれやれ」と僕は言った。 「じゃあどうするんだよ?」 「このへんのラブ・ホテルに入って、あなたと二人で抱きあって眠るの。朝までぐっすり と。そして朝になったらどこかそのへんでごはん食べて、二人で一緒に学校に行くの」 「はじめからそうするつもりで僕を呼びだしたの?」 「もちろんよ」 「そんなの僕じゃなくて彼を呼び出せばいいだろう。どう考えたってそれがまともじゃな いか。恋人なんてそのためにいるんだ」 「でも私、あなたと一緒いたいのよ」 「そんなことはできない」 と僕はきっぱりと言った。 「まず第一に僕は十二時までに寮に戻 らないといけないんだ。そうしないと無断外泊になる。前に一回やってすごく面倒なこと になったんだ。第二に僕だって女の子と寝れば当然やりたくなるし、そういうの我慢して 悶々とするのは嫌だ。本当に無理にやっちゃうかもしれないよ。 」 「私のことぶって縛ってうしろから犯すの?」 「あのね、冗談じゃないんだよ、こういうの」 「でも私、淋しいのよ。ものすごく淋しいの。私だってあなたには悪いと思うわよ。何も 与えないでいろんなこと要求ばかりして。好き放題言ったり、呼びだしたり、ひっぱりま わしたり、でもね、私がそういうことのできる相手ってあなたしかしないのよ。これまで の二十年間の人生で、私ただの一度もわかままきいてもらったことないのよ。お父さんも お母さんも全然とりあってくれなかったし、彼だってそういうゲ゗プじゃないのよ。私が わがまま言うと怒るの。そして喧嘩になるの。だからこういうのってあなたにしか言えな いのよ。そして私、今本当に疲れて参ってて、誰かに可愛いとかきれいだとか言われなが ら眠りたいの。ただそれだけなの。目がさめたらすっかり元気になって、二度とこんな身 勝手なことあなたに要求しないから。絶対。すごく良い子にしてるから」 「そう言われても困るんだよ」と僕は言った。 「お願い。でないと私ここに座って一晩おいおい泣いてるわよ。そして最初に声かけてき た人と寝ちゃうわよ」 僕はどうしようもなくなって寮に電話をかけて永沢さんを呼んでもらった。そして僕が帰

寮しているように操作してもらえないだろうかと頼んでみた。ちょっと女の子と一緒なん ですよ、と僕は言った。いいよ、そういうことなら喜んで力になろうと彼は言った。 「名札をうまく在室の方にかけかえておくから心配しないでゆっくりやってこいよ。明日 の朝俺の部屋の窓から入ってくりゃいい」と彼は言った。 「どうもすみません。恩に着ます」と僕は言って電話を切った。 「うまく行った?」と緑は訊いた。 「まあ、なんとか」と僕は深いため息をついた。 「じゃあまだ時間も早いことだし、デゖガウでも行こう」 「君疲れてるんじゃなかったの?」 「こういうのなら全然大丈夫なの」 「やれやれ」と僕は言った。 たしかにデゖガウに入って踊っているうちに緑は少しずつ元気を回復してきたようだっ た。そしでゖガ゠ー・ウーアを二杯飲んで、額に汗をかくまでフロゕで踊った。 「すごく楽しい」 と緑はテーブル席でひと息ついて言った。 「こんなに踊ったの久しぶりだ もの。体を動かすとなんだか精神が解放されるみたい」 「君のはいつも解放されてるみたいに見えるけどね」 「あら、そんなことないのよ」と彼女はにっこりと首をかしげて言った。 「それはそうと元 気になったらおなかが減っちゃったわ。ピツゔでも食べに行かない?」 僕がよく行くピツゔ・バガに彼女をつれていって生ビールとゕンゴョビのピツゔを注文 した。僕はそれほど腹が減っていなかったので十二ピーガのうち四つだけを食べ、残りを 緑が全部食べた。 「ずいぶん回復が早いね。さっきまで青くなってふらふらしてたのに」と僕はあきれて言 った。 「わがままが聞き届けられたからよ」と緑は言った。 「それでつっかえがとれちゃったの。 でもこのピツゔおいしいわね」 「ねえ、本当に君の家、今誰もいないの?」 「うん、いないわよ。お姉さんも友だちの家に泊りに行ってていないわよ。彼女ものすご い怖がりだから、私がいないとき独りで家で寝たりできないの」 「ラブ・ホテルなんて行くのはやめよう」 と僕は言った。 「あんなところ行ったって空しく なるだけだよ。そんなのやめて君の家に行こう。僕のぶんの布団くらいあるだろう?」 緑は少し考えていたが、やがて肯いた。 「いいわよ。家に泊ろう」と彼女は言った。 僕らは山手線に乗って大塚まで行って、小林書店のオャッゲーを上げた。オャッゲーには 「休業中」の紙が貼ってあった。オャッゲーは長いあいだ開けられたことがなかったらし く、暗い店内には古びた紙の匂いが漂っていた。棚の半分は空っぽで、雑誌は殆んど全部 返品用に紐でくくられていた。最初に見たときより店内はもっとがらんとして寒々しかっ た。まるで海岸打ち捨てられた廃船のように見えた。 「もう店をやるつもりはないの?」と僕は訊いてみた。 「売ることにしたのよ」と緑はぽつんと言った。 「お店売って、私とお姉さんとでそのお金 をわけるの。そしてこれからは誰に保護されることもなく身ひとつで生きていくの。お姉 さんは来年結婚して、私はあと三年ちょっと大学に通うの。まあそれくらいのお金にはな るでしょう。ゕルバ゗トもするし。店が売れたらどこかにゕパートを借りてお姉さんと二 人でしばらく暮すわ」 「店は売れそうなの?」

「たぶんね。知りあいに毛糸屋さんをやりたいっていう人がいて、少し前からここを売ら ないかって話があったの」と緑は言った。 「でも可哀そうなお父さん。あんなに一所懸命働 いて、店を手に入れて、借金を少しずつ返して、そのあげく結局は殆んど何も残らなかっ たのね。まるであぶくみたいい消えちゃったのね」 「君が残ってる」と僕は言った。 「私?」と緑は言っておかしそうに笑った。そして深く息を吸って吐きだした。 「もう上に 行きましょう。ここ寒いわ」 二階に上ると彼女は僕を食卓に座らせ、風呂をわかした。そのあいだ僕はやかんにお湯を わかし、お茶を入れた。そして風呂がわくまで、僕と緑は食卓で向いあってお茶を飲んだ。 彼女は頬杖をついてしばらくじっと僕の顔を見ていた。時計のウツウツという音と冷蔵庫 のエーモガゲットが入ったり切れたりする音の他には何も聞こえなかった。時計はもう十 二時近くを指していた。 「ワゲナベ君ってよく見るとけっこう面白い顔してるのね」と緑は言った。 「そうかな」と僕は少し傷ついて言った。 「私って面食いの方なんだけど、あなたの顔って、ほら、よく見ているとだんだんまあこ の人でもいいやって気がしてくるのね」 「僕もときどき自分のことそう思うよ。まあ俺でもいいやって」 「ねえ、私、悪く言ってるんじゃないのよ。私ね、うまく感情を言葉で表わすことができ ないのよ。だからしょっちょう誤解されるの。私が言いたいのは、あなたのことが好きだ ってこと。これさっき言ったかしら?」 「言った」と僕は言った。 「つまり私も少しずつ男の人のことを学んでいるの」 緑はマルボロの箱を持ってきて一本吸った。 「最初がクロだといろいろ学ぶこと多いわね」 「だろうね」と僕は言った。 「あ、そうだ。お父さんにお線香あげてくれる?」と緑が言った。僕は彼女のあとをつい て仏壇のある部屋に行って、お線香をあげて手をあわせた。 「私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部脱いでじっくり見せ てあげたの。ヨゟみたいにやって。はい、お父さん、これゝッパ゗よ、これゝマンウよっ て」と緑は言った。 「なんでまた?」といささか唖然として質問した。 「なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分はお父さんの精子でし ょ?見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘ですよって。まあいささか酔払っ ていたせいはあるけれど」 「ふむ」 「お姉さんがそこに来て腰抜かしてね。だって私がお父さんの遺影の前で裸になって股広 げてるんですもの、そりゃまあ驚くわよね」 「まあ、そうだろうね」 「それで私、主旨を説明したの。これこれこういうわけなのよ、だからモモちゃんも私の 隣に来て服脱いで一緒にお父さんに見せてあげようって。でも彼女やんなかったわ。あき れて向うに行っちゃったの。そういうところすごく保守的なの」 「比較的まともなんだよ」と僕は言った。 「ねえ、ワゲナベ君はお父さんのことどう思った?」 「僕は初対面の人ってわりに苦手なんだけど、あの人と二人になっても苦痛は感じなかっ たね。けっこう気楽にやってたよ。いろんな話したし」

「どんな話したの?」 「゛゙リビデガ」 緑はすごく楽しそうに笑った。 「あなたって変ってるわねえ。 死にかけて苦しんでいる初対 面の病人にいきなり゛゙リビデガの話する人ちょっといないわよ」 「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。 緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をちーんと鳴らした。 「お父さん、おやすみ。私たちこれ から楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくないでしょ?もう死んじゃったんだ もん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさいね。これじゃちょ っとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってしっぽりやってなさい。おしっ この世話するときおちんちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。お やすみ」 我々交代で風呂に入り、パカャマに着がえた。僕は彼女の父親が少しだけ使った新品同様 のパカャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、何もないよりはましだった。緑は 仏壇のある部屋に客用の布団を敷いてくれた。 「仏壇の前だけど怖くない?」と緑は訊いた。 「怖かないよ。何も悪いことしてないもの」僕は笑って言った。 「でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね?」 「いいよ」 僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の体 を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の 背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。性的に 高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くゞットされた髪 がときどき僕の鼻をむずむずさせた。 「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。 「どんなこと?」 「なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと」 「すごく可愛いよ」 「ミドリ」と彼女は言った。 「名前をつけて言って」 「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。 「すごくってどれくらい?」 「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」 緑は顔を上げて僕を見た。 「あなたって表現がユニーアねえ」 「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。 「もっと素敵なこと言って」 「君が大好きよ、ミドリ」 「どれくらい好き?」 「春の熊くらい好きだよ」 「春の熊?」と緑はまた頭を上げた。 「それ何よ、春の熊って?」 「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみないな毛並みの目のくりっ とした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。 『今日は、お嬢さん、僕 と一緒に転がりっこしませんか』って言うんだ。そして君と子熊で抱きあってアローバー の茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ?」 「すごく素敵」

「それくらい君のことが好きだ」 緑は僕の胸にしっかり抱きついた。 「最高」と彼女は言った。 「そんなに好きなら私の言う ことなんでも聞いてくれるわよね?怒らないわよね?」 「もちろん」 「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」 「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫 でた。 「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」 「でも怖いのよ、私」と緑は言った。 僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下しはじめ、寝息も聞こ えてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行ってビールを一本飲んだ。まった く眠くはなかったので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたところ本らしきものは一 冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何か借りようかとも思ったがば たばたとして彼女を起こしたくなかったのでやめた。 しばらくぼんやりとビールを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なのだ、と僕は思っ た。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探してみた。読みたいと思うようなも のは少なく、その大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとにかく何か読むもの は必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の変色したヘルマン・ヘッギ の『車輪の下』を選び、その分の金をレカガゲーのわきに置いた。少くともこれで小林書 店の在庫は少し減ったことになる。 僕はビールを飲みながら、台所のテーブルに向って『車輪の下』を読みつづけた。最初に 『車輪の下』を読んだのは中学校に入った年だった。そしてそれから八年後に、僕は女の 子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたエ゗キの小さいパカャマを着て同じ本を読 んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。もしこういう状況に置かれな かったら、僕は『車輪の下』なんてまず読みかえさなかっただろう。 でも『車輪の下』はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった。僕はしん としずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小説を一行一行ゆっくりと読みつ づけた。棚にはほこりをかぶったブラデゖーが一本あったので、それを少しウーヒー・ゞ ップに注いで飲んだ。ブラデゖーは体を温めてくれたが、眠気の方はさっぱり訪ねてはく れなかった。 三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れていたらしくぐっすり と眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光が部屋の中を月光のようにほんのり と白く照らしていて、その光に背を向けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体はまる で凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近づけると寝息が聞こえるだけだ った。父親そっくりの眠り方だなと僕は思った。 ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いウートが椅子の背にかけてあった。机の 上はきちんと整理され、その前の壁にはガヌーピーのゞレンコーがかかっていた。僕は窓 のゞーテンを少し開けて、 人気のない商店街を見下ろした。 どの店もオャッゲーを閉ざし、 酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるようにしてじっと夜明けを待っていた。 長距離トラッアのゲ゗ヤのうなりがときおり重々しくあたりの空気を震わせていた。僕は 台所に戻ってブラデゖーをもう一杯飲み、そして『車輪の下』を読みつづけた。 その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯をわかして゗ンガ ゲント・ウーヒーを飲み、テーブルの上にあったメモ用紙にボールペンで手紙を書いた。 ブラデゖーをいくらかもらった、 『車輪の下』を買った、夜が明けたので帰る、さよなら、 と僕は書いた。そして少し迷ってから、 「眠っているときの君はとても可愛い」と書いた。

それから僕はウーヒー・ゞップを洗い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにオ ャッゲーを上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃないかと心配した が、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。例によって鴉が屋根の上にとま ってあなりを睥睨しているだけだった。僕は緑の部屋の淡いピンアのゞーテンのかかった 窓を少し見上げてから都電の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を 食べさせる定食屋が開いていたので、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けものと 玉子焼きを食べた。そして寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノッア した。永沢さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。 「ウーヒーでも飲むか?」と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そして礼を言って自 分の部屋の引き上げ、歯をみがきキボンを脱いでから布団の中にもぐりこんでしっかりと 目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。 * 僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほど長い手紙ではなかっ た。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきたと手紙にはあった。 「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体 の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になったのはあなたのいないせいなのかそ れとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。レ゗ウさんとよくあな たの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくということです。レ゗ウさんは 相変わらず私にとても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの 生活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは良いことだ とレ゗ウさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いものです。私が淋しがってい ると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るよ うに、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。゠キ゠君やお姉さんと、そんな風 にしてよくお話をします。 あの人たちもやはり淋しがって、 話し相手を求めているのです。 ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外から入ってくる多く のものは私の頭を混乱させますが、ワゲナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界 の出来事は私をとてもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうしてでしょう。だから 私も何度も読みかえし、レ゗ウさんも同じように何度か読みます。そしてその内容につい て二人で話しあったりします。ミドリさんという人のお父さんのことを書いた部分なんて 私とても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数少ない娯楽のひとつと して――手紙は娯楽なのです、ここでは――楽しみにしています。 私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、便箋を前にすると いつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手紙も力をふりしぼって書いていま す。返事を書かなくちゃいけないとレ゗ウさんに叱られたからです。でも誤解しないで下 さい。私はワゲナベ君に対して話したいことや伝えたいことがいっぱいあるのです。ただ それをうまく文章にすることができないのです。 だから私には手紙を書くのが辛いのです。 ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼女はあなたのこと を好きなんじゃないかという気がしてレ゗ウさんにそう言ったら、 『あたり前じゃない、 私 だってワゲナベ君のこと好きよ』ということでした。私たちは毎日゠ノウをとったり栗を 拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというのがずっとつづいていますが、 おいしくて食べ飽きません。しかしレ゗ウさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけ ています。鳥も゙エァも元気です。さよなら」 * 僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送られてきた。中には葡萄

色の丸首のギーゲーと手紙が入っていた。 「お誕生日おめでとう」 と直子は書いていた。 「あなたの二十歳が幸せなものであることを 祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもののまま終ってしまいそうだけれど、あな たが私のぶんもあわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。これ本当よ。このギー ゲーは私とレ゗ウさんが半分ずつ編みました。もし私一人でやっていたら、来年のバレン ゲ゗ン・デーまでかかったでしょう。上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私です。 レ゗ウさんという人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると時々私はつくづく自 分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢できることなんて何もないだもの。さ ようなら。お元気で」 レ゗ウさんからの短いメッギーカも入っていた。 「元気?あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私にとってはただの手 先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか間にあうようにギーゲーは仕上げま した。どう、素敵でしょう?色とかたちは二人で決めました。誕生日おめでとう」 第十章 一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動か すたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥 土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。 ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。 時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の 方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕 のまわりで世界は大きく変ろうとしていた。カョン・ウルトレーンやら誰やら彼やら、い ろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見 えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は 殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限に つづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上げ、そして右足をあげた。自分 がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。 ただどこかに行かないわけにはいかないから、 一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。 僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化らしい変化はなかっ た。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日ゕルバ゗トをし、時折『ィレート・ァャツ ピ゗』を読みかえし、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い手紙を書いた。ときどき緑 と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を売却する話は うまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに 2DK のゕパートを借りて二人で 住むことになった。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにゕパートを借りるのだ、と 緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせてもらったが、陽あたりの良い 綺麗なゕパートで、緑も小林書店にいるときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだ った。 永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用事があるからと言って 断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の子と寝たくないわけではない。ただ夜 の町で酒を飲んで、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに行ってという過程を思う と僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつづけていてうんざりすること も飽きることもない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言わ れたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子と寝るよりは直子 のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。草原のまん中で僕を射精へと導い

てくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。 僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに行ってかまわないだろ うかと訪ねた。レ゗ウさんが返事を書いてきた。来てくれるのはすごく嬉しいし楽しみに している、と手紙にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けないので私がかわりに書 いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもないからあまり心配しないよう に。波のようなものがあるだけです。 大学が休みに入ると僕は荷物をリュッアに詰め、雪靴をはいて京都まで出かけた。あの奇 妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴らしく美しいものだった。僕は前と同 じように直子とレ゗ウさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごした。 日が暮れるとレ゗ウさんがァゲーを弾き、我々は三人で話をした。昼間のピアニッアのか わりに我々は三人でアロガ・ゞントリー・ガ゠ーをした。ガ゠ーをはいて一時間も山の中 を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪かきをするのを手伝 ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の夕食のテーブルにやってきて「ど うして手の中指は人さし指より長く、足の方は逆なのか」について教えてくれた。門番の 大村さんはまた東京の豚肉の話をした。レ゗ウさんは僕が土産がわりに持っていたレウー ドをとても喜んでくれて、そのうちの何曲かを譜面にしてァゲーで弾いた。 秋にきたときに比べて直子はずっと無口になっていた。三人でいると彼女は殆んど口をき かないでグフゔーに座ってにこにこと微笑んでいるだけだった。そのぶんレ゗ウさんがし ゃべった。 「でも気にしないで」と直子は言った。 「今こういう時期なの。しゃべるより、 あなたたちの話を聞いてる方がずっと楽しいの」 レ゗ウさんが用事を作ってどこかに行ってしまうと、僕と直子はベッドで抱きあった。僕 は彼女の首や肩や乳房にそっと口づけし、直子は前と同じように指で僕を導いてくれた。 射精しおわったあとで、僕は直子を抱きながら、この二ヶ月ずっと君の指の感触のことを 覚えてたんだと言った。そして君のことを考えながらマガゲーペーオョンしてた、と。 「他の誰とも寝なかったの?」と直子が訪ねた。 「寝なかったよ」と僕は言った。 「じゃあ、これも覚えていてね」と彼女は言って体を下にずらし、僕のペニガにそっと唇 をつけ、それからあたたかく包みこみ、舌をはわせた。直子のまっすぐな髪が僕の下腹に 落ちかかり、彼女の唇の動きにあわせてさらさらと揺れた。そして僕は二度めの射精をし た。 「覚えていられる?」とそのあとで直子が僕に訊ねた。 「もちろん、ずっと覚えているよ」と僕は言った。僕は直子を抱き寄せ、下着の中に指を 入れてヴゔァナにあててみたが、それは乾いていた。直子は首を振って、僕の手をどかせ た。我々はしばらく何も言わずに抱きあっていた。 「この学年が終ったら寮を出て、どこかに部屋を探そうと思うんだ」と僕は言った。 「寮暮 らしもだんだんうんざりしてきたし、まあゕルバ゗トすれば生活費の方はなんとかなると 思うし。それで、もしよかったら二人で暮らさないか?前にも言ったように」 「ありがとう。そんな風に言ってくれてすごく嬉しいわ」と直子は言った。 「ここは悪いところじゃないと僕も思うよ。静かだし、環境も申しぶんないし、レ゗ウさ んは良い人だしね。でも長くいる場所じゃない。長くいるにはこの場所はちょっと特殊す ぎる。長くいればいるほどここから出にくくなってくると思うんだ」 直子は何も言わずに窓の外に目をやっていた。窓の外には雪しか見えなかった。雪雲がど んよりと低くたれこめ、雪におおわれた大地と空のあいだにはほんの少しの空間しかあい ていなかった。

「ゆっくり考えればいいよ」と僕は言った。 「いずれにせよ僕は三月までには引越すから、 君はもし僕のところに来たいと思えばいつでもいいから来ればいいよ」 直子は肯いた。僕は壊れやすいゟラガ細工を持ち上げるときのように両腕で直子の体をそ っと抱いた。彼女は僕の首に腕をまわした。僕は裸で、彼女は小さな白い下着だけを身に 着けていた。彼女の体は美しく、どれだけ見ていても見飽きなかった。 「どうして私濡れないのかしら?」 と直子は小さな声で言った。 「私がそうなったのは本当 にあの一回きりなのよ。 四月のあの二十歳のお誕生日だけ。 あのあなたに抱かれた夜だけ。 どうして駄目なのかしら?」 「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」 「私の問題は全部精神的なものよ」と直子は言った。 「もし私が一生濡れることがなくて、 一生ギッアガができなくても、それでもあなたずっと私のこと好きでいられる?ずっとず っと手と唇だけで我慢できる?それともギッアガの問題は他の女の人と寝て解決する の?」 「僕は本質的に楽天的な人間なんだよ」と僕は言った。 直子はベッドの上で身を起こして、T オャツを頭からかぶり、フランネルのオャツを着て、 ブルーカーンキをはいた。僕も服を着た。 「ゆっくり考えさせてね」と直子は言った。 「それからあなたもゆっくり考えてね」 「考えるよ」と僕は言った。 「それから君のプラゴゝすごかったよ」 直子は少し赤くなって、にっこり微笑んだ。 「゠キ゠君もそう言ってたわ」 「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。 そして我々は台所でテーブルをはさんで、ウーヒーを飲みながら昔の話をした。彼女は少 しずつ゠キ゠の話ができるようになっていた。ぽつりぽつりと言葉を選びながら、彼女は 話した。雪は降ったりやんだりしていたが、三日間一度も晴れ間は見えなかった。三月に 来られると思う、と僕は別れ際に言った。そしてぶ厚いウートの上から彼女を抱いて、口 づけした。さよなら、と直子が言った。 * 一九七十年という耳馴れない響きの年はやってきて、僕の十代に完全に終止符を打った。 そして僕は新しいぬかるみへ足を踏み入れた。学年末のテガトがあって、僕は比較的楽に それをパガした。他にやることもなくて殆んど毎日大学に通っていたわけだから、特別な 勉強をしなくても試験をパガするくらい簡単なことだった。 寮内ではいくつかトラブルがあった。ギアトに入って活動している連中が寮内にヘルメッ トや鉄パ゗プを隠していて、そのことで寮長子飼いの体育会系の学生たちとこぜりあいが あり、 二人が怪我をして六人が寮を追い出された。 その事件はかなりあとまで尾をひいて、 毎日のようにどこかで小さな喧嘩があった。寮内にはずっと重苦しい空気が漂っていて、 みんながピリピリとしていた。僕もそのとばっちりで体育会系の連中に殴られそうになっ たが、永沢さんが間に入ってなんとか話をつけてくれた。いずれにせよ、この寮を出る頃 合だった。 試験が一段落すると僕は真剣にゕパートを探しはじめた。そして一週間かけてやっと吉祥 寺の郊外に手頃な部屋をみつけた。交通の便はいささか悪かったが、ありがたいことには 一軒家だった。まあ掘りだしものと言ってもいいだろう。大きな地所の一角に離れか庭番 小屋のようにそれはぽつんと建っていて、母屋とのあいだにはかなり荒れた庭が広がって いた。家主は表口を使い、僕は裏口を使うからプラ゗ヴゔオーを守ることもできた。一部 屋と小さな゠ッゴンと便所、それに常識ではちょっと考えられないくらい広い押入れがつ いていた。庭に面して縁側まであった。来年もしかしたら孫が東京に出てくるかもしれな

いので、そのときは出ていくのは条件で、そのせいで相場からすれば家賃はかなり安かっ た。家主は気の好さそうな老夫婦で、別にむずかしいことは言わんから好きにおやりなさ いと言ってくれた。 引越しの方は永沢さんが手伝ってくれた。どこかから軽トラッアを借りてきて僕の荷物を 運び、 約束どおり冷蔵庫と TV と大型の魔法瓶をプレクントしてくれた。 僕にとってはあり がたいプレクントだった。その二日後に彼も寮を出て三田のゕパートに引越すことになっ ていた。 「まあ当分会うこともないと思うけど元気でな」 と別れ際に彼は言った。 「でも前にいつか 言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に会いそうな気がするんだ」 「楽しみにしてますよ」と僕は言った。 「ところであのときとりかえっこした女だけどな、美人じゃない子の方が良かった」 「同感ですね」と僕は笑って言った。 「でも永沢さん、ハツミさんのこと大事にしたほうが いいですよ。あんな良い人なかなかいないし、あの人見かけより傷つきやすいから」 「うん、それは知ってるよ」と彼は肯いた。 「だから本当を言えばだな、俺のあとをワゲナ ベがひきうけてくれるのがいちばん良いんだよ。お前とハツミならうまくいくと思うし」 「冗談じゃないですよ」と僕は唖然として言った。 「冗談だよ」と永沢さんは言った。 「ま、幸せになれよ。いろいろとありそうだけれど、お 前も 相当に頑固だからなんとかうまくやれると思うよ。ひとつ忠告していいかな、俺から」 「いいですよ」 「自分に同情するな」と彼は言った。 「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」 「覚えておきましょう」と僕は言った。そして我々は握手をして別れた。彼は新しい世界 へ、僕は自分のぬかるみへと戻っていた。 * 引越しの三日後に僕は直子に手紙を書いた。新しい住居の様子を書き、寮のごたごたから ぬけだせ、これ以上下らない連中の下らない思惑にまきこまれないで済むんだと思うとと ても嬉しくてホッとする。ここで新しい気分で新しい生活を始めようと思っている。 「窓の外は広い庭になっていて、そこは近所の猫たちの集会所として使われています。僕 は暇になると縁側に寝転んでそんな猫を眺めています。いったい何匹いるのかわからない けれど、とにかく沢山の数の猫がいます。そしてみんなで寝転んで日なたぼっこをしてい ます。彼らとしては僕がここの離れに住むようになったことはあまり気に入らないようで すが、古いゴーキをおいてやると何匹かは近くに寄ってきておそるおそる食べました。そ のうちに彼らとも仲良くなるかもしれません。中には一匹耳が半分ちぎれた縞の雄猫がい るのですが、これが僕の住んでいた寮の寮長にびっくりするくらいよく似ています。今に も庭で国旗を上げ始めるんじゃないかという気がするくらいです。 大学からは少し遠くなりましたが、専門課程に入ってしまえば朝の講義もずっと少なくな るし、たいした問題はないと思います。電車の中でゆっくり本を読めるからかえって良い かもしれません。あとは吉祥寺の近辺で週三、四日のそれほどきつくないゕルバ゗トの口 を探すだけです。そうすればまた毎日ねじを巻く生活に戻ることができます。 僕としては結論を急がせるつもりはないですが、春という季節は何かを新しく始めるには 都合の良い季節だし、もし我々が四月から一緒に住むことができるとしたら、それがいち ばん良いじゃないかなという気がします。うまくいけば君も大学に復学できるし。一緒に 住むのに問題があるとしたらこの近くで君のためにゕパートを探すことも可能です。いち ばん大事なことは我々がいつもすぐ近くにいることができるということです。もちろんと

くに春という季節にこだわっているわけではありません。夏が良いと思うなら、夏でゝー イーです。 問題はありません。 それについて君がどう思っているか、 返事をくれませんか? 僕はこれから少しまとめてゕルバ゗トをしようかと思っています。引越しの費用を稼ぐた めです。一人暮しをはじめると結構なんのかのとお金がかかります。鍋やら食器やらも買 い揃えなくちゃなりませんしね。 でも三月になれば暇になるし、 是非君に会いに行きたい。 都合の良い日を教えてくれませんか。その日にあわせて京都に行こうと思います。君に会 えることを楽しみにして返事を待っています」 それから二、三日、僕は吉祥寺の町で少しずつ雑貨を買い揃え、家で簡単な食事を作りは じめた。近所の材木店で材木を買って切断してもらい、それで勉強机を作った。食事もと りあえずはそこで食べることにした。棚も作ったし、調味料も買い揃えた。生後半年くら いの雌の白猫は僕になついて、うちでごはんを食べるようになった。僕はその猫に「かも め」という名前をつけた。 一応それだけの体裁が整うと僕は町に出てペン゠屋のゕルバ゗トを見つけ二週間ぶっとお しでペン゠屋の助手として働いた。給料は良かったが大変な労働だったし、オンナーで頭 がくらくらした。 仕事が終ると一膳飯屋で夕食を食べてビールを飲み家に帰って猫と遊び、 あとは死んだように眠った。二週間経っても直子からの返事は来なかった。 僕はペン゠を塗っている途中でふと緑のことを思いだした。考えてみれば僕はもう三週間 近く緑と連絡をとっていないし、引越したことさえ知らせていなかったのだ。そろそろ引 越ししようかと思うんだと僕が言って、そうと彼女が言ってそれっきりなのだ。 僕は公衆電話に入って緑のゕパートの番号をまわした。お姉さんらしい人が出て僕が名前 を告げると「ちょっと待ってね」と言った。しかしいくら待っても緑は出てこなかった。 「あのね、緑はすごく怒ってて、あなたとなんか話したくないんだって」とお姉さんらし い人が言った。引越すときあなたあの子に何の連絡もしなかったでしょう?行き先も教え 「 ずにぷいといなくなっちゃって、そのままでしょ。それでかんかんに怒ってるのよ。あの 子一度怒っちゃうとなかなかもとに戻らないの。動物と同じだから」 「説明するから出してもらえませんか」 「説明なんか聞きたくないんだって」 「じゃあちょっと今説明しますから、 申しわけないけど伝えてもらえませんか、 緑さんに」 「嫌よ、そんなの」とお姉さんらしい人は突き放すように言った。 「そういうことは自分で 説明しなさいよ。あなた男でしょ?自分で責任持ってちゃんとやんなさい」 仕方なく僕は礼を言って電話を切った。そしてまあ緑が怒るのも無理はないと思った。僕 は引越しと、新しい住居の整備と金を稼ぐために労働に追われて緑のことなんて全く思い だしもしなかったのだ。緑どころか直子のことだって殆んど思い出しもしなかった。僕に は昔からそういうところがあった。何かに夢中にするとまわりのことが全く目に入らなく なってしまうのだ。 そしてもし逆に緑が行く先も言わずにどこかに引越してそのまま三週間も連絡してこなか ったとしたらどんな気がするだろうと考えてみた。たぶん僕は傷ついただろう。それもけ っこう深く傷ついただろう。何故なら僕らは恋人ではなかったけれど、ある部分ではそれ 以上に親密にお互いを受け入れあっていたからだ。僕はそう思うとひどく切ない気持にな った。他人の心を、それも大事な相手の心を無意味に傷つけるというのはとても嫌なもの だった。 僕は仕事から家に戻ると新しい机に向って緑への手紙を書いた。僕は自分の思っているこ とを正直にそのまま書いた。言い訳も説明もやめて、自分が不注意で無神経であったこと を詫びた。君にとても会いたい。新しい家も見に来てほしい。返事を下さい、と書いた。

そして速達切手を貼ってポガトに入れた。 しかしどれだけ待っても返事は来なかった。 奇妙な春のはじめだった。僕は春休みのあいだずっと手紙の返事を待ちつづけていた。旅 行にも行けず、帰省もできず、ゕルバ゗トもできなかった。何日頃に会いに来て欲しいと いう直子からの手紙がいつ来るかもしれなかったからだ。僕は昼は吉祥寺の町に出て二本 立ての映画をみたり、カャキ喫茶で半日、本を読んでいた。誰とも会わなかったし、殆ん ど誰とも口をきかなかった。そして週に一度直子に手紙を書いた。手紙の中では僕は返事 のことには触れなかった。彼女を急かすのが嫌だったからだ。僕はペン゠屋の仕事のこと を書き、 「かもめ」のことを書き、庭に桃の花のことを書き、親切な豆腐屋のおばさんと意 地のわるい惣菜屋のおばさんのことを書き、僕が毎日どんな食事を作っているかについて 書いた。それでも返事はこなかった。 本を読んだり、レウードを聴いたりするのに飽きると、僕は少しずつ庭の手入れをした。 家主のところで庭ぽうきと熊手とちりとりと植木ばさみを借り、雑草を抜き、ぼうぼうに のびた植込みを適当に刈り揃えた。少し手を入れだだけで庭はけっこうきれいになった。 そんなことをしていると家主が僕を呼んで、お茶でも飲みませんか、と言った。僕は母屋 の縁側に座って彼と二人でお茶を飲み、煎餅を食べ、世間話をした。彼は退職してからし ばらく保険会社の役員をしていたのだが、二年前にそれもやめてのんびりと暮らしている のだと言った。家も土地も昔からのももだし、子供もみんな独立してしまったし、何をせ ずとものんびりと老後を送れるのだと言った。だからしょっちょう夫婦二人で旅行をする のだ、と。 「いいですね」と僕は言った。 「よかないよ」と彼は言った。 「旅行なんてちっとも面白くないね。仕事してる方がずっと 良い」 庭をいじらないで放ったらかしておいたのはこのへんの植木屋にろくなのがいないから で、本当は自分が少しずつやればいいのだが最近鼻のゕレルァーが強くなって草をいじる ことができないのだということだった。そうですか、と僕は言った。お茶を飲み終ると彼 は僕に納屋を見せて、お礼というほどのこともできないが、この中にあるのは全部不用品 みたいなものだから使いたいものがあったらなんでも使いなさいと言ってくれた。納屋の 中には実にいろんなものがつまっていた。風呂桶から子供用プールから野球のバッドまで あった。 僕は古い自転車とそれほど大きくない食卓と椅子を二脚と鏡とァゲーをみつけて、 もしよかったらこれだけお借りしたいと言った。好きなだけ使っていいよと彼は言った。 僕は一日がかりで自転車の錆をおとし、油をさし、ゲ゗ヤに空気を入れ、ァヤを調整し、 自転車屋でアラッゴ・ワ゗ヤを新しいものにとりかえてもらった。それで自転車は見ちが えるくらい綺麗になった。食卓はすっかりほこりを落としてからニガを塗りなおした。ァ ゲーの弦も全部新しいものに替え、 板のはがれそうになっていたところは接着剤でとめた。 錆もワ゗ヤ・ブラオできれいに落とし、ねじも調節した。たいしたァゲーではなかったけ れど、一応正確な音は出るようになった。考えて見ればァゲーを手にしたのなんて高校以 来だった。僕は縁側に座って、昔練習したドリフゲーキの『ゕップ・ゝン・ォ・ルーフ』 を思い出しながらゆっくりと弾いてみた。不思議にまだちゃんと大体のウードを覚えてい た。 それから僕は余った材木で郵便受けを作り、赤いペン゠を塗り名前を書いて戸の前に立て ておいた。しかし四月三日までそこに入っていた郵便物といえば転送されてきた高校のア ラガ会の通知だけだったし、 僕はたとえ何があろうとそんなものにだけは出たくなかった。 何故ならそれは僕と゠キ゠のいたアラガだったからだ。僕はそれをすぐに屑かごに放り込

んだ。 四月四日の午後に一通の手紙が郵便受けに入っていたが、それはレ゗ウさんからのものだ った。封筒の裏に石田玲子という名前が書いてあった。僕ははさみできれいに封を切り、 縁側に座ってそれを読んだ。最初からあまり良い内容のものではないだろうという予感は あったが、読んでみると果たしてそのとおりだった。 はじめにレ゗ウさんは手紙の返事が大変遅くなったことを謝っていた。直子はあなたに返 事を書こうとずっと悪戦苦闘していたのだが、 どうしても書きあげることができなかった。 私は何度もかわりに書いてあげよう、返事が遅くなるのはいけないからと言ったのだが、 直子はこれはとても個人的なことだしどうしても自分が書くのだと言いつづけていて、そ れでこんなに遅くなってしまったのだ。いろいろ迷惑をかけたかもしれないが許してほし い、と彼女は書いていた。 「あなたもこの一ヶ月手紙の返事を待ちつづけて苦しかったかもしれませんが、直子にと ってもこの一ヶ月はずいぶん苦しい一ヶ月だったのです。それはわかってあげて下さい。 正直に言って今の彼女の状況はあまり好ましいものではありません。彼女はなんとか自分 の力で立ち直ろうとしたのですが、今のところまだ良い結果は出ていません。 考えて見れば最初の徴候はうまく手紙が書けなくなってきたことでした。十一月のおわり か、十二月の始めころからです。それから幻聴が少しずつ始まりました。彼女が手紙を書 こうとすると、いろんな人が話しかけてきて手紙を書くのを邪魔するのです。彼女が言葉 を選ぼうとすると邪魔をするわけです。しかしあなたの二回目の訪問までは、こういう症 状も比較的軽度のものだったし、 私も正直言ってそれほど深刻には考えていませんでした。 私たちにはある程度そういう症状の周期のようなものがあるのです。でもあなたが帰った あとで、その症状はかなり深刻なものになってしまいました。彼女は今、日常会話するの にもかなりの困難を覚えています。言葉が選べないのです。それで直子は今ひどく混乱し ています。混乱して、怯えています。幻聴もだんだんひどくなっています。 私たちは毎日専門医をまじえてギッオョンをしています。直子と私と医師の三人でいろん な話をしながら、彼女の中の損われた部分を正確に探りあてようとしているわけです。私 はできることならあなたを加えたギッオョンを行いたいと提案し、医者もそれには賛成し たのですが、直子が反対しました。彼女の表現をそのまま伝えると『会うときは綺麗な体 で彼に会いたいから』というのがその理由です。問題はそんなことではなく一刻も早く回 復することなのだと私はずいぶん説得したのですが、彼女の考えは変りませんでした。 前にもあなたに説明したと思いますがここは専門的な病院ではありません。もちろんちゃ んとした専門医はいて有効な治療を行いますが、集中的な治療をすることは困難です。こ この施設の目的は患者が自己治療できるための有効な環境を作ることであって、医学的治 療は正確にはそこには含まれていないのです。だからもし直子の病状がこれ以上悪化する ようであれば、別の病院なり医療施設に移さざるを得ないということになるでしょう。私 としても辛いことですが、そうせざるをえないのです。もちろんそうなったとしても治療 のための一時的な『出張』ということで、またここに戻ってくることは可能です。あるい はうまくいけばそのまま完治して退院ということになるかもしれませんね。いずれにせよ 私たちも全力を尽くしていますし、直子も全力を尽くしています。あなたも彼女の回復を 祈っていて下さい。そしてこれまでどおり手紙を書いてやって下さい。 三月三十一日 石田玲子 」 手紙を読んでしまうと僕はそのまま縁側に座って、すっかり春らしくなった庭を眺めた。

庭には古い桜の木があって、その花は殆んど満開に近いところまで咲いていた。風はやわ らかく、光はぼんやりと不思議な色あいにかすんでいた。少しすると「かもめ」がどこか らやってきて縁側の板をしばらくかりかりとひっかいてから、僕の隣りで気持良さそうに 体をのばして眠ってしまった。 何かを考えなくてはと思うのだけれど、何をどう考えていけばいいのかわからなかった。 それに正直なところ何も考えたくなかった。そのうちに何かを考えざるをえない時がやっ てくるだろうし、そのときにゆっくり考えようと僕は思った。少なくとも今は何も考えた くはない。 僕は縁側で「かもめ」を撫でながら柱にもたれて一日庭を眺めていた。まるで体中の力が 抜けてしまったような気がした。午後が深まり、薄暮がやってきて、やがてほんのりと青 い夜の闇が庭を包んだ。 「かもめ」はもうどこかに姿を消したしまっていたが、僕はまだ桜 の花を眺めていた。春の闇の中の桜の花は、まるで皮膚を裂いてはじけ出てきた爛れた肉 のように僕には見えた。庭はそんな多くの肉の甘く重い腐臭に充ちていた。そして僕は直 子の肉体を思った。直子の美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽 が吹き出し、その緑色の小さな芽はそこから吹いてくる風に小さく震えて揺れていた。ど うしてこんなに美しい体が病まなくてはならないのか、と僕は思った。何故彼らは直子を そっとしておいてくれないのだ? 僕は部屋に入って窓のゞーテンを閉めたが、部屋の中にもやはりその春の香りは充ちてい た。春の香りはあらゆる地表に充ちているのだ。しかし今、それが僕に連想させるのは腐 臭だけだった。僕はゞーテンを閉めきった部屋の中で春を激しく憎んだ。僕は春が僕にも たらしたものを憎み、それが僕の体の奥にひきおこす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生 まれてこのかた、これほどまで強く何かを憎んだのははじめてだった。 それから三日間、僕はまるで海の底を歩いているような奇妙な日々を送った。誰かが僕に 話しかけても僕にはうまく聞こえなかったし、僕が誰かに何かを話しかけても、彼はそれ を聞きとれなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとした膜が張ってしまったよう な感じだった。その膜のせいで、僕はうまく外界と接触することができないのだ。しかし それと同時に彼らもまた僕の肌に手を触れることはできないのだ。僕自身は無力だが、こ ういう風にしてる限り、彼らもまた僕に対しては無力なのだ。 僕は壁にもたれてぼんやりと天井を眺め、腹が減るとそのへんにあるものをかじり、水を 飲み、哀しくなるどゖガ゠ーを飲んで眠った。風呂にも入らず、髭も剃らなかった。そ んな風にして三日が過ぎた。 四月六日に緑から手紙が来た。四月十日に課目登録があるから、その日に大学の中庭で待 ち合わせて一緒にお昼ごはんを食べないかと彼女は書いていた。返事はうんと遅らせてや ったけれど、これでおあいこだから仲直りしましょう。だってあなたに会えないのはやは り淋しいもの、と緑の手紙には書いてあった。僕はその手紙を四回読みかえしてみたが、 彼女の言わんとすることはよく理解できなかった。この手紙は何を意味しているのだ、い ったい?僕の頭はひどく漠然としていて、ひとつの文章と次の文章のつながりの接点をう まく見つけることができなかった。どうして「課目登録」の日に彼女と会うことが「おあ いこ」なのだ?何故彼女は僕と「お昼ごはん」を食べようとしているのだ?なんだか僕の 頭までおかしくなるつつあるみたいだな、と僕は思った。意識がひどく弛緩して、暗黒植 物の根のようにふやけていた。こんな風にしてちゃいけないな、と僕はぼんやりとした頭 で思った。いつまでもこんなことしてちゃいけない、なんとかしなきゃ。そして僕は「自 分に同情するな」 という永沢さんの言葉を突然思いだした。 「自分に同情するのは下劣な人 間のやることだ」

やれやれ永沢さん、あなたは立派ですよ、と僕は思った。そしてため息をついて立ち上が った。 僕は久しぶりに洗濯をし、風呂屋に行って髭を剃り、部屋の掃除をし、買物をしてきちん とした食事を作って食べ、腹を減らせた「かもめ」に餌をやり、ビール以外の酒を飲まず、 体操を三十分やった。髭を剃るときに鏡を見ると、顔がげっそりとやせてしまったことが わかった。目がいやにぎょろぎょろとしていて、なんだか他人の顔みたいだった。 翌朝僕は自転車に乗って少し遠出をし、家に戻って昼食を食べてから、レ゗ウさんの手紙 をもう一度読みかえしてみた。そしてこれから先どういう風にやっていけばいいのかを腰 を据えて考えて見た。レ゗ウさんの手紙を読んで僕が大きなオョッアを受けた最大の理由 は、直子は快方に向いつつあるという僕の楽観的観測が一瞬にしてひっくり返されてしま ったことにあった。直子自身、自分の病いは根が深いのだと言ったし、レ゗ウさんも何か 起るかはわからないわよといった。しかしそれでも僕は二度直子に会って、彼女はよくな りつつあるという印象を受けたし、唯一の問題は現実の社会に復帰する勇気を彼女がとり 戻すことだという風に思っていたのだ。そして彼女さえその勇気をとり戻せば、我々は二 人で力をあわせてきっとうまくやっていけるだろうと。 しかし僕が脆弱な仮説の上に築きあげた幻想の城はレ゗ウさんの手紙によってあっという 間に崩れおちてしまった。そしてそのあとには無感覚なのっぺりとした平面が残っている だけだった。僕はなんとか体勢を立てなおさねばならなかった。直子がもう一度回復する には長い時間がかかるだろうと僕は思った。そしてたとえ回復したにせよ、回復したとき の彼女は以前よりもっと衰弱し、もっと自信を失くしているだろう。僕はそういう新しい 状況に自分を適応させねばならないのだ。もちろん僕が強くなったところで問題の全てが 解決するわけではないということはよくわかっていたが、いずれにせよ僕にできることと 言えば自分の士気を高めることくらいしかないのだ。そして彼女の回復をじっと待ちつづ けるしかない。 おい゠キ゠、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきち んと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本 当だよ。これというのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を 絶対に見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そ して俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくては ならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままでいたいと思っていた。 でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感 じるんだ。なあ゠キ゠、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十 歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないん だよ。 「ねえ、どうしたのよ、ワゲナベ君?」と緑は言った。 「ずいぶんやせちゃったじゃない、 あなた?」 「そうかな?」と僕は言った。 「やりすぎたんじゃない、その人妻の愛人と?」 僕は笑って首を振った。 「去年の十月の始めから女と寝たことなんて一度もないよ」 緑はかすれた口笛を吹いた。 「もう半年もあれやってないの?本当?」 「そうだよ」 「じゃあ、どうしてそんなにやせちゃったの?」 「大人になったからだよ」と僕は言った。

緑は僕の両肩を持って、じっと僕の目をのぞきこんだ。そしてしばらく顔をしかめて、や がてにっこり笑った。 「本当だ。たしかに何か少し変ってるみたい、前に比べて」 「大人になったからだよ」 「あなたって最高ね。そういう考え方できるのって」と彼女は感心したように言った。 「ご はん食べに行こう。おなか減っちゃったわ」 我々は文学部の裏手にある小さなレガトランに行って食事をすることにした。僕はその日 のランゴの定食を注文し、彼女もそれでいいと言った。 「ねえ、ワゲナベ君、怒ってる?」と緑が訊いた。 「何に対して?」 「つまり私が仕返しにずっと返事を書かなかったことに対して。そういうのっていけない ことだと思う?あなたの方はきちんと謝ってきたのに?」 「僕の方が悪かったんだから仕方ないさ」と僕は言った。 「お姉さんはそういうのっていけないっていうの。あまりにも非寛容で、あまりにも子供 じみてるって」 「でもそれでとにかくすっきりしたんだろう?仕返しして?」 「うん」 「じゃあそれでいいじゃないか」 「あなたって本当に寛容なのね」と緑は言った。 「ねえ、ワゲナベ君、本当にもう半年もギ ッアガしてないの?」 「してないよ」と僕は言った。 「じゃあ、この前私を寝かしつけてくれた時なんか本当はすごくやりたかったんじゃな い?」 「まあ、そうだろうね」 「でもやらなかったのね?」 「君は今、僕のいちばん大事な友だちだし、君を失いたくないからね」と僕は言った。 「私、あのときあなたが迫ってきてもたぶん拒否できなかったわよ。あのときすごく参っ てたから」 「でも僕のは固くて大きいよ」 彼女はにっこり笑って、僕の手首にそっと手を触れた。 「私、少し前からあなたのこと信じ ようって決めたの。百パーギント。だからあのときだって私、安心しきってぐっすり眠っ ちゃったの。あなたとなら大丈夫だ、安心していいって。ぐっすり眠ってたでしょう?私」 「うん。たしかに」と僕は言った。 「そうしてね、もし逆にあなたが私に向って『おい緑、俺とやろう。そうすれば何もかも うまく行くよ。だから俺とやろう』って言ったら、私たぶんやっちゃうと思うの。でもこ ういうこと言ったからって、私があなたのことを誘惑してるとか、からかって刺激してる とかそんな風には思わないでね。私はただ自分の感じていることをそのまま正直にあなた に伝えたかっただけなのよ」 「わかってるよ」と僕は言った。 我々はランゴを食べながら課目登録のゞードを見せあって、二つの講義を共通して登録し ていることを発見した。週に二回彼女に顔を合わせることになる。それから彼女は自分の 生活のことを話した。彼女のお姉さんも彼女もしばらくのあいだゕパート暮しになじめな かった。何故ならそれは彼女たちのそれまでの人生に比べてあまりにも楽だったからだ。 自分たちは誰かの看病をしたり、店を手伝ったりしながら毎日を忙しく送ることに馴れて しまっていたのだ、と緑は言った。

「でも最近になってこれでいいんだと思えるようになってきたのよ」 と緑は言った。 「これ が私たち自身のための本来の生活なんだって。だから誰かに遠慮することもなく思う存分 手足をのばせばいいんだって。でもそれはすごく落ちつかなかったのよ。体が二、三ギン ゴ宙に浮いているみたいでね、嘘だ、こんな楽な人生が現実の人生として存在するわけな いといった気がしていたの。 今にどんでん返しがあるに違いないって二人で緊張してたの」 「苦労性の姉妹なんだね」と僕笑って言った。 「これまでが過酷すぎたのよ」と緑は言った。 「でもいいの。私たち、そのぶんをこれから 先でしっかりとり戻してやるの」 「まあ君たちならやれそうな気がするな」 と僕は言った。お姉さんは毎日何をしてるの?」 「 「彼女のお友だちが最近表参道の近くでゕアギエリーのお店始めたんで、週に三回くらい その手伝いに行ってるの。あとは料理を習ったり、婚約者とデートしたり、映画を見に行 ったり、ぼおっとしたり、とにかく人生を楽しんでいるわね」 彼女が僕の新しい生活のことを訊ね、僕は家の間取りやら広い庭やら猫のかもめやら家主 のことやらを話した。 「楽しい?」 「悪くないね」と僕は言った。 「でもそのわりに元気がないのね」 「春なのにね」と僕は言った。 「そして彼女が編んでくれた素敵なギーゲー着てるのにね」 僕はびっくりして自分の着ている葡萄色のギーゲーに目をやった。どうしてそんなことは 「 わかったのかな?」 「あなたって正直ねえ。そんなのあてずっぽうにきまってるじゃない」と緑はあきれたよ うに言った。 「でも元気がないのね」 「元気を出そうとしているんだけれど」 「人生はビガイットの缶だと思えばいいのよ」 僕は何度か頭を振ってから緑の顔を見た。 「たぶん僕の頭がわるいせいだと思うけれど、 と きどき君が何を言ってるのかよく理解できないことがある」 「ビガイットの缶にいろんなビガイットがつまってて、好きなのとあまり好きじゃないの があるでしょ?それで先に好きなのどんどん食べちゃうと、あまり好きじゃないのばっか り残るわよね。私、辛いことがあるといつもそう思うのよ。今これをやっとくとあとにな って楽になるって。人生はビガイットの缶なんだって」 「まあひとつの哲学ではあるな」 「でもそれ本当よ。私、経験的にそれを学んだもの」と緑は言った。 ウーヒーを飲んでいると緑のアラガの友だちらしい女の子が二人店に入ってきて、緑と三 人で課目登録ゞードを見せあい、昨日のド゗ツ語の成績がどうだったとか、なんとか君が 内ゥバで怪我をしただとか、その靴いいわねどこで買ったのだとか、そういうとりとめの ない話をしばらくしていた。聞くともなく聞いていると、そういう話はなんだか地球の裏 側から聞こえてくるような感じがした。僕はウーヒーを飲みながら窓の外の風景を眺めて いた。いつもの春の大学の風景だった。空はかすみ、桜が咲き、見るからに新入生という 格好をした人々が新しい本を抱えて道を歩いていた。そんなものを眺めているうちに僕は また少しぼんやりとした気分になってきた。僕は今年もまた大学に戻れなかった直子のこ とを思った。窓際にはゕネモネの花をさした小さなィラガが置いてあった。 女の子たち二人がじゃあねと言って自分たちのテーブルに戻ってしまうと、緑と僕は店を

出て二人で町を散歩した。古本屋をまわって本を何冊か買い、また喫茶店に入ってウーヒ ーを飲み、ゥーム・ギンゲーでピンボールをやり、公園のベンゴに座って話をした。だい たいは緑がじゃべり、僕はうんうんと返事をしていた。喉が乾いたと緑が言って、僕は近 所の菓子屋でウーラをニ本買ってきた。そのあいだ彼女はレポート用紙にボールペンでこ りこりと何かを書きつけていた。なんだいと僕は聴くと、なんでもないわよと彼女は答え た。 三時半になると彼女は私そろそろ行かなきゃ、お姉さんと銀座で待ち合わせしてるの、と 言った。我々は地下鉄の駅まで歩いて、そこで別れた。別れ際に緑は僕のウートのポッイ トに四つに折ったレポート用紙をつっこんだ。 そして家に帰ってから読んでくれと言った。 僕はそれを電車の中で読んだ。 「前略。 今あなたがウーラを買いに行ってて、そのあいだにこの手紙を書いています。ベンゴの隣 りに座っている人に向って手紙を書くなんて私としてもはじめてのことです。でもそうで もしないことには私の言わんとすることはあなたに伝わりそうもありませんから。だって 私が何が言ってもほとんど聞いてないんだもの。そうでしょう? ねえ、知ってますか?あなたは今日私にすごくひどいことしたのよ。あなたは私の髪型が 変っていたことにすら気がつかなかったでしょう?私少しずつ苦労して髪をのばしてやっ と先週の終りになんとか女の子らしい髪型に変えることができたのよ。あなたそれにすら 気がつかなかったでしょう?なかなか可愛くきまったから久しぶりに会って驚かそうと思 ったのに、気がつきもしないなんて、それはあまりじゃないですか?どうせあなたが私が どんな服着てたかも思いだせないんじゃないかしら。私だって女の子よ。いくら考え事を しているからといっても、少しくらいきちんと私のことを見てくれたっていいでしょう。 たったひとこと『その髪、可愛いね』とでも言ってくれれば、そのあと何してたってどれ だけ考えごとしてたって、私あなたのことを許したのに。 だから今あなたに嘘をつきます。お姉さんと銀座で待ち合わせているなんて嘘です。私は 今日あなたの家に泊るつもりでパカャマまで持ってきたんです。そう、私のバッィの中に はパカャマと歯ブラオが入っているのです。ははは、馬鹿みたい。だってあなたは家にお いでよとも誘ってくれないんだもの。でもまあいいや、あなたは私のことなんかどうでも よくて一人になりたがってるみたいだから一人にしてあげます。一所懸命いろんなことを 心ゆくまで考えていなさい。 でも私はあなたに対してまるっきり腹を立ててるというわけではありません。私はただた だ淋しいのです。だってあなたは私にいろいろと親切にしてくれたのに私があなたにして あげられることは何もないみたいだからです。あなたはいつも自分の世界に閉じこもって いて、私がこんこん、ワゲナベ君、こんこんとノッアしてもちょっと目を上げるだけで、 またすぐもと戻ってしまうみたいです。 今ウーラを持ってあなたが戻って来ました。考えごとしながら歩いているみたいで、転べ ばいいのにと私は思ってたのに転びませんでした。あなたは今隣りに座ってごくごくとウ ーラを飲んでいます。ウーラを買って戻ってきたときに『あれ、髪型変ったんだね』と気 がついてくれるかなと思って期待していたのですが駄目でした。もし気がついてくれたら こんな手紙びりびりと破って、 『ねえ、あなたのところに行きましょう。おししい晩ごはん 作ってあげる、それから仲良く一緒に寝ましょう』って言えたのに。でもあなたは鉄板み たいに無神経です。さよなら。 P.S.

この次教室で会っても話かけないで下さい」 吉祥寺の駅から緑のゕパートに電話をかけてみたが誰も出なかった。とくにやることもな かったので、僕は吉祥寺の町を歩いて、大学に通いながらやれるゕルバ゗トの口を探して みた。僕は土・日が一日あいていて、月・水・木は夕方の五時から働くことができたが、 僕のそんなガイカュールにぱったりと合致する仕事というのはそう簡単に見つからなかっ た。僕はあきらめて家に戻り、夕食の買物をするついでにまた緑に電話をかけてみた。お 姉さんが電話に出て、 緑はまだ帰ってないし、 いつ帰るかはちょっとわからないと言った。 僕は礼を言って電話を切った。 夕食のあとで緑に手紙を書こうとしたが何度書きなおしてもうまく書けなかったので、結 局直子に手紙を書くことにした。 春がやってきてまた新しい学年が始まったことを僕は書いた。君に会えなくてとても淋し い、たとえどのようなかたちにせよ君に会いたかったし、話がしたかった。しかしいずれ にせよ、僕は強くなろうと決心した。それ以外に僕のとる道はないように思えるからだ、 と僕は書いた。 「それからこれは僕自身の問題であって、君にとってはあるいはどうでもいいことかもし れないけれど、僕はもう誰とも寝ていません。君が僕に触れてくれていたときのことを忘 れたくないからです。あれは僕にとっては、君が考えている以上に重要なことなのです。 僕はいつもあのときのことを考えています」 僕は手紙を封筒に入れて切手を貼り、机の前に座ってしばらくそれをじっと眺めていた。 いつもよりはずっと短い手紙だったが、なんとなくその方が相手に意がうまく伝わるだろ うという気がした。僕はィラガに三ギンゴくらい゙ゖガ゠ーを注ぎ、それをふた口で飲ん でから眠った。 * 翌日僕は吉祥寺の駅近くで土曜日と日曜日だけのゕルバ゗トをみつけた。それほど大きく ない゗ゲリゕ料理店の゙゚゗ゲーの仕事で、条件はまずまずだったが、昼食もついたし、 交通費も出してくれた。月・水・木の遅番が休みをとるときは――彼らはよく休みをとっ た――かわりに出勤してくれてかまわないということで、 それは僕としても好都合だった。 三ヶ月つとめたら給料は上げる。今週の土曜日から来てほしいとマネーカャーが言った。 新宿のレウード店のあのろくでもない店長に比べるとずいぶんきちんとしたまともそうな 男だった。 緑のゕパートに電話するとまたお姉さんが出て、緑は昨日からずっと戻ってないし、こち らが行き先を知りたいくらいだ、何か心あたりはないだろうかと疲れた声で訊いた。僕が 知っているのは彼女がバッィにパカャマと歯ブラオを入れていたということだけだった。 水曜日の講義で、僕は緑の姿を見かけた。彼女はよもぎみたいな色のギーゲーを着て、夏 によくかけていた濃い色のエンィラガをかけていた。 そしていちばんうしろの席に座って、 前に一度見かけたことのある眼鏡をかけた小柄の女の子と二人で話をしていた。僕はそこ に行って、 あとで話がしたいんだけどと緑に言った。 眼鏡をかけた女の子がまず僕を見て、 それから緑が僕を見た。緑の髪は以前に比べるとたしかにずいぶん女っぽいガゲ゗ルにな っていた。いくぶん大人っぽくも見えた。 「私、約束があるの」と緑は少し首をかしげるようにして言った。

「そんなに時間とらせない。五分でいいよ」と僕は言った。 緑はエンィラガをとって目を細めた。なんだか百メートルくらい向うの崩れかけた廃屋を 眺めるときのような目つきだった。 「話したくないのよ。悪いけど」 眼鏡の女の子が<彼女話したくないんだって、悪いけど>という目で僕を見た。 僕はいちばん前の右端の席に座って講義を聴き(テネオー・゙ゖリゕムキの戯曲について の総論。 そのゕメリゞ文学における位置) 講義が終わるとゆっくり三つ数えてからうしろ 、 を向いた。緑の姿はもう見えなかった。 四月は一人ぼっちで過ごすには淋しすぎる季節だった。四月にはまわりの人々はみんな幸 せそうに見えた。人々はウートを脱ぎ捨て、明るい日だまりの中でおしゃべりをしたり、 ゠ャッゴボールをしたり、恋をしたりしていた。でも僕は完全な一人ぼっちだった。直子 も緑も永沢さんも、誰もがみんな僕の立っている場所から離れていってしまった。そして 今の僕には「おはよう」とか「こんにちは」を言う相手さえいないのだ。あの突撃隊でさ え僕には懐かしかった。僕はそんなやるせない孤独の中で四月を送った。何度か緑に話か けてみたが、 返ってくる返事はいつも同じだった。 今話したなくないのと彼女は言ったし、 その口調から彼女が本気でそう言っていることがわかった。彼女はだいたいいつも例の眼 鏡の女の子といたし、そうでないときは背の高くて髪の短い男と一緒にいた。やけに脚の 長い男で、いつも白いバガイットボール・オューキをはいていた。 四月が終わり、五月がやってきたが、五月は四月よりもっとひどかった。五月になると僕 は春の深まりの中で、自分の心が震え、揺れはじめるのを感じないわけにはいなかった。 そんな震えはたいてい夕暮れの時刻にやってきた。木蓮の香りがほんのりと漂ってくるよ うな淡い闇の中で僕の心はわけもなく膨み、震え、揺れ、痛みに刺し貫かれた。そんなと き僕はじっと目を閉じて歯をくいしばった。そしてそれが通りすぎていってしまうのを待 った。ゆっくりと長い時間をかけてそれは通り過ぎ、あとにも鈍い痛みを残していた。 そんなとき僕は直子に手紙を書いた。直子への手紙の中で僕は素敵なことや気持の良いこ とや美しいもののことしか書かなかった。草の香り、心地の良い春の風、月の光、観た映 画、好きな唄、感銘を受けた本、そんなものについて書いた。そんな手紙を読みかえして みると、僕自身が慰められた。そして自分はなんという素晴らしい世界の中に生きている のだろうと思った。僕はそんな手紙を何通も書いた。直子からもレ゗ウさんからも手紙は 来なかった。 ゕルバ゗ト先のレガトランで僕は伊東という同じ年のゕルバ゗ト学生と知り合ってときど き話をするようになった。美大の油絵科にかよっているおとなしい無口な男で話をするよ うになるまでにずいぶん時間がかかったが、そのうちに僕らは仕事が終わると近所の店で ビールを一杯飲んでいろんな話をするようになった。彼も本を読んだり音楽を聴いたりす るのが好きで、僕らはだいたいそんな話をした。伊東はほっそりとしたハンエムな男で、 その当時の美大の学生にしては髪も短かく、清潔な格好をしていた。あまり多くを語らな かったけれど、きちんとした好みと考え方を持っていた。フランガの小説が好きでカョル カ゚・バゲ゗ユとポリガ・ヴゖゕンを好んで読み、音楽ではモーツゔルトとモーリガ・ラ ヴ゚ルをよく聴いた。そして僕と同じようにそういう話のできる友だちを求めていた。 彼は一度僕を自分のゕパートに招待してくれた。井の頭公園の裏手のあるちょっと不思議 なつくりの平屋だてのゕパートで、部屋の中は画材や゠ャンパガでいっぱいだった。絵を 見たいと僕は言ったが、恥ずかしいものだからと言って見せてくれなかった。我々は彼が 父親のところから黙って持ってきたオーバガ・リーゟルを飲み、七輪でししゃもを焼いて 食べ、ロベール・ゞエド゘オ゚の弾くモーツゔルトのピゕノ・ウンゴ゚ルトを聴いた。 彼は長崎の出身で、故郷の町に恋人を置いて出てきていた。彼は長崎に帰るたびに彼女と

寝ていた。でも最近はなんだかしっくりといかないんだよ、と言った。 「なんとなくわかるだろ、女の子ってさ」と彼は言った。 「二十歳とか二十一になると急に いろんなことを具体的に考えはじめるんだ。 すごく現実的になりはじめるんだ。 するとね、 これまですごく可愛いと思えていたところが月並みでうっとうしく見えてくるんだよ。僕 に会うとね、だいたいあのあとでだけどさ、大学出てからどうするのって訊くんだ」 「どうするんだい?」と僕も訊いてみた。 彼はししゃもをかじりながら頭を振った。 「どうするったって、どうしようもないよ、油絵 科の学生なんて。そんなこと考えたら誰もゕブラになんて行かないさ。だってそんなとこ ろ出たってまず飯なんて食えやしないもの。そういうと彼女は長崎に戻って美術の先生に なれっていうんだよ。彼女、英語の教師になるつもりなんだよ。やれやれ」 「彼女のことがもうそれほど好きじゃないんだね?」 「まあそうなんだろうな」 と伊東は認めた。 「それに僕は美術の教師なんかなりたくないん だ。猿みたいにわあわあ騒ぎまわるしつけのわるい中学生に絵を教えて一生を終えたくな いんだよ」 「それはともかくその人と別れた方がいいんじゃないかな?お互いのために」と僕は言っ た。 「僕もそう思う。でも言い出せないだよ、悪くて。彼女は僕と一緒になる気でいるんだも の。別れよう、君のこともうあまり好きじゃないからなんて言い出せないよ」 僕らは氷を入れずガトレートでオーバガを飲み、ししゃもがなくなってしまうと、゠゙リ とギロリを細長く切って味噌をつけてかじった。゠゙リをぽりぽりと食べていると亡くな った緑の父親のことを思いだした。そして緑を失ったことで僕の生活がどれほど味気のな いものになってしまったかと思って、切ない気持になった。知らないうちに僕の中で彼女 の存在がどんどん膨らんでいたのだ。 「君には恋人いるの?」と伊東が訊いた。 いることはいる、 と僕は一呼吸置いて答えた。 でも事情があって今は遠く離れているんだ。 「でも気持は通じているんだろう?」 「そう思いたいね。そう思わないと救いがない」と僕は冗談めかして言った。 彼はモーツゔルトの素晴らしさについて物静かにしゃべった。彼は田舎の人々が山道につ いて熟知しているように、モーツゔルトの音楽の素晴らしさを熟知していた。父親が好き で三つの時からずっと聴いてるんだと彼は言った。僕はアラオッア音楽にそれほど詳しい わけではなかったけれど、彼の「ほら、ここのところが――」とか「どうだい、この――」 といった適切で心のこもった説明を聴きながらモーツゔルトのウンゴ゚ルトに耳を傾いて いると、本当に久しぶりに安らかな気持になることができた。僕らは井の頭公園の林の上 に浮かんだ三日月を眺め、 オーバガ・リーゟルを最後の一滴まで飲んだ。 美味い酒だった。 伊東は泊っていけよと言ったが、僕はちょっと用事があるからと言って断り、゙ゖガ゠ー の礼を言って九時前に彼のゕパートを出た。そして帰りみち電話ボッアガに入って緑に電 話をかけてみた。珍しく緑が電話に出た。 「ごめんなさい。今あなたと話したくないの」と緑は言った。 「それはよく知ってるよ。何度も聞いたから。でもこんな風にして君との関係を終えたく ないんだ。君は本当に数の少ない僕の友だちの一人だし、君に会えないのはすごく辛い。 いつになったら君と話せるのかな?それだけでも教えてほしいんだよ」 「私の方から話しかけるわよ。そのときになったら」 「元気?」と僕は訊いてみた。 「なんとか」と彼女は言った。そして電話を切った。

五月の半ばにレ゗ウさんから手紙が来た。 「いつも手紙をありがとう。直子はとても喜んで読んでいます。私も読ませてもらってい ます。いいわよね、読んでも? 長いあいだ手紙を書けなくてごめんなさい。 正直なところ私もいささか疲れ気味だったし、 良いニューガもあまりなかったからです。直子の具合はあまり良くありません。先日神戸 から直子のお母さんがみえて、専門医と私をまじえて四人でいろいろと話しあい、しばら く専門的な病院に移って集中的な治療を行い、結果を見てまたここに戻るようにしてはど うかという合意に達しました。 直子もできることならずっとここにいて治したいというし、 私としても彼女と離れるのは淋しいし心配でもあるのですが、正直言ってここで彼女をウ ントロールするのはだんだん困難になってきました。普段はべつになんということもない のですが、ときどき感情がひどく不安定になることがあって、そういうときには彼女から 目を離すことはできません。何が起るかわからないからです。激しい幻聴があり、直子は 全てを閉ざして自分の中にもぐりこんでしまいます。 だから私も直子はしばらく適切な施設に入ってそこで治療を受けるのがいちばん良いだろ うと考えています。残念ですが、仕方ありません。前もあなたに言ったように、気長にや るのがいちばんです。希望を捨てず、絡みあった糸をひとつひとつほぐしていくのです。 事態がどれほど絶望的に見えても、どこかに必ず糸口はあります。まわりが暗ければ、し ばらくじっとして目がその暗闇に慣れるのを待つしかありません。 この手紙があなたのところに着く頃には直子はもうそちらの病院に移っているはずです。 連絡が後手後手にまわって申し分けないと思いますが、いろんなことがばたばたと決まっ てしまったのです。新しい病院はしっかりとした良い病院です。良い医者もいます。住所 を下に書いておきますので、手紙をそちらに書いてやって下さい。彼女についての情報は 私の方にも入ってきますから、何かあったら知らせるようにします。良いニューガが書け るといいですね。あなたも辛いでしょうけれど頑張りなさいね。直子がいなくてもときど きでいいから私に手紙を下さい。さようなら」 * その春僕はずいぶん沢山の手紙を書いた。直子に週一度手紙を書き、レ゗ウさんにも手紙 を書き、緑にも何通か書いた。大学の教室で手紙を書き、家の机に向って膝に「かもめ」 をのせながら書き、休憩時間に゗ゲリゕ料理店のテーブルに向って書いた。まるで手紙を 書くことで、バラバラに崩れてしまいそうな生活をようやくつなぎとめているみたいだっ た。 君と話ができなかったせいで、僕はとても辛くて淋しい四月と五月を送った、と僕は緑へ の手紙に書いた。これほど辛くて淋しい春を体験したのははじめてのことだし、これだっ たら二月が三回つづいた方がずっとましだ。今更君にこんなことをいっても始まらないと は思うけれど、新しいヘゕ・ガゲ゗ルはとてもよく君に似合っている。とても可愛い。今 ゗ゲリゕ料理店でゕルバ゗トしていて、ウッアからおいしいガパゥテゖーの作り方を習っ た。そのうちに君に食べさせてあげたい。 僕は毎日大学に通って、週に二回か三回゗ゲリゕ料理店でゕルバ゗トをし、伊東と本や音 楽の話をし、 彼からボリガ・ヴゖゕンを何冊か借りて読み、 手紙を書き、 「かもめ」 と遊び、 ガパゥテゖーを作り、庭の手入れをし、直子のことを考えながらマガゲペーオョンをし、 沢山の映画を見た。 緑が僕に話しかけてきたのは六月の半ば近くだった。僕と緑はもう二ヶ月も口をきいてい

なかった。彼女は講義が終ると僕のとなりの席に座って、しばらく頬杖をついて黙ってい た。窓の外には雨が降っていた。梅雨どき特有の、風を伴わないまっすぐな雨で、それは 何もかもまんぺんなく濡らしていた。他の学生がみんな教室を出ていなくなっても緑はず っとその格好で黙っていた。そしてカーンキの上着のポッイトからマルボロを出してくわ え、マッゴを僕の渡した。僕はマッゴをすって煙草に火をつけてやった。緑は唇を丸くす ぼめて煙を僕の顔にゆっくりと吹きつけた。 「私のヘゕ・ガゲ゗ル好き?」 「すごく良いよ」 「どれくらい良い?」と緑が訊いた。 「世界中の森の木が全部倒れるくらい素晴らしいよ」と僕は言った。 「本当にそう思う?」 「本当にそう思う」 彼女はしばらく僕の顔を見ていたがやがて右手をさしだした。僕はそれを握った。僕以上 に彼女の方がほっとしたみたいに見えた。緑は煙草の灰を床に落としてからすっと立ち上 がった。 「ごはん食べに行きましょう。おなかペウペウ」と緑は言った。 「どこに行く?」 「日本橋の高島屋の食堂」 「何でまたわざわざそんなところまで行くの?」 「ときどきあそこに行きたくなるのよ、私」 それで我々は地下鉄に乗って日本橋まで行った。朝からずっと雨が降りつづいていたせい か、デパートの中はがらんとしてあまり人影がなかった。店内には雨の匂いが漂い、店員 たちもなんとなく手持ち無沙汰な風情だった。我々は地下の食堂に行き、゙ゖンドの見本 を綿密に点検してから二人とも幕の内弁当を食べることにした。昼食どきだったが、食堂 もそれほど混んではいなかった。 「デパートの食堂で飯食うなんて久しぶりだね」と僕はデパートの食堂でしかまずお目に かかれないような白くてつるりとした湯のみでお茶を飲みながら言った。 「私好きよ、こういうの」と緑は言った。 「なんだか特別なことをしているような気持にな るの。たぶん子供のときの記憶のせいね。デパートに連れてってもらうなんてほんのたま にしかなかったから」 「僕はしょっちゅう行ってたような気がするな。 お袋がデパート行くの好きだったからさ」 「いいわね」 「べつに良くもないよ。デパートなんか行くの好きじゃないもの」 「そうじゃないわよ。かまわれて育ってよかったわねっていうこと」 「まあ一人っ子だからね」 「大きくなったらデパートの食堂に一人できて食べたいものをいっぱい食べてやろうと思 ったの、子供の頃」と緑は言った。 「でも空しいものね、一人でこんなところでもそもろご はん食べたって面白くもなんともないもの。とくにおいしいというものでもないし、ただ っ広くて混んでてうるさいし、 空気はわるいし。 それでもときどきここに来たくなるのよ」 「このニヶ月淋しかったよ」と僕は言った。 「それ、手紙で読んだわよ」と緑は無表情な声で言った。 「とにかくごはん食べましょう。 私今それ以外のこと考えられないの」 我々は半円形の弁当箱に入った幕の内弁当をきれいに食べ、 吸い物を飲み、 お茶を飲んだ。 緑は煙草を吸った。煙草を吸い終ると彼女は何も言わずにすっと立ち上がって傘を手にと

った。僕も立ち上がって傘を持った。 「これからどこに行くの?」と僕は訊いてみた。 「デパートに来て食堂でごはんを食べたんだもの、次は屋上に決まってるでしょう」と緑 は言った。 雨の屋上には人は一人もいなかった。ペット用品売り場にも店員の姿はなく、売店も、乗 り物切符売り場もオャッゲーを閉ざしていた。我々は傘をさしてぐっしょりと濡れた木馬 やゟーデン・ゴ゚ゕや屋台のあいだを散策した。東京のどまん中にこんなに人気のない荒 涼とした場所があるなんて僕には驚きだった。緑は望遠鏡が見たいというので、僕は硬貨 を入れてやり、彼女が見ているあいだずっと傘をさしてやっていた。 屋上の隅の方に屋根のついたゥーム・ウーナーがあって、子供向けのゥーム機がいくつか 並んでいた。僕と緑はそこにあった足台のようなものの上に並んで腰を下ろし、二人で雨 ふりを眺めた。 「何か話してよ」と緑が言った。 「話があるんでしょ、あなた?」 「あまり言い訳したくないけど、あのときは僕も参ってて、頭がぼんやりしてたんだ。そ れでいろんなことがうまく頭に入ってこなかったんだ」 と僕は言った。 「でも君と会えなく なってよくわかったんだ。君がいればこそ今までなんとかやってこれたんだってね。君が いなくなってしまうと、とても辛くて淋しい」 「でもあなた知らないでしょ、ワゲナベ君?あなたと会えないことで私がこのニヶ月どれ ほど辛くて淋しい想いをしたかということを?」 「知らなかったよ、そんなこと」と僕はびっくりして言った。 「君は僕のことを頭にきてい て、それで会いたくないんだと思ってたんだ」 「どうしてあなたってそんなに馬鹿なの?会いたいに決まってるでしょう?だって私あな たのこと好きだって言ったでしょう?私そんなに簡単に人を好きになったり、好きじゃな くなったりしないわよ。そんなこともわかんないの?」 「それはもちろんそうだけど――」 「そりゃね、頭に来たわよ。百回くらい蹴とばしてやりたいくらい。だって久し振りに会 ったっていうのにあなたはボゝッとして他の女の人のことを考えて私のことなんか見よう ともしないんだもの。それは頭に来るわよ。でもね、それとはべつに私あなたと少し離れ ていた方がいいんじゃないかという気がずっとしてたのよ。いろんなことをはっきりさせ るためにも」 「いろんなことって?」 「私とあなたの関係のことよ。つまりね、私あなたといるときの方がだんだん楽しくなっ てきたのよ、彼と一緒にいるときより。そういうのって、いくらなんでも不自然だし具合 わるいと思わない?もちろん私は彼のこと好きよ、そりゃ多少わかままで偏狭でフゔオガ トだけど、いいところはいっぱいあるし、はじめて真剣に好きになった人だしね。でもね、 あなたってなんだか特別なのよ、私にとって。一緒にいるとすごくぴったりしてるって感 じするの。あたなのことを信頼してるし、好きだし、放したくないの。要するに自分でも だんだん混乱してきたのよ。それで彼のところに行って正直に相談したの。どうしたらい いだろうって。あなたともう会うなって彼は言ったわ。もしあなたと会うなら俺と別れろ って」 「それでどうしたの?」 「彼と別れたよ、さっぱりと」と言って緑はマルボロをくらえ、手で覆うようにしてマッ ゴで火をつけ、煙を吸いこんだ。 「どうして?」

「どうして?」 と緑は怒鳴った。 「あなた頭おかしいんじゃないの?英語の仮定法がわかっ て、数列が理解できて、マルアガが読めて、なんでそんなことわかんないのよ?なんでそ んなこと訊くのよ?なんでそんなこと女の子に言わせるのよ?彼よりあなたの方が好きだ からにきまってるでしょ。 私だってね、 もっとハンエムな男の子好きになりたかったわよ。 でも仕方ないでしょ、あなたのこと好きになっちゃったんだから」 僕は何か言おうとしたが喉に何かがつまっているみたいに言葉がうまく出てこなかった。 緑は水たまりの中に煙草を投込んだ。 「ねえ、そんなひどい顔しないでよ。悲しくなっちゃ うから。大丈夫よ、あなたに他に好きな人がいること知ってるから別に何も期待しないわ よ。 でも抱いてくれるくらいはいいでしょ?私だってこのニヶ月本当に辛かったんだから」 我々はゥーム・ウーナーの裏手で傘をさしたまま抱きあった。固く体をあわせ、唇を求め あった。彼女の髪にも、カーンキのカャイットの襟にも雨の匂いがした。女の子の体って なんてやわらかくて温かいんだろうと僕は思った。カャイット越しに僕は彼女の乳房の感 触をはっきりと胸に感じた。僕は本当に久し振りに生身の人間に触れたような気がした。 「あなたとこの前に会った日の夜に彼と会って話したの。 そして別れたの」 と緑は言った。 「君のこと大好きだよ」 と僕は言った。 「心から好きだよ。 もう二度と放したくないと思う。 でもどうしようもないんだよ。今は身うごきとれないんだ」 「その人のことで?」 僕は肯いた。 「ねえ、教えて。その人と寝たことあるの?」 「一年前に一度だけね」 「それから会わなかったの?」 「二回会ったよ。でもやってない」と僕は言った。 「それはどうしてなの?彼女はあなたのこと好きじゃないの?」 「僕にはなんとも言えない」と僕は言った。 「とても事情が混み入ってるんだ。いろんな問 題が絡みあっていて、それがずっと長いあいだつづいているものだから、本当にどうなの かというのがだんだんわからなくなってきているんだ。僕にも彼女にも。僕にわかってい るのは、それがある種の人間として責任であるということなんだ。そして僕はそれを放り 出すわけにはいかないんだ。少なくとも今はそう感じているんだよ。たとえ彼女が僕を愛 していないとしても」 「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」と緑は僕の首に頬を押し付けて言った。 「そして私はあなたに抱かれて、あなたのことを好きだってうちあけているのよ。あなた がこうしろって言えば私なんだってするわよ。私多少むちゃくちゃなところあるけど正直 でいい子だし、よく働くし、顔だってけっこう可愛いし、おっぱいだって良いかたちして いるし、料理もうまいし、お父さんの遺産だって信託預金にしてあるし、大安売りだと思 わない?あなたが取らないと私そのうちどこかよそに行っちゃうわよ」 「時間がほしいんだ」と僕は言った。 「考えたり、整理したり、判断したりする時間がほし いんだ。悪いとは思うけど、今はそうとしか言えないんだ」 「でも私のこと心から好きだし、二度と放したくないと思ってるのね?」 「もちろんそう思ってるよ」 緑は体を離し、にっこり笑って僕の顔を見た。 「いいわよ、待ってあげる。あなたのことを 信頼してるから」と彼女は言った。 「でお私をとるときは私だけをとってね。そして私を抱 くときは私のことだけを考えてね。私の言ってる意味わかる?」 「よくわかる」 「それから私に何してもかまわないけれど、傷つけることだけはやめてね。私これまでの

人生で十分傷ついてきたし、これ以上傷つきたくないの。幸せになりたいのよ」 僕は彼女の体を抱き寄せて口づけした。 「そんな下らない傘なんか持ってないで両手でもっとしっかり抱いてよ」と緑は言った。 「傘ささないとずぶ濡れになっちゃうよ」 「いいわよ、そんなの、どうでも。今は何も考えずに抱きしめてほしいのよ。私二ヶ月間 これ我慢してたのよ」 僕は傘を足もとに置き、雨の中でしっかりと緑を抱きしめた。高速道路を行く車の鈍いゲ ゗ヤ音だけがまるでもやのように我々のまわりを取り囲んでいた。雨は音もなく執拗に降 りつづき、僕の黄色いナ゗ロンの゙ゖンド・ブレーゞーを暗い色に染めた。 「そろそろ屋根のあるところに行かない?」と僕は言った。 「うちにいらしゃいよ。今誰もいないから。このままじゃ風邪引いちゃうもの」 「まったく」 「ねえ、私たちなんだか川を泳いで渡ってきたみたいよ」と緑が笑いながら言った。 「ああ 気持良かった」 僕らはゲゝル売り場で大きめのゲゝルを買い、かわりばんこに洗面所に入って髪を乾かし た。それから地下鉄を乗りついで彼女の茗荷谷のゕパートまで行った。緑はすぐに僕にオ ャワーを浴びさせ、それから自分も浴びた。そして僕の服が乾くまでバガローブを貸して くれ、自分はポロオャツとガゞートに着がえた。我々は台所のテーブルでウーヒーを飲ん だ。 「あなたのこと話してよ」と緑は言った。 「僕のどんなこと?」 「そうねえ……どんなものが嫌い?」 「鳥肉と性病としゃべりすぎ床屋が嫌いだ」 「他には?」 「四月の孤独な夜とレーガのついた電話機のゞバーが嫌いだ」 「他には?」 僕は首を振った。 「他にはとくに思いつかないね」 「私の彼は――つまり前の彼は――いろんなものが嫌いだったわ。私がすごく短いガゞー トはくこととか、煙草を吸うこととか、すぐ酔払うこととか、いやらしいこと言うことと か、彼の友だちの悪口言うこととか……だからもしそういう私に関することで嫌なことあ ったら遠慮しないで言ってね。あらためられるところはちゃんとあらためるから」 「別に何もないよ」と僕は少し考えてからそう言って首を振った。 「何もない」 「本当?」 「君の着るものは何でも好きだし、君のやることも言うことも歩き方も酔払い方も、何で も好きだよ」 「本当にこのままでいいの?」 「どう変えればいいのがかわからないから、そのままでいいよ」 「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。 「世界中のカャンィルの虎がみんな溶けてバゲーになってしまうくらい好きだ」と僕は言 った。 「ふうん」と緑は少し満足したように言った。 「もう一度抱いてくれる?」 僕と緑は彼女の部屋のベッドで抱きあった。雨だれの音を聞きながら布団の中で我々は唇 をかさね、そして世界の成りたち方からゆで玉子の固さの好みに至るまでのありとあらゆ る話をした。

「雨の日には蟻はいったい何をしているのかしら?」と緑が質問した。 「知らない」と僕は言った。 「巣の掃除とか貯蔵品の整理なんかやってるんじゃないかな。 蟻ってよく働くからさ」 「そんなに働くのにどうして蟻は進化しないで昔から蟻のままなの?」 「知らないな。でも体の構造が進化に向いてないんじゃないかな。つまり猿なんかに比べ てさ」 「あなた意外にいろんなこと知らないのね」と緑は言った。 「ワゲナベ君って、世の中のこ とはたいてい知ってるのかと思ってたわ」 「世界は広い」と僕は言った。 「山は高く、海は深い」と緑は言った。そしてバガローブの裾から手を入れて僕の勃起し ているペニガを手にとった。そして息を呑んだ。 「ねえ、ワゲナベ君、悪いけどこれ本当に 冗談抜きで駄目。こんな大きくて固いのとても入らんないわよ。嫌だ」 「冗談だろう」と僕はため息をついて言った。 「冗談よ」とくすくす笑って緑は言った。 「大丈夫よ。安心しなさい。これくらいならなん とかちゃんと入るから。ねえ、くわしく見ていい?」 「好きにしていいよ」と僕は言った。 緑は布団の中にもぐりこんでしばらく僕のペニガをいじりまわした。皮をひっぱったり、 手のひらで睾丸の重さを測ったりしていた。そして布団から首を出してふうっと息をつい た。 「でも私あなたのこれすごく好きよ。お世辞じゃなくて」 「ありがとう」と僕は素直に礼を言った。 「でもワゲナベ君、私とやりたくないでしょ?いろんなことがはっきりするまでは」 「やりたくないわけがないだろう」と僕は言った。 「頭がおかしくなるくらいやりたいよ。 でもやるわけにはいかないんだよ」 「頑固な人ねえ。もし私があなただったらやっちゃうけどな。そしてやっちゃってから考 えるけどな」 「本当にそうする?」 「嘘よ」と緑は小さな声で言った。 「私もやらないと思うわ。もし私があなただったら、や はりやらないと思う。そして私、あなたのそういうところ好きなの。本当に本当に好きな のよ」 「どれくらい好き?」と僕は訊いたが、彼女は答えなかった。そして答えるかわりに僕の 体にぴったりと身を寄せて僕の乳首に唇をつけ、ペニガを握った手をゆっくりと動かしは じめた。 僕が最初に思ったのは直子の手の動かし方とはずいぶん違うなということだった。 どちらも優しくて素敵なのだけれど、何かが違っていて、それでまったく別の体験のよう に感じられてしまうのだ。 「ねえ、ワゲナベ君、他の女の人のこと考えてるでしょ?」 「考えてないよ」と僕は嘘をついた。 「本当?」 「本当だよ」 「こうしてるとき他の女の人のこと考えちゃ嫌よ」 「考えられないよ」と僕は言った。 「私の胸かあそこ触りたい?」と緑が訊いた。 「さわりたいけど、まださわらない方がいいと思う。一度にいろんなことやると刺激が強 すぎる」 緑は肯いて布団の中でもそもそとパンテゖーを脱いでそれを僕のペニガの先にあてた。こ 「

こに出していいからね」 「でも汚れちゃうよ」 「涙が出るからつまんないこと言わないでよ」 と緑は泣きそうな声で言った。 「そんなの洗 えばすむことでしょう。遠慮しないで好きなだけ出しなさいよ。気になるんなら新しいの 買ってプレクントしてよ。それとも私のじゃ気に入らなくて出せないの?」 「まさか」と僕は言った。 「じゃあ出しなさいよ。いいのよ、出して」 僕が射精してしまうと、彼女は僕の精液を点検した。 「ずいぶんいっぱい出したのね」と彼 女は感心したように言った。 「多すぎたかな?」 「いいのよ、べつに。馬鹿ね。好きなだけ出しなさいよ」と緑が笑いながら言って僕に゠ ガした。 夕方になると彼女は近所に買物に行って、食事を作ってくれた。僕らは台所のテーブルで ビールを飲みながら天ぷらを食べ、青豆のごはんを食べた。 「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」 と緑は言った。 「そしたら私がやさしく出してあげ るから」 「ありがとう」と僕は礼を言った。 「私ね、いろいろとやり方知ってるのよ。本屋やってる頃ね、婦人雑誌でそういうの覚え たの。ほら妊娠中の女の人ってあれやれないから、その期間御主人が浮気しないようにい ろんな風に処理してあげる方法が特集してあったの。本当にいろんな方法あるのよ。楽し み?」 「楽しみだね」と僕は言った。 緑と別れたあと、家に帰る電車の中で僕は駅で買った夕刊を広げてみたが、そんなもの考 えてみたらちっとも読みたくなかったし、読んでみたところで何も理解できなかった。僕 はそんなわけのわからない新聞の紙面をじっと睨みながら、いったい自分はこれから先ど うなっていくんだろう、僕をとりかこむ物事はどう変っていくんだろうと考えつづけた。 時折、僕のまわりで世界がどきどきと脈を打っているように感じられた。僕は深いため息 をつき、それから目を閉じた。今日いちにち自分の行為に対して僕はまったく後悔してい なかったし、もしもう一回今日をやりなおせるとしても、まったく同じことをするだろう と確信していた。やはり雨の屋上で緑をしっかり抱き、びしょ濡れになり、彼女のベッド の中で指で射精に導かれることになるだろう。それについては何の疑問もなかった。僕は 緑が好きだったし、彼女が僕のもとに戻ってきてくれたことはとても嬉しかった。彼女と なら二人でうまくやっていけるだろうと思った。そして緑は彼女自身言っていたように血 のかよった生身の女の子で、そのあたたかい体を僕の腕の中にあずけていたのだ。僕とし ては緑を裸にして体を開かせ、そのあたたかみの中に身を沈めたいという激しい欲望を押 しとどめるのがやっとだったのだ。僕のペニガを握った指はゆっくりと動き始めたのを止 めさせることなんてとてもできなかった。僕はそれを求めていたし、彼女もそれを求めて いたし、我々はもう既に愛しあっていたのだ。誰にそれを押しとどめることができるだろ う?そう、僕は緑を愛していた。そして、たぶんそのことはもっと前にかわっていたはず なのだ。僕はただその結果を長いあいだ回避しつづけていただけなのだ。 問題は僕が直子に対してそういう状況の展開をうまく説明できないという点にあった。他 の時期ならともかく、今の直子に僕が他の女の子を好きになってしまったなんて言えるわ けがなかった。そして僕は直子のこともやはり愛していたのだ。どこかの過程で不思議な

かたちに歪められた愛し方であるにはせよ、僕は間違いなく直子を愛していたし、僕の中 には直子のためにかなり広い場所が手つかず保存されていたのだ。 僕にできることはレ゗ウさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。僕は家に 戻って縁側に座り、雨の降りしきる夜の庭を眺めながら頭の中にいくつかの文章を並べて みた。 それから机に向って手紙を書いた。 「こういう手紙をレ゗ウさんに書かなくてはなら ないというのは僕にとってはたまらなく辛いことです」と僕は最初に書いた。そして緑と 僕のこれまでの関係をひととおり説明し、今日二人のあいだに起ったことを説明した。 「僕は直子を愛してきたし、今でもやはり同じように愛しています。しかし僕と緑のあい だに存在するものは何かしら決定的なものなのです。そして僕はその力に抗しがたいもの を感じるし、このままどんどん先の方まで押し流されていってしまいそうな気がするので す。僕は直子に対して感じるのはおそらく静かで優しく澄んだ愛情ですが、緑に対して僕 はまったく違った種類の感情を感じるのです。それは立って歩き、呼吸し、鼓動している のです。そしてそれは僕を揺り動かすのです。僕はどうしていいかわからなくてとても混 乱しています。決して言いわけをするつもりではありませんが、僕は僕なりに誠実に生き てきたつもりだし、誰に対しても嘘はつきませんでした。誰かに傷つけたりしないように ずっと注意してきました。それなのにどうしてこんな迷宮のようなところに放りこまれて しまったのか、僕にはさっぱりわけがわからないのです。僕はいったいどうすればいいの でしょう?僕にはレ゗ウさんしか相談できる相手がいないのです」 僕は速達切手を貼って、その夜のうちに手紙をポガトに入れた。 レ゗ウさんから返事が来たのはその五日後だった。 「前略。 まず良いニューガ。 直子は思ったより早く快方に向っているそうです。私も一度電話で話したのですが、しゃ べる方もずいぶんはっきりしてました。あるいは近いうちにここに戻ってこられるかもし れないということです。 次にあなたのこと。 そんな風にいろんな物事を深刻にとりすぎるのはいけないことだと私は思います。人を愛 するというのは素敵なことだし、その愛情が誠実なものであるなら誰も迷宮に放りこまれ たりはしません。自信を持ちなさい。 私の忠告はとても簡単です。まず第一に緑さんという人にあなたが強く魅かれるのなら、 あなたが彼女と恋に落ちるのは当然のことです。それはうまくいくかもしれないし、あま りうまくいかないかもしれない。しかし恋というのはもともとそういうものです。恋に落 ちたらそれに身をまかせるのが自然というものでしょう。私はそう思います。それも誠実 さのひとつのかたちです。 第二にあなたが緑さんとギッアガするかしないかというのは、それはあなた自身の問題で あって、私にはなんとも言えません。緑さんとよく話しあって、納得のいく結論を出して 下さい。 第三に直子にはそのことを黙っていて下さい。もし彼女に何か言わなくてはならないよう な状況になったとしたら、そのときは私とあなたの二人で良策を考えましょう。だから今 はとりあえずあの子には黙っていることにしましょう。そのことは私にまかせておいて下 さい。 第四にあなたはこれまでずいぶん直子の支えになってきたし、もしあなたが彼女に対して

恋人としての愛情を抱かなくなったとしても、あなたが直子にしてあげられることはいっ ぱいあるのだということです。だから何もかもそんなに深刻に考えないようにしなさい。 私たちは(私たちというのは正常な人と正常ならざる人をひっくるめた総称です)不完全 な世界に住んでいる不完全な人間なのです。定規で長さを測ったり分度器で角度を測った りして銀行預金みたいにウゴウゴと生きているわけではないのです。でしょう? 私の個人的感情を言えば、緑さんというのはなかなか素敵な女の子のようですね。あなた が彼女に心を魅かれるというのは手紙を読んでいてもよくわかります。そして直子に同時 に心を魅かれるというのもよくかわります。そんなことは罪でもなんでもありません。こ のただっ広い世界にはよくあることです。天気の良い日に美しい湖にボートを浮かべて、 空もきれいだし湖も美しいと言うのと同じです。そんな風に悩むのはやめなさい。放って おいても物事は流れるべき方向に流れるし、どれだけベガトを尽くしても人は傷つくとき は傷つくのです。人生とはそういうものです。偉そうなことを言うようですが、あなたも そういう人生のやり方をそろそろ学んでいい頃です。あなたはときどき人生を自分のやり 方にひっぱりこもうとしすぎます。精神病院に入りたくなかったらもう少し心を開いて人 生の流れに身を委ねなさい。私のような無力で不完全な女でもときには生きるってなんて 素晴らしいんだろうと思うのよ。本当よ、これ!だからあなただってもっともっと幸せに なりなさい。幸せになる努力をしなさい。 もちろん私はあなたと直子がハッピー・゛ンデゖンィを迎えられなかったことは残念に思 います。しかし結局のところ何が良かったなんて誰にかわるというのですか?だからあな たは誰にも遠慮なんかしないで、幸せになれると思ったらその機会をつかまえて幸せにな りなさい。私は経験的に思うのだけれど、そういう機会は人生に二回か三回しかないし、 それを逃すと一生悔やみますよ。 私は毎日誰に聴かせるともなくァゲーを弾いています。これもなんだかつまらないもので すね。雨の降る暗い夜も嫌です。いつかまたあなたと直子のいる部屋で葡萄を食べながら ァゲーを弾きたい。 ではそれまで。 六月十七日 石田鈴子 」 第十一章 直子が死んでしまったあとでも、レ゗ウさんは僕に何度も手紙を書いてきて、それは僕の せいではないし、誰のせいでもないし、それは雨ふりのように誰にもとめることのできな いことなのだと言ってくれた。しかしそれに対して僕は返事を書かなかった。なんていえ ばいいのだ?それにそんなことはもうどうでもいいことなのだ。直子はもうこの世界に存 在せず、一握りの灰になってしまったのだ。 八月の末にひっそりとした直子の葬儀が終わってしまうと、僕は東京に戻って、家主にし ばらく留守にしますのでよろしくと挨拶し、ゕルバ゗ト先に行って申し訳ないが当分来る ことができないと言った。そして緑に今何も言えない、悪いと思うけれどもう少し待って ほしいという短い手紙を書いた。それから三日間毎日、映画館をまわって朝から晩まで映 画を見た。 東京で封切られている映画を全部観てしまったあとで、 リュッアに荷物をつめ、 銀行預金を残らずおろし、新宿駅に行って最初に目についた急行列車に乗った。 いったいどこをどういう風にまわったのか、僕には全然思い出せないのだ。風景や匂いや 音はけっこうはっきりと覚えているのだが、地名というものがまったく思いだせないのだ 順番も思いだせない。僕はひとつの町から次の町へと列車やバガで、あるいは通りかかっ

たトラッアの助手席に乗せてもらって移動し、空地や駅や公園や川辺や海岸やその他眠れ そうなところがあればどこにでも寝袋を敷いて眠った。交番に泊めてもらったこともある し、墓場のわきで眠ったこともある。人通りの邪魔にならず、ゆっくり眠れるところなら どこだってかまわなかった。僕は歩き疲れた体を寝袋に包んで安゙ゖガ゠ーごくごくのん で、すぐ寝てしまった。親切な町に行けば人々は食事を持ってきてくれたたり、蚊取線香 を貸してくれたりしたし、 不親切な町では人々は警官を呼んで僕を公園から追い払わせた。 どちらにせよ僕にとってはどうでもいいことだった。僕が求めていたのは知らない町でぐ っすり眠ることだけだった。 金が乏しくなると僕は肉体労働を三、四日やって当座の金を稼いた。どこにでも何かしら の仕事はあった。僕はどこにいくというあてもなくただ町から町へとひとつずつ移動して いった。世界は広く、そこには不思議な事象や奇妙な人々充ち充ちていた。僕は一度緑に 電話をかけてみた。彼女の声がたまらく聞きたかったからだ。 「あなたね、学校はもうとっくの昔に始まってんのよ」と緑は言った。 「レポート提出する やつだってけっこうあるのよ。どうするのよ。いったい?あなたこれでも三週間の音信不 通だったのよ。どこにいて何をしてるのよ?」 「わるいけど、今は東京に戻れないんだ。まだ」 「言うことはそれだけなの?」 「だから今は何も言えないんだよ、うまく。十月になったら――」 緑は何も言わずにがっちゃんと電話を切った。 僕はそのまま旅行をつづけた。ときどき安宿に泊まって風呂に入り髭を剃った。鏡を見る と本当にひどい顔をしていた。日焼けのせいで肌はかさかさになり、目がくぼんで、こけ た頬にはわけのわからないしみや傷がついていた。ついさっき暗い穴の底から這いあがっ てきた人間のとうに見えたが、それはよく見るとたしかに僕の顔だった。 僕がその頃歩いていたの山陰の海岸だった。鳥取か兵庫の北海岸かそのあたりだった。海 岸に沿って歩くのは楽だった。 砂浜のどこかには必ず気持よく眠れる場所があったからだ。 流木をあつめてきた火をし、 魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べたりすることもできた。 そしでゖガ゠ーを飲み、波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った。彼女が死んで しまってもうこの世界に存在しないというのはとても奇妙なことだった。僕にはその事実 がまだどうしても呑みこめなかった。僕にはそんなことはとても信じられなかった。彼女 の棺のふたに釘を打つあの音まで聞いたのに、彼女が無に帰してしまったという事実に僕 はどうしても順応することができずにいた。 僕はあまりにも鮮明に彼女を記憶しすぎていた。彼女が僕のベニガをそっと口で包み、そ の髪が僕の下腹に落ちかかっていたあの光景を僕はまだ覚えていた。そのあたたかみや息 づかいや、やるせない射精の感触を僕は覚えていた。僕はそれをまるで五分前のできごと のようにはっきり思い出すことができた。そしてとなりに直子がいて、手をのばせばその 体に触れることができるように気がした。でも彼女はそこにいなかった。彼女の肉体はも うこの世界のどこにも存在しないのだ。 僕はどうしても眠れない夜に直子のいろんな姿を思いだした。思い出さないわけにはいか なかったのだ。僕の中には直子の思い出があまりにも数多くつまっていたし、それらの思 い出はほんの少しの隙間をもこじあけて次から次へ外にとびだそうとしていたからだ。僕 にはそれらの奔出を押しとどめることはとてもできなかった。 僕は彼女があの雨の朝に黄色い雨合羽を着て鳥小屋を掃除したり、えさの袋を運んでいた 光景を思い出した。半分崩れたバーガデー・イー゠と、あの夜僕のオャツを濡らした直子 の涙の感触を思いだした。そうあの夜も雨が降っていた。冬には彼女は゠ャメルのゝーバ

ーウートを着て僕の隣りを歩いていた。彼女はいつも髪どめをつけて、いつもそれを手で 触っていた。そして透きとおった目でいつも僕の目をのぞきこんでいた。青いゟ゙ンを着 てグフゔーの上で膝を折りその上に顎をのせていた。 そんな風に彼女の゗メーカは満ち潮の波のように次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇 妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは 直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは 生をしめくくる決定的な要因ではなかった。そこで死とは生を構成する多くの要因のうち のひとつでしかなかった。直子は死を含んだままそこで生きつづけていた。そして彼女は 僕にこう言った。 「大丈夫よ、ワゲナベ君、それはただの死よ。気にしないで」と。 そんな場所では僕は哀しみというものを感じなかった。死は死であり、直子は直子だから だった。ほら大丈夫よ、私はここにいるでしょう?と直子は恥ずかしそうに笑いながら言 った。いつものちょっとした仕草が僕の心をなごませ、癒してくれた。そして僕はこう思 った。これが死というものなら、死も悪くないものだな、と。そうよ、死ぬのってそんな たいしたことじゃないのよ、と直子は言った。死なんてただの死なんだもの。それに私は ここにいるとすごく楽なんだもの。暗い波の音のあいまから直子はそう語った。 しかしやがて潮は引き、僕は一人で砂浜に残されていた。僕は無力で、どこにも行けず、 哀しみが深い闇となって僕を包んでいた。そんなとき、僕はよく一人で泣いた。泣くとい うよりまるで汗みたいに涙がぼろぼろとひとりでにこぼれ落ちてくるのだ。 ゠キ゠が死んだとき、僕はその死からひとつのことを学んだ。そしてそれを諦観として身 につけた。あるいは身につけようと思った。それはこういうことだった。 「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」 たしかにそれは真実であった。我々は生きることによって同時に死を育くんでいるのだ。 しかしそれは我々が学ばねばならない真理の一部でしかなかった。直子の死が僕に教えた のはこういうことだった。どのような心理をもってしても愛するものを亡くした哀しみを 癒すことはできないのだ。どのような真理も、どのような誠実さも、どのような強さも、 どのような優しさも、その哀しみを癒すことはできないのだ。我々はその哀しみを哀しみ 抜いて、そこから何かを学びとることしかできないし、そしてその学びとった何かも、次 にやってくる予期せぬ哀しみに対しては何の役にも立たないのだ。僕はたった一人でその 夜の波音を聴き、風の音に耳を澄ませながら、来る日も来る日もじっとそんなことを考え つづけていた。゙ゖガ゠ーを何本も空にし、パンをかじり、水筒の水を飲み、髪を砂だら けにしながら初秋の海岸をリュッアを背負って西へ西へと歩いた。 ある風の強い夕方、僕は廃船の陰で寝袋にくるまって涙を流していると若い漁師がやって きて煙草をすすめてくれた。僕はそれを受けとって十何ヶ月かぶりに吸った。どうして泣 いているのかと彼は僕に訊いた。母が死んだからだと僕は殆んど反射的に嘘をついた。そ れで哀しくてたまらなくて旅をつづけているのだ、と。彼は心から同情してくれた。そし て家から一升瓶とィラガをふたつ持ってきてくれた。 風の吹きすさぶ砂浜で、我々は二人で酒を飲んだ。俺も十六で母親をなくしたとその漁師 は言った。体がそんなに丈夫ではなかったのに朝から晩まで働きづめで、それで身をすり 減らすように死んだ、 と彼は話した。 僕はウップ酒を飲みながらぼんやりと彼の話を聞き、 適当に相槌を打った。それはひどく遠い世界の話であるように僕には感じられた。それが いったいなんだっていうんだと僕は思った。そして突然この男の首を締めてしまいたいよ うな激しい怒りに駆けられた。 お前の母親がなんだっていうんだ?俺は直子を失ったんだ! あれはど美しい肉体がこの世界から消え去ってしまったんだぞ!それなのにどうしてお前

はそんな母親の話なんてしているんだ? でもそんな怒りはすぐに消え失せてしまった。僕は目を閉じて、際限のない漁師の話を聞 くともなくぼんやりと聞いていた。やがて彼は僕にもう飯は食べたかと訊ねた。食べてな いけれど、リュッアの中にパンとゴーキとトマトとゴョウレートが入っていると僕は答え た。昼には何を食べたのかと彼が訊いたので、パンとゴーキとトマトとゴョウレートだと 僕は答えた。すると彼はここで待ってろよと言ってどこかに行ってしまった。僕は止めよ うとしたけれど、彼は振りかえもせずにさっさと闇の中に消えてしまった。 僕は仕方なく一人でウップ酒を飲んでいた。砂浜には花火の紙屑が一面に広がり、波はま るで怒り狂ったように轟音を立てて波打ち際で砕けていた。やせこけた犬が尾を振りなが らやてきて何か食べものはないかと僕の作った小さなたき火のまわりをうろうろしていた が、何もないとわかるとあきらめて去っていった。 三十分ほどあとでさっきの若い漁師が寿司折をふたつと新しい一升瓶を持って戻ってき た。これ食えよ、と彼は言った。下の方のは海苔巻きと稲荷だから明日のぶんにしろよ、 と彼は言った。彼は一升瓶の酒を自分のィラガに注ぎ、僕のィラガにも注いた。僕は礼を 言ってたっぷりと二人分はある寿司を食べた。それからまた二人で酒を飲んだ。もうこれ 以上飲めないというところまで飲んでしまうと、彼は自分の家に来て泊まれと僕に言った が、ここで一人で寝ている方がいいと言うと、それ以上は誘わなかった。そして別れ際に ポイットから四つに折った五千円札を出して僕のオャツのポイットにつっこみ、これで何 か栄養のあるものでも食え、あんたひどい顔してるから、と言った。もう十分よくしても らったし、これ以上金までもらうわけにはいかないと断ったが、彼は金を受けとろうとは しなかった。仕方なく礼を言って僕はそれを受け取った。 漁師が行ってしまったあとで、僕は高校三年のとき初めて寝たゟール・フレンドのことを ふと考えた。そして自分が彼女に対してどれほどひどいことをしてしまったかと思って、 どうしようもなく冷えびえとした気持になった。僕は彼女が何をどう思い、そしてどう傷 つくかなんて殆んど考えもしなかったのだ。そして今まで彼女のことなんてロアに思い出 しもしなかったのだ。彼女はとても優しい女の子だった。でもその当時の僕はそんな優し さをごくあたり前のものだと思って、殆んど振り返りもしなかったのだ。彼女は今何をし ているだろうか、そして僕を許してくれているのだろうか、と僕は思った。 ひどく気分がわるくなって、 廃船のわきに僕は嘔吐した。 飲み過ぎた酒のせいで頭が痛み、 漁師に嘘をついて金までもらったことで嫌な気持になった。そろそろ東京に戻ってもいい 頃だなと僕は思った。いつまでもいつまでも永遠にこんなことつづけているわけにはいか ないのだ。僕は寝袋を丸めてリュッアの中にしまい、それをかついで国鉄の駅まで歩き、 今から東京に帰りたいのだがどうすればいいだろうと駅員に訊いてみた。彼は時刻表を調 べ、夜行をうまくのりつげば朝に大阪に着けるし、そこから新幹線で東京に行けると教え てくれた。僕は礼を言って、男からもらった五千円札で東京までの切符を買った。列車を 待つあいだ、僕は新聞を買って日付を見てみた。一九七○年十月二日とそこにあった。ち ょうど一ヶ月旅行をつづけていたわけだった。なんとか現実の世界に戻らなくちゃな、と 僕は思った。 一ヶ月の旅行は僕の気持はひっぱりあげてはくれなかったし、直子の死が僕に与えた打撃 をやわらげてもくれなかった。僕は一ヶ月前とあまり変りない状態で東京に戻った。緑に 電話をかけることすらできなかった。いったい彼女にどう切り出せばいいのかがわからな かった。なんて言えばいいのだ?全ては終わったよ、君と二人で幸せになろ――そう言え ばいいのだろうか?もちろん僕にはそんなことは言えなかった。しかしどんな風に言った

ところで、どんな言い方をしたところで、結局語るべき事実はひとつなのだ。直子は死に、 緑は残っているのだ。直子は白い灰になり、緑は生身の人間として残っているのだ。 僕は自分自身を穢れにみちた人間のように感じた。東京に戻っても、一人で部屋の中に閉 じこもって何日かを過ごした。 僕の記憶の殆んどは生者にではなく死者に結びついていた。 僕が直子のためにとって置いたいくつかの部屋の鎧戸を下ろされ、家具は白い布に覆われ 窓枠にはうっすらとほこりが積っていた。僕は一日の多くの部分をそんな部屋の中で過ご した。そして僕は゠キ゠のことを思った。おい゠キ゠、お前はとうとう直子を手に入れた んだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが 彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界 で、俺は直子に対して俺なりのベガトを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんと か新しい生き方をうちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、゠キ゠。直子はお前にや るよ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首 をくくったんだ。なあ゠キ゠、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。 そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自分が博 物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないがらんとした博物館で ね、俺は自身のためにそこの管理人をしているんだ。 * 東京に戻って四日目にレ゗ウさんからの手紙が届いた。 封筒には速達切手が貼ってあった。 手紙の内容は至極簡単なものだった。あなたとずっと連絡がとれなくてとても心配してい る。電話をかけてほしい。朝の九時と夜の九時にこの電話番号の前で待っている。 僕は夜の九時にその番号をまわしてみた。すぐにレ゗ウさんが出た。 「元気?」と彼女が訊いた。 「まずまずですね」と僕は言った。 「ねえ、あさってにでもあなたに会いに行っていいかしら?」 「会いに来るって、東京に来るんですか?」 「ええ、そうよ。あなたと二人で一度ゆっくりと話がしたいの」 「じゃあ、そこを出ちゃうんですか、レ゗ウさんは?」 「出なきゃ会いに行けないでしょう」と彼女は言った。 「そろそろ出てもいい頃よ。だって もう八年もいたんだもの。これ以上いたら腐っちゃうわよ」 僕はうまく言葉が出てこなくて少し黙っていた。 「あさっての新幹線で三時ニ十分に東京に着くから迎えに来てくれる?私の顔はまだ覚え てる?それとも直子が死んだら私になんて興味なくなっちゃったかしら?」 「まさか」と僕は言った。 「あさっての三時二十分に東京駅に迎えに行きます」 「すぐわかるわよ。ァゲー・イーガ持った中年女なんてそんなにいないから」 たしかに僕は東京駅ですぐレ゗ウさんをみつけることができた。彼女は男もののツ゗ード のカャイットに白いキボンをはいて赤い運動靴をはき、髪をあいかわらず短くてところど ころとびあがり、右手に茶色い革の旅行鞄を持ち、左手は黒いァゲー・イーガを下げてい た。彼女は僕を見ると顔のしわをくしゃっと曲げて笑った。レ゗ウさんの顔を見ると僕も 自然に微笑んでしまった。僕は彼女の旅行鞄を持って中央線の乗り場まで並んで歩いた。 「ねえワゲナベ君、いつからそんなひどい顔してる?それとも東京では最近そういうひど い顔がはやってるの?」 「しばらく旅行してたせいですよ。あまりロアなもの食べなかったから」と僕は言った。 「新幹線はどうでした?」

「あれひどいわね。窓開かないんだもの。途中でお弁当買おうと思ってたのにひどい目に あっちゃった」 「中で何か売りに来るでしょう?」 「あのまずくて高いエンド゗ッゴのこと?あんなもの飢え死にしかけた馬だって残すわ よ。私ね、御殿場で鯛めしを買って食べたのが好きだったの」 「そんなこと言ってると年寄り扱いされますよ」 「いいわよ、私年寄りだもの」とレ゗ウさんは言った。 吉祥寺まで行く電車の中で、 彼女は窓の外の武蔵野の風景を珍しそうにじっと眺めていた。 「八年もたつと風景も違っているものですか?」と僕は訊いた。 「ねえワゲナベ君。私が今どんな気持かわかんないでしょう?」 「怖くって怖くって気が狂いそうなのよ。どうしていいかわかんないのよ。一人でこんな ところに放り出されて」 とレ゗ウさんは言った。 「でも<気が狂いそう>って素敵な表現だ と思わない?」 僕は笑って彼女の手を握った。 「でも大丈夫ですよ。レ゗ウさんはもう全然心配ないし、そ れに自分の力で出てきたんだもの」 「私があそこを出られたのは私の力のせいじゃないわよ」 とレ゗ウさんは言った。 「私があ そこを出られたのは、直子とあなたのおかげなのよ。私は直子のいないあの場所に残って いることに耐えられなかったし、東京にきてあなたと一度ゆっくり話しあう必要があった の。だからあそこを出てきちゃったのよ。もし何もなければ、私は一生あそこにいること になったんじゃないかしら」 僕は肯いた。 「これから先どうするんですか、レ゗ウさん?」 「旭川に行くのよ。ねえ旭川よ! 」と彼女は言った。 「音大のとき仲の良かった友だちが旭 川で音楽教室やっててね、手伝わないかって二、三年前から誘われてたんだけど、寒いと ころ行くの嫌だからって断ってたの。だってそうでしょ、やっと自由の身になって、行く 先が旭川じゃちょっと浮かばれないわよ。あそこなんだか作りそこねた落とし穴みたいな ところじゃない?」 「そんなひどくないですよ」 僕は笑った。 「一度行ったことあるけれど、 悪くない町ですよ。 ちょっと面白い雰囲気があってね」 「本当?」 「うん、東京にいるよりはいいですよ、きっと」 「まあ他に行くあてもないし、荷物ももう送っちゃったし」と彼女は言った。 「ねえワゲナ ベ君、いつか旭川に遊びに来てくれる?」 「もちろん行きますよ。でも今すぐ行っちゃうんですか?その前に少し東京にいるでしょ う?」 「うん。二、三日できたらゆっくりしていきたいのよ。あなたのところに厄介になってい いかしら?迷惑かけないから」 「全然かまいませんよ。僕は寝袋に入って押入れで寝ます」 「悪いわね」 「いいですよ。すごく広い押入れなんです」 レ゗ウさんは脚のあいだにはさんだァゲー・イーガを指で軽く叩いてリキムをとってい た。 「私たぶん体を馴らす必要があるのよ、旭川に行く前に。まだ外の世界に全然馴染んで ないから。かわらないこともいっぱいあるし、緊張もしてるし。そういうの少し助けてく れる?私、あなたしか頼れる人いないから」

「僕で良ければいくらでも手伝いますよ」と僕は言った。 「私、あなたの邪魔をしてるんじゃないかしら?」 「僕のいったい何を邪魔しているんですか?」 レ゗ウさんは僕の顔を見て、唇の端を曲げて笑った。そしてそれ以上何も言わなかった。 吉祥寺で電車を降り、バガに乗って僕の部屋に行くまで、我々はあまりたいした話をしな かった。東京の街の様子が変ってしまったことや、彼女の音大時代の話や、僕が旭川に行 ったときのことなんかをぽつぽつと話しただけだった。 直子に関する話は一切出なかった。 僕がレ゗ウさんに会うのは十ヶ月ぶりだったが、彼女と二人で歩いていると僕の心は不思 議にやわらぎ、慰められた。そして以前にも同じような思いをしたことがあるという気が した。考えてみれば直子と二人で東京の街を歩いていたとき、僕はこれとまったく同じ思 いをしたのだ。かつて僕と直子が゠キ゠という死者を共有していたように、今僕とレ゗ウ さんは直子という死者を共有しているのだ。そう思うと、僕は急に何もしゃべれなくなっ てしまった。レ゗ウさんはしばらく一人で話していたが、僕が口をきかないことがわかる と彼女も黙って、そのまま二人で無言のままバガに乗って僕の部屋まで行った。 秋のはじめの、ちょうど一年前に直子を京都に訪ねたときと同じようにくっきりと光の澄 んだ午後だった。雲は骨のように白く細く、空はつき抜けるように高かった。また秋が来 たんだな、と僕は思った。風の匂いや、光の色や、草むらに咲いた小さな花や、ちょっと した音の響き方が、僕にその到来を知らせていた。季節が巡ってくるごとに僕と死者たち の距離はどんどん離れていく。゠キ゠は十七のままだし、直子は二十一のままなのだ。永 遠に。 「こういうところに来るとホッとするわね」バガを降り、あたりを見まわしてレ゗ウさん は言った。 「何もないところですからね」と僕は言った。 僕は裏口から庭に入って離れに案内するとレ゗ウさんはいろんなものに感心してくれた。 「すごく良いところじゃない」 と彼女は言った。 「これみんなあなたが作ったの?こういう 棚やら机やら?」 「そうですよ」と僕は湯をわかしてお茶を入れながら言った。 「けっこう器用なのね、ワゲナベ君。部屋もずいぶんきれいだし」 「突撃隊のおかげですね。彼が僕を清潔好きにしちゃったから。でもおかげで大家さんは 喜んでますよ。きれいに使ってくれるって」 「あ、そうそう。大家さんに挨拶してくるわね」とレ゗ウさんは言った。 「大家さんお庭の 向うに住んでるでしょ?」 「挨拶?挨拶なんてするんですか?」 「あたり前じゃない。あなたのところに変な中年女が転がりこんでァゲーを弾いたりした ら大家さんだって何かと思うでしょ?こういうのは先にきちんとしといた方がいいの。そ のために菓子折りだってちゃんと持ってきたんだから」 「ずいぶん気がきくんですねえ」と僕は感心して言った。 「年の功よ。あなたの母方の叔母で京都から来たってことにしとくから、ちゃんと話をあ わせといてよ。でもゕレね、こういう時、年が離れてると楽だわね。誰も変な風に疑わな いから」 彼女が旅行鞄から菓子折りを出して行ってしまうと、僕は縁側に座ってもう一杯お茶を飲 み、猫と遊んだ。レ゗ウさんは二十分くらい戻ってこなかった。彼女は戻ってくると旅行

鞄から煎餅の缶を出して僕へのおみやげだと言った。 「二十分もいったい何話してたんですか?」と僕は煎餅をかじりながら訊いてみた。 「そりゃもちろんあなたのことよ」 と彼女は猫を抱きあげ頬ずりして言った。 「きちんとし てるし、真面目な学生だって感心してたわよ」 「僕のことですか?」 「そうよ、もちろんあなたのことよ」とレ゗ウさんは笑って言った。そして僕のァゲーを みつけて手にとり、少し調弦してからゞルロガ・カョビンの『デエフゖナード』を弾いた。 彼女のァゲーを聴くのは久しぶりだったが、それは前と同じように僕の心をあたためてく れた。 「あなたァゲー練習してるの」 「納屋に転がってたのを借りてきて少し弾いてるだけです」 「じゃ、あとで無料レッガンしてあげるわね」とレ゗ウさんは言ってァゲーを置き、ツ゗ ードの上着を脱いで縁側の柱にもたれ、煙草を吸った。彼女は上着の下にマドラガ・ゴ゚ ッアの半袖のオャツを着ていた。 「ねえ、これこれ素敵なオャツでしょう?」とレ゗ウさんが言った。 「そうですね」と僕も同意した。たしかにとても洒落た柄のオャツだった。 「これ、直子のなのよ」とレ゗ウさんは言った。 「知ってる?直子と私って洋服のエ゗キ殆 んど一緒だったのよ。とくにあそこに入った頃はね。そのあとであの子少し肉がついちゃ てエ゗キが変わったけれど、それでもだいたい同じって言ってもいいくらいだったのよ。 オャツもキボンも靴も帽子も。ブラカャーくらいじゃないかしら、エ゗キが違うのは。私 なんかおっばいないも同然だから。だから私たちいつも洋服とりかえっこしてたのよ。と いうか殆んど二人で共有してたようなものね」 僕はあらためてレ゗ウさんの体を見てみた。そう言われてみればたしかに彼女の背格好は 直子と同じくらいだった。顔のかたちやひょろりと細い手首なんかのせいで、レ゗ウの方 が直子よりやせていて小柄だという印象があったのだが、よく見てみると体つきは意外に がっしりとしているようでもあった。 「このキボンも上着もそうよ。全部直子の。あなたは私が直子のものを身につけてるの見 るの嫌?」 「そんなことないですよ。直子だって誰かに着てもらっている方が嬉しいと思いますね。 とくにレ゗ウさんに」 「不思議なのよ」 とレ゗ウさんは言って小さな音で指を鳴らした。 「直子は誰にあてても遺 書を書かなかったんだけど、洋服のことだけはちゃんと書き残していったのよ。メモ用紙 に一行だけ走り書きして、 それが机の上に置いてあったの。 『洋服は全部レ゗ウさんにあげ て下さい』って。変な子だと思わない?自分がこれから死のうと思ってるときにどうして 洋服のことなんか考えるのかしらね。そんなのどうだっていいじゃない。もっと他に言い たいことは山ほどあったはずなのに」 「何もなかったのかもしれませんよ」 レ゗ウさんは煙草をふかしながらしばらく物思いに耽っていた。 「ねえ、あなた、最初から ひとつ話を聞きたいでしょう?」 「話して下さい」と僕は言った。 「病院での検査の結果がわかって、直子の病状は一応今のところ回復しているけれど今の うちに根本的に集中治療しておいた方があとあとのために良いだろうってことになって、 直子はもう少し長期的にその大阪の病院に移ることになったの。そこまではたしか手紙に

書いたわよね。たしか八月の十日前後に出したと思ったけど」 「その手紙は読みました」 「八月二十四日に直子のお母さんから電話がかかってきて、直子が一度そちらに行きたい と言っているのだが構わないだろかと言うの。自分で荷物も整理したいし、私とも当分会 えないから一度ゆっくり話もしたいし、 できたら一泊くらいできないかっていうことなの。 私の方は全然かまいませよって言ったの。私も直子にはすごく会いたかったし、話したか ったし。 それで翌日の二十五日に彼女はお母さんと二人でゲアオーに乗ってやってきたの。 そして私たち三人で荷物の整理をしたわけ。いろいろ世間話をしながら。夕方近くになる と直子はお母さんにもう帰っていいわよ、あと大丈夫だからって言って、それでお母さん はゲアオーを呼んでもらって帰っていったの。直子はすごく元気そうだったし、私もお母 さんもそのとき全然気にもしなかったのよ。本当はそれまで私はすごく心配してたのよ。 彼女はすごく落ちこんでがっくりしてやつれてるんじゃないかなって。だてああいう病院 の検査とか治療ってずいぶん消耗するものだってことを私はよく知ってるからね、それで 大丈夫かなあって心配してたわけ。 でも私ひと目見て、 ああこれならいいやって思ったの。 顔つきも思ったより健康そうだったし、にこにこして冗談なんかも言ってたし、しゃべり 方も前よりずっとまともになってたし、美容院に行ったんだって新しい髪型を自慢してた し、まあこれならお母さんがいなくて私と二人でも心配ないだろうって思ったわけ。ねえ レ゗ウさん、私この際だから病院できちんと全部なおしゃおうと思うのっていうから、そ うね、それがいいかもしれないわねと私も言ったの。それで私たち外を二人で散歩してい ろんなお話をしたの。これからどうするだの、そんないろんな話ね。彼女こんなこと言っ たわ。二人でここを出られて、一緒に暮らすことができたらいいでしょうねって」 「レ゗ウさんと二人でですか?」 「そうよ」とレ゗ウさんは言って肩を小さくすぼめた。 「それで私言ったのよ。私はべつに かまわないけど、ワゲナベ君のこといいのって。すると彼女こう言ったの、 『あの人のこと は私きちんとするから』って。それだけ。そして私と二人でどこに住もうだの、どんなこ としようだのといったようなこと話したの。それから鳥小屋に行って鳥と遊んで」 僕は冷蔵庫からビールを出して飲んだ。レ゗ウさんはまた煙草に火をつけ、猫は彼女の膝 の上でぐっすりと眠りこんでいた。 「あの子もう始めから全部しっかりと決めていたのよ。だからきっとあんなに元気でにこ にこして健康そうだったのね。きっと決めちゃって、気が楽になってたのよね。それから 部屋の中のいろんなものを整理して、いらないものを庭のドラム缶に入れて焼いたの。日 記がわりしていたノートだとか手紙だとか、そういうのみんな。あなたの手紙もよ。それ で私変だなと思ってどうして焼いちゃうのよって訊いたの。だってあの子、あなたの手紙 はそれまでずっと、とても大事に保管してよく読みかえしてたんだもの。そしたら『これ までのものは全部処分して、これから新しく生まれ変わるの』って言うから、私はふうん、 そういうものかなってわりに単純に納得しちゃったの。まあ筋はとおってるじゃない、そ れなりに。そしてこの子も元気になって幸せになれるといいのにな、と思ったの。だって その日直子は本当に可愛いかったのよ。あなたに見せたいくらい。 それから私たちいつものように食堂で夕ごはん食べて、お風呂入って、それからとってお きの上等のワ゗ンあけて二人で飲んで、私がァゲーを弾いたの。例によってビートルガ。 『ノル゙゚゗の森』とか『ミオ゚ル』とか、あの子の好きなやつ。そして私たちけっこう 気持良くなっって、電気消して、適当に服脱いで、ベットに寝転んでたの。すごく暑い夜 でね、窓を開けてても風なんて殆んど入ってきやしないの。外はもう墨で塗りつぶされた みたいに真っ暗でね、虫の音がやたら大きく聞こえてたわ。部屋の中までムっとする夏草

の匂いでいっばで。それから急にあなたの話を直子が始めたの。あなたとのギッアガの話 よ。それもものすごくくわしく話すの。どんな風に服を脱がされて、どんな風に体を触ら れて、自分がどんな風に濡れて、どんな風に入れられて、それがどれくらい素敵だったか っていうようなことを実に克明に私にしゃべるわけ。それで私、ねえ、どうして今になっ てそんな話するのよ、急にって訊いたの。だってそれまであの子、ギッアガのことってそ んなにあからさまに話さなかったんですもの。もちろん私たちある種の療法みたいなこと でギッアガのこと正直に話すわよ。でもあの子はくわしいことは絶対に言わなかったの、 恥ずかしがって。それを急にべらべらしゃべり出すんだもの私だって驚くわよ、そりゃ。 『ただなんとなく話したくなったの』 って直子は言ったわ。 『べつにレ゗ウさんが聞きたく ないならもう話さないけど』 『いいわよ、 話したいことあるんなら洗いざらい話しちゃいなさいよ。 聞いてあげるから』 って私は言ったの。 『彼のが入ってきたとき、私痛くて痛くてもうどうしていいかよくわかんないくらいだっ たの』って直子が言ったわ。 『私始めてだったし。濡れてたからするっと入ったことは入っ たんだけど、とにかく痛いのよ。頭がぼおっとしちゃうくらい。彼はずっと奥の方まで入 れてもうこれくらいかなと思ったところで私の脚を少し上げさせて、もっと奥まで入れち ゃったの。するとね、体中がひやっと冷たくなったの。まるで氷水につけられみたいに。 手と脚がじんとしびれて寒気がするの。いったいどうなるんだろう、私このまま死んじゃ うのかしら、それならそれでまあかまわないやって思ったわ。でも彼は私が痛がっている ことを知って、奥の方に入れたままもうそれ以上動かさないで、私の体をやさしく抱いて 髪とか首とか胸とかにずっと゠ガしてくれたの、長いあいだ。するとね、だんだん体にあ たたかみが戻ってきたの。そして彼がゆっくりと動かし始めて……ねえ、レ゗ウさん、そ れが本当に素晴らしいのよ。頭の中がとろけちゃいそうなくらい。このまま、この人に抱 かれたまま、一生これやってたいと思ったくらいよ。本当にそう思ったのよ』 『そんなに良かったんならワゲナベ君と一緒になって毎日やってればよかったんじない の?』って私言ったの。 『でも駄目なのよ、レ゗ウさん』って直子は言ったわ。 『私にはそれがわかるの。それはや って来て、もう去っていってしまったものなの。それは二度と戻ってこないのよ。何かの 加減で一生に一度だけ起こったことなの。そのあとも前も、私何も感じないのよ。やりた いと思ったこともないし、濡れたこともないのよ』 もちろん私はちゃんと説明したわよ、そういうのは若い女性には起こりがちなことで、年 を取れば自然になおっていくのが殆んどなんだって。それに一度うまく行ったんだもの心 配することないわよ。私だって結婚した当初はいろいろとうまくいかないで大変だったの よって。 『そうじゃないの』と直子は言ったわ。 『私何も心配してないのよ、レ゗ウさん。私はただ もう誰にも私の中に入ってほしくないだけなの。もう誰にも乱されたくないだけなの』 」 僕はビールを飲んでしまい、レ゗ウさんは二本目の煙草を吸ってしまった。猫がレ゗ウさ んの膝の上でのびをし、姿勢をかえてからまた眠ってしまった。レ゗ウさんは少し迷って いたが三本目をくわえて火をつけた。 「それから直子はしくしく泣き出したの」 とレ゗ウさんは言った。 「私は彼女のベットに腰 かけて頭撫でて、大丈夫よ、何もかもうまく行くからって言ったの。あなたみたいに若く てきれいな女の子は男の人に抱かれて幸せになんなきゃいけないわよって。暑い夜で直子 は汗やら涙やらでぐしょぐしょに濡れてたんで、私はバガゲゝル持ってきて、あの子の顔 やら体やらを拭いてあげたの。パンツまでぐっしょりだたから、あなたちょっと脱いじゃ

なさいよって脱がせて……ねえ、変なんじゃないのよ。だって私たちずっと一緒にお風呂 だって入ってるし、あの子は妹みたいなものだし」 「わかってますよ、それは」と僕は言った。 「抱いてほしいって直子は言ったの。 こんな暑いのに抱けやしないわよって言ったんけど、 これでもう最後だからって言うんだで抱いたの。体をバガゲゝルでくるんで、汗がくっつ かないようにして、しばらく。そして落ちついてきたらまた汗を拭いて、寝巻を着せて、 寝かしつけたの。すぐにぐっすり寝ちゃったわ。あるいは寝たふりしたのかもしれないけ ど。でもまあどっちにしても、すごく可愛い顔してたわよ。なんだか生まれてこのかた一 度も傷ついたことのない十三か十四の女の子みたいな顔してね。それを見てから私も眠っ たの、安心して。 六時に目覚ましたとき彼女はもういなかったの。 寝巻を脱ぎ捨ててあって、 服と運動靴と、 それからいつも枕もとに置いてある懐中電灯がなくなってたの。まずいなって私そのとき 思ったわよ。だってそうでしょ、懐中電灯持って出てったってことは暗いうちにここを出 ていったっていうことですものね。そして念のために机の上なんかを見てみたら、そのメ モ用紙があったのよ。 『洋服は全部レ゗ウさんにあげて下さい』って。それで私すぐみんな のところに行って手わけして直子を探してって言ったの。そして全員で寮の中からまわり の林までしらみつぶしに探したの。探しあてるのに五時間かかったわよ。あの子、自分で ちゃんとロープまで用意してもってきていたのよ」 レ゗ウさんはため息をついて、猫の頭を撫でた。 「お茶飲みますか?」と僕は訊いてみた。 「ありがとう」と彼女は言った。 僕はお湯を沸かしてお茶を入れ、縁側に戻った。もう夕暮に近く、日の光ずいぶん弱くな り、木々の影が長く我々の足もとにまでのびていた。僕はお茶を飲みながら、山吹やらつ つじやら南天やらを思いつきで出鱈目に散らばしたような奇妙に雑然とした庭を眺めてい た。 「それからしばらくして救急車が来て直子をつれていって、私は警官にいろいろと事情を 訊かれたの。訊くだってたいしたこと訊かないわよ。一応遺書らしき書き置きはあるし、 自殺だってことははっきりしてるし、それあの人たち、精神病の患者なんだから自殺くら いするだろうって思ってるのよ。だからひととおり形式的に訊くだけなの。警察が帰って しまうと私すぐ電報打ったの、あなたに」 「淋しい葬式でしたね」と僕は言った。 「すごくひっそりして、人も少なくて。家の人は僕 が直子の死んだことどうして知ったのかって、そればかり気にしていて。きっとまわりの 人に自殺だってわかるのが嫌だったんですね。本当はお葬式なんて行くべきじやなかった んですよ。僕はそれですごくひどい気分になっちゃって、すぐ旅行に出ちゃったんです」 「ねえワゲナベ君、散歩しない?」とレ゗ウさんが言った。 「晩ごはんの買物でも行きまし ょうよ。私おなか減ったきちゃったわ」 「いいですよ、何か食べたいものありますか?」 「すき焼き」 と彼女は言った。 「だって私、 鍋ものなんて何年も何年も食べてないんだもの。 すき焼きなんて夢にまで見ちゃったわよ。肉とネァと糸こんにゃくと焼豆腐と春菊が入っ て、ぐつぐつと――」 「それはいいんですけどね、すき焼鍋ってものがないんですよ、うちには」 「大丈夫よ、私にまかせなさい。大家さんのところで借りてくるから」 彼女はさっさと母屋の方に行って、立派なすき焼鍋とゟガこんろと長いェム・ホーガを借 りてきた。

「どう?たいしたもんでしょう」 「まったく」と僕は感心して言った。 我々は近所の小さな商店街で牛肉や玉子や野菜や豆腐を買い揃え、酒屋で比較的まともそ うな白ワ゗ンを買った。僕は自分で払うと主張したが、彼女が結局全部払った。 「甥に食料品の勘定払わせたなんてわかったら、私は親戚中の笑いものだわよ」とレ゗ウ さんは言った。それに私けっこうちゃんとお金持ってるのよ。 「 だがら心配しないでいいの。 いくらなんでも無一文で出てきたりはしないわよ」 家に帰るとレ゗ウさんは米を洗って炊き、僕はェム・ホーガをひっぱって縁側ですき焼を 食べる準備をした。準備が終わるとレ゗ウさんハァゲー・イーガから自分のァゲーをとり だし、もう薄暗くなった縁側に座って、楽器の具合をたしかめるようにゆっくりとバッハ のフーゟを弾いた。細かいところをわざとゆっくりと弾いたり、速く弾いたり、ぶっきら 棒に弾いたり、ギンゴメンゲルに弾いたりして、そんないろんな音にいかにも愛しそうに 耳を澄ませていた。ァゲーを弾いているときのレ゗ウさんは、まるで気に入ったドレガを 眺めている十七か十八の女の子みたいに見えた。目がきらきらとして、口もとがきゅっと ひきしまったり、微かなほほえみの影をふと浮かべたりした。曲を弾き終えると、彼女は 柱にもたれて空を眺め、何か考えごとをしていた。 「話しかけていいですか?」と僕は訊いた。 「いいわよ。おなかすいたなあって思ってただけだから」とレ゗ウさんは言った。 「レ゗ウさんは御主人や娘さんに会いに行かないんですか?東京にいるでしょう?」 「横浜。でも行かないわよ、前にも言ったでしょ?あの人たち、もう私とは関りあわない 方がいいのよ。あの人たちにはあの人たちの新しい生活があるし、私は会えば会っったで 辛くなるし。会わないのがいちばんよ」 彼女は空になったギブンガゲーの箱を丸めて捨て、鞄の中から新しい箱をとりだし、封を 切って一本くわえた。しかし火はつけなかった。 「私はもう終わってしまった人間なのよ。あなたの目の前にいるのはかつての私自身の残 存記憶にすぎないのよ。私自身の中にあったいちばん大事なものはもうとっくの昔に死ん でしまっていて、私はただその記憶に従って行動しているにすぎないのよ」 「でも僕は今のレ゗ウさんがとても好きですよ。残存記憶であろうが何であろうがね。そ してこんなことどうでもいいことかもしれないけれど、レ゗ウさんが直子の服を着てくれ ていることは僕としてはとても嬉しいですね」 レ゗ウさんはにっこり笑って、 ラ゗ゲーで煙草に火をつけた。 「あなた年のわりに女の人の 喜ばせ方よく知っているのね」 僕は少し赤くなった。 「僕はただ思っていること正直に言ってるだけですよ」 「わかってるわよ」とレ゗ウさんは笑って言った。 そのうちにごはんが炊きあがったので、僕は鍋に油をしいてすき焼の用意を始めた。 「これ、夢じゃないわよね?」とレ゗ウさんはくんくんと匂いをかぎながら言った。 「百パーギントの現実のすき焼ですね。経験的に言って」と僕は言った。 我々はどちらかというとろくに話もせず、ただ黙々とすき焼をつつき、ビールを飲み、そ してごはんを食べた。かもめが匂いをかぎつけてやってきたので肉をわけてやった。腹い っぱいになるとと、僕らは二人で縁側の柱にもたれ、月を眺めた。 「満足しましたか、これで?」と僕は訊いた。 「とても。申しぶんなく」とレ゗ウさんは苦しそうに答えた。 「私こんなに食べたのはじめ てよ」 「これからどうします?」

「一服したあとで風呂屋さんに行きたいわね。髪がぐしゃぐしゃで洗いたいのよ」 「いいですよ、すぐ近くにありますから」と僕は言った。 「ところでワゲナベ君、もしよかったら教えてほしいんだけど、その緑さんっていう女の 子ともう寝たの?」とレ゗ウさんが訊いた。 「ギッアガしたかっていうことですか?してませんよ。いろんなことがきちんとするまで はやらないって決めたんです」 「もうこれできちんとしたんじゃないかしら」 僕はよくわからないというように首を振った。直子が死んじゃったから物事は落ちつくべ 「 きところに落ちついちゃったってこと?」 「そうじゃないわよ。だってあなた直子が死ぬ前からもうちゃんと決めてたじゃない、そ の緑さんという人とは離れるわけにはいかないんだって。直子は死ぬことを選んだのよ。 あなたもう大人なんだから、自分の選んだものにはきちんと責任を持たなくちゃ。そうし ないと何もかも駄目になっちゃわよ」 「でも忘れられないですよ」 と僕は言った。 「僕は直子にずっと君を待っているって言った んですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。これは誰 のせいだとか誰のせいじゃないとかいう問題じゃないんです。僕自身の問題なんです。た ぶん僕が途中で放り出さなくても結果は同じだったと思います。直子はやはり死を選んだ だろうと思います。でもそれとは関係なく、僕は自分自身に許しがたいものを感じるんで す。レ゗ウさんはそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関 係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみれば我々は最初から生死の境い目 で結びつきあってたんです」 「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛 みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい。そしてもし学べるものなら、そこか ら何かを学びなさい。でもそれとは別に緑さんと二人で幸せになりなさい。あなたの痛み は緑さんとは関係ないものなのよ。これ以上彼女を傷つけたりしたら、もうとりかえしの つかないことになるわよ。だから辛いだろうけれど強くなりなさい。もっと成長して大人 になりなさい。私はあなたにそれを言うために寮を出てわざわざここまできたのよ。はる ばるあんた棺桶みたいな電車に乗って」 「レ゗ウさんの言ってることはよくわかりますよ」 と僕は言った。 「でも僕にはまだその準 備ができてないんですよ。ねえ、あれは本当に淋しいお葬式だったんだ。人はあんな風に 死ぬべきじゃないですよ」 レ゗ウさんは手をのばして僕の頭を撫でた。 「私たちみんないつかそんな風に死ぬのよ。 私 もあなたも」 * 僕らは川べりの道を五分ほど歩いて風呂屋に行き、少しさっぱりとした気分で家に戻って きた。そしてワ゗ンの栓を抜き、縁側に座って飲んだ。 「ワゲナベ君、ィラガもう一個持ってきてくれない?」 「いいですよ。でも何するんですか?」 「これから二人で直子のお葬式するのよ」とレ゗ウさんは言った。 「淋しくないやつさ」 僕はィラガを持ってくると、レ゗ウさんはそれになみなみとワ゗ンを注ぎ、庭の灯籠の上 に置いた。そして縁側に座り、柱にもたれてァゲーを抱え、煙草を吸った。 「それからマッゴがあったら持ってきてくれる?なるべく大きいのがいいわね」 僕は台所から徳用マッゴを持ってきて、彼女のとなりに座った。 「そして私が一曲弾いたら、マッゴ棒をそこに並べてってくれる?私いまから弾けるだけ

弾くから」 彼女はまずヘンリー・マンオーニの『デゖゕ・ハート』をとても綺麗に静かに弾いた。 「こ のレウードあなたが直子にプレクントしたんでしょう?」 「そうです。一昨年のアリガマガにね。あの子はこの曲がとても好きだったから」 「私も好きよ、これ。とても優しくて」彼女は『デゖゕ・ハート』のメロデゖーをもう一 度何小節か軽く弾いてからワ゗ンをすすった。 「さて酔払っちゃう前に何曲弾けるかな。 ね え、こういうお葬式だと淋しくなくていいでしょう?」 レ゗ウさんはビートルキに移り、 『ノル゙゚゗の森』を弾き、 『゗゛ガゲデゖ』を弾き、 『ミ オ゚ン・ォ・ヒル』を弾き、 『エムオンィ』を弾き、 『ヒゕ・ゞムキ・ォ・エン』を唄いな がら弾き、 『フール・ゝン・ォ・ヒル』を弾いた。僕はマッゴ棒を七本並べた。 「七曲」とレ゗ウさんは言ってワ゗ンをすすり、煙草をふかした。 「この人たちはたしかに 人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」 この人たちというのはもちろんカョン・レノンとボール・マッゞートニー、それにカョー カ・ハリグンのことだった。 彼女は一息ついて煙草を消してからまたァゲーをとって『ペニー・レ゗ン』を弾き、 『ブラ ンア・バード』を弾き、 『カュリゕ』を弾き、 『六十四になったら』を弾き、 『ノーホ゛ゕ・ マン』を弾き、 『ゕンド・ゕ゗・ラブ・ハー』を弾き、 『ヘ゗・カ゚ード』を弾いた。 「これで何曲になった?」 「十四曲」と僕は言った。 「ふう」と彼女はため息をついた。 「あなた一曲くらい何か弾けないの?」 「下手ですよ」 「下手でいいのよ」 僕は自分のァゲーを持ってきて『ゕップ・ゝン・ォ・ルーフ』をたどたどしくではあるけ れど弾いた。レ゗ウさんはそのあいだ一服してゆっくり煙草を吸い、ワ゗ンをすすってい た。僕が弾き終わると彼女はぱちぱちと拍手した。 それからレ゗ウさんはァゲー用に編曲されたラヴ゚ルの 『死せる女王のためのバヴゔーヌ』 とドビッオーの『月の光』を丁寧に綺麗に弾いた。 「この二曲は直子が死んだあとでマガゲ ーしたのよ」 とレ゗ウさんは言った。 「あの子の音楽の好みは最後までギンゴメンゲリキム という地平をはなれなかったわね」 そして彼女はバゞラッアを何曲か演奏した。 『アローガ・ト゘・ユー』 『雨に濡れても』 『゙ ゜ーア・ゝン・バ゗』 『゙゚デゖンィベル・ブルーガ』 。 「二十曲」と僕は言った。 「私ってまるで人間カューア・ボッアガみたいだわ」とレ゗ウさんは楽しそうに言った。 「音大のとき先生がこんなのみたらひっくりかえっちゃうわよねえ」 彼女はワ゗ンをすすり、煙草をふかしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。 ボエ・ノヴゔを十曲近く弾き、 ロカャーガ=ハートやゟーオュ゗ンの曲を弾き、 ボブ・デゖ ランやらレ゗・ゴャールキやら゠ャロル・゠ンィやらビーゴボー゗ガやらテゖービー・ワ ンコーやら『上を向いて歩こう』やら『ブルー・ベルベット』やら『ィリーン・フールキ』 やら、 もうとにかくありとあらゆる曲を弾いた。 ときどき目を閉じたり軽く首を振ったり、 メロデゖーにあわせてハミンィしたりした。 ワ゗ンがなくなると、我々ばゖガ゠ーを飲んだ。僕は庭のィラガの中のワ゗ンを灯籠の 上からかけ、そのあとに゙ゖガ゠ーを注いだ。 「今これで何曲かしら?」 「四十八」と僕は言った。

レ゗ウさんは四十九曲目に『゛リナ・リィビー』を弾き、五十曲目にもう一度『ノル゙゚ ゗の森』を弾いた。五十曲弾いてしまうとレ゗ウさんは手を休め、゙ゖガ゠ーを飲んだ。 「これくらいやれば十分じゃないあしら?」 「十分です」と僕は言った。 「たいしたもんです」 「いい、ワゲナベ君、もう淋しいお葬式のことはきれいさっぱり忘れなさい」とレ゗ウさ んは僕の目をじっと見て言った。 「このお葬式のことだけを覚えていなさい。 素敵だったで しょう?」 僕は肯いた。 「おまけ」 とレ゗ウさんは言った。 そして五十一曲目にいつものバッハのフーゟを弾いた。 「ねえワゲナベ君、 私とあれやろうよ」 と弾き終わったあとでレ゗ウが小さな声で言った。 「不思議ですね」と僕は言った。 「僕も同じこと考えてたんです」 ゞーテンを閉めた暗い部屋の中で僕とレ゗ウさんは本当にあたり前のことのように抱きあ い、お互いの体を求めあった。僕は彼女のオャツを脱がせ、下着をとった。 「ねえ、私けっこう不思議な人生送ってきたけど、十九歳年下の男の子にパンツ脱がされ ることになると思いもしなかったわね」とレ゗ウさんは言った。 「じゃあ自分で脱ぎますか?」と僕は言った。 「いいわよ、脱がせて」と彼女は言った。 「でも私しわだらけだからがっかりしないでよ」 「僕、レ゗ウさんのしわ好きですよ」 「泣けるわね」とレ゗ウさんは小さな声で言った。 僕は彼女のいろんな部分に唇をつけ、しわがあるとそこを舌でなぞった。そして少女のよ うな薄い乳房に手をあて、乳首をやわらかく噛み、あたたかく湿ったヴゔァナに指をあて てゆっくりと動かした。 「ねえ、ワゲナベ君」とレ゗ウさんが僕の耳もとで言った。 「そこ違うわよ。それただのし わよ」 「こういうときにも冗談しか言えないんですか?」と僕はあきれて言った。 「ごめんなさい」 とレ゗ウさんは言った。 「怖いのよ、 もうずっとこれやってないから。 私。 なんだか十七の女の子が男の子の下宿に遊びに行ったら裸にされちゃったみたいな気分 よ」 「ほんとうに十七の女の子を犯してるみたいな気分ですよ」 僕はそのしわの中に指を入れ、首筋から耳にかけて口づけし、乳首をつまんだ。そして彼 女の息づかいが激しくなって喉が小さく震えはじめると僕はそのほっそりとした脚を広げ てゆっくりと中に入った。 「ねえ、大丈夫よね、妊娠しないようにしてくれるわよね?」とレ゗ウさんは小さな声で 僕に訊いた。 「この年で妊娠すると恥かしいから」 「大丈夫ですよ。安心して」と僕は言った。 ペニガを奥まで入れると、彼女は体を震わせてため息をついた。僕は彼女の背中をやさし くさするように撫でながらペニガを何度か動かして、 そして何の予兆もなく突然射精した。 それは押しとどめようのない激しい射精だった。僕は彼女にしがみついたまま、そのあた たかみの中に何度も精液を注いだ。 「すみません。我慢できなかったんです」と僕は言った。 「馬鹿ねえ、そんなこと考えなくてもいいの」とレ゗ウさんは僕のお尻を叩きながら言っ た。 「いつもそんなこと考えながら女の子とやってるの?」 「まあ、そうですね」

「私とやるときはそんなこと考えなくていいのよ。忘れなさい。好きなときに好きなだけ 出しなさいね。どう、気持良かった?」 「すごく。だから我慢できなかったんです」 「我慢なんかすることないのよ。それでいいのよ、 。私もすごく良かったわよ」 「ねえ、レ゗ウさん」と僕は言った。 「なあに?」 「あなたは誰かとまた恋をするべきですよ。こんなに素晴らしいのにもったいないという 気がしますね」 「そうねえ、考えておくわ、それ」とレ゗ウさんは言った。 「でも人は旭川で恋なんてする ものなのかしら?」 僕は少し後でもう一度固くなったペニガを彼女の中に入れた。レ゗ウさんは僕の下で息を 呑みこんで体をよじらせた。僕は彼女を抱いて静かにペニガを動かしながら、二人でいろ んな話をした。彼女の中に入ったまま話をするのはとても素敵だった。僕が冗談を言って 彼女がすくすく笑うと、その震動がペニガにつたわってきた。僕らは長いあいだずっとそ のまま抱きあっていた。 「こうしてるのってすごく気持良い」とレ゗ウさんは言った。 「動かすのも悪くないですよ」と僕は言った。 「ちょっとやってみて、それ」 僕は彼女の腰を抱き上げてずっと奥まで入ってから体をまわすようにしてその感触を味わ い、味わい尽くしたところで射精した。 結局その夜我々は四回交った。四回の性交のあとで、レ゗ウさんは僕の腕の中で目を閉じ て深いため息をつき、体を何度か小さく震わせていた。 「私もう一生これやんなくていいわよね?」 とレ゗ウさんは言った。 「ねえ、 そう言ってよ、 お願い。残りの人生のぶんはもう全部やっちゃったから安心しなさいって」 「誰にそんなことがわかるんですか?」と僕は言った。 * 僕は飛行機で行った方が速いし楽ですよと勧めたのだが、レ゗ウさんは汽車で行くと主張 した。 「私、青函連絡船って好きなのよ。空なんか飛びたくないわよ」と彼女は言った。それで 僕は彼女を上野駅まで送った。彼女はァゲー・イーガを持ち、二人でプラットフ゜ームの ベンゴに並んで座って列車が来るのを待っていた。彼女は東京に来たときと同じツ゗ード のカャイットを着て、白いキボンをはいていた。 「旭川って本当にそれほど悪くないと思う?」とレ゗ウさんが訊いた。 「良い町です」と僕は言った。 「そのうちに訪ねていきます」 「本当?」 僕は肯いた。 「手紙書きます」 「あなたの手紙好きよ。直子は全部焼いちゃったけれど。あんないい手紙だったのにね」 「手紙なんてただの紙です」と僕は言った。 「燃やしちゃっても心に残るものは残るし、と っておいても残らないものは残らないんです」 「正直言って私、すごく怖いのよ。一人ぼっちで旭川に行くのが。だから手紙書いてね。 あなたの手紙を読むといつもあなたがとなりにいるような気がするの」 「僕の手紙でよければいくらでも書きます。でも大丈夫です。レ゗ウさんならどこにいて もきっとうまくやれますよ」

「それから私の体の中で何かがまだつっかえているような気がするんだけれど、これは錯 覚かしら?」 「残存記憶です、それは」と僕は言って笑った。レ゗ウさんも笑った。 「私のこと忘れないでね」と彼女は言った。 「忘れませんよ、ずっと」と僕は言った。 「あなたと会うことは二度とないかもしれないけれど、私どこに行ってもあなたと直子の こといつまでも覚えているわよ」 僕はレ゗ウさんの目を見た。彼女は泣いていた。僕は思わず彼女に口づけした。まわりを 通りすぎる人たちは僕たちのことをじろじろとみていたけれど、僕にはもうそんなことは 気にならなかった。我々は生きていたし、生きつづけることだけを考えなくてはならなか ったのだ。 「幸せになりなさい」と別れ際にレ゗ウさんは僕に言った。 「私、あなたに忠告できること は全部忠告しちゃったから、これ以上もう何も言えないのよ。幸せになりなさいとしか。 私のぶんと直子のぶんをあわせたくらい幸せになりなさい、としかね」 我々は握手をして別れた。 僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さな くちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会っ て話したい。何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。 緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っ ているようなそんな沈黙がつづいた。僕がそのあいだゟラガ窓にずっと押しつけて目を閉 じていた。それからやがて緑が口を開いた。 「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな 声で言った。 僕は今どこにいるのだ? 僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボッアガのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕 は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。 見当もつかなかった。 いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の 人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中で緑を呼びつづけていた。

あとがき 僕は原則的に小説にあとがきをつけることを好まないが、おそらくこの小説はそれを必 要とするだろうと思う。 まず第一に、この小説は五年ほど前に僕が書いた『螢』という短篇小説( 『螢・納屋を焼 く・その他の短編』に収録されている)が軸になっている。僕はこの短篇をベーガにして 四百字詰三百枚くらいのさらりとした恋愛小説を書いてみたいとずっと考えていて、世界 『 の終わりとハードボ゗ルド・ワンコーランド』の次の長篇にとりかかる前のいわば気分転 換にやってみようというくらいの軽い気持でとりかかったのだが、結果的には九百枚に近 い、あまり「軽い」とは言い難い小説になってしまった。たぶんこの小説は僕が思ってい た以上に書かれることを求めていたのだろうと思う。 第二に、この小説はきわめて個人的な小説である。 『世界の終り……』が自伝的であると いうのと同じ意味あいで、F・ガウット・フゖッツカ゚ラルドの『夜はやさし』と『ィレ ート・ァャツビ゗』が僕にとって個人的な小説であるというのと同じ意味あいで、個人的

な小説である。たぶんそれはある種のギンテゖメントの問題であろう。僕という人間が好 まれたり好まれなかったりするように、この小説もやはり好まれたり好まれなかったりす るだろうと思う。僕としてはこの作品が僕という人間の質を凌駕して存続することを希望 するだけである。 第三にこの小説は南ヨーロッパで書かれた。 一九八六年六年十二月二十一日にァリオャ、 ミウノガ島のヴゖラで書き始められ、一九八七年三月二十七日にローマ郊外のゕパートメ ント・ホテルで完成された。日本を離れたことがこの小説にどう作用しているのかは僕に は判断できない。何か作用しているような気もするし、何も作用していないような気もす る。ただ電話も来客もなく仕事に熱中できたことは大変にありがたかった。この小説の前 半はァリオャで、途中オオリーをはさんで、後半はローマで書かれている。ゕテネの安ホ テルの部屋にはテーブルというものがなくて、僕は毎日おそろしくうるさいゲペルナに入 って、゙゜ーアマンで『エーカャンと・ペパーキ・ロンリー・ハーツ・アラブ・バンド』 のテーブを百二十回くらいくりかえして聴きながらこの小説を書きつづけた。そういう意 味ではこの小説はレノン・マッゞートニーの a little help を受けている。 第四に、この小説は僕の死んでしまった何人かの友人と、生きつづけている何人かの友 人に捧げられる。 一九八七年六月 村上春樹 著者――村上春樹 ©Haruki Murakami 1987, Printed in Japan

発行者――加藤勝久 発行所――株式会社講談社 東京都文京区音羽二―三―三 郵便番号一三―01 電話東京〇三-九四五-二二 (大代表) 印刷所――株式会社精興社 製本所――株式会社黒岩大光堂 定価――一〇〇〇円 落丁本・乱丁本は小社書籍製作部宛にお送りください。 送料小社負担にてお取替えいたします。 なお、この本についてのお問い合わせは文芸局文芸図書第一出版部あてにお願いいたしま す。 ISBN 4-06-203516-2(0) (文 1)

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